前稿において、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の拡大に対して日本と同様に非強制措置によって対応している韓国とスウェーデンの例を概観した[1]。本稿においては、これら両国との比較から、日本の非強制措置による対応を考察する。
(1)日本の緊急事態法制の特徴
スウェーデン・韓国と同じ「非強制措置」を選択した日本であるが、その法制度と歴史は大きく異なる。本来、三権分立の建前から、法律は立法府によって制定されるべきものである[2]。特に、国民の私権に係る事項については、そのことが強く要求される。しかし、諸外国では韓国、スウェーデンを含め[3]、緊急事態に際して行政府が法律の制定や命令を発令して私権を制限することを認めており、そこでは事態の性質による区別を設けていないことが一般的である。これに対して、現在の日本の法制度にはそうした政府の権限は認められていない。
現在の日本の法制度では、今回改正された①「新型インフルエンザ等対策特別措置法」の「新型インフルエンザ等緊急事態」以外に、② 災害対策基本法 に「災害緊急事態」、 ③ 「原子力災害対策特別措置法」に「原子力緊急事態」、④「武力攻撃事態等及び存立危機事態法・国民保護法」に「緊急対処事態」が、それぞれ定められているが[4]、これらの規定から、日本の緊急事態法制の3つの特徴を見ることができる。
第1には、緊急事態への対応が諸外国のように事態を特定せず一般的に適用できるのではなく、それぞれの事態の性質によって緊急事態を分化させていることである。したがって、今回のCOVID-19のケースにおいても、既存の法体系に規定が無かったため、新たな法改正なしには強制措置はとれなかった。このような制度設計は、公権力が関与できる事態を明確にすることで濫用を防止し、国民の私権の保障を確実にしようとすることを意味している。
第2に、緊急事態に関わる法整備は、基本的に、現実に事態が生起しなければ法整備はされていないことである。これは、予測や想定を理由にした政府の恣意的な立法によって私権が不当に制限されることを防止するという意味がある。以下に緊急事態を規定した上記各法律の制定経緯を示す。
①「新型インフルエンザ等対策特別措置法」は2009年のH1N1亜型インフルエンザウイルスへの対応で混乱した反省と、2012年に東南アジア等でH5N1型鳥インフルエンザが発生したことを踏まえ、2012年に制定され、今回のCOVID-19に際しても改正されている。
② 「災害対策基本法」は、1959年に生起した伊勢湾台風が契機となって制定され、その後、1995年の阪神淡路大震災、2011年の東日本大震災など、既存の規定では対応できない事態が起きるごとに改正が繰り返されている。
③「原子力災害特別措置法」は、現実に1999年の東海村での核燃料加工会社ジェー・シー・オー(JCO)の臨界事故が起こるまで制定されることはなかった。日本で最初の原子力発電が行われたのは1963年に東海村に建設された動力試験炉であり、唯一の被爆国である日本は原子力の危険性については身をもって経験しているにも関わらずである。このように「緊急事態」における対応であっても、国の権限が及ぶ法律は、現実に生起した事態で問題点が明らかにならなければ整備されないという典型例である。
④「武力攻撃事態等及び存立危機事態法・国民保護法」[5]は唯一の例外である。この法律は、「武力攻撃事態対処法」として日本が武力攻撃を受けた場合(武力攻撃事態)を想定した法律だが、これは実際に生起したことを受けての法制化ではない。しかし2003年にこの法律の成立前には、日本周辺での北朝鮮による度重なるミサイル発射実験、という目に見える脅威が国民に認識されていた。一方で、北朝鮮の工作船事案、9.11米国同時多発テロという現実の脅威が生起したことを受けて、武力攻撃以外のテロやゲリラ攻撃への対応のために「武力攻撃事態」とは別に「緊急対処事態」の規定が設けられた。
第3には、一部の例外を除いて、個人の私権については強制力のない「要請」、「指示」に留まることである。上記の② ③ ④には、直接人命にかかわることから設定された「警戒区域」への立入禁止や退去命令に従わない場合の罰則を設けているほかは、諸外国に見られるような、いわゆる罰則を伴う都市封鎖や外出制限などによって一般的に国民の行動を著しく制限する規定は置いていない。今回の①「新型インフルエンザ等対策特別措置法」においても、物資の保管や立入検査に関連した罰則を設けているほかは、都市封鎖に象徴されるような移動の自由等の個人の権利にかかわる制限規定はない。
これらの日本の緊急事態に関わる法制度の特徴は、1925年に成立し、戦時下で濫用された「治安維持法」に代表される緊急事態下での政府による人権侵害への不信感が、現在も国民の間に根強く残っていることが背景にある。この国民意識は、現在の憲法改正論議における緊急事態条項への国民の根強い反対からもうかがえる。歴代の政権は国内の政治的な抵抗の大きさを考慮し、緊急事態についても、事態の分化、事後的な法整備、謙抑的な罰則の設定といった形で、国の権限を最小限にとどめる政策を維持している[6]。
(2) 歴史的、制度的な背景
上記のような日本政府の政策姿勢のルーツは戦後の民主化の過程に見ることができる。占領期にマッカーサー率いる連合軍最高司令部(GHQ)の主導の下で進められた日本の民主化は、新憲法の制定による人権保障にはじまり、警察や地方自治の制度改革などによって、戦前の中央集権的な統治システムが改められた。これは、戦前の反省から、中央政府の権限を縮小させ、地方自治体の権限を強めることによって個人の人権を保障しようとするものであった[7]。今回の緊急事態宣言に基づく「措置」が都道府県知事に委ねられているのも、1947年に日本国憲法とともに施行された地方自治法による地方自治制度の改革が行われたことによる[8]。
新憲法においては、旧憲法下で認められていた緊急事態における法律によらない行政府の命令権は削除されている。この点について、当時の担当大臣は、1946年の帝国議会下の憲法改正草案の審議において次のように説明している[9]。
緊急勅令などは行政当局者にとっては実に調法なものではあるが、民主政治を徹底させて国民の権利を十分擁護するためには、そのような政府一存において行う処置は、極力これを防止しなければならない。いわば行政権の自由判断の余地をできるだけ少なくすべきである。実際の特殊な場合に応じる具体的に必要な規定は平素から乱用のないような形で準備するように規定を完備しておくことが適当である。明治憲法にはそうした用意はあったが、実際にその様な手段が明白に用いられたことはなかった。したがって、新しい憲法においては、むしろ自由保障の安全を期した。
しかも現実には、先に述べたように予想・想定される緊急事態に応じるために「平素から準備するように規定を完備しておく」ことも、2003年の武力攻撃事態等対処法以前には成されず、現実に生起した事態の問題点にのみ対応するという態度が定着し、維持されてきた。
また、緊急事態に強制措置を設けないことについては、安倍首相は、日本では罰則規定がないため、多くの国民が要請を守らないのではないかという質問に、「こういう時に罰則規定をもうけないのが、戦後日本の体制である。それをやると圧政ということになる」と答えている[10]。このことは、先に例示した「緊急事態」にかかわる法律がすべて「非強制措置」を前提として整備されてきたように、非強制政策が戦後一貫した政治方針として連綿と継承されていることを示している。
(3)日本の非強制措置への評価と今後の課題
世界の多くの国が、強制措置を伴う感染封じ込め策を取り始めた頃、日本はウイルスの検査数の少なさと相まって、非強制措置について、欧米の主要メディアから、ニューヨークやイタリアの様に感染者が急増するリスクが懸念された[11]。日本はウイルス検査の数が少ないので他国と単純比較はできないが、少なくとも死者数は欧米各国に比べて極めて低い数字となっている(以下の表参照)。
[人口10万人当たりの国別感染者数と死者数]
国 名 | 日本 | アメリカ | イギリス | イタリア | フランス | ドイツ | スウェーデン | 中 国 | 韓 国 | 台 湾 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
感染者 | 13人 | 464人 | 370人 | 374人 | 278人 | 213人 | 307人 | 6人 | 21人 | 2人 |
死 者 | 0.6人 | 28人 | 52人 | 53人 | 12人 | 10人 | 37人 | 0.3人 | 0.5人 | 0.02人 |
国連の人口統計とジョンズホプキンス大学のデータをもとに筆者作成(数字は2020年5月20日時点での約数)[12]。
この数字は、日本の非強制措置が、強制措置を取っている他国より効果的であった可能性を示唆している。これに対して、5月14日付のフォーリンポリシー誌の記事は、日本は低い検査率や中途半端な社会的距離(ソ―シャルディスタンス)の確保にもかかわらず、結果的には世界で最も死亡率を低く抑えた国の一つであり、奇妙にもうまくいっていると指摘し、「単に幸運だったのか、政策が良かったのかを知ることは難しい」という率直な疑問を投げかけている[13]。
現時点でこの疑問に答えることは簡単ではない。日本の死者が少ない理由が不明なままでは他国へのモデルとはならないため、今後の検証が必要である。これを前提に、日本の「法制度」と「幸運な結果」から示唆される教訓は二つある。
第一に、日本では、深刻な被害が想定されたとしても、実際に被害が起こるまでは、私権制限のハードルが高く法制化が容易にはなされない国会と政府の態度が続いていることである。今後のCOVID-19の第二波の可能性、あるいは長期的なパンデミック対策を考えれば、今回の「幸運な結果」により、法整備の遅れが続いた結果、感染拡大に十分な対処ができずに被害が拡大するリスクへの備えも必要ではないか。そもそも、世界でも成功例の台湾や韓国に比べて、日本の対策が遅れたのは、過去のSARS、MARSの感染拡大において、深刻な被害がなかったからといわれており、今回の教訓をどう活かすかが試される。
第二に、中国政府が喧伝するような、私権を制限できない民主主義国は感染症に効果的に対応できない、という議論に対して、日本の例が一つの反例となる可能性である[14]。例えば、日本では風邪やインフルエンザ予防にマスクを着用することは一般化しているが、今回のパンデミック初期の欧米では拒否反応が強かった。しかし、現在では世界中でマスクの着用が定着し、義務化された国もある[15]。こうした個人の衛生意識と行動が感染者数の拡大防止に寄与している検証がなされれば、私権を奪う強制措置よりも、個人の衛生教育と啓蒙の方が効果的という例を示すことができる。そのためにも、今後継続してCOVID-19感染予防の成果を上げることと、医学的・疫学的な検証が重要なことはいうまでもない。
(2020/5/25)
脚注
- 1 拙稿「日本の緊急事態対処における非強制措置の是非を考える(前編)—非強制措置を採用する韓国とスウェーデンの例」笹川平和財団『国際情報ネットワーク分析 IINA』。
- 2 日本国憲法も、第41条に国会を「国の唯一の立法機関」と定めている。
- 3 韓国の私権制限に関わる法制度については、(前編)注12、李桂洙(徐勝 訳)「韓国の軍事法と治安法:軍事と治安の錯綜と民軍関係の顛倒」『立命館法学285号』、2002年、385‐389頁を参照。スウェーデンは、統治法第8章第1~3条において、政府が議会の授権により「罰金以外の犯罪」などを除き、私権を制限する法令の制定を認めている、山岡規雄「各国憲法集(1)スウェーデン憲法」国立国会図書館調査及び立法考査局『基本情報シリーズ⑦』、2012年1月、38頁。
- 4 これらのほかに、憲法に規定する参議院の「緊急集会」、国家安全保障会議設置法に「重大緊急事態」、警察法に「緊急事態」、消防組織法に「非常事態」の規定があるが、いずれも国民の私権に直接影響を及ぼすものではない。
- 5 2003年、「武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律」として成立し、2015年の安全保障法制の整備によって改正され、「存立危機事態」に関する内容が追加された。
- 6 米・英・独・伊など欧米各国では、日本と同様に先の大戦において、総力戦の中で国民は大きな犠牲を払ったが、現在も緊急事態に際して政府に大きな権限を認めることに寛容である。そのよい例が、9.11米国同時多発テロ後の各国のテロ対策法制の整備である。9.11とそれに続く国内での連続テロ事件の発生を受けて、各国はテロリストの検挙のために、令状のない拘束や家宅捜索、通信傍受など捜査・情報機関に大幅な権限を認める法整備を行った。これに対して日本では、その様な警察権限の強化につながる法整備は行われず、罰則の追加と警察官の増員や警察特殊部隊の強化などの運用の範囲にとどまっている。詳細は以下を参照。森山高根ほか『主要国における緊急事態への対処 総合調査報告書』国立国会図書館調査及び立法考査局、2003年6月、72‐135頁;坪郷實、高橋進「 9.11 事件以後における国内政治の変動と市民社会―ドイツとイタリアの比較を中心に」『日本比較政治学会年報 第9 号』、2007年、25-51頁。
- 7 紙野健二「憲法と地方自治の70年」自治体問題研究所『住民と自治』、2017年9月号(8月15日発行)。
- 8 総務省「地方自治制度の歴史」。
- 9 金森徳次郎国務大臣『第90回帝国議会衆議院 帝国憲法改正案委員会議録(速記)第13回』、1946年7月15日、240頁。
- 10 田原総一朗「緊急事態宣言発令後に、安倍首相に会って僕が確かめたこと」田原総一朗公式サイト、2020年4月14日。
- 11
Simon Denyer, “Japan opts for emergency but ‘no lockdown,’ keeping its eye on the economy,” The Washington Post, April 7, 2020.
Rupert Wingfield-Hayes, “Coronavirus: Japan's low testing rate raises questions,” BBC.
Motoko Rich and Hisako Ueno “Japan’s Virus Success Has Puzzled the World. Is Its Luck Running Out?” The New York Times, March 26, 2020. - 12 “Total Population - Both Sexes (excel files-22019),” World Population Prospects 2019, Online Edition. Rev.1., UN Population Division Department of Economic and Social Affairs, August 2020. ”COVID-19 Dashboard by the Center for Systems Science and Engineering (CSSE) at Johns Hopkins University (JHU)”, Johns Hopkins University, Coronavirus Resource Center.(2020年5月20日アクセス)。
- 13 William Sposato “Japan’s Halfhearted Coronavirus Measures Are Working Anyway,” Foreign Policy, May 14, 2020.
- 14 CNNの元プロデューサー兼記者でコラムニストのフリダ・ギティスは、民主主義の立場から台湾や韓国の例を挙げて、中国の主張に鋭い批判を展開している。Frida Ghitis, “Public health does not require tyranny,” CNN, March 21, 2020.
- 15 国立病院機構東京病院呼吸器センターの永井英明医師は、「日本や韓国、シンガポール、香港などマスクをする文化がある国は、マスクをする文化のないイタリアやスペイン、アメリカより感染率が低いということを報じているウェブサイトもある」ことを紹介している。鈴木理香子 「「マスクは無意味」の議論にもう意味がない理由」『東洋経済Online』、2020年4月5日。