本年9月11日までに、アフガニスタン駐留のアメリカ軍は完全撤退することになった。現在アフガニスタンにおいて、ガーニ大統領率いる2004年憲法[1]に基づく政府は、政府内の足の引っ張り合いと国民からの信頼喪失の中、同政府との和平交渉を拒否したタリバーンの攻勢にあえいでいる。アメリカ軍の完全撤退後のアフガニスタンは、内戦の継続か、タリバーンの再支配による極端なイスラーム主義による過酷な支配か、との懸念が同国内外で広がっている。

 アメリカのシンクタンク「民主主義防衛財団」(Foundation for the Defense of Democracies)のビル・ロッジオによると、4月末現在、アフガニスタンは、同国34州にある約400の郡のうち、政府が支配する地域が120郡、タリバーンが支配する地域が70郡、政府・タリバーンが支配を競合している地域が全体の半数強という勢力分布になっている。アメリカ政府が最後に発表した2018年10月現在の勢力分布では、政府が54%、タリバーンが12%、競合地域が34%であったので、タリバーンの攻勢が如何に激しいものであるかが分かる[2]。

 アメリカ軍は、2015年以降、航空機による作戦支援、訓練等でアフガニスタン治安部隊(ANDSF)を支援してきた。結果は、上述の通り、ANDSFによるタリバーン勢力の弱体化に失敗し、同勢力の伸張を許してしまった。アメリカ軍が支援し有利と考えられるANDSFが、なぜ劣勢に回らざるを得なかったのか。それは、支配される側である住民の選択が大きく係っていると考えるべきだ。

 住民にとって大事な点は、まず、自らの命と生活の安全を守ること、次に自らの伝統・文化・習慣にあった統治か否かである。これらを政府、タリバーンのどちらが住民にもたらしうるかが、住民の支持を得る鍵となる。また、統治と住民という観点からは、過去の政府がどのような仕組みで住民を統治してきたかも重要である。

 本稿では、アフガニスタンの歴史、特にイギリス及びソ連の撤退後の歴史を、統治と住民という観点から考察することにより、アメリカ軍撤退後のアフガニスタンと今後の日本の支援の在り方を考えていく。

イギリス及びソ連撤退後のアフガニスタン統治

 イギリスは、19世紀から20世紀初頭にかけて3回のアフガン戦争を行い、1919年までアフガニスタンを保護国としていた。この間最も安定していたのは、第2次アフガン戦争後からの40年間である。第2次アフガン戦争後の1881年、ロシアに亡命していたアブドルラフマーンが帰国し、アフガニスタン国内を統一した。イギリスは、外交権を握り、同国を保護国とする一方、同政権に財政的支援を行った。

 アブドルラフマーン国王は、パシュトゥーン人の部族から若者を供出させ常設軍を創設し、非イスラームのカフィリスタン(現ヌーリスタン州)を征服し、イスラーム化するなど、武力でアフガニスタンを統一した。また、全国の地域宗教指導者(ムッラー)に給与を支払い、公務員化した。これにより、宗教指導者との連絡・連携が密になった。

 これに対し、第3次アフガン戦争後の1919年、アフガニスタンは外交権を得て独立したが、イギリスからの財政的支援は途絶えた。当時のアマヌッラー国王は、フランス、ドイツ等からの援助を得たが、急激な近代化(換言すれば反イスラーム的文化の流入)と経済の悪化により、軍・宗教関係者が離反するとともに、シンワリ族の反乱、バチャ・イエ・サッカーオの乱が発生し1925年に同国王は亡命することとなった。

 1979年から1989年まで実施されたソ連による軍事介入の後は、ナジブッラー共産主義政権(アフガニスタン共和国)が3年間命脈を保ったが、1992年ムジャヘディン諸派により首都カブールが占領され、同政権は崩壊した。同諸派は、アフガニスタン・イスラーム国を創設したが、各派間の争いが起こった。各派は軍閥を形成し、占拠地域を支配した。軍閥の支配は法の支配を欠くもので、各地域で不正で暴虐な政治が行われた。このような中、パキスタンに避難していたパシュトゥーン人の中からタリバーンが結成され、1996年までに主要都市を含む国土の約90%を支配するようになった。タリバーンの支配は、峻厳に解釈されたイスラーム法に基づき行われ、社会に秩序が取り戻される一方、国際テロ組織「アル・カーイダ」に基地を提供するとともに、国際的に認められた女性の権利他基本的人権に反する統治を行い、国際的非難と国連による制裁を受けた。

住民の立場からみたアフガニスタン統治

 上述の歴史を経験してきた住民の立場からみれば、次のことが言える[3]。

 第1に、アブドルラフマーン国王が行ったように、部族社会と同社会に根付いたイスラーム秩序を尊重し、資金が政府から部族や地域の主要なメンバー(長老やムッラー)に流れ、生活が安定すれば、住民側はこれを享受し、政府に対する信頼が高まり、統治が安定することである。公務員化したムッラーへの給料支給をなくす一方反イスラーム的に思える近代化を急激に進めたアマヌッラー国王に対して反乱が起こり、政府が倒れたのは、住民側からすれば当然の結果と言える。

 第2に、イスラーム主義を標榜して政権をつくっても、1990年代前半のように地方に割拠した軍閥が、法秩序を欠く恣意的な支配により、住民に不当な負担を課し暴虐を加えた際、住民の心は離反した。その後、タリバーンが厳正なイスラームの秩序を謳い、支配地でその確立に努めたことに対しては、住民はもろ手を挙げて歓迎した。

 第3に、上記2点は、18世紀にドゥッラーニー朝が現在のアフガニスタンの原型を形成して以来、同国を支配し、かつ最大人口を誇るパシュトゥーン人住民の立場からみた場合に言えることである。シーア派のハザラ人や同じスンニ派のタジク人、ウズベク人等非パシュトゥーン人からすれば、政治が安定し経済が活発化することが益であり、一方でパシュトゥーン人の習俗の強制とも思えるタリバーンのイスラーム主義は、彼らの文化習慣に反する、或いはそれを奪うものであった。

 最後に忘れてならないのは、アフガニスタン住民の外国支配とその文化・習俗に対する影響への反感と最終的にはそれを拒否する傾向である。19世紀、20世紀は、アマヌッラー国王の近代化という名の西欧文化・習慣の流入や共産主義という反宗教・反イスラームの思想の流入に対して拒否反応を起こした。21世紀の国際社会の介入においては、アメリカ軍が行う、イスラームの文化・習慣に反するアル・カーイダやタリバーン兵士の捜索、住民間に不和を起こす情報提供者への報酬提供、誤爆等が、アメリカ及びそれを支持する国際社会に対する反感・拒否につながった。

アメリカ軍完全撤退後に日本がすべきこと

 アメリカ軍完全撤退後のアフガニスタンは、内戦が継続し、最終的にはタリバーンによる再支配が起こるとの懸念がなされ、撤退前までにインテリジェンス収集とテロ対策のネットワーク修復や人道・開発援助支援者の安全や女性の権利保護確保の戦略と対策策定などの備えを行うべきとの議論もみられる[4]。もしそのような備えを行うとするならば、40年以上戦乱に苦しんできた住民の立場から取り組むべきではないだろうか。住民の命と生活を守り、その宗教・文化・習慣が尊重されるような立場からである。

 2019年9月の論考で筆者は、故中村哲医師率いるペシャワール会(PMS)の緑の大地計画の成功を紹介した。同会の協力でつくられた16500haの農地とそこに誕生した65万人のコミュニティは、アフガニスタンの戦火とは無縁の地域になっているというものであった。同年12月、中村哲医師は、同行のドライバーと4人の警備員とともに銃撃され亡くなったが、上記コミュニティの住民は中村医師の意志を継ぎコミュニティと地域の発展に努力し、また、PMSも日本国内から支援している[5]。

 最近のPMSの報告は、元PMS職員でヌーリスタン州政府職員から用水路建設の要請を受け、まずは同州技術者の研修を提案したこと、現在「PMS灌漑方式ガイドライン」作成がJICAの計画で進められており、この完成がアフガニスタン各地の関係者を励ます希望の書となることを期待していることを述べている[6]。

 政府とタリバーン等の勢力が戦火を交える中でこの農地とコミュニティが安全でいられるのは、住民が生きて経済的にも暮らしていける場所となっていることとモスクを中心とするコミュニティが形成されていることが理由として挙げられる。政府もタリバーン等の勢力も表立って文句をつけることはできない[7]。

 日本を含む国際社会は、ボン合意に従って作られた現在の政治体制(憲法、政府、国会、ANDSF等)を過去20年間支援してきた。日本は、2020年12月のアフガニスタン支援国会合で、年間1億8000万ドル規模の支援を今後4年間も維持するよう努めること、和平プロセスに進展が見られる場合は追加的支援を検討する用意があること等を表明している[8]。同支援国会合では、世界各国から21年については30億ドル、4年間合計で120億ドルの支援が表明された。国際社会としてのアフガニスタン支援は継続される。

 政治的・軍事的な争いが続く中、このような日本などからの国際支援をより住民本位のものにしていくのが求められているのではないか。もちろん、そのためには、アフガニスタン政府とタリバーンからの政治的な承認が必要である。この為には、タリバーンを政府との和平交渉の相手としてだけでなく、村落開発の相談相手として国際的に認知する必要がある。認知する際、村落開発に関するワーキング・グループを政府、タリバーン、国際社会で構成し、そこで村落をどういうコミュニティにしていくかを考えるようにしたらどうか。その際、PMSのナンガルハール州での農地とコミュニティづくりは大いに参考になるはずだ。また、このようなグループにタリバーンを入れることにより、イスラームと国際的に認められた人権の問題も話し合える。

 上記のような提案は、現在のアフガニスタンの政治・軍事情勢下ではできそうにもないと思われるかもしれない。しかし、日本は、1995年12月に国連でアフガニスタン和平復興努力を約束(小和田国連代表部大使総会演説)し、タリバーンとアフガニスタン諸派との間の対話を推進し、過去20年間については、アメリカを支持はしてきたが、軍(自衛隊)を送ることなく、復興支援を着実に行ってきた。そのような実績をもつ日本に、できないことはないと考える。PMSの緑の大地計画成功とこのモデルを全国に広げようとしているJICAの努力は、アフガン人の信頼を勝ち得ているはずだ。

 2004年3月、ザブール州の長老会の代表は、当時在アフガニスタン大使館次席公使を務めていた筆者に「我々は、右のほほをアメリカに打たれ、左のほほをタリバーンに打たれ、苦しんでいる。もう戦乱は嫌だ。市内主要道路の修復その他でカンダハールの街を生き返らせた日本にザブールの復興もお願いしたい」と語った。その時、筆者は、国際社会が支援している中央政府を頼るように応答した。米軍のPRT(Provincial Reconstruction Team:軍の部隊が民間の技術者とともに復興支援を行うもの)の展開が期待されており、かつ国際社会は中央政府を通じた支援を行おうとしていたからだ。

 しかし今やアメリカ軍は撤退し、中央政府の支配地域は激減している。1995年12月の和平復興努力の約束の時のように、今度は住民本位の農村開発をテーマにして、日本が和平復興のイニシアティブを取るべきだ。

(2021/06/17)

*この論考は英語でもお読みいただけます。
Afghanistan After the U.S. Withdrawal — how Japan can Support Rural Development in a People-Oriented Manner

脚注

  1. 1 2001年のボン合意に基づき、2004年1月アフガニスタン憲法が作られた。この憲法に基づき、2004年10月に大統領選挙が行われ、当選したカルザイ氏を首班とする政府が樹立された。その後5年毎に大統領選挙が行われ、ガニ現大統領は、2014年以来3度目の任期を務めている。
  2. 2 ロッジは、アフガニスタンの治安状況を追い、勢力分布図(アメリカ政府が作成してきたが、タリバーンとの和平交渉に差しさわりがあるとして2019年発表を差し止め)を作成Jon Gambrell, “Mapping the Afghan war, wile murky, points to Taliban gains,” April 30, 2021, AP News.
  3. 3 この項で示すアフガニスタンの歴史の記述は以下の書籍を参照するととともに、2002-2004年の筆者のアフガニスタン勤務での見聞考察に基づくもの。
    (1) Barnett R. Rubin, The Fragmentation of Afghanistan, (Yale University Press,1995), (2) Ahmed Rashid, Taliban, (I.B. Tauris Publishers, 2000), (3) Martin Ewans, Afghanistan - Short History of its People and Politics, (HarperCollins Publishers, 2002), (4) Council on Foreign Relations, New Priorities in South Asia: U.S. Policy toward India, Pakistan, and Afghanistan, (Council on Foreign Relations Press, 2003), (5) Ahmed Rashid, Decent into Chaos, (Penguin, 2008).
  4. 4 Michael McCaul and Ryan C. Crocker, “Here’s What Biden must do before we leave Afghanistan,” May 4, 2021, The New York Times.
  5. 5 「トピックス2021.2.28」、2021年4月10日、ペシャワール会。
  6. 6 同上
  7. 7 中村哲医師の殺害は、裏からでなければ攻撃できないことの証左である。
  8. 8 「アフガニスタンに関するジュネーブ会合(結果)」2020年12月2日、外務省。