2023年10月14日、オーストラリアでは憲法改正の国民投票がおこなわれ、賛成が4割に届かずに大差で否決された[1]。問われたのは、オーストラリアの先住民であるアボリジナルおよびトレス海峡諸島民の地位を憲法に明記し、連邦議会と政府に対する諮問組織(Voice)を設置するための憲法改正案の是非だった。

 中道左派の労働党アルバニージー(Anthony Albanese)政権が提案したものの、最大野党である中道右派の自由党が反対し、激しい国民投票キャンペーンが展開された。日本ではほとんど報じられなかったものの、日本の観点からも極めて興味深い国民投票だった。ここでは憲法改正の国民投票が否決に終わったという点に注目し、今回の豪国民投票の日本への教訓を抽出したい。

 なお、オーストラリアにとって先住民の扱いは歴史問題であり、謝罪と和解をいかに進めるのかという以前からの問題である。1998年には、差別され犠牲になった先住民を記憶する日として、「ナショナル・ソーリー・デー(National Sorry Day)」が制定されるなど、さまざまな努力が続けられてきた。今回の憲法改正提案はそうした取り組みの延長線上に位置づけられる。

“Information booklet: Recognising Aboriginal and Torres Strait Islander peoples through a Voice,” Australian Government.
提案された新たな憲法条文
出典:“Information booklet: Recognising Aboriginal and Torres Strait Islander peoples through a Voice,” Australian Government.

国民投票キャンペーンの焦点

 提案された憲法改正は、既存のオーストラリア憲法に新たなチャプターを加え、上述のようにまずは、①アボリジナルおよびトレス海峡諸島民を「最初のオーストラリア人(First Nations people)」として明記(recognition)し、そのうえで、②アボリジナルおよびトレス海峡諸島民の声と呼ばれる諮問組織(Voice)を設置し、連邦議会と政府に対して意見を述べるとされた。Voiceの具体的構成等については議会が立法するとも規定され、これらを憲法に書きこむという提案だった[2]。

 それに対する論点としては、第一に、Voiceの具体的中身が不明確であり、権限が無制限に拡大することへの懸念が表明された。先住民による土地の所有権が遡及的に認められることで現在の所有者の財産権が否定される、さらにはオーストラリアが国連の管理下に入るといった、偽情報というほかない極端な議論もなされた[3]。

 これに対しては、Voiceの詳細を憲法の条文として規定することはあり得ず、また、いかなる立法措置も議会で決定されるために、そのような極端な権限拡大がなされるわけがないとの反論がなされた。妥当な反論だったものの、国民の間に漠然とした恐れや不安感が広がってしまったことは否定できない。これが、後述するアルバニージー政権による防御的な発信につながっていく。

 第二に、こうした規定を挿入することによって国民が分断されるという反対論が提起された。一つのオーストラリア人であるところに、別のカテゴリーを作るべきではないというのである。理念的にはおそらく正論である。しかし、そもそも分断されてきたなかで、先住民は乳幼児死亡率や平均余命、初等中等教育就学率、就業率などで全国平均と大きな格差が続いている現実が存在する[4]。賛成派は、憲法改正によって分断が生じるのではなく、生じていた分断を解消するための措置だと反論した。

 なお、こうした保守の反対派(conservative No)に加え、進歩的な反対派(progressive No)も存在した。後者は今回の提案では不十分であるとの立場だった。例えば、Voiceの権限が諮問のみとされ、強い権限を有さないことが批判されたのである。

アルバニージー首相の失敗

 こうした議論のなかには明らかなディスインフォメーション(偽情報の意図的な流布)が含まれ、SNS上でも激しいネガティブキャンペーンが繰り広げられた。そして、憲法改正への支持率は2023年に入って以降、ほぼ一貫して右肩下がりになっていた[5]。

 その結果、アルバニージー首相を筆頭とする賛成派は完全に守勢に回らざるをえない状況に置かれた。議論の全体の推移を俯瞰した際に同首相の最大の失敗は、結局何を実現したいのかが揺らぎ、明確なメッセージが失われた点にあったように思われる。どういうことだったのか。

 2023年3月に国民投票の質問を発表した際にアルバニージー首相は、「この国を変えるためだ」と宣言した[6]。実際、賛成派が目的としたのは、先住民の地位を確立し(recognition)、彼らの声を聞き(listening)、そして先住民の生活によりよい結果(better results)をもたらすことであった。そのために国を変えるのであり、変えなければならない状況が存在していたのである。

 しかし、激しい反対キャンペーンがなされるなかで、アルバニージー首相の発言も変わっていった。「大きな変化ではないから安心して欲しい」という部分が強調されるようになったのである[7]。Voiceは強制力を持たないという部分までは事実の説明だが、それを「ただ聞くだけだ」といってしまっては、では何のための憲法改正なのかということになってしまう。私有財産制が崩壊するといった極端な主張に対する防御として、自らの提案を卑下する格好になってしまったのである。このことの影響は大きかったのではないか。

 というのも、大して変わらないのであれば、憲法改正などする必要がないのではないか、それでもするのであれば、投票用紙には書いていない何か別のこと企んでいるのではないかとの疑念が生じてしまうからである。憲法改正は大きな変化なのか小さな変化なのか、Voiceは強力なのか無力なのか。政府のメッセージはその後迷走を続けることになる。

 しかも、変えなければならない現状が存在しているはずだったにも関わらず、国民投票で否決されれば結果を尊重し、Voiceなどの諮問組織設置もしないという姿勢も繰り返し示した。国民投票に際して結果を尊重するのは当然かもしれない。しかし、先住民の置かれた状況を改善するにあたって憲法改正が常に必要なわけではない。こうした姿勢も、憲法改正は本当に必要なのかという疑念を引き出すことになった可能性がある。

出典:筆者提供
出典:筆者提供

日本への教訓

 日本への教訓として最大なものは、やはり「大きな変化ではないから安心して欲しい」というメッセージの持つ意味である。というのも、日本での憲法改正国民投票を考えた場合に、おそらくこれとほとんど同じ構図が生じる可能性が高いからである。

 例えば憲法第9条の改正を想定してみよう。戦力を保持しないとした第9条2項の全体ないし一部を削除する案にしても、一文を加えて自衛隊ないし新たな名称の軍隊を明記するにしても、反対派は、それによって日本の平和主義が崩壊し軍国主義化が進むといった批判をすることが容易に想像できる。徴兵制が導入され、戦争が不可避になるといった根拠のない主張も当然なされるだろう。

 それに対して、政府与党を含む提案側・賛成派はいかに対応するのか。自衛隊を明記しても従来どおりで「大きな変化ではないから安心してほしい」、つまり反対するにはおよばないと反論する誘惑は強い。実際、憲法改正内容の影響を誇大に批判するような誤った議論には、「そんなことはない」と反論する必要がある。しかし、これは危険な罠でもある。

 大して変わらないのであれば、なぜ憲法改正という大掛かりな措置が必要になるのかという疑問が生じてしまうからである。まさに豪国民投票がたどった道である。これによって、なぜ憲法改正が必要かという主張の中核が揺らぎかねない。やはり、変化の必要性を広めなければ賛成票にはつながらないのである。

 加えて二点指摘したい。第一は、超党派の支持を確保することの重要性である。オーストラリアはこれまで実に45回もの憲法改正の国民投票を経験しているが、賛成多数で可決されたのは8回のみである。そして、今回を含めて、最大野党が反対に回った国民投票で賛成多数になったことはない。アルバニージー首相は、国民投票での否決を受けた会見で、敗因を問う記者の質問に、「超党派の支持がなく成功した国民投票はない」と端的に答えている[8]。最大野党が反対した時点で、激しいネガティブキャンペーンになることは避けられなかった。政権自体の支持率も見逃せないが、日本においても、野党の支持が確保できるかは大きな要素になる。

 第二に、これは日本との相違点だが、オーストラリアは義務投票制を採用している点を考慮する必要がある。正当な理由なしに投票に行かない場合、罰金を課せられる可能性がある。そのため、特に強い意見がない場合でもどちらかを選択せざるを得なくなる。その結果、保守的な選択に引き寄せられるという現状維持バイアスが働きがちになることは、これまでも指摘されてきた。そうでなくても、憲法改正は何かを変えることであるため現状維持バイアスは否決の方向で作用することになる[9]。

 このように、今回のオーストラリアでの国民投票は、日本が将来憲法改正の国民投票を実施するにあたって、いくつかの重要な教訓を示しているといえる。今後さらにこの事例の分析を進めていくことが必要だろう。

(2023/10/23)