8月16日、中国政府が東シナ海に設定していた休漁期間が明けたことから、中国漁船が大挙して尖閣諸島周辺海域に押し寄せることにより新たな事態が発生することが懸念されていた。しかし、今のところ中国政府当局の規制により、危惧されていた状況は生じていないようだ。中国では漁船を含むすべての船舶には位置情報のみならずメッセージの送受信も可能な「北斗システム」と呼ばれる中国版GPSが装備されている[1]。昨今の中国の大都市におけるAIなどを活用した監視体制や今般の新型コロナウイルス感染対策を見ると、漁民の活動に対する監視についても相当程度コントロールが進んでいることが想像に難くない。

尖閣は人道主義をめぐる中国と世界の価値観対立の最前線

価値観のギャップ―漁民は人間の盾

 尖閣諸島は日本の領土であり、その周辺海域はマグロやカツオの好漁場であるにもかかわらず、日本漁船の多くは尖閣周辺海域での漁業を控えている。それは、近年、活発化している中国海警艦[2]による日本漁船へのハラスメントを回避するためであり、またこの海域を守っている海上保安庁の負担を軽減するためでもある[3]。

 一方、中国は、漁船の行動を規制する時もあれば、出漁を望まぬ漁民をわざわざ尖閣諸島周辺に送り込むことさえある[4]。おそらくその時々の日中関係やその他国内外情勢などで手綱を締めたり緩めたりするがごとく、漁船や漁民を国家意思体現の手段として使っているのであろう。こうした中国の行動は、他の海域でも行われている。

 中国は、他国との関係が敏感な場において、中国海軍や中国海警よりもさらに前方、国益の衝突する最前線の「矢面」、時には「槍先」として漁船や漁民を利用している[5]。その上、他国の法執行活動等に抵抗して犠牲となった漁民は、国益を守る英雄として宣伝材料にされ、他の漁民にもそれに続くよう鼓舞さえしている[6]。

 2009年の米海軍「インペカブル」に対して航行妨害を繰り返す中国漁船とその乗組員の報道写真は記憶に鮮明であるが、もし、米海軍が当時のような慎重かつ抑制的な対応をとっていなければ、彼ら中国漁民は米中軍事衝突の最初の犠牲者となっていたとしても不思議ではない。

 このように漁民の犠牲を厭わずに他国との対立の「矢面」に押し立てて、海軍や海警に代わって「槍先」として用いる行為は、個人の人権を尊重する21世紀の国際社会の規範とは相容れない行動である。1991年の湾岸危機の際、軍事施設等が攻撃を受けるのを避けるために外国人を「人間の盾」としたイラクのフセイン大統領は、国際社会から強烈な非難を浴びた。

 漁業従事者は守られるべき存在と考える日本社会と、先頭に立って戦うべき存在であり犠牲を厭わないと考える中国社会。市民の生命の価値、人道主義(humanitarianism)に対する二つの社会の間には大きなギャップが存在している。

価値観のギャップ―漁民は人間の盾

認識ギャップ― 「漁民か民兵か」vs「漁民であり民兵でもある」

「矢面」、「槍先」であることを求められている中国の漁民は、日本の漁業従事者、海事関係者には想像できない訓練を受けている。一定年齢の中国人男性は民兵組織に参加する義務があり[7]、すべての中国国民と企業などの組織は平素から動員に応じる準備を完成させておくことが求められている[8]。いわゆる一般市民や企業ぐるみの民兵[9]が人民解放軍や武装警察部隊とともに訓練に励む姿はしばしば報道される日常の風景である。

 中国共産党の指導思想である毛沢東思想の重要な柱の一つは、戦闘員と非戦闘員を区別せず、また戦時と平時の区別のない「人民戦争理論」であり、あらゆる分野とあらゆる状態における「軍民融合」が徹底され[10]、戦時のみならず平時においても必要に応じて動員されている[11]。

 今年6月に中印両軍の衝突が生じ死傷者が出たが、この衝突に前後して、世界最大規模の携帯電話企業であるチャイナモバイル(中国移動通信)やプロレス興行団体などが企業単位の民兵部隊として、衝突発生地域の近傍で訓練する様子が報じられた[12]。このタイミングでの報道は、彼ら企業民兵が中印衝突に参加していたのではとの疑念を抱かせるには十分であった[13]。

 「北斗システム」の装備により行動が管理されている漁民は、「兵と民との二つの身分を併せ持つ存在であり、海洋権益防護のために行動し、軍事的プレゼンスを強化するとともに、対立の強度や敏感度をコントロールし、有事の際には真っ先に使用するなど、全過程で用いられる」海上民兵として期待され[14]、私的な経済活動であるのか、軍事活動であるのか判然としないことも多い。それはまさに前項で紹介した国益の衝突する最前線で活動する中国漁民そのものである。

 「有事か平時か」、「武力かそれとも武力ではないのか」、明確に区別して定義できるものと考え、曖昧な状態・グレーゾーンの取扱いに悩む日本社会が、中国漁民を目前にして「漁民なのか民兵なのか」と二分して悩むことすら、「戦時と平時が結合」し、「軍と民とが融合」していることが自然状態である中国社会からすれば、滑稽に見えているのかもしれない。しかし、中国が行っていることは、従来の国際法の考え方に大きく抵触し、挑戦するものである。

認識ギャップ― 「漁民か民兵か」vs「漁民であり民兵でもある」

ギャップの放置は相手の価値観の浸透を許すこと

 「『開かれ安定した海洋』を追求してきた海洋国家」[15]である日本は、漁業従事者などの海事関係者を国益衝突の最前線の手段として考える社会とは対極の価値観を持つ社会である。

 一方で、中国漁民・海上民兵の活動によって被害を被っているいくつかの国は、漁船に軽武装させるとともに軍や法執行機関の補助的役割を果たす「公設武装漁民」の組織化を始めている[16]。これは中国の周辺国が中国の人道に対する概念や価値観を受け入れようとする兆候と言えなくもない。これを放置しておくことは、戦いのルール、国際人道法の解釈にも影響を与えかねない。

 ミサイルや空母といったハイエンドな脅威に対抗する備えも喫緊の課題である。それと同時に、日本にとって望ましくない価値観の浸透もまた我が国が直面している課題であるといえるだろう。その意味において尖閣諸島周辺海域は人道上の価値観対立の最前線としても注視していくべき場所である。

※本論で述べている見解は、執筆者個人のものであり、所属する組織を代表するものではない。

(2020/9/9)

脚注

  1. 1 「渔业(漁業)」『北斗卫星导航系统(北斗衛星ナビゲーションシステム)』。
  2. 2 中国海警当局は、彼ら自身の船舶を「船」ではなく、「艦」と呼称していることが、以下の公表資料などから確認できる。
    「中越海警开展2019年第二次北部湾联合检查(中越両国海上法執行機関が2019年第2回トンキン湾共同パトロールを実施)」中国海警、2019年11月1日。
  3. 3 「『政治の海』尖閣、石垣漁師『近づけぬ』 中国船警戒」『日本経済新聞電子版』、2020年8月17日。
  4. 4 「尖閣へ出漁『中国政府の命令』」『朝日新聞』、2017年9月10日。
  5. 5 「大校称中国海上维权分3步:渔民在前军队殿后保护(中国の海上権益の維持は三段階、漁民は前方に、軍隊は後方に)」『环球网』、2015年3月13日。
  6. 6 「南海渔民:每与他国舰艇遭遇一次 损失足以从小康回到赤贫(南シナ海の漁民、他国艦艇と遭遇するたびに損害を受け貧しくなる)」『凤凰网』、2016年7月27日。
  7. 7 「中華人民共和国兵役法」第39条。
  8. 8 「中華人民共和国国防動員法」第4条。
    地方によっては、漁船等の新造時に武器庫や弾薬庫の設置を義務付けていることなどが、エリクソン米海軍大学教授等の分析により明らかにされている。
    Conor M. Kennedy and Andrew S. Erickson, “Riding a New Wave of Professionalization and Militarization: Sansha City‘s Maritime Militia,” Center for International Maritime Security, September 1, 2016.
  9. 9 民兵は、主として人民解放軍経験者による「基幹民兵」と、それ以外の一般国民による「普通民兵」とに区分される。元軍人である「基幹民兵」を殊更に脅威としてみる議論もあるが、いずれも国際人道法上の戦闘員であり国家の武力であることに変わりはない。場合によっては「国際法」等の戦い方のルールを十分に教育されていない「普通民兵」のほうがある意味で危険といえるかもしれない。
  10. 10 吴晓波「习近平强军思想开辟人民战争新境界(習近平の強軍思想が人民戦争の新境地を開く)」『中国军网』2017年11月30日。
  11. 11 中国の海上民兵に関する詳細については、拙稿「中国の海上民兵と人道」『海外事情』第67巻2号を参照されたい。
  12. 12 吴晓波「西藏军区加强新型后备力量建设提升应急应战能力 5支民兵新质队伍嵌入保障链条(チベット軍区は新型支援兵力を強化して緊急応戦能力を向上、5つの新タイプの部隊が組み込まれた)」『中国军网』2020年6月18日。
  13. 13 「中国軍、総合格闘家を部隊に配属 インド軍との衝突直前に 報道」AFP, 2020年6月28日。
  14. 14 郑凌晨「发挥好海上民兵优势 打好军民融合攻坚战(海上民兵の長所を発揮し、軍民が融合して手堅く勝ち抜く)」『中国海军网』、2016年10月31日。
  15. 15 『国家安全保障戦略』2013年12月17日、2頁。
  16. 16 「公設武装漁民」は、中国海上民兵とその他の国の類似組織を包含した筆者の造語であり、詳細については、拙稿「公設武装漁民と文民の保護」日本赤十字国際人道 研究センター編『人道研究ジャーナル』Vol.9.2020、2020年1月31日。https://www.toshindo-pub.com/book/91617/を参照されたい。