2021年9月3日、菅首相は自民党総裁選への不出馬を表明した。前任の安倍首相は7年8か月の在任中、プーチン大統領と実に24回(第一次政権時を含めれば27回)もの首脳会談を重ね、積極的な対ロシア外交を展開した。安倍外交の継承を掲げ誕生した菅政権だったが、ロシアとは、政権発足直後の2020年9月29日にプーチン大統領と電話会談を行って以降、対面での首脳会談の機会を持つことはなかった。

 世界的なコロナ禍が日露首脳会議開催を妨げたのは間違いない。だが、それ以上に安倍政権がその積極的な対ロシア外交の延長線上で目指した領土問題解決を伴う平和条約締結が近い将来、見込めないと判断したことがより大きな要因だったと見るのが妥当だろう。

 そんな中、2021年7~9月に掛けてロシア側から日本に関連したシグナルが発せられた。プーチン大統領自らが北方領土を含むクリル諸島に関税免除やその他の税の優遇措置が適用される特別経済区の創設計画を明らかにし、日本企業を含む外国企業に参加を呼び掛けたことである。

 この動きの背景には、ポスト安倍時代の日露関係を巡るプーチン政権の思惑、そしてトランプ政権時に始まりバイデン政権下でより鮮明になったインド太平洋地域を主な舞台とする米中大国間競争とそこにおけるロシアの立ち位置が複雑に絡んでいると見る。

 本稿では、停滞する日露関係の現状を重層的に読み解きつつ、ポスト安倍時代の岸田新政権の対ロシア外交の行方を考える。前編では、安倍政権から現在までの日露関係を振り返り、この夏にプーチン大統領が日本に投げかけたメッセージを読み解く。後編では、2021年7月8日に笹川平和財団(SPF)が露大統領府の管轄下にあるシンクタンク「ヴァルダイ・ディスカッション・クラブ」との共催で行った日露専門家対話でのやり取りを参考に、岸田新政権の日本の対ロ政策を考える。

シンガポール合意、すれ違った日露の思惑

 まずは安倍政権の対ロシア外交の経緯を振り返り、行き詰まった原因を再確認したい。2018年11月、プーチン大統領とシンガポールで会談した安倍首相は、平和条約締結後の色丹島と歯舞群島の日本への引き渡しが明記されている1956年の日ソ共同宣言(以下、56年宣言)を基礎として、平和条約を加速化させることで合意した。これは従来の「4島返還」を求める立場から「2島引き渡し」で最終決着を目指すという意味で、日本政府の大きな方針転換を意味した。

 これに先立つ同年9月、ウラジオストックでの東方経済フォーラムでプーチン大統領は安倍首相に「前提条件なしで今年末までに平和条約を締結しよう」との提案を行った。翌10月、筆者はロシア大統領府傘下の組織が主催する国際会議「ヴァルダイ・ディスカッション・クラブ年次総会(以下、ヴァルダイ会議)」でプーチン大統領にウラジオ提案の真意を直接問うた。その回答の要旨は「中国とは2001年の善隣友好協力条約の締結で両国間の信頼関係を醸成し、2004年に領土問題を解決した。日本との間でもまず同様の条約を締結して、領土問題を解決する上での十分な信頼関係を醸成していこう」[1]というものだった。 シンガポール合意はこのウラジオ提案への日本側からの逆提案を受けてのものだったが、上記の回答を素直に解釈すれば、56年宣言に基づく「二島引き渡し」でさえ、近い将来、ロシア側がこれに応じるとは想定し難かった。

 実際、その直後からロシア側は歴史問題と日米同盟に絡めた安全保障問題を前面に押し出して予防線を張り始めた。まず同年12月、ラブロフ外相が、56年宣言に基づく平和条約締結には、ロシアの北方領土領有は「第二次世界大戦の結果」であることを日本政府が完全に認めることが「不可欠な第一歩」だと主張した。またプーチン大統領も同月、平和条約締結後、北方領土に米軍が展開する可能性を排除できないと発言したのだ。そして翌2019年1月、河野外相、安倍首相が相次いで訪ロし、平和条約交渉の加速化に臨んだが不調に終わった。同年6月の大阪での日露首脳会談でも具体的な進展は見られず、この時点で交渉の停滞は決定的になった。

 安倍政権下でシンガポール合意が具現化しなかった理由の根底には、平和条約締結のタイミングを巡る日露間の思惑のズレがあった。安倍政権が「戦後外交の総決算」を掲げ、外交・防衛閣僚会合(「2+2」)の実施や8項目の経済協力プラン、そして北方領土での共同経済活動などを通じて、日露間の信頼醸成を図りつつ、あくまで任期中の平和条約締結を目指した。一方、プーチン政権はウクライナ危機以降の米露関係の悪化や中国の急速な大国化を含む現在進行形の国際情勢を踏まえ、日露関係を政治・経済・文化・安全保障などあらゆる分野で質的に新段階に引き上げることを平和条約締結の前提条件としており、現時点ではまだ不十分と考えている。

 実は、安倍政権の積極的な対ロシア外交は、中国の急速な大国化を念頭に、日米同盟を基軸としつつ、ロシアとも関係を強化し、日本に有利な戦略環境を構築するという戦略観に基づくものでもあった[2]。だが、米国との大きな関係改善が見通せない中、米国に自国の安全保障を大きく依存する日本が、平和条約締結後もロシアとの関係を強化し続ける確証は何もない、というのがロシア側の認識なのである。

 またこれに追い打ちをかけるように、2020年7月に成立したロシア修正憲法に「領土の割譲禁止」の条項が盛り込まれた[3]。同条項には「国境画定作業はその対象にあたらず」との例外規定が付いているが、ロシア外務省はこの例外規定が日露平和条約交渉に適用される可能性を否定している。後述するように、最終的にプーチン大統領の判断でロシア側がこの立場を変える可能性はゼロではないが、近い将来、その条件が整うとは想定できない。安倍首相の退陣表明は同年8月28日のことだったが、それ以前に日露平和条約交渉は暗礁に乗り上げていた。

プーチンが投げ掛けた対日シグナルをどう読むか

 かくして日露関係に停滞感が漂う中、先に動きを見せたのはロシアだった。2021年7月23日、ロシア安全保障会議の場でプーチン大統領が近々、極東地域を訪問予定のミシュースチン首相に「(極東地域の訪問の際は)クリル諸島に特別な注意を払って欲しい」と求めた。さらに、日本と協議中の共同経済活動にわざわざ言及しつつ、同地域での経済活動に関して全くユニークで前例のない計画があると述べた。すると同年7月26日、同首相は択捉島を訪問。この際、同地域で外国投資を誘致するための特区を設置する可能性があるとし、プーチン大統領と協議する考えを示した。

 そして迎えた同年9月3日、一年振りに開催されたウラジオストックでの東方経済フォーラムの特別セッションに登壇したプーチン大統領は冒頭のスピーチの中で、関税免除などのクリル諸島での経済活動に関する特別措置の詳細について述べた上で、これらは国内企業のみならず日本を含む外国企業にも適用されるとして、日本との間ではこれらの島々での経済開発並びに協力促進のための諸条件を創出する必要性について以前から協議していたと付け加えた[4]。

 また、このスピーチを受けて、ロシア人司会者が真っ先にプーチン大統領に質問したのも日本との関係だった。「日本はこのクリル諸島での新制度への参加が想定される国の一つだが、日本は平和条約と南クリルの所有権を関連付けている。しかし、修正憲法はロシアから領土の割譲を禁止している。つまり、南クリルは永遠にロシア領の一部である。このことは日本との交渉の行方を全く変えることはないのか?」と問うたのだ。

 これに対するプーチン大統領の回答は次のようなものだった。

 このことが平和条約締結に関する利害に対する我々のアプローチを変えることはない。日露関係において平和条約が締結されていないことは馬鹿げている。ロシアも日本も関係発展に関する相互の戦略的利害を考慮し、両国関係の完全なる正常化に関心を持っている。

 我々は国際的な文書に依拠した第二次世界大戦の結果を尊重する必要があると常に主張している。我々が平和条約に関する対話を拒否したことはない。我々は日本の前首相と1950年代から良く知られた文書に依拠する用意があることで合意した。しかし日本のパートナー達はその考えを変え続けている。

 我々はこのよく知られた文書に基づいて決定を下すことで合意した。しかもこの文書は両国の議会で承認されたものである。しかし、日本側がその履行を拒否した。その後、我々に元の立場に戻るように要請した。我々は如何なる進展もこの合意に基づくことで合意した。その後、日本はその要求を引き上げた。

 これは終わりのないプロセスのように思える。しかし、我々は目の前の現実を考慮に入れる必要がある。その一つは、我々が平和条約を議論する時、平和な未来の保障、即ち、ロシア国境近くへのミサイルシステムの配備はいうまでもなく、米軍の展開からもたらされる脅威への保障が不可欠である。我々はこれらの質問を日本側に伝えているが、まだ如何なる回答も得ていない。その意味でボールは日本側にある。

 しかし、我々は日本側の提案の遂行を含め、これらの領土の開発で一度ならず合意している。我々は適切な作業を整理し、経済的・商業的な活動の為の必要不可欠な条件を整えるのが我々の義務と考えている。私が演説の中で示した提案、厳密にいえば、提案ではなく計画はこの共同合意を遂行しているということなのである。

 (司会者からの昨年の修正憲法は56年宣言を無効にしたということではないのか?との再度の問いに対して)我々は56年宣言とこの修正憲法の両方を子細に見た上で適切な結論を出す必要がある。(下線は筆者による)

 これら一連のプーチン大統領の発言から以下のようなことが読み取れる。

  1. ① ロシアにとって平和条約締結の前提条件である日露関係をあらゆる分野で質的に新たな段階に引き上げる為の動きが菅政権下で停滞していることに不満を持っている。ロシアは引き続き日本との関係発展を望んでいる。
  2. ② 2016年12月のプーチン大統領の訪日時、日露両政府は北方領土を含むクリル諸島での共同経済活動に関する協議開始で合意した。平和条約締結に向けた信頼醸成がその目的だった。具体的なプロジェクトの絞り込みまでは行われたが[5]、日本側が求める「両国の法的立場を害さない制度」を巡って着地点が見いだせないまま、その実現は遅れに遅れていた。今回のロシア側の決定も、クリル諸島での共同経済活動はあくまでロシア法の下で行うというものである。
  3. ③ また、安倍政権下で平和条約交渉の速度にブレーキをかけた「第二次世界大戦の結果として北方四島はロシアの領土になった」との歴史問題や日米同盟に絡んだ安全保障問題を巡るロシアの立場にも変化はない。
  4. ④ 但し、昨年の修正憲法と56年宣言との整合性、即ち、平和条約締結後の色丹、歯舞の引き渡しの可能性についてはこれを否定せず、含みを持たせた。
  5. ⑤ 今回のクリル諸島での経済活動への特別措置の導入は、日本がこれに乗らなかった場合、中国などの日本以外の企業がこれに参加する可能性を含むものである。これにより、プーチン大統領は、まず「前提条件なしの平和条約」、即ち、善隣友好協力条約を締結し、あらゆる分野で日露関係を発展させ、その延長線上で56年宣言の履行のタイミングを探る、とのロシアの立場の受け入れを日本側に迫っている。

 今回、プーチン大統領が投げ掛けた対日シグナルから、ロシアが長期的な視野で日本とのあらゆる分野での関係発展を望んでいること、また、昨年7月の修正憲法と56年宣言の履行は必ずしも矛盾しないことは示唆された。だが、安倍政権末期に露呈した56年宣言に基づく平和条約締結のタイミングを巡る日露間の思惑のズレは解消されておらず、我が国が上記のようなロシア側の立場を受け入れようが受け入れまいが、近い将来、ロシアとの間で領土問題の解決を伴う平和条約が締結される見込みはほぼない。

 安倍外交の継承を掲げて誕生した菅政権がプーチン大統領との対面の首脳会談を急がなかったのは、平和条約締結を巡る以上のような現状認識があったからと見て間違いないであろう。(後編に続く)

(2021/10/27)

(後編に続く)

脚注

  1. 1 プーチン大統領との質疑応答の全文はこちらを参照されたい。「畔蒜泰助のユーラシア・ウォッチ(9)プーチン大統領の日露平和条約締結問題についての発言(ヴァルダイ会議にて)」東京財団政策研究所、2018年11月1日。
  2. 2 安倍前首相は退任後の雑誌とのインタビューの中で「(安倍政権の積極的な対ロシア外交の背景には)領土問題の解決と平和条約の締結という二国間の文脈だけではなく、中国が軍事力を増強し、拡張的な海洋進出を行うなかで、戦略的な判断として、ロシアを中国側に追いやってはいけない、ロシアとの関係を改善しなければならない、との考えがあった。これは政権全体で共有していた戦略観である」と述べている。「安倍外交七年八ヵ月を語る(連載・中)「自由で開かれたインド太平洋」に見る戦略的思考」『外交』Vol.65 Jan./Feb. 2021, pp.94-99.
  3. 3 “Russia Constitutional Reforms to Affect Isle Talks with Japan,” The Jiji Press, July 3, 2020.
  4. 4 そのポイントは以下の通り。
    a) 10年間、利益税、固定資産税、地税、輸送税を軽減
    b) 10年間、軽減保険料率(7.6%)を適用
    c) クリル諸島全体での関税並びに付加価値税の免除
    d) 但し、仲介、炭化水素の抽出・加工、貴重な水産資源の養殖などの業者は対象除外
  5. 5 海産物の養殖、温室野菜栽培、観光、風力発電、ゴミの減容