終わりは呆気なかった。2021年8月15日に、カブール市内の米国大使館から、大使館員らを乗せた米軍ヘリコプターが飛び立つ写真は、今後長くにわたって、米国のみならず広く(西側)国際社会の敗北を象徴するものとして使われ続けるだろう。

 アフガニスタンでの出来事について、当然のことながら日本でも国際ニュースとしては一定の報道がなされてきた。しかし、折りからの豪雨災害や新型コロナウイルスの感染拡大などにより、扱いは大きくなかった。分量の少なさよりも気になるのは、どこか他人事のような報道、議論が多かったことである。

出典:統合幕僚監部ホームページ

出典:統合幕僚監部ホームページ(https://www.mod.go.jp/js/Activity/Past/oef.htm

アフガニスタンの「当事者」としての日本

 2001年の同時テロ以降、日本も極めて深くアフガニスタン問題に関与してきた。アフガニスタンへの支援は、直接的には日本とアフガニスタンの二国間関係だが、そこには日米同盟の文脈もあれば、G7(当初はG8)の枠組みもあった。NATO(北大西洋条約機構)も主要アクターであり、日本も協力することになった。日本は、国際社会の主要メンバーとしてアフガニスタン問題に関わってきたのである。

 したがって、8月15日の敗北は、日本の敗北でもある[1]。この意識が欠けているのではないか。日本は主要な当事者だった。日本が行ってきたことは間違っていたのか。これまでの成果はどうなるのか。考えなければならないことは多い。米国の敗北という議論で終わりにするわけにはいかないのである。

 そして、今世紀に入ってからの日本外交の展開を振り返るとき、アフガニスタンへの関与は、日本外交の「グローバル化」において多大な役割を果たしてきたことに気付かされる。特定国への支援を超えた意味を有してきたのである。以下ではこのことを検証していこう。

日本外交の「グローバル化」の原動力だったアフガニスタン

 まずは、全般としてのアフガニスタン支援である。当時の小泉純一郎政権は、国連難民高等弁務官を退任していた緒方貞子氏をアフガニスタン支援総理特別代表に任命し、大規模な支援に乗り出した。加えて、支援国間の調整にも奔走し、2002年1月にはアフガニスタン復興支援東京会議を主催するなどした。軍事的な部分では直接的な役割が果たせないなかで、復興に関して主導的役割を担おうというのである[2]。

 2001年以降の20年間で日本の支援額は7000億円にものぼる。アフガニスタンという国の規模を考えれば、1国に対する支援額としては異例である。伝統的な開発支援に加えて、治安維持能力向上のための警察支援などが重視されることになった。これは日本にとっては新しい領域であり、日本の援助の中身が、治安部門改革(SSR)分野に広がるきっかけをつくったのも、アフガニスタン支援だったといえる。

 次に、日米同盟の文脈だ。2001年4月に就任した小泉総理は、当初特に外交・安全保障に関心の高い政治家ではなかったが、9月11日の同時テロを受け、米国への連帯を強く示し、アフガニスタンでの米国の軍事行動を支持することになった。これにより、ブッシュ(George W. Bush)米大統領との蜜月ともいえる時代が始まる。

 はじまりは、同時テロ直後の2001年9月21日に横須賀を出港する米空母「キティホーク」に対する、海上自衛隊艦艇による「護衛」だった。米空母に対する何らかの妨害や攻撃がなされても、武器を使った護衛の法的根拠がないなかで、根拠は「調査・研究」だったが、「護衛に見せかける」ことには成功した。さらにその様子が米CNNで繰り返し放送され、国家の危機において米国とともにある同盟国日本というイメージが広まることになった[3]。

出典:首相官邸ホームページ

出典:首相官邸ホームページ

 その後日本は、海上自衛隊艦艇を派遣し、米国主導の「不朽の自由作戦(OEF)」の傘下で実施されたインド洋上での海上阻止活動(MIO)に参加する、米国をはじめとする有志連合諸国の艦艇への補給をおこなった。これは、特別措置法(特措法)を新たにつくってまで実施した活動であり、途中に中断を経ながらも、2010年まで実施された。

 今日、インド太平洋の時代といわれるなかで、インド洋での活動の重要性が上昇している。アフガニスタンに関する洋上での補給活動は、海上自衛隊艦艇がインド洋に日常的に展開するきっかけとなったという観点でも重要な転換点だったのである。

 こうした文脈で打ち出されたのが、「世界の中の日米同盟」である。米国が「テロとの戦い」を進めるなかで、日本はインド洋での補給活動、およびアフガニスタン支援でそれを支える、という構図である。

 アフガニスタンに関してはさらにG7(当時のG8)の文脈も重要である。G7は2002年以降、治安分野の課題を、新たな国軍建設、警察改革、司法改革、麻薬対策、DDR(Disarmament, Demobilization, Reintegration:元兵士の武装解除・動員解除・社会復帰)の5つに分類し、それぞれに主導国をおいた。UNAMA(国連アフガニスタン支援ミッション)とともにDDRの主導国になったのが日本である。日本政府としては、DDRに関する経験が豊富だったわけではないが、新たな挑戦として引き受け、一定の成果を挙げることができた。アフガニスタンにおけるDDRとその後継のDIAG(非合法武装集団の解体)の経験は、その後の日本のSSR支援の重要な基盤になってゆく。

 日本外交にとってのG7は、それまでにもさまざまな分野において、日本外交の幅を広げる「ペースメーカー」であったし、アフガニスタンにおける事例にみられるように、日本側もそれをうまく活用してきたのである。

 日本の外交的地平の拡大という観点からは、アフガニスタンが、日本と欧州との関係強化のきっかけになった点も忘れてはならない。とりわけ目立ったのは、NATOとの関係である。それまでもNATOとの関係がなかったわけではない。1990年代以降は、さまざまな対話が行われていた。しかし、NATOと日本は地理的に遠すぎ、具体的な協力案件を欠いていた。

 そうしたなかで浮上したのがアフガニスタンだった。地理的には、日本と欧州のちょうど中間に位置するのがアフガニスタンであり、NATOと日本の共通のアジェンダになった。

 NATOは2003年8月から、国連安保理決議に基づくISAF(国際治安支援部隊)の指揮を担っていた。2008年から2009年のオバマ(Barack Obama)政権発足前後に最も真剣に検討された自衛隊の派遣は、結局実現しなかったものの、NATOとの間では、日本の草の根無償資金協力の枠組みを活用したPRT(地方復興支援チーム)と連携した協力の仕組みが構築された。

 この一環で、アフガニスタン西部ゴール県のリトアニア主導PRTには、日本人の専門家が派遣された他、ISAF司令部内のNATO上級文民代表事務所にもリエゾンが派遣された。さらには、NATO主導の各種信託基金への資金拠出など、アフガニスタンにおける協力によって、日NATO関係は急激に発展したのである。日本側でとりわけ熱心にこれを推進したのは、2006年から2007年、および2012年から2019年の安倍晋三政権だった。

 EU(欧州連合)との間でも、アフガニスタンは常に重要議題になり、開発や警察支援、国境管理などでの協力が模索された。NATOやEUとアフガニスタンにおける協力を進める日本の姿は、まさに新しい時代の「グローバル化」した日本外交そのものだった。

 なお、筆者自身、2005年から2008年まで、NATO担当の専門調査員として在ベルギー日本大使館に勤務し、アフガニスタンに関する日NATO協力に携わった[4]。NATOとの協力は、当時の日本外交の重要なフロンティアだったといえる。NATO関係者からも米欧の専門家からも、アフガニスタンにおける日本の役割への期待は極めて高かった。これは、後にNATOがインド太平洋への関心を高める基礎にもなった。

20年間の経験をいかに総括するか

 このように、アフガニスタンへの日本の関与は広く、また深かった。それは、日米同盟を進化させる原動力になったことに加え、G7での役割分担やNATOとの協力など、日本外交に新たな要素を加えることになった。過去20年の日本外交が、よりグローバルな視野を持ち、活動領域を広げることができたとすれば、その多くにアフガニスタン支援が関わっていたのである。8月15日のカブール陥落に関わらず、この事実は変わらない。

 また、伝統的ともいえる農業や医療、教育といった開発援助の分野でも、20年間の成果は小さくなかった。そうであれば、やはり、20年間の経験を総括する検証作業がまずは求められるのではないか。それは日本が自らの外交の来歴を振り返る作業であると同時に、日米間、さらにはG7などでも共同で行うべきものである。

 日本では、アフガニスタンに対する欧米の価値観押し付けが失敗の原因だとする言説も根強く、また、結果論としてそうした部分が小さくないのも事実だろう。しかし、日本(少なくとも日本政府)は、欧米を中心とする国際社会によるアフガニスタン支援の主要メンバーだったのである。この点を踏まえない総括はあり得ない。

 最後に、カブール陥落を受けた8月16日の演説で、バイデン(Joe Biden)米大統領が、「国家建設が目的であったことは一度もない[5]」と述べたことは、同盟国として懸念すべきであるし、しかるべき場で反論することも必要だ。日本は、米国、そして他の多くの同志諸国とともに、国家建設に尽力してきたからである。そして女性・少女の教育などにおいては、着実な成果を挙げてきた。国家建設を否定するがために、そうした成果の部分までが切り捨てられるとすれば大きな損失であろう。

(2021/08/27)

脚注

  1. 1 この点については、篠田英朗「アフガニスタンで敗北したのは、自由主義諸国全てである」『SAKISIRU』2021年8月17日参照。
  2. 2 この前後の経緯については多数の文献があるが、緒方氏自身の見方として、野村健・納屋政嗣編『聞き書 緒方貞子回顧録』岩波書店、2015年、256頁参照。
  3. 3 この経緯についてはさまざまな記述があるが、当時防衛省海上幕僚監部防衛部防衛課長で、後に統合幕僚長を務めた著者によるものとして、河野克俊『統合幕僚長――わがリーダーの心得』ワック、2020年、132-139頁参照。
  4. 4 当時の経験については、船橋洋一「日米同盟の本質は他国と比べないとわからない――たこつぼにいる専門家の情報独占が問題だ(対談)」『東洋経済オンライン』2019年9月5日参照。
  5. 5 The White House, “Remarks by President Biden on Afghanistan,” August 16, 2021.