人権擁護をテーマとする人権外交や、そのためのツールの一つである人権に関連した制裁措置(人権制裁)についての議論が日本でも高まっている。そうした制裁を可能にするための日本版マグニツキー法(人権制裁法)制定の議論も、実現までの道のりは長そうだが始まっている。日米、日欧、G7などの外交の場でも、新疆ウイグルや香港、そしてミャンマー、ロシアなど、人権に関する問題がほぼ必ず議題に上る状況になっている。

 最大の背景は、そうした「目立つ」人権侵害のケースが増えていることである。加えて、米国で人権を重視するバイデン政権が誕生したことも新たな要素である。さらに、ルールに基づく国際秩序への中国やロシアからの挑戦がより大きくなり、追加的な対処が必要とされるようになったとの事情もある。そうしたなかで、米国を筆頭に、英国、カナダ、EUなどで人権制裁のための法整備が進められたのである。

出典:首相官邸ホームページ

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なぜ議論はすれ違うのか

 人権外交に関する日本での議論は、入り口の段階で躓いているようにみえる。端的にいって、人権外交が「何であって」「何でないのか」が論者の間で共有されていない。そうした状況が生まれた背景の一つには、人権問題に関する日本の動きが鈍いとの問題提起や批判が増えるなかで、対話と協力という人権問題への従来からの日本のアプローチを擁護する立場の論者が、過剰な防御姿勢をとっているようにみえる現実がある。その結果、人権問題に関する日本の方針や理念を積極的に発信するよりも、米欧の人権外交を批判したり、ツールとしての人権制裁をことさらに否定するような言説が増加したのではないか。

 政府による正式な発信にも、その傾向がみられる。例えば茂木外相は、日本版マグニツキー法を、「一方的に人権侵害を認定して制裁を課すような制度[1]」(2021年2月5日会見)と表現している。「一方的」とは、通常否定的意味合いで使われる言葉であり、このフレーミングは意図的であろう。そうした制度から距離を置きたい本音が反映されている。それでも、人権制裁は各国の判断であり、それを実施しないのも自由である。そうである以上、他国が実施する人権制裁をことさら貶める必要は本来ない。しかも、同盟国である米国を含めた有志国が行っている措置を「一方的」だと評価しているともいえ、これも過剰な防御の一例であろう。

 そもそも、人権外交の一部である人権制裁は、西側諸国においては特殊な措置ではない。マグニツキー法の整備は近年の展開だが、1989年6月の天安門事件を受けて各国が実施した制裁は人権制裁の一種であり、当時導入されたEU(欧州連合)の対中武器禁輸措置はいまだに継続している。人権外交や人権制裁を主張することは、決して極端な立場ではない。

 他方で、各種制約や現実を無視した強硬な人権外交推進論もあれば、「日本国内にも問題がある」との指摘がなされることもある。人権外交懐疑派は、そうした声にも反応しているのだろう。しかし、たとえ国内に問題が存在したとしても、新疆ウイグルやミャンマーなどの問題を放置すべきだということにはならない。別問題である。

 よりよい人権外交に向けた方策を考えることも重要だが、日本での人権外交に関する議論の分裂状況を踏まえれば、まずは議論の整理が求められる。そこで以下では、人権外交が「何であって」「何でないのか」を念頭に、人権外交への代表的な懐疑論をとりあげながら、等身大の人権外交を探ることにしたい。人権外交は全能の怪物でもなければ、無意味な飾り物でもない。

「人権制裁は効果的ではない」論

 人権外交が、他国における人権状況の問題(人権侵害)を前提とし、状況の改善を目指す以上、人権外交の「効果」をはかる基準は、現地における人権状況の具体的改善がなされたか否かであろう。原則論としてはそのとおりである。

 しかし、他国の国内で発生している問題であり、外国から状況を直接に改善させることは難しいことが多い。そのため、関係国間での共同声明発出や、個別働きかけ、さらには人権制裁を含む人権外交も、実態としては、人権状況の具体的改善が第一義的な目的ではないことが多い。そうした場合は、対象国政府に対する抗議の意思表示や、国際社会に対する関心の喚起も重要な目的になる。例えば新彊ウイグルの場合は、中国政府に対して抗議の意思が伝わり、国際社会のアジェンダとして関心が高まれば、初期の目的は達成していると言える。効果があったと言い換えてもよい。

 人権制裁を発動する側も(少なくとも政府は)幻想を抱いていない。2021年3月に協調して実施されたEUや英国による新彊ウイグルに関する制裁の対象は、個人4名と1組織であり、内容も資産凍結と渡航禁止にとどまる。中国政府の姿勢に鑑みても、これで現地の人権状況が実質的に改善されるとは考えにくい。仮に制裁によって現地の状況を具体的に変化させたいと考えるのであれば、次元の異なる大規模な措置が必要になるだろう。レジームチェンジが必要になるかもしれない。しかし人権外交はそれとは異なる。

 「問題がいっきに解決することはない」からといって人権外交に反対する必要はないのである。さらにいえば、「効果が期待できない」という議論を、人権外交を積極的に行わないことの言い訳として使うべきではない。言い訳や方便とみられること自体、日本の利益にならない。欧米の人権外交を効果の観点から批判するのであれば、日本のアプローチがより効果的であることを示してはじめて説得力が生まれる。

「人権外交は偽善だ」、「人権外交はダブルスタンダードに陥る」論

 人権制裁の限定的性質をもって、「そんな中途半端な措置は偽善に過ぎない」や、相手国によって措置を使い分けるとすれば、それは「ダブルスタンダードだ」との批判がなされることになる。

 いずれもよく聞かれる懐疑論である。しかし、おそらくどちらも国際関係においては無いものねだりの議論ではないか。より現実的、プラグマティックな外交を求める立場からそうした主張がなされるのは矛盾であろう。教条的に貫徹できないのであれば最初から何もしない方がよいのか。そうした論者は、他の分野にもそこまで原理主義的な(高潔な)姿勢を求めているのだろうか。

 「米欧だって結局は腰砕けになる」との声も根強い。事実であろう。しかし、歴史的背景もあり、人権外交に対する国内世論の後押しや、人権規範・理念へのコミットメントのレベルは、多くの諸国で日本より高いことは認識しておく必要がある。同盟国や有志国が真剣に取り組んでいるときに、それらは単なる内政上のパフォーマンスだという冷笑的姿勢をとるべきではない。そうした態度が日本の利益になることもあり得ない。

「人権制裁法を整備すれば自動的に発動せざるを得なくなる」論

 これは、主として実務家が有する懸念であろう。従来は、「法的根拠がない」として回避できたが、制度ができてしまえば人権制裁を発動せざるを得なくなる、あるいは、少なくとも発動への内外の圧力が強まり、結果として外交の手足が縛られてしまうというのである。この懸念は軽視できない。外交における議会の影響力が大きくなることへの警戒もあろう。

 しかし、民主主義国家において、国民の意思を最も反映しているのが議会だとすれば、それを無視した外交は、中長期的には存続できない。議会と行政府(外交当局)を対立関係で捉えるのではなく、特に日本の場合は議院内閣制である以上、政府と議会内多数派は一体であり、政府としても議会の影響力をいかに「使う」かという発想が今後はより求められるのではないか。「これでは議会との関係がもたない」とは、民主主義国家の外交当局が使う常套句である。

 そのうえで、法律を整備することと、政策判断・政治判断として制裁を発動することとの間の違いも強調しておく必要がある。「制裁せざるを得なくなる」という懸念は、法整備自体に反対する理由には本来はなりにくい。自動的な発動には至らない制度設計を工夫すればよいからである。

 自動的に発動されてしまう懸念よりも、日本においてより深刻なのは、制度を整備しても、そして人権制裁発動の意思があっても、ハードルが高くなかなか発動できない懸念であろう。新彊ウイグルのような限定的制裁の事例でも、EU、英国、米国、カナダの各当局間では、関連するインテリジェンスがかなりの程度共有され、それに基づく事実認定(インテリジェンスの評価)がなされたとみられる。個人制裁にあたっては、膨大なインテリジェンス収集が求められるのである。

 日本が人権制裁の制度を整備しても、インテリジェンス収集を独力で実施するのは困難である。加えて、他国からインテリジェンスの共有を受けたとしても、日本のインテリジェンス評価の手法・基準は極めて保守的・慎重であり、他国と同じ評価に至らない可能性が低くない。こうした事態が続けば、他国にとっては日本とインテリジェンスを共有する動機が薄れるだろう。インテリジェンスの共有は、評価を共有し、共に行動することが最終的な目的だからである。これは人権外交・人権制裁の範疇を大きく超えた日本の課題である[2]。

「人権制裁への対抗措置で損害を受ける」論

 これは当然の懸念であり、特に限定的とはいえ制裁という強制措置をとる以上、リスクやコストが伴わないことはあり得ないだろう。2021年3月の新疆ウイグルに関する米欧の協調制裁に中国政府は、さらに大規模な対抗制裁で応じた。対EUでは、欧州議会内の組織や議員、加盟国議員、研究者、研究機関などに渡航禁止や取引禁止の措置を発動した。この他、経済的な措置(各種嫌がらせ)も想定される。

 中国による輸入禁止・輸出制限などに代表される強制的経済措置(coercive economic measures)は、人権外交とは全く関係ない文脈でも発生するものであり、日本を含めた国際社会の大きな懸念になっている。尖閣諸島をめぐる問題に端を発する日中間でのレアアース供給危機は、先駆的事例であった。

 想定される対抗措置への最大限の備えをするのは当然であり、そのための方策はさらに強化される必要がある。経済安全保障の問題としての対処の領域である。そのうえで、対抗措置を恐れて政治や安全保障で自らが正しいと思う行動をとれないのだとしたら問題である。例えば政府内において、相手からの対抗措置への懸念が、人権外交の実施を躊躇させることは現実問題としてあるだろう。当然の考慮である。しかしそのことと、対抗措置による損害が予想されることを理由に人権外交への反対を公言することは大きく異なる。それは自ら白旗をあげる行為である。

「外為法の運用改善で対処できる」論

 人権外交、なかでも人権制裁法の整備への懐疑論のうち、既存の外国為替および外国貿易法(外為法)で対応可能だとの議論は、技術的には最も論理的で有力である。2021年5月に発表された人権外交に関する自民党外交部会の提言は、一つの具体的方策として外為法の「積極的運用改善」を挙げている[3]。当面の現実的対応だといえる。

 加藤官房長官は「人権問題のみを直接あるいは明示的な理由として制裁を実施する規定はない[4]」(2021年3月23日午前会見)と述べている。これは、現行法制上、人権制裁が全く不可能だと100%否定する趣旨ではないように読める。直接的・明示的ではない規定が援用される余地が残されている。まさに外為法の「積極的運用」である。

 ここでも、人権制裁に消極的な見地では難しい判断が迫られる。というのも、外為法で対処可能であれば、「法的根拠がない」という説明は使いにくくなる一方で、現実に対処できないとすれば、法整備を求める声が高まる可能性があるからである。ただし、当事者の本音がどこにあったとしても、外為法の拡大解釈や創造的解釈が広がることは、緊急事態における政治的な対処としては許容されるかもしれないが、制度設計としては望ましいものではない。条文と運用が乖離してしまうからである。

「ジェノサイド認定は極端すぎる」論

 特に新彊ウイグルの問題に関しては、報道記事や論考等においても、人権制裁とジェノサイド(虐殺)認定が混同されることが少なくない。純粋な事実誤認が多いと思われるが、ジェノサイド認定を極端なものとして、それと対比させることで、人権外交・人権制裁への懐疑論を展開するという意図的なケースもあるかもしれない。しかし、人権外交、さらには人権制裁にジェノサイド認定が必要なわけではない。

 行政府として新彊ウイグル問題をジェノサイドだと認定しているのは米国政府のみであり、これも、トランプ政権末期の、いわば置き土産である。リトアニアやカナダの議会は独自にジェノサイド認定の決議をしているが、行政府はコミットしていない。EUにおいてもジェノサイド認定はなされていない。

 日本がジェノサイド条約に加入するか否かは重要な問題だが、人権外交や人権制裁の前提ではない点は改めて指摘しておく必要がある。

 人権外交に関して、個別論点や制裁発動の是非、発動の場合のタイミングや規模については、ときに激しい政策議論があって当然である。また、戦後の日本が、東南アジアをはじめとする諸国の発展や民主化において大きな役割を果たしてきた実績も大きい。今後、日本が新たな人権外交に乗り出したとして、そうした歴史を否定することにはならない。

 ただし、国によって異なるアプローチの有用性を積極的に訴えるのであれば、米欧の人権外交も尊重すべきだろう。そのうえで日本として何ができるのかが問われることになる。これは、日本がどのような国でありたいのかという問題でもある。

 本稿ではこれ以上触れないが、こうした人権問題は、日本を含む各国企業の活動にも大きな影響を及ぼすようになっている。たとえ日本政府が従来のラインを超えた人権外交の実施に慎重だったとしても、サプライチェーンにおける強制労働などの人権侵害をめぐる問題から企業が自由になることはないのである。「ビジネスと人権」として議論されている領域であり、日本経済(企業)の利益を守るためにも、人権外交とあわせての対応が求められている。喫緊の課題である。

 人権外交については積極論も懐疑論も結構だが、まずはかみ合った議論をする必要がある。その基礎は等身大の人権外交を理解することであり、想像上の敵と戦っている暇はない。

(2021/07/09)