メコンの概要と流域国にとっての重要性

 メコンは、中国のチベット高原を水源とし、雲南省、ミャンマー、ラオス、タイ、カンボジア、ベトナム南部を通り、南シナ海へと流れ込む全長4,800kmに及ぶ大河である。メコンは特にラオス、カンボジア、ベトナムの人々にとってきわめて重要な水資源であり、彼らに農業用水や漁場を提供している。メコンの流域人口はこれら3カ国分で4,500万人に及び、これはラオスとカンボジアの人口の大部分と、ベトナムの人口の5分の1の合計に相当する。この意味で、これらの国々にとってメコンは、農業や漁業といった特定の産業の観点のみならず、国の存立自体に関わる重要性を帯びているといっても過言ではない。一方中国は、自らの国内にあるメコンの水に対する排他的な権利意識が強く、メコンの水を下流部の国々と共有する意識は希薄であった[1]。

非伝統的安全保障課題としてのメコン

非伝統的安全保障課題としてのメコン
(出所:外務省HP

 近年、メコンは深刻な水量の減少に直面している。その直接の原因は、上流の中国とラオスで多くのダムが建設され、水量が絞られているためと考えられている。中国はメコンに11のダムを建設する一方、ラオスは水力発電による電力を主要な輸出品目とすべく、40ものダムを建設した。中国は、ラオスのダム建設を支援している。2019年には、少雨の影響もあり、メコンでは深刻な干ばつが発生した[2]。

 メコンの水量減少に対し、ベトナムは危機感を強めている。水量の大幅な減少は、同河川から農業用水を得ていたメコンデルタの米作を直撃し、収量が減少している。メコンデルタはベトナム最大の穀倉地帯である点から、同国の食糧安全保障の要であり、またコメが主要輸出品目の1つであるベトナムにとって、経済安全保障の問題でもある。さらに、メコンの水量減少によって河川に海水が逆流し、河口付近にあるベトナム最大の商業都市ホーチミン市で水害が発生するようになった。メコンの環境悪化は、河岸の都市の安全をも脅かすようになった。

メコンをめぐる多国間協力枠組み

 現在、メコンをめぐる流域国と域外主要国との協力枠組みは重層的、というよりむしろ乱立気味である。枠組みは全部で5つあり、それぞれメコン・ガンジス協力(インドとの協力枠組み、2000年設立)、日本・メコン地域諸国首脳会議・外相会議(2009年発足)、韓国・メコン外相会議(2011年発足)、ランカン・メコン協力(中国との協力枠組み、2016年設立)、メコン・米国パートナーシップ(2020年設立)である。日米はさらに、日米メコン電力パートナーシップの枠組みも設立し、メコン流域諸国の電力供給網整備を支援している。

 これらの枠組みは基本的に、連結性の強化と経済開発に主眼があり、環境問題は副次的な課題であった。例えばランカン・メコン協力は中国の推進する「一帯一路」構想の一環として、流域の経済開発が主目的である[3]。さらに、2011年から中国はラオス、ミャンマー、タイとメコンでの共同パトロールを定期的に実施している点からは、中国のメコン協力は安全保障協力枠組みでもある[4]。米国のメコン・パートナーシップは、明らかに中国の同地域における影響力拡大に対する対抗策である。これらの枠組みは、日米や日中の場合のように効率性やシナジーを追求し、相互に調整する場合もあるが、実際には協力的というよりはむしろ競争的である。それぞれの枠組みは個別にメコン流域諸国との協力を追求し、メコンをめぐる域外主要国の主導権争いが活発化している。

ベトナムによる「安全保障化」の試み

 ベトナムは、南シナ海での中国との緊張もあり、ASEAN諸国の中では中国に対して最も警戒的な国である。そのベトナムは、2020年にASEAN議長国を務めた。その際ベトナムは、メコンを「安全保障化」し、「ASEANのアジェンダ」とするよう試みた。「安全保障化」(securitization)とは、1990年代にデンマーク・コペンハーゲンにある紛争平和研究所(Conflict and Peace Research Institute, COPRI)の研究グループが提唱した概念である。同概念は、軍事中心、国家対国家の伝統的な安全保障の概念を拡張し、環境、経済、社会、政治といった幅広い分野を安全保障課題として扱うことを可能にした[5]。ASEANの安全保障関係者は、1997年のアジア経済危機、重症急性呼吸器症候群(SARS)、テロ、自然災害、そして煙害を含め、安全保障化の概念を用いて幅広い非伝統的安全保障課題を取り扱った[6]。安全保障概念の拡張は、課題が多様化するあまり、議論が拡散するリスクがある。しかしASEANにおいては、さまざまな非伝統的課題を安全保障化することは、ASEANの安全保障をめぐる議論の活発化を促しただけではなかった。例えば2000年代前半、テロや海賊、自然災害への対応の必要に迫られたASEANは、ASEAN共同体を構築することによってより緊密な安全保障協力を追求した。その一環として、拡大ASEAN国防相会議(ADMMプラス)といった多国間協力枠組みが発展した。

ASEANにおけるアジェンダ化の試み

 ASEAN議長国となった2020年、ベトナムはその立場を活用し、メコンをASEANの非伝統的課題の1つと規定し、それをASEANのアジェンダとすることを追求した。具体的には、ASEAN首脳会議の議長声明のなかで、非伝統的安全保障課題としてのメコンに関して言及し、それを項目化しようとした。これは前回議長国であった2010年に、南シナ海問題の項目化に至った成功体験に基づいていた。

 しかし、今回ベトナムは、メコンの安全保障化とアジェンダ化に成功したとは言い難い。まず、「メコン」という言葉を声明に入れることはできなかった。例えば2020年6月のASEAN首脳会議の議長声明では、環境問題での協力の項目において「気候変動」や「多様な生態系の保護」といった言及にメコン問題を連想するほか、自然災害への対応に関して、「干ばつ」への対応が言及される程度であった[7]。また11月の首脳会議議長声明においては、環境問題や自然災害についてメコンを連想させる言及はなく、わずかにサブ・リージョンの協力枠組みにASEAN全体として取り組む合意として、イラワディ・チャオプラヤ・メコン経済協力戦略その他メコンの経済協力枠組みが言及されるのみであった[8]。

 ベトナムがメコンの安全保障化とアジェンダ化に成功しなかった理由は次の2点である。第1に、流域国をはじめほとんどの加盟国は、中国への配慮からアジェンダ化に消極的であった。またメコンが米中対立の新たな場になる兆しを見せる中、ASEAN諸国は対立に巻き込まれることを恐れた[9]。

 第2に、メコンをASEAN全体の課題ととらえることについて、ASEAN内での議論が尽くされておらず、アジェンダ化に機が熟していない点があげられよう。1990年代半ばから深刻化した煙害については、2002年に国境を超える煙害に関するASEAN協定が締結されるまでに10年近くを要した[10]。確かにベトナムにとって、議長国時にメコンの項目化に至らなかったのは、10年に一度の貴重な機会を逸したことにはなる。しかし、2020年11月に行われた日メコン首脳会議の共同声明には、気候変動に起因する環境問題、特に干ばつに関して加盟国が問題意識を共有し、対策に取り組むことが明記された[11]。中国のいない場では、メコン諸国は環境や干ばつに関する問題意識を共有し、それを表明することができたわけである。

 メコンの問題は、安全保障化とASEANのアジェンダ化の道半ばである。ベトナムは今後も、海洋部ASEAN諸国の理解や支持を地道に得ていく必要がある。ただ、メコンの環境悪化が急激に進む中、ASEAN内のコンセンサス形成にあまり時間をかけられない現実がある。その際、日本をはじめとする域外諸国との協力枠組みを活用し、これらの国々のバックアップを受けつつアジェンダ化を促進することは、有効な手立ての1つであろう。

(2021/06/29)