「自由で開かれたインド太平洋戦略」(FOIPS)にASEANが不安を持つ理由

 2016年8月、安倍首相はケニアのナイロビで開催されたアフリカ開発会議の基調演説において「自由で開かれたインド太平洋戦略」(Free and Open Indo-Pacific Strategy, FOIPS)を提唱した。FOIPSは、①法の支配,航行の自由等の基本的価値の普及・定着、②連結性の向上等による経済的繁栄の追求、③海上法執行能力構築支援等の平和と安定のための取組、を「三本柱の施策」と定め、これらに基づく政策の実行によって地域全体の平和と繁栄を確保することをその目的とする。FOIPSの主眼は、第2次大戦後から続いてきたルールに基づく安全保障・経済秩序の再確認であり、特に空海域、サイバー空間、各国の経済活動の行動様式等の地域・グローバル公共財の自由を重視する。その背景には、この地域における中国の台頭、力による現状変更の試み、「一帯一路」に代表される自らを中心とする新たな地域秩序樹立の動きがあり、米中間で戦略的競争が繰り広げられている現状がある[1]。

 米国は、2017年11月のアジア太平洋経済協力(APEC)首脳会議におけるトランプ大統領演説や、同年12月に発表された国家安全保障戦略において、FOIPSを明確に支持した[2]。日米のほかオーストラリアやインドも支持を表明したFOIPSの中核の1つは、これら4カ国の安全保障協力(Quadrilateral Security Dialogue, QUAD)であり、2017年11月と2018年6月には4カ国の外交当局、同年1月には国防当局がそれぞれ協議を開催し、今後の協力のあり方について議論した[3]。

 東南アジアは、インド太平洋のほぼ中心に位置し、太平洋とインド洋の結節点として地政学上重要な位置を占める。そのため、東南アジア諸国連合(ASEAN)との協力はFOIPS成功のカギの1つとなる。当のASEANの反応であるが、台頭する中国とのバランスをとる意味で、日米の地域における積極的な関与を望んでいるものの、FOIPSについては現在のところ「不安と期待の入り混じった、どちらかといえば不安の方が大きい」状態と形容できよう。

 ASEANがFOIPSに懸念を持つ理由は2つある。第1に、ASEANの中心性が損なわれる恐れである。FOIPSは現在、日米豪印が主軸となって推進しており、ASEANは中心的役割を担う立場にない。従来「アジア太平洋」を中核的な地域概念として、自らが中心となって安全保障や経済の様々な多国間協力枠組みを発展させてきたと自負するASEANにとって、FOIPSは地域における自らの役割を低下させかねないものと映る。またFOIPSは、「インド太平洋」という地域概念と価値観の共有の側面を併せ持っている。もしFOIPSに参加する国々は、FOIPSが掲げる価値観を共有する必要があるとすれば、ASEANの加盟国すべての参加は必ずしも自明ではない。この場合、ASEANの一体性や、一体性が保証されることによってはじめて可能となるASEANの中心性が担保される保証はない。

 第2に、中国封じ込めへの加担の恐れである。FOIPSの目標は中国封じ込めではなく、中国の拡大するパワーがルールに基づく秩序に挑戦し、それを包囲し、無視するために使われることがないよう力を合わせ、究極的には中国や他の国々を既存のルールや原則に従うよう促すことである[4]。しかし、中国側の警戒感もあり、ASEANもQUADに代表される安全保障協力枠組みが中国封じ込めの目的を持つのではなないかという警戒感を根強く持っている。

ASEAN

ASEANの「自由で開かれたインド太平洋戦略」への対応

  不安と期待の入り混じったASEANの対応は第1に、独自の対案の提唱である。インドネシアは、2018年4月にシンガポールで行われたASEAN非公式首脳会議において、FOIPSとは異なる独自の「インド太平洋協力」戦略を打ち出した。これは中国封じ込め戦略ではなく、その基本原則として①包括的で透明性があり、かつ総合的な枠組みの設立、②地域のすべての国々にとって長期的に利益となる、③平和、安定、繁栄を維持するためインド太平洋諸国の共同の取り組みに基づく、④国際法とASEAN中心性の尊重、を掲げる。こうしてインドネシアは日米のQUADと台頭する中国の間の「第3の道」を模索している[5]。

  第2に、基本的な考えに対する賛同である。日本はASEAN各国に対し、FOIPSへの支持取り付けのため活発な外交活動を展開している。外務省の発表によると、ASEANの国々の反応をざっと列挙すると次のようになっている。

 ・ブルネイ:「歓迎」(2018年7月外相会談)

 ・カンボジア:「歓迎し、支持」(2017年8月首脳会談)

 ・ラオス:「日本のリーダーシップは重要なものであり、ラオスもASEAN内での議論に積極的に参加していきたい」(2018年6月首脳会談)

 ・マレーシア:「対立や緊張は望ましくなく、航行の自由を確保することが重要」(2018年6月首脳会談)

 ・ミャンマー:「日本の支援に感謝する、日本の様々な支援はミャンマーの国づくりにとって重要」(2017年12月安倍首相とティン・チョウ大統領との会談)

  基本的にASEAN諸国はFOIPS、特に連結性の向上と経済発展の側面に賛意を示している。その中で一部、明確な賛意の言質を与えることを回避するものや、支持を正面から明確にしない場合があり、ASEANの慎重姿勢が見え隠れする。

  ASEANの慎重姿勢を象徴するのがベトナムの対応である。QUADに関し、南シナ海における中国との緊張や近年目覚ましい進展をみせている日米豪印との安全保障協力に鑑み、ベトナムが “QUAD” に加わり5か国の “QUINT” (Quintilateral)となる可能性を論じる議論がある[6]。しかし、ベトナムはFOIPSに関して沈黙を続け、いかなる公式見解も表明していない。FOIPSは現在までのところ将来展望にとどまっており、具体的にどのような政策を追求するのかが不透明であるうえ、中国との対立軸を鮮明にすることのリスクが、ベトナムの態度表明をためらわせる最大の要因となっている。ベトナム政府内の安全保障や外交政策の決定過程に関わる人々の意見も割れており、国防当局は消極的である一方、外交当局は比較的積極的である等、当事者間でコンセンサスに至っていないようである[7]。

  第3に、ASEANの反応を受けた日米の再検討待ちである。2018年のASEAN議長国であるシンガポールのリー・シェンロン首相は、FOIPSは進化の過程にあり、「我々は、最終的な産物が、すべての国が平和的かつ建設的な方法で相互に関与する、包括的で開かれた地域アーキテクチャとなることを望んでおり、互いに敵対するブロックが形成され、各国がどちらかの側につかなければならないような状態となることを望んでいない」と述べ、FOIPSがASEANの希望を汲む形で変化するよう望んでいることを明らかにした[8]。日米もASEANの慎重姿勢を認識しており、例えば2018年8月の一連のASEAN会合の場でポンペオ国務長官と河野外相はそろってFOIPSにおけるASEANとの協力の重要性と、ASEAN中心性の保証を強調した[9]。

  総じて、FOIPSに対するASEANの現在の反応は慎重かつ受動的であり、日米の提唱する戦略をそのまま受け入れる姿勢を示してはいない。よしんば戦略の内容が明確になった際でも、それが中国との対立姿勢を明確にするものであれば、ASEANにとってFOIPSに賛意を示すことは一層困難となるであろう。中国が「一帯一路」構想を推進し、中国の経済的な影響圏にASEANが包摂されつつある状況下、ASEANの戦略的選択肢は狭まっている。しかし、中国の提示する地域ビジョンはASEANにとって常に魅力的なわけではなく、中国が志向する垂直的な秩序は、平等とコンセンサスを理念としてきたASEANの流儀にも適合しない。ASEANはそのため、日米をはじめとする域外主要国がASEANにとって適切な方法で関与することを求めているという意味で、FOIPSに期待している側面もある。そうした文脈で、いつものASEANのように、FOIPSへの態度表明を検討する姿勢を徐々には示すようになっている。2018年8月のASEAN外相会議共同声明は次のように述べている。

我々はインドネシアのインド太平洋概念に関するブリーフィングに留意した。我々は、ASEAN中心性、開放性、透明性、包括性、ルールに基づくアプローチ、を包含し、相互の信頼、敬意、利益に貢献するインド太平洋概念に関するさらなる議論に期待している。[10]

  このようにASEANは現状、日米のイニシアチブを正面から扱うことは回避し、インドネシアのイニシアチブに基づきASEANで議論を進める、という意思表明にとどまっている。これは中国の動向をもにらみつつ、東アジア国際政治において「安全運転」を心がけるASEANの平衡感覚の表れであるといえよう。

(本稿の見解は筆者個人のものであり、所属組織の公式見解ではない)

(2018/09/18