1人の指導者との抱擁が招いた疑念を払拭するには、やはりもう1人との抱擁しかなかった。
8月23日、ポーランドから10時間の夜行列車でウクライナ・キーウに到着したモディ首相は、ゼレンスキー大統領と熱い抱擁を交わした。インドの首相が、1991年に独立したウクライナを訪問するのは今回が初めてであった。わずか9時間ほどの滞在ではあったが、首脳会談は3時間近くに及んだ。
ゼレンスキーのラブコールに慎重だったモディ
ロシアによる侵攻開始以来、ゼレンスキー大統領がモディ首相にアプローチしてきたことはよく知られている。というのも、インドはロシアとの伝統的な関係を維持しながらも、プーチン大統領に面と向かって「今は戦争の時代ではない」と直言できる国であり[1]、西側との関係を緊密化させながらもグローバルサウスの盟主を自任する大国だからである。そのインドを引き寄せたいとの思惑が、ウクライナ側にはあった。2023年5月の広島サミットに電撃訪問したゼレンスキーは、モディと念願の対面を果たし、「できることは何でもする」という言質を引き出すことに成功した[2]。その場でも、またその後の電話会談においても、ゼレンスキーはモディのウクライナ訪問を要請していた[3]。
ところが、インドは慎重な姿勢を崩さなかった。2024年3月にはクレバ外相が訪印し、和平に向けたイニシアティブをインドに期待するとしたのに対し、インド側は明言を避け、モディはクレバの表敬訪問すら受けなかった[4]。インド総選挙直後のイタリア・G7サミットにともに招かれたモディはゼレンスキーと再び顔を合わせたものの、それに続くスイスでのウクライナ和平サミットにモディは行かなかった。ロシア不在のこの会議にインドは外務省幹部を出席させてG7とウクライナへの義理を果たす一方、成果文書へのコミットは避けた[5]。
プーチンとの抱擁の衝撃
総選挙で3選を果たしたモディ首相がG7サミット後、二国間首脳会談のための最初の訪問国として選んだのは、なんとロシアであった。印ロ年次首脳会談のためとはいえ、モディのロシア訪問は5年ぶりとなる。コロナ禍が終息したにもかかわらず、長く訪問が見送られてきたのは、ウクライナ侵攻が背景にあるのは明らかだった。とくに2023年はG20議長国として、慎重になさらざるをえなかった。しかしロシア優位の戦況、西側の支援疲れ、米大統領選でのトランプ優勢が伝えられるなか[6]、地政学的にも、地経学的にもインドにとって重要なパ―トナーであるロシア訪問が、今なら可能だと判断したとみられている[7]。
ただ、米国はちょうどNATO首脳会議をワシントンで開くタイミングでの訪問に難色を示し、せめて日程をずらすようインド側に要請していた[8]。しかし、インドはそれを押し切った。米国や西側にとってのインドの重要性に鑑みれば、いま訪ロしたからといってインドへの批判は大きなものにならないと楽観していたと思われる。
インドの想定外だったのは、モディがモスクワに到着した当日の7月8日にロシア軍が行ったウクライナ小児病院攻撃である。その直後にモディがプーチンと熱い抱擁を交わす写真がウクライナと西側に衝撃を与えた。ゼレンスキーは、「世界最大の民主主義国の指導者が、こんな日に世界で最も血なまぐさい犯罪者とモスクワで抱き合うなんて」とモディを初めて痛烈に批判した[9]。米国は外交ルートで懸念を伝え、ガルセッティ駐印大使に至っては、「紛争中に戦略的自律性なんてありえない」と露骨に不満を表明した[10]。これに対し、インド側は、二国間関係に他国が口を出すべきでないとの反論を繰り返したが、インドに対するウクライナと西側の不信感は募っていた[11]。
ウクライナ訪問の動機
そんななか、7月27日に飛び込んできたのが、「モディ、ウクライナ訪問へ」というニュースだった。インド・ウクライナ側のどちらの公式発表もなかったが、8月23日という、訪問日まで特定されていた[12]。ただ訪問の詳細、首脳会談のアジェンダに関してはほとんど詰められていなかったようだ。ようやく8月10日に国家安全保障副顧問がキーウ入りしてウクライナ側と協議を行ったと伝えられたが[13]、訪問が公式に両国政府から発表されたのはポーランド出発前々日19日の夜であった。インド外務省の局長は会見で、仲介の意思や和平計画があるかを再三聞かれたものの明言を避けた[14]。ただ実際には、インド側は双方にメッセージを伝えることはできるとしながらも、仲介の可能性は早々に否定していたようだ[15]。
こうした経緯を鑑みると、モディがウクライナ訪問を決めた最大の動機は、やはりプーチンとの抱擁のダメージコントロールとみるべきだろう。子どもを犠牲にすることも厭わないプーチンのロシアにインドが傾斜しているとの国際的な印象は、対米関係はもちろんのこと、グローバルサウス外交を展開するうえでも好ましくなく、払拭しなければならなかった。そのためには、ゼレンスキーのもとに自ら行って抱擁する姿を世界に示す必要があったのである。その意味では、当初の最大の目的は達せられたといえる。
双方の主張は平行線のまま
ゼレンスキーとの首脳会談でモディは、インドが戦争終結に向けて「積極的な役割」を果たす用意があるとか、「われわれは中立ではなく、和平の側に立っている」などと、得意のレトリックを駆使し、インドはロシアの侵略戦争を支持しているわけではないとアピールしてみせた。とはいえ、実際には、インドの「中立」姿勢に変わりはなく、両首脳の会談は噛み合わない部分が多かったことが窺える。会談後の共同声明の「包括的で公正かつ持続的な和平の確保」をみると、双方が合意したのは、領土保全と主権の尊重など国連憲章を含む国際法の原則という一般論と、世界の食糧供給の重要性だけであった。そもそも「ロシア」の名指しはおろか、「戦争」や「紛争」という表現すら見当たらない。インド側は従来通り、「対話と外交」による早期の平和回復のため貢献する意思を伝えたが、ウクライナ側がこれに同意したとは書かれていない。他方、ウクライナ側はスイスでの和平サミットで採択された文書が和平の基礎だとしたが、ロシアを含まない和平サミットに批判的なインド側は同意しなかった[16]。
会談後にインドメディアの会見に応じたゼレンスキーは、交渉のテーブルにつくよう勧めるモディに、プーチンには和平の意思がないと突き返ししたほか、モディがロシアを訪問中に小児病院を攻撃したのは、プーチンがモディを尊敬していないということだと指摘したと明かした[17]。さらに、インドが多くの原油をロシアから購入していることを取り上げ、インドがロシアへの「態度を変えれば」プーチンは戦争をやめざるをえなくなるとか、インドはバランスをとるのではなく「われわれの側」についてもらいたいなどと厳しい注文を付けた[18]。
ウクライナ訪問の評価と今後の展望
それでも、今回の初訪問により、インドは今後、時が来れば和平に向けた役割を担うことを可能にする足掛かりを築くことができたのではないかとみられている[19]。短い滞在時間にもかかわらず、首脳会談だけでなく、モディは戦争で犠牲になった子どもの追悼施設で、ゼレンスキーの肩に手を置いて寄り添う姿を示したほか、最新の救命用医療施設10台を寄贈した。さらに防衛協力の推進でも一致した[20]。モディはゼレンスキーにインドへの招待も申し出た[21]。印ロ関係に比べるとはるかに希薄だった印宇関係が進展する端緒になりうる。
ゼレンスキーが言うように、インドによる原油や兵器の購入はロシア経済の支えであり、グローバルサウスの盟主インドの「中立」姿勢は、ロシアの外交的孤立の緩和に寄与してきた。その意味で、インドがロシアにモノが言える立場にあるのはたしかである。
もちろん、現時点では、インドが役割を果たせるわけではないだろう。そもそもインドにとっては、ロシアの弱体化に繋がるようなかたちでの決着は、地政学的に望ましくない。ロシアには対中戦略上のパートナーであり続けていてもらいたいからだ。この点ではウクライナ側と折り合うのは難しい。
しかしたとえば、米大統領選でウクライナ支援継続に否定的なトランプ政権が成立するといった新たな状況が生じたときには、それなりに強いロシアを残したかたちでの戦争決着の道が開ける可能性もある。モディの訪問には、そうなった場合に、すでに意欲を示している中国ではなく、インドが主導的役割を果たせるような環境を創っておく、そのためのウクライナとの関係構築という意味もあったのではなかろうか。
(2024/08/30)
脚注
- 1 拙稿「ロシアのウクライナ戦争をめぐるインドの一貫した立場と今後」国際情報ネットワーク分析 IINA、2022年11月30日。
- 2 Ministry of External Affairs, “Prime Minister’s meeting with President of Ukraine,” May 20, 2023.
- 3 Sidhant Sibal, “PM Modi invited by Putin, Zelensky for post-election visits,” WION, March 20, 2024.
- 4 Keshav Padmanabhan, “ Despite ‘substantive’ agenda, Jaishankar-Kuleba talks highlight India’s tightrope on Russia-Ukraine war,” The Print, March 29, 2024.
- 5 “MEA Secretary to Represent India at Swiss Peace Summit on Ukraine,” The Wire, June 14, 2024.
- 6 モディのロシア訪問が報じられた6月下旬時点。その後、バイデン撤退により米大統領選の行方は見通せなくなった。
- 7 Suhasini Haidar,” The ‘geo-calculus’ of the Moscow visit,” The Hindu, July 26, 2024.
- 8 Gerry Shih, “Biden administration disturbed by Modi-Putin visit during NATO summit,” Washington Post, July 11, 2024.
- 9 ゼレンスキーのXポスト(2024年7月9日)。
- 10 Suhasini Haidar and Dinakar Peri, “During conflict, there is no such thing as strategic autonomy: U.S. Ambassador,” The Hindu, July 12, 2024.
- 11 Pia Krishnankutty, “India says it ‘values strategic autonomy’ week after Garcetti’s remarks following Modi’s Russia visit,” The Print, July 19, 2024.
- 12 “Indian PM Modi likely to visit Ukraine on August 23,” WION, July 27, 2024.
- 13 “India’s Dy NSA in Ukraine, holds talks with Zelenskyy’s top aide,” The Statesman, August 11, 2024.
- 14 Ministry of External Affairs, “Transcript of Special Briefing by Secretary (West) on Prime Minister’s visit to Poland and Ukraine,” August 19, 2024.
- 15 Rezaul H Laskar, “India may not directly mediate between Russia, Ukraine but likely to pass messages,” Hindustan Times, August 19, 2024.
- 16 Ministry of External Affairs, “India-Ukraine Joint Statement on the Visit of Prime Minister of India to Ukraine,” August 23, 2024.
- 17 “Talk to Russia, Urges Modi; Zelenskyy Says Putin Opposes Peace, ‘Is a Killer for Us, Is He Good for You?,” The Wire, August 23, 2024.
- 18 Dinakar Peri, “If India changes its attitude towards Russia, the war will end: Zelensky,” The Hindu, August 24, 2024.
- 19 Pia Krishnankutty, “Modi’s Ukraine visit sends many signals. Some seem aimed for Russia,” The Print, August 24, 2024.
- 20 インド軍はロシアからだけでなく、ウクライナからも多くの装備品を購入してきたが、戦争の開始で途絶え、問題になっていた。共同声明によると、インドでの製造や新興分野での協力などで関係強化を促進すること、軍事技術協力に関する合同作業部会を近くインドで開催することで合意した。Ministry of External Affairs, “India-Ukraine Joint Statement on the Visit of Prime Minister of India to Ukraine,” August 23, 2024.
- 21 “PM Modi invites President Zelensky to visit India; he says would be happy to come to the "great" nation,” The Hindu, August 24, 2024.