2020年8月13日、イスラエルのネタニヤフ首相、アラブ首長国連邦(UAE)のアブダビ首長国のムハンマド皇太子、そしてアメリカのトランプ大統領が電話会談を行い、イスラエル・UAEの完全な国交正常化に合意した。「アブラハム合意」と名付けられた合意[1]の仲介役となったトランプ大統領は、「より平和的で安全で豊かな中東の構築に向けた重要な一歩」であるとして、アラブ諸国がUAEに倣うことへの期待に言及した[2]。また、ネタニヤフ首相は、アラブ・イスラエル関係に「新時代が到来した」と述べている[3]。

 そのネタニヤフ首相は、合意にあたり、UAEと米国の要請で、自らの選挙公約であるヨルダン川西岸の一部併合に向けたプロセスを中断した。この合意により影響を受けるパレスチナ自治政府は、UAEから大使を呼び戻し、アラブ連盟とイスラム諸国機構(OIC)の緊急会合の開催を求めるとして、反発を示した[4]。また、西岸の併合に強く反対していたヨルダンは、サファディ外相が「占領の継続とパレスチナ人の正当な権利の剥奪は、平和や安全にはつながらないだろう」と述べ、1967年以前の境界線上に東エルサレムを首都とするパレスチナの独立国家建設の重要性を強調している[5]。

 以下では、こうしたパレスチナ問題に関する従来の2国家解決策の制約にとらわれず、イスラエル関係を進展させたUAEの意図について検討し、これまで民族や宗教的な連帯を重視してきたアラブ諸国も、対外政策の選択に際し、自国の国益を優先する国際的潮流の例外ではないことを検証する。その上で、今回の合意が中東地域および国際社会に与える影響について考察する。

イスラエル・アラブ首長国連邦(UAE)の国交正常化の本質とは?

合意に踏み切ったUAEの意図

 2020年に入り、UAEを取り巻く国内外の環境は思わしくない状況が続いている。まず、新型コロナウイルス危機と、サウジとロシアの価格協議の破たんを契機とする原油価格の急落により、石油収入が減少し、観光産業も振るわず、UAEの経済状況が悪化している。また、米中対立の煽りも受けている。UAEと中国とは、2018年7月に中国の習近平国家主席による訪問、2019年7月にムハンマド皇太子の訪中にみられるように、近年関係を深めており、貿易、通信、エネルギーなど幅広い分野の協力が推進されてきた。しかし、2020年に入り、アメリカと中国の関係悪化が顕著になると、UAEは両国の間で板挟みの状態になった[6]。

 こうした状況を打開するため、UAEは7月5日に大規模な内閣改造・省庁再編を実施した[7]。また、対外政策として、脱石油依存の経済を目指し、イノベーション大国であるイスラエルとの関係強化を加速させることを選択したと見ることができる。これまでもUAEは、エミレーツ戦略研究調査センター(ECSSR:1994年設立)を窓口に、イスラエルと交流を行ってきたが、2018年10月、イスラエルのレゲブ文化・スポーツ相がアブダビを公式訪問し、柔道大会に出席した。その後も、イスラエルの通信相、外相、参謀長がUAEを訪問するなど、両国の関係改善が水面下で着実に進んでいた。

 UAEがイスラエルとの関係改善の意欲を明確にしたのは、2019年6月のバーレーンでのアメリカ主催の対パレスチナ投資協議や、2020年1月に発表されたトランプ大統領の中東和平案「世紀の取引」においてである。しかし、これらは必ずしもうまく動かなかった。さらに、イスラエルのネタニヤフ首相は、2020年3月の再選挙で勝利するために西岸の一部併合政策を再度、公約に掲げた。しかし、この併合政策は、国外のみならず国内でも反対の声が強く、実施困難な状況に陥りつつあった。この機をとらえ、UAEのオタイバ駐米大使が、6月12日付イスラエル紙に、併合はアラブ・イスラエル関係改善の障害になる旨の投稿をする[8]。その後、ネタニヤフ首相は7月1日から検討を開始するとしていた併合政策を延期することになる。

 8月13日、ネタニヤフ政権の併合政策が「世紀の取引」に悪影響を及ぼすことを恐れたクシュナー大統領上級顧問の調整努力もあり、トランプ大統領によって、形式的には「中東和平の実現」という大義をまとった両者の合意が発表された。トランプ大統領にとっては中東和平案の復活、ネタニヤフ首相にとっては選挙公約不実施の理由を与えることで、UAEは国際社会から歓迎される形でイスラエルとの関係正常化を手にしたのである。

合意に踏み切ったUAEの意図

UAE・イスラエル合意の影響

 合意の中東域内への影響については、3点が指摘できる。UAEはイスラエルと、トルコ、イラン、イスラム復興勢力に対する懸念を共有している。このため、両者の合意は、これらの国や勢力との緊張を高める可能性がある。

 第1に、強力な軍事力を保有しているトルコのエルドアン政権は、ムスリム同胞団などのイスラム主義勢力を支援しており、イランとはシリア問題などで政策協調が見られている。そのトルコは、リビア内戦でUAEとは異なる勢力を支援し、東地中海の天然ガス開発では、ギリシャ・イスラエルと対立している。このため、UAEとイスラエルの関係正常化は、両国とトルコとのさらなる関係悪化を招く恐れがある。

 第2に、イランについては、ネタニヤフ政権はトランプ政権とともに敵対してきた。今後、両国はUAEとの合意を足掛かりに、他のアラブ諸国との関係正常化はかりイランを一層孤立させようとすると考えられる。一方、UAEはイランとの間で領土問題を抱えているものの、8月2日にはビデオ会議形式でイラン・UAE外相会談を実施しており[9]、合意公表後も、「イランに対する何らかのグループ化を意図したものではない」とUAEの外務担当国務相が発言している[10]。しかし、UAEはイスラエルとの関係正常化により、米国から新たな戦略的兵器を入手できる可能性が出てきた。そのことで、イランのUAEに対する警戒心が強まり、ペルシャ湾地域の緊張が高まる可能性はある。

 第3に、イスラエル・UAEの和平合意により、アラブ諸国におけるパレスチナ問題に対する関心の低下が露呈されただけでなく、パレスチナ解放運動の抵抗の限界を世界に印象付けることとなった。アラブ諸国のパレスチナ問題での協調の枠組みが消えたことで、イスラエルとの関係改善を踏みとどまっていたバーレーン、スーダン、モロッコなどの政策変更が促されることになると考えられる。また、2020年1月にカブース国王の死去により新国王が誕生したオマーンや、王族内部の対立が顕在化しつつあるサウジアラビアも内政が落ち着けば、イスラエルとの関係の見直しを始める可能性がある。

UAE・イスラエル合意の影響

既存の国際秩序崩壊の象徴

 イスラエル・UAE合意は、域内の先進的な経済を有する両国がビジネスや安全保障分野で協力を強化することで、相互の利益拡大を目指すものである。石油収入によるレンティア国家[11]からの構造的脱却をはかるUAEにとって、軍事技術を活用した起業を推奨し、ベンチャーキャピタルファンド(VCF)などの支援環境を整えたイスラエルは、魅力的な存在といえる。また、イスラエルで起業された企業は、アメリカのナスダック市場で株式公開や増資を行っているため、UAEはイスラエル・米国間の経済的結びつきにも関与を深めることになる。

 新型コロナウイルス感染症の世界的拡大と石油価格の低下というグローバルな危機の中、自らの国益を優先するイスラエルとUAEの行動は、長年、国際社会が実現しようとしてきた中東和平問題の「平和と領土の交換」の原則[12]を踏みにじるものとなった。自国の利益のためにパレスチナに対価なき和平の実現押し付ける今回の和平合意は、国連安保理決議や国際法という既存の国際秩序の崩壊を象徴する出来事といえる。

(2020/8/25)

脚注

  1. 1 トランプ大統領の記者会見に同席したフリードマン駐イスラエル大使は、アブラハムはキリスト教、イスラム、ユダヤ教の父であり、統一の可能性を象徴する人物であるため、この合意にその名を与えたと説明している。The White House, “Remarks by President Trump Announcing the Normalization of Relations Between Israel and the United Arab Emirates,” August 13, 2020.
  2. 2 By Peter Baker, Isabel Kershner, David D. Kirkpatrick and Ronen Bergman, “Israel and United Arab Emirates Strike Major Diplomatic Agreement,” The New York Times, August 13, 2020.
  3. 3 “Netanyahu hails 'new era' in Israel's relations with Arab world,” ynetnews, August 13, 2020.
  4. 4 Linah Alsaafin, “How did Israel and the UAE get to normalising relations?” Al Jazeera, August 14, 2020.
  5. 5 “Israel has to choose between peace and conflict--FM,” The Jordan Times, August 14, 2020.
  6. 6 Simeon Kerr , “UAE caught between US and China as powers vie for influence in Gulf,” Financial Times, June 2, 2020.
  7. 7 意思決定の迅速化とデジタル化を推進することが目的とされている。「内閣改造を発表、省庁・政府機関の統合・再編とデジタル化を推進(アラブ首長国連邦)」JETRO『ビジネス短信』、2020年7月7日。
  8. 8 Yousef Al Otaiba, “Annexation will be a serious setback for better relations with the Arab world,” ynetnews, June 12, 2020.
  9. 9 “In rare talks, Iran and UAE foreign ministers discuss COVID-19,” Al Jazeera, August 3, 2020.
  10. 10 “Israel deal is not about Iran: UAE,” Khaleej Times, August 16, 2020.
  11. 11 レンティア国家とは、石油収入(地代に相当するもの)を国民に分配することによって、王制の正当性を維持している国を指す。細井長『中東の経済開発戦略』(ミネルヴァ書房、2005)p.34.
  12. 12 イスラエルが第3次中東戦争で占領した地域からの撤退と、イスラエルの安全保障を交渉によって求める考え方。キャンプ・デービッド合意(1978年)やオスロ合意(1993年)のもとになった考え方。