2022年8月29日夜から30日にかけて、バグダードの官庁地区(グリーン・ゾーン)で、シーア派の有力指導者ムクタダ・サドル師の支持者(以下、「サドル派」と表記する)と、親イランのシーア派勢力、治安部隊との武力衝突が発生した。2003年にスンニー派のサッダーム・フセイン政権が打倒されて以降、多民族・多宗教からなるイラク[1]では、クルド民族の分離独立の動き、スンニー派の「イスラム国」(IS)による領土の一部占拠などの大きな危機が続いた。しかし、公的機関のポストを予めスンニー派勢力、シーア派勢力、クルド勢力に定数配分する「権力分有型」の政治システムにより、国内の宗教・民族間の均衡をはかることで、国家の枠組みは現在まで維持されてきた。

 今回の騒乱事件は、イラク内の最大勢力であるシーア派内の勢力争いである。その背後にはイランとの関係があると考えられる。こうした背景からすると、イラク政治の混迷の解消は当面難しいといえるだろう。そのイラクは、日量417万バーレル(2021年5月)の石油生産能力を有し、天然ガス確認埋蔵量も約125兆立法フィートで世界11位というエネルギー大国であり、同国の政治動向は今後のエネルギー市場にも影響を与えると考えられる。

政権樹立失敗後のサドル師の駆け引き

 イラクでは、2021年10月に議会選挙が実施され(定数329議席)、サドル師が率いる政党「サドル潮流」が73議席を獲得し、第1党になった。しかし、単独過半数には及ばず、スンニー派アラブの政党やクルド人の政党との連立政権樹立を模索した。一方、サドル潮流以外のシーア派勢力は連携して政治連合「調整枠組み」を形成、サドル潮流の連立政権樹立の阻止に動いた。その結果、サドル潮流は首相の擁立に失敗し、イラクの政治は混迷した。

 この局面を打開するため、サドル師は、6月12日にサドル潮流の73人に議員辞職を呼び掛けて全員を辞職させ、再選挙の道を開こうとした。しかし、他の議員は、その空席を先の議会選挙の次点候補者による繰り上げ当選で埋めた。これにより国会内の勢力は変化し、7月25日、マリキ元首相につながるシーア派のムハンマド・スダニ元人権相が首相候補に指名された。これに対し、サドル師とサドル派は、スダニ政権の誕生を阻止すべく抵抗活動をはじめた。

 この抵抗活動にともなう政治状況は、大きく2つの時期に分けられる。前期は、7月27日、サドル派のデモ隊が国会に乱入し、1時間余り占拠したことにはじまる。デモ隊は、同月30日、再び国会に乱入し治安部隊と衝突、翌31日から国会での無期限の座り込みを開始した。こうしたサドル派の行動に対し、カディミ暫定首相は、全政党の代表者による委員会の設置を呼び掛けた。一方、8月1日、反サドル派のシーア派グループの一部は、国会に続く大通りで集会を開き、対抗の意思を表明した。この時のシーア派同士の対立では、緊張感は高まったものの、双方とも暴力的な行為は抑制されており、イラク内のシーア派勢力の一体性を保とうとする意識が見受けられた。

 その後、8月3日、サドル師はテレビ演説で、国会の解散及び選挙の早期実施を要求し、その達成に向けて抵抗活動の継続を呼び掛け、8月10日には、司法当局に対し国会解散を要請している。この要請に対し、8月14日、イラク最高司法評議会は、司法には立法、行政に介入する権限はないとの見解を示した。8月23日、サドル派は、この見解を不満として最高司法評議会前での座り込みを実施したため、同日、最高司法評議会は司法業務の停止を発表した。国会の占拠、司法業務の一時停止という事態を受け、カディミ暫定首相は、エジプトで開催されていたUAE、バハレーン、ヨルダン、エジプトとの首脳会合を中座して、23日に帰国し、国民対話を呼び掛けた。しかし、状況は急変する。

サドル師による影響力の顕示

 後期は、8月29日、サドル師が、ツイッターで「私は政治的な問題に干渉しないと決めていたが、ただ今、最終的な引退、及びすべての(サドル派の)機関の閉鎖を発表する」との声明を出した[2]ことにはじまる。

 同日、サドル師のこの決断を知ったサドル派の人びとは、不満の矛先を政府や対立する親イランのシーア派勢力に向けた。サドル派は、バグダードで政府機関や首相府などを襲撃し、治安部隊との間や親イラン・シーア派との間で武力衝突に発展した[3]。この騒乱は地方にも広がり、南部バスラのマジュヌーン油田と製油所が包囲され[4]、ヒラー市、ナシリヤ市をはじめ各地で政府庁舎への乱入などが起きた[5]。

 この事態を受け、カディミ暫定首相は、サドル師に対し、サドル派に政府機関からの撤収を呼び掛けるよう求めた。また、イラク軍は、全土に午後7時以降の外出禁止令を出した[6]。翌8月30日、サドル師は記者会見を開き、暴力行為を非難するとともに、支持者に政府機関からの退去を要請した。事態は鎮静化に向かい、政府も夜間外出禁止令を解除した[7]。しかし、9月1日にバスラで親イラン派勢力の拠点が襲撃され、4人が死亡する事件が起きるなど、シーア派内の武力衝突の火種はくすぶり続けている。

サドル師の引退発表の背景:ハエリ師の影響とイランファクター

 2021年10月の議会選挙から、サドル師の政治引退発表までの10カ月間、同師は、「国民多数派政府」樹立の失敗、早期再選挙実施の失敗など、具体的な成果は得られていない。しかし、ポピュリストといわれるサドル師は、マリキ元首相ら親イラン勢力との争いでは、①親イラン民兵組織[8]の政治的影響力の排除、②アラブ・スンニー派やクルド民主党(KDP)との連携[9]、を掲げ、有権者の賛同を得ることに努めてきた。同師の主張は、外国勢力の排除、権力分有型政治の改革であり、現行のイラク政治の構造自体の変更を迫るものである。しかし、その政策を実現する難しさは、サドル師が政治からの引退を発表したことからもうかがえる。

 サドル師は政敵との差別化を意識してか、とりわけイランの影響力の排除を主張してきた。この点をたしなめたのが、イランのコム在住の大アヤトラ[10]のカゼム・ハエリ師である。ハエリ師は、サドル師やサドル派の精神的指導者であり、イスラム主義運動の思想家バーキル・サドル師の弟子として、イスラム主義運動「アル・ダアワ党」で活動していた。その後、イラクのバアス党政権が同党への弾圧を強めたため、1979年にイランに亡命、ダアワ党の最高幹部として同党を指導した。1988年に同党での活動を止めた後はイスラム法学者の育成や執筆活動に専念しており、その学術的名声は、イラク、イランでも極めて高い[11]。

 そのハエリ師が、8月29日、宗教職を辞すと発表した。その際、同師が語った中で注目すべき点は、イランの最高指導者ハーメネイ師を支持するよう自らの信奉者に求めたことである[12]。そのことで、同師は、イラクの政治的安定にはイスラム主義とイランが欠かせないとの考えを示したといえるだろう。これは、イランの影響力排除を主張するサドル師にとっては大打撃であり、同師の政界引退声明の誘因となったとの指摘もある[13]。

 イラクとイランは、宗教的結びつきだけでなく、近年、軍事面ではイランの革命防衛隊とイラクのシーア派民兵組織「人民動員隊」とが協力して「イスラム国」との戦いに当たり、経済面では2017年からイランがイラクの発電用天然ガスを供給するなど、多元的に関係を深めてきた。そのことで、イラク政治へのイランの影響力も強まっていった。イラクの政治的安定化には、サドル師が主張するように、こうしたイランとの関係を見直す必要があるだろう。しかし、性急に状況を変えようとすれば、国内の政治的亀裂が深まり、かえってイラクの不安定化を招くことが今回の騒乱で明らかになった。

 今回の出来事から、サドル師は、イラクの未来を構想する際にはイランとのつながりを軽視してはいけないという教訓を得たといえる。それは、イランを脅威ととらえ、同国の核開発の阻止、シーア派三日月地帯の分断をはかろうとする湾岸アラブ諸国やイスラエル、クルディスタン地域の自治強化を目論むアメリカなどの国々にとっても一つの教訓になったのではないか。

(2022/09/09)

脚注

  1. 1 イラクの人口の約8割はアラブ人、約2割はクルド人、トルクメン人をはじめ5%程度がその他の民族とされる。また、95%以上はイスラム教徒で、その内、シーア派は約6割、スンニー派は約3割とされる。わずかだが、キリスト教徒(1%)、その他の宗教の信者(1~4%)もいる。Central Intelligence Agency, “Iraq,” The World Factbook, 2022.
  2. 2 Raffi Berg , “Buildings stormed after Moqtada al-Sadr, Iraqi political leader, retires,” BBC News, August 30, 2022.
  3. 3 死者30人、負傷者数百人という惨事となった。なお、隣国であるイランは国境の一時封鎖する措置をとった。“Supporters of Iraq’s al-Sadr leave Green Zone after violence,” Al Jazeera, August 30, 2022.
  4. 4 Rowena Edwards and Maha El Dahan, “Iraq oil exports unaffected by political turmoil – sources,” Reuters, August 30, 2022.
  5. 5 Suadad al-Salhy, “Baghdad rocked by deadly clashes as Sadrist protests spread to south Iraq,” Middle East Eye, August 30, 2022.
  6. 6 Mohammed Tawfeeq, Aqeel Najim and Ivana Kottasová, “At least 10 killed in clashes in Baghdad's Green Zone after powerful cleric announces withdrawal from politics,” CNN, August 30, 2022.
  7. 7 “Iraq security forces lift nation-wide curfew, state news agency says,” Reuters, August 30, 2022.
  8. 8 ハディ・アミリ氏をリーダーとする「ファタハ連合」やカイス・カザリ氏が率いる「アサイブ・アル・ハック」などがある。Alex MacDonald, “Who are the main players in Iraq's political crisis?,” Middle East Eye, August 19, 2022.
  9. 9 アラブ・スンニー派については、国会議長に再任したハルブーシ氏、クルド民主党については、マスード・バルザニ党首(2017年までクルディスタン自治政府議長)と協議していた。Ranj Alaaldin, “Muqtada al-Sadr’s alliance: An opportunity for Iraq, the US, and the region,” Brooking, May 17, 2022.
  10. 10 シーア派のなかの最大派である十二イマーム派の高位の宗教法学者。
  11. 11 山尾大「ダアワ党の思想的正当化と法学者の政治指導論の系譜――シーア派宗教権威への個人的忠誠か、組織化された宗教界との協調か」『アジア・アフリカ地域研究』2010年3月、第9巻第2号、113−142頁。
  12. 12 Arwa Ibrahim, “Muqtada al-Sadr and Iraq’s propensity for an intra-Shia conflict,” Al Jazeera, August 31, 2022.
  13. 13 ibid.