新型コロナウイルス感染症の世界的拡大と東南アジアの状況

 中国の武漢から始まったとされる新型コロナウイルスの感染が、世界的に拡大している。現在では、東アジアや欧州を中心に感染者数が急速に増加している。このウイルスの感染力は強く、抗ウイルス薬も開発途上のため治療法が確立していないことが、感染に対する人々の恐怖心をあおり、各国の社会不安を助長している。また感染拡大によって人々の国内外の移動が大きく阻害されることから、生産と消費両面において経済活動が停滞し、世界的に大きな経済的損失が生じている。
 東南アジアの状況としては、中国での感染拡大が始まった当初、シンガポール、マレーシア、タイといった中国との人的交流が活発な国々で、感染拡大が始まった。しかし、現在の状況としては、感染拡大は続いているものの、東アジアや欧州に比べ、感染者数の増加は相対的に低く抑えられている。

新型コロナウイルス感染症の世界的拡大と東南アジアの状況

公表された感染者数(3月16日現在)

ブルネイ 50
カンボジア 12
ラオス 0
インドネシア 117
マレーシア 428
ミャンマー 0
フィリピン 140
シンガポール 226
タイ 114
ベトナム 56
中国 80,849
日本 839

(出所) Worldometer, “COVID-19 Coronavirus Outbreak.”

 中国に隣接し、中国との経済その他の交流が活発な東南アジアにおける感染拡大が抑えられている要因は、各国が例えばベトナムの様に中国との往来を中心に感染が拡大した国々からの渡航禁止や渡航制限を比較的早期に打ち出し、かつその政策を徹底的に実行したことや、感染が疑われる者や感染者の隔離、感染地域の封鎖といった感染拡大防止策を早期に打ち出して実施したなど、様々に取り沙汰されている[1]。一方で、経済的に発展途上にある多くの国々においては、医療設備や保険制度が未整備であることも事実であり、公表感染者数の少ない国々の中には検査や治療を受けていない多くの潜在的感染者が存在するとの議論もある[2]。
 コロナウイルスの感染拡大に関する今後の状況や終息の見通し、社会、経済、政治とあらゆる面における各国や国際社会全体への影響を考察することは、現在時期尚早の観はあるものの、本稿においては、コロナウイルスが東南アジア諸国連合(ASEAN)の地域と国々にもたらしている安全保障上、対外関係上の含意について、暫定的な考察を提示するものである。

韓国文在寅政権の「新南方政策」

安全保障上の含意――ASEANの対応

 ASEANが深刻な感染症の拡大に見舞われるのは、今回が初めてではない。2003年、重症急性呼吸器症候群(SARS)の感染が東南アジアでも拡大し、シンガポールやベトナムをはじめとするASEAN各国の社会や経済は大きなダメージを受けた。SARSの流行を契機として、こうした感染症は、人々の生活や安全を直接脅かすという意味で「人間の安全保障に関わる問題として考えられるようになった。ASEANは以後、感染症を域内の安全保障課題の1つとみなし、その対処に関する域内協力の方法を議論するようになった。
 議論の結果、ASEANは感染症を「ASEAN共同体」(ASEAN Community)形成にあたって克服すべき地域安全保障課題の1つと位置づけ、感染症拡大を防止する効果的な手段の1つは、病気の原因、感染経路、及びとるべき予防措置について人々に十分な情報を提供することであるとの結論に至った。またASEANは、感染症を含む地域安全保障課題への対処にあたっては、域内外のパートナーと効果的に協力する方法を確立すべきと考えた[3]。
 上記の問題意識に基づきASEANは、2003年に東南アジア地域での感染症の発生に関する情報提供サイトを立ち上げた。その後、ASEAN加盟国からは域内での監視システムや感染症管理センターの設置などの提案が出たが、財政問題も絡み、実現には至らなかった。そこでASEANは、ASEANプラス3(日本、中国、韓国)の枠組みを活用し、これらASEAN対話国の支援を受けつつ、感染症対応メカニズムの確立を目指すことにした。ASEANプラス3の枠組みにおいては、感染症発生(EID)プログラムが立ち上げられ、感染症の発生に際しての情報共有と情報提供の方法や医学的な対処方法について、ASEAN加盟各国の能力向上を目的としたさまざまなプログラムが実施されてきた[4]。
 今回のコロナウイルス感染拡大に際し、ASEANはSARSの教訓を生かし、まずは確実な情報共有と情報提供の態勢を整えた。ASEANウェブサイト内には「コロナウイルス感染症の予防、追跡と対応に関するASEANヘルス・セクターの取り組み」と題したサイトが立ち上げられ、ここではウイルスの感染状況に関する情報が日々更新されるとともに、ASEANの取り組みに関する情報がまとめて掲載されている[5]。今後の課題としては、域内外の人々の移動規制や感染者対応に関し、より調整されたASEANとしての対応とることができるか、また経済へのダメージを最小化する具体策をASEANが取りまとめることができるか、という点であろう。

韓国文在寅政権の「新南方政策」

対外関係上の含意――存在感を示す中国、存在感の薄いアメリカ

 今回のコロナウイルスの発生地とされる中国は、国内の感染者数の爆発的な増加に対し、武漢を中心とする湖北地域の封鎖、国内移動の大幅な制限、大都市における人々の活動を大きく制限する強硬措置を次々と打ち出し、感染者に対しては医療関係者を総動員して対応した。こうした中国政府の対応が功を奏したのか、あるいは感染拡大プロセスの自然な終息かは不明だが、少なくとも中国本土における感染者数は現在明らかに減少傾向にあり、北京や上海など武漢以外の主要都市での感染拡大も抑えられている。
 このように国内対応に忙殺されているかの状況においても、中国はASEANとの間で2月20日、コロナウイルス対策に関する特別外相会議をラオスで開催した。ウイルスの感染拡大に際して中国がASEANとの特別外相会議を急きょ開催した目的は、ASEAN諸国に対して中国の対応策を説明し、協力体制の構築を呼びかけることにあった。またASEAN各国が打ち出す中国との渡航規制によって中国とASEANの間の経済交流が阻害されないよう、ひいては中国経済へ悪影響を及ぼさないよう、ASEANに渡航規制の解除を求めることにあったi。特別外相会議の声明によると、中国とASEANは、情報とベストプラクティスのタイムリーな共有、人々への適切な情報提供、感染症対応に関する政策対話の実施、医薬品のサプライチェーンの確保、等々に関して協力を進めることで合意した[7]。
 ASEAN諸国側の個別の反応は定かではないが、中国の呼びかけに対し、少なくともASEANのすべての国の外相がラオスの首都ビエンチャンに急遽集合した。こうして中国は、ASEANに対する動員力と政治的影響力を国際社会に示した。カンボジアにいたっては、フンセン首相が急遽訪中して習近平国家主席と会談し、中国のウイルスとの闘いに対する全面的な支持を表明するなど、改めての親中ぶりを示した[8]。
 翻ってアメリカの対応はどうか。トランプ政権は、ウイルスの感染拡大が始まった際、大統領選にすべての政治的関心と資源を投入しており、当初アメリカ国内での感染者の少なかったこともあり、コロナウイルスに対する関心は低く、ましてや東南アジアにおける感染拡大への対応を検討した様子はない。コロナウイルスとASEANに関してトランプ政権がとった対応といえば、3月にラスベガスでの開催が予定されていた米ASEAN特別首脳会議を延期したことだけであったi。2019年11月にバンコクで開催された東アジア首脳会議(EAS)にトランプ大統領が出席しなかったことの「埋め合わせとして計画され、ASEAN各国首脳が招待されていた会議は、今回お流れとなった。アメリカはまたもやASEAN(と中国)に対してその存在感を示す機会を逸したのみか、図らずもASEANへの政治的無関心を再度露呈する結果となった。
 中国は、自国内から東南アジアへ感染が拡大したという意味で、自らがウイルス禍の「原因」となったにもかかわらず、これを奇貨として、逆にその豊富な外交的・政治的資源を活用し、ASEANに対する影響力を誇示した。「一帯一路」対「自由で開かれたインド太平洋」、貿易戦争、次世代通信技術をめぐる覇権争い等、東南アジア地域においても米中対立と影響力競争が先鋭化しているが、ASEANの人々の認識としては、ASEANに対して最も政治的、経済的、戦略的に影響力を持つ国は、今やアメリカではなく中国であるi。今回のウイルス禍でもまたもや中国がASEANにおける存在感を示し、アメリカの存在感は希薄な印象をASEANに与える結果となった。オバマ政権時のアメリカは中国に対し、国際社会における「責任あるステークホルダー」になるよう迫ったが、アメリカに言われずとも中国は今回、ASEANにおいて「責任あるステークホルダー」としてふるまった。

(本稿の見解は筆者個人のものであり、所属組織の公式見解ではない)

(2020/03/19)

*この論考は英語でもお読みいただけます。
The Security and Diplomatic Dimensions of COVID-19: The View from ASEAN