コロナ禍からの反転攻勢の機会

 猛威を振るう新型コロナウイルスは、経済面でも外交・安全保障面でもインドに大きな試練を与えた。長期にわたったロックダウンによる所得・消費の減少は甚大で、IMFによれば、2020年度(2020年4月~2021年3月)の経済成長率はマイナス8%とも予測されている[1]。このコロナ禍で仕掛けられた中国の「戦狼外交」は、インドとの未解決の国境問題にも及んだ。45年ぶりの犠牲者を出した2020年6月のガルワン渓谷での衝突以降、ヒマラヤの実効支配線(Line of Actual Control: LAC)での軍事対峙は冬に入っても続いた。2021年2月に、ようやくパンゴン湖でLAC付近からの双方の撤退が合意、完了した[2]ものの、他の地域では対峙は変わらず、緊張緩和にはほど遠い。インド国内の対中感情の悪化もあり、中国との貿易・投資関係が冷却化したことが今後のインド経済に負の影響を及ぼすことも懸念される[3]。他方でその中国は、世界主要国で唯一プラス成長を維持し、軍事力のさらなる増強と国境問題等での攻勢を強めてくるものと思われる。

 こうした厳しい情勢のなか、インドのモディ政権が反転攻勢への期待をかけるのが、新型コロナ・ワクチンである。インド国内では、1月16日から、夏までに人口の4分の1近くに相当する3億人を目標とする「世界最大規模の」接種計画が開始された[4]。しかしモディ政権はそれと並行して世界にもインド製ワクチンを供給し始めたのである。インドは元々、ジェネリックをはじめとした医薬品の生産では世界有数の国として知られ、「世界の薬局」を自認してきた。種々のワクチンについてもインドは、これまで世界シェアの約6割を占めてきた。コロナ禍の「マスク外交」に関しては、完全に中国の後塵を拝することになったインドだが[5]、コロナ禍を終わらせるための「ワクチン外交」では絶対に負けるわけにはいかないところであろう。

「近隣第一政策」の切り札として

 モディ政権は「ワクチン外交」によって何を実現しようと考えているのか。そこにはまずもって、インドの「域内」である「直接近隣」、さらには「拡大近隣」における自らの影響力を回復する狙いがあるのは間違いない[6]。インドは近年、中国が「一帯一路」プロジェクトや軍事・権威主義政権への支持などを通じて、南アジア、インド洋といったインドの「裏庭」に、経済・政治・軍事的影響力を拡大・浸透させていることに強い警戒感を抱いてきた。2014年に発足したモディ政権が「近隣第一政策」を掲げ、巻き返しを図ってきたのは事実だが、たとえばスリランカのハンバントタ港の中国企業への99年間のリース、コロンボ港・東コンテナ・ターミナル開発事業からの突然の日印排除決定[7]で典型的に示されたように、その試みが奏功しているとは言いがたい。コロナ禍での中国の積極的な「マスク外交」による医療・経済支援は、これらインド近隣国の中国傾斜に拍車をかけることとなっていた[8]。

 この点で、インドお得意のワクチン生産は、起死回生の切り札とみなされている。インドで製造されるワクチンには、インドが自ら開発し製造するバーラート・バイオテック社のコバクシン(Covaxin)と、英アストラゼネカ開発・印セラム・インスティテュート社製造のコビシールド(Covishield)の2種類があるが、これまでのところ国外に供給されているのは後者である。インド外務省の発表によれば、1月20日から3月7日までのわずか1カ月半のうちに、インドはじつに5,680万回分余りのワクチンを世界に供給した。

インド製ワクチンの国別供給先(2021年3月7日18時現在)

インド製ワクチンの国別供給先(2021年3月7日18時現在)

出所:インド外務省ウェブサイト(https://www.mea.gov.in/vaccine-supply.html: 3月8日アクセス)より筆者作成

 注目すべきなのは、この表を一見してわかるように、モディ政権がインド近隣の「域内」へいち早く無償供与している点である。これまで「親中」とみられ、2020年には領土・地図問題をめぐって反印姿勢を示してきたオリ政権が、昨年末から政治危機に追い込まれるなか、年明けには外相を訪印させるなど態度を軟化させはじめたネパール[9]には、中国に先んじてワクチンを届けた。また中国のシノバックが優先供与することになっていたバングラデシュでは、供与の条件であったバングラデシュ国内での治験実施の費用負担をめぐって対立が生じた間隙を突くかのように、インドが独占的に供給することになった[10]。中国共産党のグローバル・タイムズ(環球時報)紙は「インドの干渉」だと批判するとともに、インド製ワクチンの有効性にも疑問を呈した[11]。しかしその後、インドは中国の「勢力圏」であるモンゴルに対しても無償供与するなど、怯むことなく得意分野での攻勢を強めている。

 他の諸国では、モディ政権がクーデター後のミャンマーに対しても、追加的に無償供与していることが注目される。日米豪との外相会談等では政変を批判し、民主主義回復を求める声明を発出する一方で[12]、対中戦略、またインド北東部の治安と経済発展を考えれば、インドとしてはたとえ軍事政権であろうともミャンマーとの関係は維持せざるをえない。

 このほか、人口規模が小さいものの、地政学的に重要なインド洋の島嶼国では印中の供与合戦と、互いを排除しようとする動きが激化している。スリランカには中国もワクチンを供与したものの、2回目の投与に関してはインド製になる見込みと報じられている[13]。ソリ大統領率いる「親印」政権に回帰した人口50万人のモルディブには、インドがすでに20万回分を供給し、「囲い込み」を図っている。また印中の狭間でうまく立ち回る人口10万人のセーシェルは印中双方から、1月のうちにそれぞれ5万回分を供与され、2月末までにすでに人口の7割以上が接種済みとなっている[14]。これらの背景には、現在頓挫しているインドによる戦略的プロジェクトをめぐる駆け引きがある[15]。印中対立のまさに「漁夫の利」を得た格好である。

世界におけるインドの地位向上を目指して

 ワクチン外交が目指すのは、「域内」での影響力回復にとどまらない。それは「ワクチン・マイトリ(ワクチンによる友愛)」と名付けられ、「域外」でも展開されている。すなわち、近隣政策にとどまらず、グローバルな舞台でのインドの地位向上を図る意識がうかがえる。報道によれば、セラム・インスティテュートは2月3日、ワクチンを世界で公平に分配するためのWHO、UNICEFなどの枠組み、コバックス(COVAX)ファシリティに、なんと11億回分を供給することでも合意したという。ちなみに中国が同日供給表明したのは1000万回分にとどまる[16]。2月以降はアフリカや中南米の国々にも無償、COVAXでの供与を本格化した。3月に入るとイギリスやカナダといった先進国への商業輸出まで開始した。

 また前出の表にはまだ記載されていないものの、2月17日、ジャイシャンカール外相は、インドが今年から非常任理事国として参加する国連安全保障理事会において、現在世界で展開されている平和維持部隊のために20万回分を無償供与すると発表した[17]。こうしたインドの姿勢が世界から好感されているのは間違いない。グテーレス国連事務総長は、世界のワクチン供給におけるインドのリーダーシップに謝意を表明した[18]。3月12日にオンラインで開催されることが決まった初の日米豪印(クアッド)首脳会議では、インドのワクチン輸出を支援する枠組みが主要な議題の一つとなるという[19]。

 このように「世界を救う」[20]とのモディ首相の自負心は、「世界の薬局」の本家として、対中国を意識しつつ、国家の威信を地域のみならず、世界に誇示する機会としても捉えられているように思われる。現代世界を未曾有の危機に陥れた新型コロナの克服に向けた、インドの地域と世界へのワクチン供給の成否は、この国がコロナ後の世界で飛躍できるかどうかの鍵となるかもしれない。

(2021/03/18)

脚注

  1. 1 「政策支援とワクチンが経済活動を活性化させる見込み」『IMF世界経済見通し:IMF世界経済見通し』国際通貨基金(IMF)、2021年1月。
  2. 2 “Joint Press Release of the 10th Round of China-India Corps Commander Level Meeting,” Press Releases, Media Center of Ministry of External Affairs: Government of India, February 21, 2021.
  3. 3 中国製品のボイコットは意味をなさなかったとの指摘はインド国内にもある。Sumanth Samsani “India-China economic ties: Impact of Galwan,” Obserb Research Foundation (ORF), February 4, 2021.
  4. 4 “PM Modi launches world’s biggest vaccine drive, says 3 crore now, 30 crore in Phase 2: Highlights,” India Today, January 16, 2021.
  5. 5 もちろん、インドがコロナ禍で国際貢献を何もしなかったわけではない。2020年3月、モディ首相は南アジア地域協力連合(SAARC)首脳のテレビ会議において、緊急基金の設置を提案し歓迎されたほか、モルディブに陸軍の医療団を派遣してウイルス検査室の設置を支援した。その後、国防省はモルディブ、スリランカ、バングラデシュ、ネパール、アフガニスタンに医療団を派遣する用意ができたと発表した。ところがこの発表は、名指しされた近隣国には「押しつけ」と映ったようだ。各国ともインド軍に支援を求める考えはないとのコメントを出した。
  6. 6 「直接近隣」が文字通りインドと実際に国境を接する国を指すのに対し、「拡大近隣」は直接国境を接してはいないものの、インドが自らの「勢力圏」とみなす地域を意味する。公式の見解はないものの、インド洋沿岸諸国、ASEAN、中東、中央アジア、東部アフリカが想定されている。伊藤融『新興大国インドの行動原理』慶應義塾大学出版会、2020年、120-129頁。
  7. 7 “Chinese hand seen behind blocking India’s bid to develop ECT at Colombo port,” Business Line, February 5, 2021.
  8. 8 Veena Ramachandran, “Opinion: China expanding clout in Sri Lanka’s politics, after dominating economy,” The Week, July 29, 2020.
    その後、スリランカ側は西コンテナ・ターミナル開発事業への日印の参画を認めると発表した。Meera Srinivasan, “India, Japan back in another Sri Lanka port project,” The Hindu, March 02, 2021.
  9. 9 “Start Conversation on Remaining Disputed Segments to Settle Boundary: Nepal to India,” The Wire, January 16, 2021.
  10. 10 Shishir Gupta, “Dhaka turned to India for vaccine after China wanted Bangladesh to share clinical trials' cost,” Hidustan Times, January 24, 2021.
  11. 11 Ai Jun, “Indian media push own vaccine campaign while smearing others,” Global Times, January 26, 2021.
  12. 12 “3rd India-Australia-Japan-USA Quad Ministerial Meeting,” Press Releases、Media Center of Ministry of External Affairs: Government of India, February 18, 2021.
  13. 13 “Sri Lanka orders 13.5 million AstraZeneca doses, likely to drop Chinese COVID-19 vaccines,” The Hindu, February 23, 2021.
  14. 14 “Cumulative COVID-19 vaccination doses administered per 100 people,” Coronavirus (COVID-19) Vaccinations, Our World in Data, March 1, 2021.
  15. 15 モディ政権は、セーシェルの首都ビクトリアから1000キロ南西に位置するアサンプション島で港湾と滑走路の整備・延長を軸とした開発計画を進めようとしてきた。2020年秋にこの開発計画に反対の立場をとってきた野党側のラムカラワンが大統領選挙に勝利したが、彼がインド系であること、またかつてはインドの開発に支持を与える発言もしていたことなどから、インド側には政策転換に期待する声もある。“Indian-Origin Candidate to Be Seychelles President, Ending Ruling Party’s 43-Year Rule,” The Wire, October 25, 2020.
  16. 16 Yoshita Singh, “Serum Institute, UNICEF sign pact for supply of 1.1 billion doses of AstraZeneca, Novavax,” The Print, February 4, 2021.
  17. 17 Geeta Mohan, “India pledges 2 lakh doses of Covid-19 vaccine for UN peacekeeping forces,” India Today, February 18, 2021.
  18. 18 “Coronavirus | U.N. chief voices appreciation for India's leadership in fight against COVID-19, vaccine assistance,” The Hindu, February 21, 2021.
  19. 19 David Brunnstrom and Michael Martina, “Quad Nations Meeting to Announce Financing to Boost India's Vaccine Output,” The Wire, March 10, 2021.
  20. 20 “India ready to save world with 2 locally made vaccines: Modi,” The Times of India, January 10, 2021.