平和な時代、一般大衆の危機意識は薄く人民防空に対する認識から乖離している。しかし国際情勢は風雲急を告げるように変化し、一国主義が横行し、人類は百年に一度の大変化に直面している。人民大衆の危機意識や人民防空に対する認識の涵養と再建は焦眉の急である。

 これは、2022年8月3日に、上海市人民防空弁公室[1]が新聞紙上で上海市民に訴えた論考である[2]。この前日深夜、ペロシ米国下院議長(当時)が台湾を訪問し、そしてこの日、中国国内の報道が一斉にこれを非難した。この論考もその中の一つである。

 中国本土、上海などの大都市では空襲や空爆の恐れが迫っているのだろうか。なぜ今、一般民衆に危機に対する覚悟を求める必要があるのだろうか。

中国版「国民保護」人民防空

 人民防空とは、空襲の危険と被害を防止・軽減するための防護措置を取るために一般大衆を動員して、そのための組織化を行うものである[3]。このような取り組みは、国際社会では、一般に民間防衛(Civil Defense)と呼ばれており、武力攻撃等を受けた際に国民の生命・財産を保護することを目的とする「国民保護法」が2004年に成立した我が国では、「国民保護」と称して国や地方自治体により様々な処置が図られている[4]。したがって、この人民防空は、中国版「国民保護」とも言えるものである。

 人民防空は、中華人民共和国の建国期前後、国民党軍など敵の空爆・空襲から中国共産党の軍事力と人民を守るための防空壕を建設することから始まった。 次いで、朝鮮半島に中国人民志願軍[5]を派兵したことによって朝鮮戦争に中国が参戦した直後の1950年10月31日、当時の中国首相であった周恩来がこの事業を本格化した。

 その後、1960年代の中ソ対立の時期に中国全土に人民の避難場所や軍事施設などの建設、防空警報通信システム及び人民への防空教育などが制度化され、台湾海峡ミサイル危機を経て、1997年には「人民防空法」として立法化された。具体的には、戦時に備えて食料や医薬品、石油その他の必要物資の備蓄や、工業・鉱業拠点、科学研究拠点、交通網、通信施設、橋梁、ダム、発電所などの重要経済インフラの防護など、中央政府である国務院と中央軍事委員会の指導の下に地方政府が大衆や企業等団体を動員して実施する軍民が融合した活動であり、人民解放軍による軍事作戦とともに中国の国防の根幹に位置付けられている。

 一般大衆の避難や食糧等備蓄の面では、住宅エリア、商業エリア、地下鉄及びその他公共施設などとの一体的な都市インフラ施設の建設が進められ、100以上の都市において防空施設を備えた「地下城(地下都市)」や「地下長城(地下の万里の長城)」と呼ばれる地下複合施設が次々と生まれた[6]。

 しかし、改革開放や米中関係の改善などを経た後、次第にそれらの地下城と呼ばれた防空施設は放置されるままになっていった。かつての国民党軍や朝鮮国連軍、ソ連軍など敵対勢力からの本土攻撃への恐怖や覚悟といった脅威への実感が中国社会から遠のいていったからだろうか、予算をつぎ込む割には役に立たない施設、無駄遣いの対象として「無底洞(底なし沼)」と呼ばれていたこともある[7]。

 筆者が駐在していた2008年前後、北京や上海の中心部に所在する多くの地下城が、住居やいかがわしい商店などに不法に転用され、一部はその存在すら忘れ去られた廃墟となっていた。

人民防空の再活性化

 その人民防空が、最近になって再び、中国国内報道に登場するようになり、地下防空施設を巡る記事が目に付くようになってきた。

 人民防空を巡る変化は、2012年の中国共産党第18回党大会、つまり習近平が中国共産党総書記、中央軍事委員会主席となった時から始まったものであり、本格化したのは、2016年の第7次全国人民防空会議において習近平主席が号令してからだとされている[8]。

 そこで習近平は変化する国内外情勢の下、「第13次5か年計画」において国家安全保障の重要な戦略要素として人民防空を位置付けた。それを受けた李克強首相も、人民防空の事業を通じて軍民融合をさらに進化させて戦闘態勢の有効性と社会的・経済的利益の双方の向上を図るのだと強調した[9]。

 近年、上海や深圳などの沿海部地域の都市では、住宅や商業ビルなどの建築物や、地下鉄、トンネル、総合パイプラインなどの地下インフラ建設に連動して、人民防空施設の建設が再び精力的に進められている。

 例えば、上海のある地区では、中学校の校舎改修に併せて新校舎の地下に防空退避施設と戦時用資材食糧貯蔵庫を建設し、それらを平時には生徒送迎父兄用と近隣住民用の駐車場として利用するため、地区当局が予算を追加する旨を誇らしげに報じている[10]。

 江蘇省のある都市では、不法に改造されまた破壊されていた地下防空施設を修築し、関係住民に施設の場所を周知し、正しい利用を図る広報活動を始めた旨を報じている[11]。

 一般大衆に人民防空を周知させてそれを身近なものとするための「最後の一里(ラスト1マイル)」として多くの都市が宣伝や教育に力を注ぎ始めている[12]。

 一方で、改革開放以降、地下防空施設の存在は忘れられ、訓練のための警報を鳴らすだけ等というふうに、人民防空は大衆の関心から遠ざかっていった。そしてその隙に汚職が関連事業に蔓延ってきたことを、習近平政権は反腐敗闘争を通じて明らかにし摘発処罰していることを公表するなど、「底なし沼」といった負のイメージを取り除く努力を、施設の新設と並行して行っている[13]。

 習近平政権が2016年頃から取り組み始めた人民防空であるが、施設の建設などが本格化するのは2020年前後からである。特に2022年あたりから施設の完成や教育訓練の周知などの報道が増加傾向にある。

 また、北京市や上海市などでは、それまでの人民防空担当部署(北京市人民防空弁公室)の機能を充実させて新たな部署(北京市国防動員弁公室)として再編するなど、地方政府の関係部門の再編強化についてもようやく本格化の兆しが見えてきた[14]。

 こうした流れは計画から実現へのタイムラグもさることながら、その後の国際情勢の変化、具体的にはロシアによるウクライナ侵略に対する欧米諸国の厳しい対応、台湾をめぐる米中間の対立の激化など、中国を取り巻く環境の変化とともに、こうした変化に対して、力による現状変更を試みようとする習近平政権が国民にその覚悟を理解させようとする姿勢の表れと見るのが妥当ではないだろうか。

まとめに代えて

 6月初旬に行われたシャングリラ・ダイアローグにおいて、李尚福国防部長は「武力行使を放棄する約束はしない。もし、台湾を中国から切り離そうとする者がいれば、中国軍は一瞬たりとも躊躇することはないだろう。我々は、いかなる相手も恐れず、いかなる代償を払っても、国家の主権と領土の一体性を断固として守り抜く。」[15]と語気を強めて台湾問題に言及した。

 しかし、実際に武力侵攻を始めるには、人民を動員し、人民に犠牲を強いる必要があり、その代償は計り知れない。その際、敵の反抗、大陸本土への被攻撃などから人民の生命と財産の安全を守る努力を怠れば、一瞬にして人民は政権に背を向ける。習近平政権は新型コロナウイルスへの対応を通じてそれを再確認したに違いない[16]。

 一党独裁の権威主義体制下にあるからこそ、人心の離反は体制崩壊に直結する。「国民の多数が反対したり不満を持ったりすることを、実はやったことがない。(中略)それほど国民の存在が、当局に対する圧力となってきている」[17]習近平政権だからこそ、たとえ敵からの攻撃を受けても中国共産党が守るのだという姿勢を見せて人民を安心させることが重要なのだろう。

 ロシアによるウクライナ侵略を目の当たりにした今日、中国が国際社会を敵に回してまで武力侵攻を実行する可能性は以前に比べて低下しているかもしれない。しかし、中国高官の言動や軍の活動などを見ていると、中国を取り巻く現状は、どこかでボタンを掛け違い、軍事的衝突へ、最悪は米中の本格的武力衝突にまでエスカレートしても不思議ではない状況にも見える。

 習近平主席率いる中国の指導部も台湾への武力侵攻や米中の本格的武力衝突を進んで望んでいるわけではないだろう。しかし、彼らが国家指導者として最悪の事態も覚悟していることを、人民防空の再活性化など、戦争被害に対する人民の不安を低減させるまさに人心獲得のための施策こそ、中国軍機や軍艦のアグレッシブな活動や軍高官の威勢の良い言動以上に、戦争準備の状況を示すバロメータとして見るべきではないか。

 反スパイ法や香港への国家安全維持法、ウイグルにおける人権を無視した統治など、我々自由民主主義社会で生きる者から見れば、それらは極めて理不尽なふるまいである。しかし、これらも本土における戦闘、内戦を覚悟した中国共産党の準備や覚悟の本気度バロメータとして見てみると、また違った見え方がしてくるかもしれない。これについてはまた別途論考してみたい。

(2023/6/19)

*こちらの論考は英語版でもお読みいただけます。
The Revitalization of Renmin Fangkong (Civil Air Defense), China’s Civil Protection: A Barometer of Xi Jinping’s Resolve in Preparation for Armed Conflict with the United States

脚注

  1. 1 2023年以降、註14の北京市政府同様に、上海市人民防空弁公室(上海市民防弁公室)」はもっぱら「上海市国防動員弁公室」を名乗って活動している。ネット上では、この事務所が一般大衆や企業の動員に関係する事業の看板を複数掲げながらも、一つの事務所で管理していることが窺える。
  2. 2 上海民防「人民防空 时刻准备着!(人民防空、常に準備万端)」『上观(Shanghai Observer)』2022年8月3日。
  3. 3 「中華人民共和国人民防空法」第2条。『中央国家机关人民防空网(中央国家機関人民防空網)』。
  4. 4 『国民保護ポータルサイト』内閣官房。
  5. 5 拙稿「コラム(167):防衛駐在官の見た中国(その18)-朝鮮戦争 中国 国際連合 日本-」海上自衛隊幹部学校HP、2015年6月16日。
  6. 6 赵杰「是“地下城”,更是“地下长城”(地下都市であり地下の万里の長城である)」『中国国防报』2019年6月28日。
  7. 7 同上。
  8. 8 同上。
  9. 9 「习近平:坚持人民防空为人民 开创人民防空事业新局面(人民のための人民防空を堅持し、人民防空事業の新局面を切り拓く)」『新华网』2016年05月13日。
  10. 10 谢晓博、汤朔「上海市奉贤区加大人防工程建设力度——『地下长城』多多益善(上海市奉賢区人民防空プロジェクト建設を進める-『地下長城』が益々拡大)」『中国国防报』2023年4月14日。
  11. 11 江辉生「江苏省人防工程普遍设置标识让群众一眼辨识『地下长城』(江蘇省人防プロジェクトでは大衆が一目でわかる『地下施設』標識をあまねく設置)」『中国国防报』2022年12月23日。
  12. 12 李根「德州人防系统:筑牢人民防空『地下长城』」『徳州日报』2022年12月21日。
  13. 13 刘扬涛、王皓「用反腐筑牢人民防空的『地下长城』(反腐敗で人民防空の『地下長城』を築く)」『新华网』2021年4月21日。
  14. 14 「北京市国防动员办公室成立(北京市国防動員弁公室設立)」『中新网』2022年12月28日。http://www.chinanews.com.cn/gn/2022/12-28/9923080.shtml
  15. 15 “ Asia Security Summit the Shangri-La Dialogue, Fifth Plenary Session, Sunday 4 June 2023, General Li Shangfu, State Councilor; Minister of National Defense, China,” International Institute for Strategic Studies, June 4, 2023.
  16. 16 例えば、2022年11月に長期にわたるロックダウンのウルムチで起きた高層マンション火災に起因する市民の当局に対する怒りは瞬く間に中国全土に広がり、習近平政権はコロナ対策を大幅に変更せざるを得なくなった。
  17. 17 宮本雄二「2035年の中国―習近平路線は生き残るか」新潮社、2023年4月、24-25頁。

* 中国語部分の邦訳は筆者の仮訳。