2016年6月にドゥテルテ(Rodrigo Duterte)現大統領が就任した後、フィリピンの対外政策は大きく変わった。ドゥテルテ大統領は、アメリカとの同盟関係を強化し中国と対決姿勢をとった前アキノ政権の対外政策を180度転換し、アメリカと距離を置き、中国に接近した。その理由は、経済開発の重視、麻薬など治安対策に対する欧米からの非難への反発、中国とコネクションを持つ華人の政権への影響力、個人的な対米不信など様々に取り沙汰されている。ただ、就任から3年が経とうとする現在、米中対立の激化をはじめとする戦略環境の変化に合わせ、フィリピンもアメリカや中国との距離を再調整している。再調整のプロセスにおいて鮮明になったドゥテルテ政権の傾向は、中国との経済協力を強化する基本路線を保ちつつ、対米関係で「南シナ海カード」を使い、より多くの関与を引き出そうとする姿勢である。

対中関係の調整――経済協力と南シナ海での摩擦の増大

 ドゥテルテ政権の対中政策、すなわち政治的接近と経済協力の強化という路線は、現在も基本的に変化していない。対中関係における最優先の課題は依然として、中国と友好的な関係を保ち、経済支援を得ることである。ドゥテルテ政権は現在、「Build, Build, Build政策」(BBB政策)と呼ばれる大規模なインフラ整備計画を推進中である。この政策は、高速道路、橋梁、鉄道、空港といった交通インフラを整備することにより、フィリピン全土でバランスのとれた雇用と経済成長を実現し、貧困問題の解決に資することを目的とする。インフラ整備計画の総額は1,800億ドルにも上り、これは当然国内資金で賄えるものではなく、他国からの支援を前提としている[1]。その相手国の1つは明らかに中国である。

 実際、2019年4月に北京で行われた第2回「一帯一路」国際協力ハイレベルフォーラムへの出席の際、習近平国家主席と李克強首相双方と個別会談を行ったドゥテルテ大統領は、投資の面からBBB政策を支援することについて中国からの同意を取り付けた[2]。またドゥテルテ訪中の際に両国は、エネルギー開発、インフラ整備、食品生産、通信等に関し、総計120億ドルに達する商取引に合意した[3]。さらに同年6月、中国電力建設集団有限公司は「一帯一路」に関連し、電力開発のほか鉄道、高速道路など11の開発プロジェクトに計30億ドルを投資する計画を表明した[4]。

対中関係の調整――経済協力と南シナ海での摩擦の増大

 しかし、深化する経済協力によって、南シナ海におけるフィリピンと中国の領有権争いが鎮火したわけではない。南シナ海では依然として、フィリピンと中国の間でトラブルが頻発している。それらは主として、係争海域における、中国によるフィリピンに対するハラスメントである。例えば2019年初から4月にかけて、フィリピンが実質的に管理するスプラトリー諸島のパグアサ島近海に、200隻以上の海上民兵の一部とみられる中国漁船が大挙して押しかけた。この中国の示威的な行動に対し、フィリピン政府は外交ルートで中国に抗議した[5]。また同年6月には、リード礁付近で停泊中のフィリピン漁船に中国漁船が衝突し、フィリピン漁船が沈没する事案が発生した。フィリピン世論は、中国漁船による「当て逃げ」として対中批判を強め、マニラでは反中デモも行われた[6]。

 こうした中国のハラスメントやトラブルに対してドゥテルテ大統領は、時折強硬な発言によって世論の弱腰批判を避けつつも、トラブルの火消しを念頭に穏当な発言に終始した。そうした大統領の発言は、例えばパグアサに中国漁船が押し掛けた際には「(同島に展開する)兵士は自爆攻撃の用意がある」[7]など挑発的な発言を行ったかと思えば、フィリピン漁船の沈没事案を「ちょっとした海難事故」[8]と形容するなど、一貫性を欠いていた。また2019年6月にバンコクで行われたASEAN首脳会議の席上、ドゥテルテ大統領はASEANと中国の間で進行中の行動規範(Code of Conduct:COC)協議の遅れに対し、失望と不満を表明したが、これも本人の真意か、世論向けのリップサービスであったのか、判然としないものであった[9]。

対米関係の調整――同盟条約見直しの要求

対米関係の調整――同盟条約見直しの要求

 南シナ海問題への対応の文脈で、ドゥテルテ政権は対米関係の再調整をも図ろうとしている。ただそれは、距離を置いていたアメリカへ再接近を図るといった単純なものではなく、対中関係に関する自らの立ち位置を変えないまま「南シナ海カード」を使ってアメリカから安全保障上の関与をより多く引き出そうとする戦略的な動きである。昨年末以来、フィリピン政府はアメリカに対し、同盟条約の見直しを要求している。米比同盟の礎となる条約は、1951年に締結された米比相互防衛条約であるが、有事の際の規定は次のようになっている。

 「第4条 各締約国は、太平洋地域(the Pacific area)におけるいずれかの締約国に対する武力攻撃(armed attack)が、自身の平和と安全にとって危険であることを認識し、憲法上の手続きに従って共通の危険に対処するために行動することを宣言する[10]」。

 フィリピン政府内で見直し論争の中心にいるのは、ロレンザーナ(Delfin Lorenzana)国防相である。国防相は昨年末、米比相互防衛条約を見直すべきであり、見直しが不調に終わった場合は条約の破棄もありうる、とまで発言した[11]。ドゥテルテ大統領は対中接近の理由の1つとして「同盟国アメリカは、南シナ海有事に際してフィリピンのために中国と戦う意思はない。フィリピンも中国と戦争する力はない。そのためフィリピンは中国とは対決せず、対話姿勢をとる」という論理に言及する[12]。この理屈は故なきことではなく、スカボロー事案でのフィリピンの失望があった。2012年、スカボロー礁が中国との対峙の果てに中国の実質的な管理下となった際にも、アメリカは軍事介入することはなかった。フィリピン政府は、アメリカが南シナ海の領有権問題で中立を保ち、有事の際に同盟条約に基づきフィリピンを支援することを確約しないことに、不満を強めていた。

 そのためロレンザーナ国防相は、南シナ海有事に際してアメリカがフィリピンの防衛に確実にコミットするよう、条約の見直しを要求した。要求のポイントは2点あり、条文にある「太平洋地域」と「武力攻撃」の定義である。国防相は、南シナ海有事の対応に沿う形で、定義を明確化するよう求めた。フィリピン側の不満を受け、ポンペオ国務長官は2019年3月にフィリピンを訪問した際、「南シナ海は太平洋地域の一部であるため、南シナ海におけるフィリピン軍、航空機、公船に対する武力攻撃は、米比相互防衛条約第4条における相互防衛義務に該当する」と述べ、南シナ海有事におけるフィリピンの防衛に関し、以前より踏み込んだ発言を行った[13]。またアメリカのソン・キム(Sung Kim)駐フィリピン大使は、海上法執行機関や武装漁民を念頭に「外国政府の意を受けた民兵よる攻撃も、『武力攻撃』に含まれうる」と述べ、フィリピン側の要求に応える形をとった[14]。

 政権内では同盟見直しに関する関係者の発言にはバラつきがあり、例えばロクシン(Teodoro López Locsin Jr.)外相は見直し不要論者であり、ドゥテルテ大統領自身はこの問題に関し意見表明を行っていない。こうしたやり取りを見ていると、ドゥテルテ政権はアメリカとの間で同盟に基づく協力関係を強化するというよりは、フィリピン側の不満を表明し、米比同盟の不備を明らかにし、政権の現在の対中アプローチを正当化しようしている観さえある。実際、2019年5月の総選挙ではドゥテルテ陣営が大きく勝利して政権基盤を盤石にすると共に、大統領自身の支持率も高い水準を保っているため、ドゥテルテ大統領は、自らの政策の優先順位に一層確信と自信を深めているように見える。

 次世代移動通信システムの5Gをめぐる米中の対立に関しても、ロペス(Ramon Lopez)貿易相は、ファーウェイをフィリピン政府として必ずしも排除しない意向を示した[15]。これに対してキム大使は、アメリカとフィリピンの間で同盟関係に基づく軍事情報の共有が困難になる可能性があるとの懸念を示した[16]。ドゥテルテ政権関係者から同盟の解消にまで言及がある中で、ファーウェイを導入しないようアメリカがフィリピンに対して圧力をかけても、効果は未知数である。総じてフィリピンは、現在の中国との関係のあり方を変えるつもりはなく、今後も中国寄りの対中・対米関係の維持と、状況に応じて適宜再調整を行う、という対応をとると考えられる。

(本稿の見解は筆者個人のものであり、所属組織の公式見解ではない)

(2019/07/09)

脚注

  1. 1 伊藤裕子「フィリピン・ドゥテルテ政権の『国家安全保障戦略2018』と対中認識」『China Report』Vol. 36(日本国際問題研究所、2019年3月31日)。
  2. 2 Argyll Cyrus Geducos, “Duterte returns from fruitful trip to China,” Manila Bulletin, April 28, 2019.
  3. 3 Nathaniel Mariano and Othel V. Campos, “Xi promises Duterte $148-milliton grant to PH,” Manila Standard, April 27, 2019.
  4. 4 Kris Crismundo, “Power China invests $3-B in PH,” Philippine News Agency, June 22, 2019.
  5. 5 Andreo Calonzo and Ditas B Lopez, “Philippines Alarmed by Roughly 200 Chinese Ships Near Disputed Island,” Bloomberg, April 1, 2019.
  6. 6 Jason Gutierrez, “Philippines Accuses Chinese Vessel of Sinking Fishing Boat in Dsputed Waters,” The New York Times, June 12, 2019.
  7. 7 “South China Sea: Duterte warns Beijing of 'suicide missions' to protect disputed island,” The Guardian, April 5, 2019.
  8. 8 Julie M. Aurelio, “Duterte: Sinking of PH fishing boat ‘a little maritime accident’,” Philippine Daily Inquirer, June 18, 201
  9. 9 Neil Arwin Mercado, “Duterte ‘disappointed’ over delay in crafting of COC,” Inquirer.net, June 23, 2019.
  10. 10 Mutual Defense Treaty between the Republic of the Philippines and the United States of America, August 30, 1951, Legislative Library of House of Representatives, Republic of the Philippines,
  11. 11 Darryl John Esguerra, “Lorenzana hints possible scrapping of 1951 Mutual Defense Treaty,” I nquirer.net, December 28, 2018.
  12. 12 Azer Parrocha, “US knows war with China ‘not worth it’; Duterte,” Philippine News Agency, April 22, 2019.
  13. 13 Nathaniel Mariano, “Pompeo: US to defense PH,” Manila Standard, March 2, 2019.
  14. 14 Janvic Mateo, “Sea militia attacks could trigger US obligations under defense treaty,” The Philippine Star, June 16, 2019.
  15. 15 Pia Lee-Brago, “Philippines ignores US warning on Huawei,” The Philippine Star, April 1, 2019.
  16. 16 Janvic Mateo, “US envoy warns vs use of Huawei,” The Philippine Star, June 18, 2019.