北方領土交渉において、おそらく最も困難かつ複雑な問題は返還後の同地域における米軍駐留・活動問題である。本稿(1)では、この問題において何が問われているか、そして類似した問題の対処事例としてドイツ統一時における旧東独地域における外国(NATO)部隊の駐留・展開の禁止規定について検討した。それに続く(2)となる今回は、中東欧諸国へのNATO拡大の事例を検討したうえで、日本の課題を改めて分析することにしたい。

 

 

NATO拡大の事例――「政治宣言」による保証



 ドイツ統一に次ぐ第2の事例は、1990年代にはじまる中東欧諸国のNATO加盟、すなわちNATOの東方拡大である。旧共産主義圏(ソ連圏)諸国のNATO加盟に対してロシアは当初強硬に反対していた。しかし、加盟希望国およびNATOの意思決定にロシアが拒否権を有さないことも現実であり、交渉は次第に条件闘争の色彩が濃くなった。NATO側もロシアとの関係の維持が重要であったために、安全保障上のロシアの懸念にこたえる努力をすることになる。
 
 そうしたなかで出てきたのは、新規加盟国領土へのNATO部隊の駐留に制限を加える案であった。1990年代半ば以降、NATO・ロシア間に加え米露間で続けられた交渉は、1997年5月に署名された「NATO・ロシア基本議定書(Founding Act)」として妥結した。その主目的はNATO拡大へのロシアの懸念に応え、それへの反対姿勢を和らげさせることだった。文書名が若干特殊であるが、これは法的拘束力を有さない、いわゆる政治宣言である。
 
 同文書においてNATOは、新規加盟国の安全保障は「実質的戦闘部隊(substantial combat forces)の新たな常駐」ではなく、有事の際の増派によって確保する――すなわち、実質的戦闘部隊の新規加盟国への(他の NATO 諸国部隊の)常駐は行わない――との立場を表明することになった。併せて核兵器に関しても、新規加盟国への配備については、「意図も計画も理由もない(no intention, no plan and no reason)」との立場を示した。これらはまさに、NATO拡大をロシアに受け入れさせるためのNATO側の譲歩だった。
 
 しかしここで注意を要するのは、これらはいずれもNATOによる意図表明だったことであり、文書のなかでは、NATOがこれらのことを「再度表明(reiterate)する」とされている。つまり、同議定書への合意以前にすでにNATOの方針として表明されていたものを、改めて文書に盛り込んだのである。そして主語はNATOとロシアではなく、NATOのみであった。
 
 加えて、前者の部隊の常駐問題については、「現在および予見し得る安全保障環境において」との但し書きもつけられている。つまり、安全保障環境が大きく変われば、この方針は適用されなくなることが言外に示されているのである。
 
 それでも、NATO拡大を前に、新規加盟国のいわば頭越しに米国とロシアが前面に出てそのような合意を行った事実自体、いかにNATO拡大へのロシアの反発が強く、NATOとしてもそれに真剣に対応する必要があったかを示している。
 
 なお、何をもって「実質的戦闘部隊」とするかについては、当時米露間で突っ込んだやりとりが行われたものの、公式に定義が示されたことはない。そのため、NATO側の施設や部隊の展開などに際して、これまでも議定書との整合性が問われてきた。
 
 NATOは2016年7月のワルシャワでの首脳会合の決定に基づき、「強化された前方プレゼンス(enhanced Forward Presence:eFP)」と呼ばれる、ポーランドおよびバルト三国への各大隊規模(約1,000名)のNATO諸国部隊の「ローテーション」での展開が始まっている。対露抑止態勢強化の主要な柱である。これに対してロシアの一部からは、NATO・ロシア議定書に反するとの批判がある。しかし、今回eFPとして派遣されているNATO部隊は「常駐」ではなく「ローテーション」であること、および、規模としても「実質的戦闘部隊」には及ばず、議定書に沿ったものであるというのがNATOの立場である。
 
 この点に関して、今日の安全保障環境は、すでに議定書当時の「現在および予見し得る」ものではなくなっており、同議定書の規定は無効である、ないし文書自体を破棄すべきとの声もNATO内では高まっている。しかしNATOは、ロシアとの関係を形式的にでも維持する観点から、同議定書を自ら破棄することは控えている。そのため、通常兵力および核兵器に関するNATO・ロシア議定書の対露保証内容はいまだに有効である。

 

 

保証の内容と形式


 
 ドイツ統一とNATO拡大という2つの事例に共通するのは、いずれも、ロシアとの関係においてはNATO部隊(外国軍隊)の駐留の是非が焦点となり、それに制限をかけることでロシアとの交渉が妥結にいたった、つまりロシア側が受け入れた事実である。極めて古典的なアプローチではあるが、外国部隊(特に米軍)の駐留問題を重視するロシアの姿勢がいかに一貫したものであるかが分かる。
 
 ただし、2つの事例の間には、重要な相違点もある。それは、「2プラス4条約」が法的拘束力を有する国際条約であるのに対して、「NATO・ロシア基本議定書」は政治宣言に過ぎないことである。しかも後者における、新規加盟国には実質的な(NATO諸国)戦闘部隊の新たな常駐を行わないとした当該箇所は、NATO・ロシア間の合意ではなく、上述のとおり、NATO 側による一方的な意図表明という形式をとっている。
 
 つまり類似の内容に関して異なる形式が選択されたのである。もっともこれは、ロシア側の選好により選択されたというよりは、事の性質による部分が大きい。つまり、ドイツ統一に際しては第二次世界大戦の戦勝4か国の当事者としての権利を有する旧ソ連がそれを完全に放棄するためにも法的拘束力を有する条約の締結が必要だったのに対し、NATO拡大に関してNATO加盟国でないロシアは拒否権を持っていなかった。
 
 それでも、ロシアにとっては法的拘束力を有する条約の方が保証としてより信頼に足るであろうことは想像に難くない。ましてや、完全に反故にされた(とロシア側が考える)NATO不拡大の約束にいたっては、政府高官の間での口頭でのやり取りのみであった。つまり、交渉におけるロシアの優先順位、そして受け入れられる度合いの順位は、法的拘束力を有する条約による保証、政治宣言による保証、そして最後に口頭での保証ということである。

 

 

日本にとっての課題


 
 こうした経緯や経験を踏まえ、北方領土の返還に関してロシアが、米軍駐留といった重要な問題は、政治宣言のような中途半端なものではなく、法的拘束力を有する条約に具体的に書き込むべきだという考えを強くしたのであれば、日本としてもそれに備える必要がある。しかも、いずれにしても北方領土問題に関しては平和条約の締結が不可欠であり、ロシアの交渉ポジションは、NATO拡大の事例よりもドイツ統一のそれに近いだろう。
 
 ドイツ統一に関しても NATO 拡大に関しても、共通して強調されるべきは、これらの交渉の妥結には米国の完全なコミットメントが不可欠だったとの事実である。特にドイツ統一外交のプロセスについては、各国の外交文書が通常よりも早く開示されたため、すでにかなりの詳細が明らかになっている。そこで特筆すべきは西ドイツとソ連との交渉もさることながら、米国とソ連の交渉、そして米国と西ドイツとの間の摺り合わせの緊密さであり、全てが同時に成立して初めて交渉は妥結に至ったのである。
 
 このことが日本に突きつける困難は、今日の米露関係である。(ジョージ・H・W)ブッシュ政権とゴルバチョフ政権、クリントン政権とエリツィン政権の間に成立したような首脳間の関係と事務レベルでの緊密かつ緻密な作業が、今日どこまで期待できるのか。まずはこの点が障害になる懸念がある。さらに、イラン核合意(JCPOA)や気候変動に関するパリ議定書など、さまざまな国際協定・合意から一方的に離脱するようなトランプ政権の姿勢は、米国との合意の信頼性全般に疑問を投げかけているともいえる。
 
 もちろん、ドイツ統一交渉における東ドイツや NATO 拡大問題における例えばポーランドと比べれば、北方領土は面積や人口において小さな存在である。しかし、国境線の変更や自国領土近くでの米国の同盟の適用領域の拡大といった重大な問題に対して、ロシアが何を懸念し、それを和らげるために何を求めるかに関して、ドイツ統一とNATO拡大の事例は示唆的である。
 
 関連して、返還された北方領土を非軍事化するとの議論があるが、これは要注意である。例えば、歯舞・色丹の2島が返還される場合に、ロシア支配下に残される国後・択捉両島も非軍事化するのであれば、象徴的な相互主義の論理としては成立するかもしれないが、ドイツ統一やNATO拡大においても、制限を受けたのは「外国軍部隊(NATO部隊)」のみであり、自国部隊ではない。
 
 外国部隊の受け入れは各国政府が判断するものだが、自国内の一部に自国部隊を展開できないような事態は、非武装地帯の設定に代表される紛争解決のための相互主義の措置でない限りは到底成立し得ない。その地域には自らの主権の一部が及ばないということを意味し、原理原則論としても、領土の一体性が保てないからである。(もっとも、法的な制限の導入を拒否することと、実際に自衛隊を配備するかは別問題であり、後者に関して政治宣言などで何らかの言及をすることは考えられる。)
 
 また、日本としてはあまり考えたくないことではあるが、もし将来にわたる米軍駐留の可能性を、法的拘束力を有するかたちで排除できないのであれば、返還後もロシアがこの問題に関する何らかの影響力・発言権を保持できるような枠組みを作り出すべきだとの議論がロシア側から提起される可能性が考えられる。
 
 その場合、北方領土に対する日本の主権が制限されるかたちで返還がなされるということになる。日本にとっては困難な問題だが、他方でそれは、「1956年の日ソ共同宣言で言及された歯舞、色丹両島に関しても、主権の所在については何も規定されていない」との、今日プーチン大統領を含め、ロシア政府がとっている解釈とも、親和性がある点には留意が必要である。
 
 主権を完全に移管させないとした場合、ロシアにとっての最大の狙いは、外国部隊(さらには自衛隊)駐留に関する影響力の保持である。不安定で対立的な米露関係が続いていることに加え、北極航路への国際的関心の高まりにより、今後、オホーツク海の軍事的重要性はさらに上昇するだろうとの背景もある。

 

 

返還後のロシア系住民と日米安保、ハイブリッド戦争


 
 米軍駐留問題の扱いにかかわらず、返還後の北方領土に日米安全保障条約第5条を完全に適用しなければならないのは、返還後のロシア系住民の扱いという問題とも関連している。
 
 現在北方領土に居住しているロシア人は、返還への期待が日本で高まる例えば色丹島だけで約3,000名存在する(歯舞群島には国境警備隊のみが駐在するとされる)。例えば色丹島において、このうち何名が返還後も島に留まるかは分からない。ロシアへの帰還を希望する住民への日本政府による支援、すなわち帰還促進政策の実施は十分に考えられるが、それもどこまで狙い通りに進むかは不明である。
 
 他方で、返還後の北方領土にすぐに戻ることのできる旧島民は、高齢化などを考えると極めて少ないだろう。旧島民以外の日本人の移住促進に日本政府がどのような政策をとることになるかも、現段階では全く不明である。具体的検討の段階ですらないようにみえる。
 
 そのため、北方領土は返還後も一定期間は日本国内でありながら、ロシア人住民が多数を占める地域であり続ける可能性が高い。日露の共生という理念は重要だが、まとまった数のロシア系住民を、しかも特定地域に集中したかたちで抱えることになる。そうした際に、「国境の外にいるロシア系住民(ロシア語話者)を保護する」とのロシア政府が近年掲げる方針との関連を懸念せざるを得なくなる。
 
 返還後の北方領土に残留するロシア人の国籍がどうなるかは不明だが、何らかの形でロシアとの関係を維持することはおそらく自然であり、場合によってはロシアに保護を求める、ないしロシアの側が、実態はともあれ彼らを保護することが必要だとの口実のもとに北方領土に介入するような可能性を排除することはできないのではないか。まさにハイブリッド戦争である。
 
 それを防ぐためにも、返還された北方領土は、日本の主権が完全に及び、日米安全保障条約が制限なく適用される地域である必要がある。ロシアがウクライナには介入しても、多くのロシア系住民を擁するエストニアへの介入を控えているとすれば、その考慮の一つは、ウクライナがNATO非加盟であるのに対して、エストニアがNATO加盟国であるとの現実であろう。集団防衛による抑止が重要なのである。
 
 もちろん、ロシア系住民を国内に抱えることが、そのままロシアとの対立の火種になるわけではない。社会統合や地域経済の発展など、ハイブリッド戦争を未然に防ぐために日本としてできることも少なくない。平和条約を締結する以上、友好、親善、相互信頼が期待される。しかし、特定地域に集まるロシア系住民を抱えることで、ロシアによるハイブリッド戦争に対して、日本がより脆弱になることは否定できず、領土交渉を考えるにあたっては、この点も見落としてはならないだろう。

 

楽観し得ない交渉の行方


 
 これまでみてきたように、北方領土交渉に関しては、軍事的地位の問題を中心に、安全保障上の論点が多数、複雑に絡み合っているのが現実である。実際の交渉においては、米国を巻き込みつつ、これら全てを丁寧に解いてゆくことが求められる。逆にいえば、これが実現しない限り北方領土の返還は見込めない。
 
 日本として、日米安保条約の適用や自衛隊の行動については譲れないとすれば、返還された領土における外国部隊の駐留問題が焦点になる。しかし、繰り返しになるが、これには日米間での完全な一致が不可欠であり、背後でこれを可能にするのは、米露間の何らかの合意・了解である。米露関係が不安定で対立した今日の状況は、交渉進展に大きな影を落としているといえる。
 
 そしたなかで日本にとっては、ドイツ統一やNATO拡大といった、関連する事例の示すロシア対応の「相場感」のようなものは有益であろう。ロシアが何を重視し、何にこたえることで、如何なる妥協が成立可能になったのかが浮かび上がるからである。

 

  (2018/12/14)

脚注

【参照文献――(1)、(2)通じての主要関連文献】

  • William Alberque, “‘Substantial Combat Forces’ in the Context of NATO-Russia Relations,” Research Paper, No. 131, NATO Defense College (June 2016).
  • Ronald Asmus, Opening NATO’s Door: How the Alliance Remade Itself for a New Era (New York: Columbia University Press, 2002).
  • Mark Kramer, “The Myth of a No-NATO-Enlargement Pledge to Russia,” The Washington Quarterly, Vol. 32, No. 2 (2009).
  • Mark Kramer and Joshua Itzkowitz Shifrinson, “NATO Enlargement: Was There a Promise?” International Security, Vol. 42, No. 1 (2017).
  • Vincent Pouliot, International Security in Practice: The Politics of NATO-Russia Diplomacy (Cambridge: Cambridge University Press, 2010).
  • Mary Elise Sarotte, 1989: The Struggle to Create Post-Cold War Europe, updated edition (Princeton: Princeton University Press, 2014).
  • Joshua Itzkowitz Shifrinson, “Deal or No Deal: The End of the Cold War and the U.S. Offer to Limit NATO Expansion,” International Security, Vol. 40, No. 4 (2016).
  • Michito Tsuruoka, “Strategic Considerations in Japan-Russia Relations: The Rise of China and the U.S.-Japan Alliance,” in Shoichi Itoh, et al., Japan and the Sino-Russian Entente: The Future of Major-Power Relations in Northeast Asia, Special Report, No. 64, National Bureau of Asian Research (NBR) (April 2017).
  • Philip Zelikow and Condoleezza Rice, Germany Unified and Europe Transformed: A Study in Statecraft (Cambridge: Harvard University Press, 1995).
  • 小泉悠「ロシアの秩序観――『主権』と『勢力圏』を手掛かりとして」『国際安全保障』第45巻第4号(2018年3月)。
  • 竹澤由記子「ノルウェーの基地政策とその意義についての考察――1950年代から60年代前半までを中心に」日本国際政治学会2018年度研究大会報告ペーパー(2018年11月4日)。
  • 鶴岡路人「NATOにおける集団防衛の今日的課題――ロシア・グルジア紛争と北大西洋条約第5条の信頼性」『国際安全保障』第37巻第4号(2010年3月)。
  • 鶴岡路人「統一ドイツのNATO帰属への道――冷戦と冷戦後の狭間」『法学政治学論究』(慶應義塾大学大学院法学研究科)第51号(2001年12月)。