ドナルドとボリス

 米国と英国の関係は「特別な関係(Special Relationship)」と呼ばれてきた。今日の米英関係は、首脳間の関係に関する限り表面上は非常に良好である。スコットランド出身の母親を持つ米国のトランプ(Donald Trump)大統領と、ニューヨーク生まれのジョンソン(Boris Johnson)首相は、共に型破りな政治家として相性がよさそうだからである。ジョンソンの保守党党首選勝利を受けてトランプは、10代の学生との集会での演説で、以下のようにジョンソンを持ち上げた。

 「我々は世界で尊敬されている。今度英国の首相になるボリス・ジョンソンといういいやつがいる。いいやつだ。彼は頼もしいし賢い。彼ら[英国人]は『英国のトランプ(Britain Trump)』だといっている。彼のことを『英国のトランプ』と呼ぶんだ。そしてみんな、『これはよいことだ』と言っている。彼らは私が好きなんだ。彼らはそれを欲したんだ。それを彼らが必要としている。必要としている。彼は成し遂げるぞ。ボリスはいい。彼はよい仕事をするぞ[1]。」

ドナルドとボリス

 あまりのトランプ節であり、しかも、結局は自分の人気が高いことを示したいだけだったかもしれない。それでも、外国の首脳をここまで個人的に、しかも親しげに持ち上げるのも珍しい。まさに「特別」である。しかし、米英関係という国家間関係は、首脳間の表面的な相性のみで動くわけではない。加えて、全く別の観点では、いずれもポピュリストで、「ポスト真実」と評される2人の関係が密になりすぎても、懸念が生じる。

 ドナルドとボリスの関係はともあれ、今日の米英関係を待ち受ける最大の構造的問題は、英国のEU離脱(Brexit)であり、それによる英国の対米ポジションの低下である。そこで今回の「前編」では、米英FTA(自由貿易協定)問題を中心にこの問題を考える。次回の「後編」では次世代携帯通信ネットワーク5Gへの中国ファーウェイ社の参入問題を事例に、米英のインテリジェンス協力の現段階を検討する。

 結論を先取りすれば、そこで明らかになるのは、FTA交渉などにおける英国のバーゲニング・パワーの顕著な低下と、おそらく今後も強固に維持されると思われる米英インテリジェンス協力との間のギャップである。「特別な関係」の様相は複合的である。

英国の対米交渉ポジションの低下

 英国のEU離脱派(あるいはより広義の欧州懐疑主義者)にとって、「ポストEU」のビジョンの中心に常に位置していたのは米国との関係の強化である。首相退任後だがサッチャー(Margaret Thatcher)はNAFTA(北米自由貿易協定)加盟を提唱したし[2]、さらに遡れば、チャーチル(Winston Churchill)のいう「英語を話す諸国民(English-speaking peoples)」との関係における重要な柱は当然のことながら米国との関係であった。よく知られるように、チャーチルの母親は米国出身である。

 Brexit後の対外関係に関するポジティブな言説は、例えば以下のようなものである。いわく、英国は本来グローバル・プレーヤーであるにもかかわらず、EUの縛りによって世界に羽ばたくことができていない。EU離脱後は、EUの足かせから自由になり、「グローバル・ブリテン」に生まれ変わる。米国のみならず中国ともインドともFTAを締結する。――しかし、そこにおいて見落とされていた、ないし不都合であるために意識的に無視されてきたのは、今日の英国の国際舞台における影響力の一部が、EUに加盟していることに支えられているとの現実である。

 例えば通商交渉においてEUが強い立場で交渉できるのは、巨大な単一市場を擁するからである。米国はもとより、中国やインドとの通商交渉において、EUとしてよりも英国単独の方が好条件を引き出せるとの議論に現実性を見出すことは困難である。端的にいって、英国外交にとってのBrexitは、英国が最も利害を共有し信頼できるパートナー諸国の集まりであるEUという「地盤」の喪失であり、英国の国際的影響力の低下は避けられない[3]。

 そんな追い詰められた状況を逆手に、他国が、英国から従来以上の譲歩を勝ち取ろうと狙うのは、むしろ自然であろう。「弱みにつけ込む」といえば聞こえが悪いが、相手との間の相対的な交渉パワーの見極めは、交渉の基本である。クリントン(Bill Clinton)政権の末期に米財務長官を務めた経済学者のサマーズ(Lawrence Summers)は、英国とのFTAについて、「英国は何のレバレッジも持っていない。英国は追い詰められている(desperate)。英国には何もない」、「英国はすぐに協定[米国とのFTA]を必要としている。相手が追い詰められているとき、最も厳しい条件を飲ませられる[4]」と述べている。さすがに現職の政府高官はここまで直裁的な発言はしないだろうが、これは米国の本音であり、構造的な現実である。

米英FTAへのハードル

 「アメリカ第一」のトランプ政権は、米英FTAに関して、すでにさまざまな球を投げ込んできている。一方でポンペイオ(Mike Pompeo)米国務長官にいたっては、署名のための「ペンをすでに握っている(pen in hand)」とまで述べるなど、早期の米英FTA締結に積極的な言葉が溢れている[5]。

 しかしその裏で早速問題になっているのは、食料品の安全基準であり、例えば、鶏肉の塩素による消毒処理や遺伝子組み替え食物などの扱いが注目されている。これらは米国の安全基準では認められているが、EUでは禁止されており、英国においても、政治家、マスコミ、消費者を問わず懸念が高まっている。米国側は、塩素処理も遺伝子組み換えも、科学的に安全性が証明されており、それを禁止するのは科学的ではないと主張している。その背後には、農産品市場の解放を強く求める農業・畜産ロビーの存在もある。

米英FTAへのハードル

 米国は同様の要求をEUに対しても行ってきたが、EUはそれに抵抗し続けている。もし英国が米国の基準を受け入れた場合には、英国とEUとの境界線での食品安全性や動植物検疫などのチェックの敷居は上がらざるを得ない。単一市場に準じた扱いを受けることも困難になり、それは同時に、後述の北アイルランド国境の自由な往来を確保する観点でも障害となるだろう。

 そして、Brexitの関連で困難な要素として急速に浮上しているのが、アイルランド国境問題である。英国がEUとの「合意なき離脱」にいたる場合には、アイルランド共和国と英国の一部の北アイルランドとの間の国境に、税関のチェックポイントなどが設置され、自由な往来が阻害される事態や、それに関連しての混乱が生じることが懸念されている。一部では、紛争再燃の懸念まで聞かれる。

 自由な北アイルランド国境の維持は、当時の米クリントン政権も深く関与して締結にこぎ着けた1998年の北アイルランド和平(ベルファスト合意)の最も重要な条件の1つである。そのため、米国内、特に連邦議会民主党勢力からは、英国のEU離脱が北アイルランド和平を阻害するのであれば、EU離脱後の英国とのFTAを認めるわけにはいかないとの声がでている[6]。通商交渉の一連のプロセスには議会が深く関わるため、これを無視するわけにはいかない。

 こうした状況を反映してか、当初は楽観的発言を繰り返していたジョンソンも、「米国は非常にタフな交渉相手だ」、「交渉は非常に激しいものになるだろうが、妥結できる」と、若干慎重な言い回しを使うようになっている。同時に、「最も重要で大きな貿易協定は、英仏海峡の先の友人・パートナーとのものだ[7]」と述べ、EUとのFTAの重要性も強調している。

米英FTAへのハードル

 しかし、経済的実益に加えて外交的シンボリズムとしても、米国とのFTAの重要性が低下することはないだろう。それでも、EUとの関係を犠牲にしてまで米国とのFTAに突き進むことは英国の利益にはならない。

 いずれにしても、EU離脱後の米国とのFTA交渉を考えた場合に、英国に有利な要素を見出すことはできない。米英関係のバランスを維持するためにも、英国にとっては欧州という後ろ盾が必要だという現実は、歴史的にもそうだったが、今日においてますますあてはまるのだろう[8]。

 さらに、イラン問題への対応や気候変動への対処など、今日の国際関係において重要性の高い諸課題において、英米間の立場の乖離が顕著になっている。いずれについても英国は、EUと立場を共有している。米英間でも、昔から自然に全ての利害が一致していたわけではなく、いつの時代もたゆまない利害の調整が同盟の基礎である。それでも、対外的な重要政策に関して、これだけ米国との利害が乖離するのは深刻な事態である。そうした条件のもとで英国は、いわば独りで米国と向き合うことになる。EUの存在をあてにすることはもはやできない。これが容易な挑戦であるはずがないだろう。

(2019/08/28)