衛星量子暗号通信への挑戦

 6月29日、宇宙開発戦略本部における訓示の中で、安倍総理は、日本として宇宙という新たなフロンティアに対して果敢に挑戦するとした上で、宇宙安全保障や経済成長の観点から、我が国が強みを持つ「衛星量子暗号通信」を次世代の戦略分野として、国として大胆に投資して行くことを明らかにした[1]。しかし、この衛星量子暗号の技術に関し、世界で実用化へ一歩先んじているのは中国である。中国は、宇宙空間において、2016年8月に量子科学実験衛星「墨子号」を打ち上げ、2017年9月には北京・ウィーン間で、世界で初めてとなる大陸間量子暗号による通信動画、通話を実現させた。そして、2020年1月末には、この墨子号と地上側ネットワークの受信基地となる量子衛星地上ステーションとの連接に成功している[2]。

 この結果、中国は、北京と上海を結ぶ世界最長の量子通信ケーブルを用いた「京滬(けいこ)幹線」と呼ばれる地上暗号通信ネットワークと墨子号によって宇宙・地上リンクを実現させることで、宇宙・地上一体型の「量子暗号鍵」[3]の通信を成功に導いている。既に中国は、一帯一路イニシアティブの一環として、インド洋、ペルシャ湾、欧州に接続する社会基盤を整備するばかりでなく、宇宙からも、中国独自の衛星ナビゲーションシステム「北斗」のサービス提供や将来的な量子暗号システムの域内敷衍を通じて[4]、中国の政治的影響力を拡大させようとしている[5]。そして、最終的には、一帯一路を受け入れる国々において、それらの技術を定着させ、行政、金融、教育などの面での利便性と安全性を提供することを通じて、デジタル技術領域における、排他的な囲い込みを推し進めるように見える。

衛星量子暗号通信への挑戦

量子技術間の相克

 このように量子暗号が注目を集める背景には、現在の暗号システムが、量子技術の急速な実装化によって安全性が保たれなくなり、結果的に容易に解読されてしまうことになるという「危殆化」への懸念がある。事実、世界各国において、量子コンピュータへの投資や研究開発が増大、加速化している中で、現在のコンピュータの性能では解読は不可能とされていた現行の公開鍵(RSA)暗号[6]が、2030年頃までに技術的に解読されかねないという指摘もある[7]。

 これまで、公開鍵暗号は、既存のコンピュータではその解読に非現実的な時間を要することから、暗号強度の上で、盗聴者に対して優位性を有していたが、超高速、超並列情報処理に優れる量子コンピュータの登場[8]により、その優越性が一気に水泡に帰すことになりかねない。そのような変化の中で、暗号強度をより高める必要性が生じ、結果として、新たな耐量子計算機暗号(Post-Quantum Cryptography:PQC)導入の検討が急がれている。そして、量子コンピュータを用いても解読が難しい耐量子計算機暗号に加えて、従来の暗号のように式の計算や数字の置き換えによって情報を隠すのでは無く、量子力学という物理法則の原理により通信途中での盗聴を完全に防ぐ[9]量子暗号への期待も高まっている。

 その背景には、暗号強度を高めるために鍵のビット数を増す数理暗号とは異なり、物理暗号である量子暗号は、量子特性を活かして、攻撃があった場合にその攻撃の事実を感知し、攻撃を受けたと判断した場合は新たな量子暗号データを繰り返し送信し続ける方式を取ることで、不適切な盗聴に係る脆弱性に対して極めて高いレジリエンシーを備えているという事実がある。

量子技術間の相克

多層ネットワークシステムへの進化

 2020年2月、情報通信研究機構(National Institute of Information and Communications Technology:NICT)は、情報通信技術(ICT)の急速な進歩と近年の衛星通信の高速大容量化や低コスト化を背景に、5Gの次の世代(Beyond 5G)の通信技術を効率的に衛星系へ適用することによって、宇宙から地上までが多層的に接続されるネットワークが実現されるという検討結果を公表した[10]。そこでは、(無人)航空機または衛星等の宇宙機を中継器または基地局として活用しながら、衛星5G連携によって異なる通信ネットワークをシームレスに統合する通信網「非地上系多層ネットワークシステム」構想が打ち出されている。

 米国においても、宇宙開発庁(Space Development Agency: SDA)によって、低軌道から深宇宙までを視野に入れた多層的な宇宙安全保障システム「宇宙センサー層(Space Sensor Layer : SSL)」実現に向けての努力が始まっている。このSSLは、通信・偵察、ミサイル追尾、宇宙状況監視(Space Situational Awareness:SSA)の個別機能を一つの宇宙空間アーキテクチャー(構造)に統合し、7つの小型の衛星コンステレーション(Satellite constellation)[11]で具現化する計画に基づいている。この計画が実現すれば、宇宙空間での高速通信ネットワーク、多層的な戦闘管理、極超音速滑空兵器(Hypersonic Glide Vehicle :HGV)[12]などの全地球的な検知・追跡・警報、GPS機能喪失時の代替、深宇宙空間での脅威対処などの諸機能が有機的に連接され、多層的な統合防衛システムが実現するであろう[13]。特に、指揮統制(C2)面では、SSLの追跡層やレーダーセンサー層が宇宙センサーから取得した各種運用データを、データ伝送(Data Transport)衛星を中継して、地上の戦術データリンクへと接続送信することで、そのリンク下にある陸海空の兵士や装備品との間で、戦域レベルの同時並行的なデータ共有が実現される見込みである[14]。

ハイブリッドな暗号通信システムの必要性

 これらの統合的な衛星通信ネットワークの可能性が増大する中で、衛星システム自体がこの多層ネットワークの中心となり、低軌道化の方向に向かうことは、衛星攻撃兵器(Anti-satellite weapon:ASAT)のようなキネティックな攻撃のみならず、盗聴によるデータ漏洩や、衛星自体への妨害、乗っ取りなど、宇宙システムが攻撃リスクに直接晒されることを意味する。また、将来、この多層ネットワークシステムでは、将来の宇宙空間を軸とする新たな情報通信ネットワーク構築や複数の衛星コンステレーションの出現に伴って、宇宙から地上までのシステム構成アセットの増加によってシステムへの連接点が多くなることで、サイバー攻撃の脅威に対しても脆弱性が増える可能性を考慮しなければならない。

 そうなれば、宇宙空間において共有されるべき情報データを高速かつ同時に伝達するシステム整備が急務となり、データ安全性確保の点から、そのシステム特性に応じた包括的な暗号システム構築が、併せて必要となる。その際には、空間特性や多接続性の観点から、単独の暗号技術だけに依存するのではなく、その必要性と合理性を判断した上で、無条件安全性を有する量子暗号、大容量化が可能な物理レイヤー暗号、そして現有の現代暗号、これらを有機的に組み合わせる多層的なハイブリッド暗号システムを構築することが望ましい。

 例えば、伝送速度は求められないものの高度の秘匿性が求められる情報データの共有については量子暗号を、衛星コンステレーションの相互間、また宇宙空間の人工衛星を基点とする陸海空データリンクへの情報共有については物理レイヤー暗号を、更に耐量子計算機暗号の強度までは求められない運用データについては現代暗号を、対象個々の特性に応じて使い分ける柔軟性が求められるであろう。特に、物理レイヤー暗号については、高度な耐量子計算機暗号でありながら、多層ネットワークシステムのデータ中継器ともなり得るドローンや無人機等とのデータ共有における親和性が有り、将来の宇宙安全保障の中核となる可能性がある。その多層ハイブリッド暗号システムは、量子暗号の技術的進歩に応じる拡張性や能力向上の潜在的可能性を有し、将来の脅威変化にも対応し得る柔軟性と堅牢性を併せ持つことが期待される。

 しかしながら、現在、その開発のための人員、時間、予算など開発関連の課題の解決にはまだ道は遠く、宇宙システムの任務保証の点から迅速かつ確実な対応が一層求められる中で、日本として、安全保障上の視点から速やかに同盟国・友好国との多国間協力態勢を追求すべきである。

ハイブリッドな暗号通信システムの必要性

多国間暗号協力への道 – Five Eyes plus

 6月22日、ファイブアイズ(Five Eyes)国防相会合の開催後、共通の安全保障を強化する旨の公式宣言が発出された。その中で、安定したルールに基づく世界秩序の防衛コミットメントを再確認すると共に、ファイブアイズのパートナーとの関係強化を図るための議論を行ったことが明らかにされている[15]。このファイブアイズは、米、英、加、豪、NZの5カ国から構成され、構成国間の相互監視を行わないというお互いの信頼関係の上に、情報の共有、特に電子的な通信の監視結果を多国間で共有する枠組みとされる[16]。しかし現在、ファイブアイズは、コロナ感染症の経済的課題について話し合うなど[17]、経済・技術的な点でもその存在感を増している。事実、ファイブアイズは、第2次大戦中の暗号解読の協力を起源とする、文化的、言語的、及び経済的な強い親和性を有した共同体であるものの[18]、近年、北朝鮮の弾道ミサイル開発などを契機として、この枠組みを維持したまま、パートナー国との協力関係を強化しようというファイブアイズ・プラス(Five Eyes plus)という動きを見せている。

 日本も、そのパートナー国として位置付けられるのであれば、全ての情報共有については期待し得ないものの、量子暗号も含む先進技術に係る関係強化の枠組みとして、その価値共同体を活用することを期待し得るのではないだろうか[19]。現在、ファイブアイズ自体が、中国の力による現状変更を試みる動きに対して「自由の砦」として対峙する中[20]、量子関連技術においても国際標準化を狙う中国への対応策として、共通の価値観を有する日本が、ファイブアイズ・プラスという形で、高度な先進技術協力に踏み出す意義は非常に大きいであろう。

 宇宙空間という国際公共財の防衛を万全のものとするためにも、価値観を共有し得るファイブアイズとの多層ハイブリッド暗号システム構築を通じた安全保障上の関係強化は、相互に重要な意義を有すると考える次第である。

(2020/08/07)

*この論考は英語でもお読みいただけます。
Challenges to Quantum Cryptography in Space and Japan’s Road to Cooperation with Five Eyes

脚注

  1. 1 首相官邸「宇宙開発戦略本部」2020年6月29日。
  2. 2 「世界初の移動可能量子衛星地上ステーション、『墨子号』との連結に」国立研究開発法人科学技術振興機構『Science Portal China』2020年01月02日。
  3. 3 パスワードやメッセージの暗号化に利用可能な暗号を指す。
  4. 4 Sabena Siddiqui, ”BRI, BeiDou and the Digital Silk Road,” Asia Times, April 10, 2019.
  5. 5 Adam Segal,” When China Rules the Web Technology in Service of the State,” Foreign Affairs, September/October 2018.
  6. 6 代表的な公開鍵暗号の一種で、この暗号を考案した Rivest (リベスト),Shamir (シャミル),Adleman (エイドルマン)の三人の名前の頭文字をとって、RSA暗号と名付けられた。
  7. 7 Lily Chen, Stephen Jordan, Yi-Kai Liu, Dustin Moody, Rene Peralta, Ray Perlner, Daniel Smith-Tone, NISTIR 8105: Report on Post-Quantum Cryptography, U.S. Department of Commerce, National Institute of Standards and Technology, April 2016, p.6.
  8. 8 量子コンピュータが、既存のコンピュータと原理的にどのように異なるかについて理解しやすい参考資料として以下の記事を紹介したい。「分かる 教えたくなる量子コンピュータ」『日本経済新聞電子版』2020年6月24日公開、7月29日更新。
  9. 9 後藤仁「量子暗号通信の仕組みと開発動向」日本銀行金融研究所『金融研究』第28巻第3号、2009年10月、108頁。
  10. 10 国立研究開発法人情報通信研究機構「衛星通信と5G/Beyond 5Gの連携に関する検討会報告書公開」2020年2月14日。
  11. 11 コンステレーションとは、「もともと『星座』を意味する言葉であるが、人工衛星の分野では全地球規模で人工衛星を多数機配置したシステムを指す。」齋藤宏文「宇宙研発、小型レーダ衛星の多数機コンステレーション」JAXA宇宙科学研究所、2019年2月26日
  12. 12 大気圏内及び直上をマッハ5以上で機動し、滑空する飛行体を指す。U.S. Department of Defense, 2019 Missile Defense Review, March 2019.
  13. 13 U.S. The Space Development Agency, SDA, ”About us”
  14. 14 エスパー米国防長官は、各軍に対して、将来の領域横断作戦に備えて、独自の指揮統制システムを、宇宙開発庁が開発を進めるデータ輸送衛星に連接するよう命じたと報じられている。Theresa Hitchens,” Esper Orders SDA To Link C2 Networks For All-Domain Ops,” Defense News, May 6, 2020.
  15. 15 U.S. Department of Defense, “Immediate Release: Joint Statement: Five Eyes Defense Ministers’ Meeting,” June 22, 2020.
  16. 16 Margaret Warner, “An exclusive club: The 5 countries that don’t spy on each other,” PBS News Hour, October 25, 2013.
  17. 17 ”Media Release: Joint call of Finance Ministers: COVID-19,” Josh Frydenberg, Treasurer of the Commonwealth of Australia website, June 19, 2020.
  18. 18 Ana Stuparu, “The eyes that are always watching and the price of the club: Australia in the Five Eyes alliance,” The University of Nottingham's Asia Research Institute, March 31, 2017.
  19. 19 Tom Keelan,” How the Five Eyes can win the race for quantum computing supremacy,” C4ISRNET, June 18, 2018.
  20. 20 Angela Dewan,” US allies once seemed cowed by China. Now they're responding with rare coordination,” CNN, July 15, 2020.