2019年2月1日、アメリカはロシアに中距離核戦力全廃条約(INF条約)の破棄を正式に通告した。これを受けてロシアもまた条約で定められた義務履行の停止を表明。この結果、INF条約は6か月後に正式に失効することとなる。本稿では、はじめにINF条約が締結された背景を概観したうえで、条約の歴史的意義を評価するとともに、締結から30年以上を経て条約が抱えていた問題を指摘する。そのうえで、INF条約廃棄が日本の安全保障に与える影響を考察する。

INF条約とは?

 INF条約は1987年にアメリカとソ連の間で締結された条約であり、射程が500㎞から5,500㎞までの地上発射型の弾道ミサイルと巡航ミサイルの廃棄を定めている。特定の兵器の全廃を定めた初の条約であった。条約締結の背景にはソ連が1975年に開始した射程5,000㎞のSS-20中距離弾道ミサイルの配備があった。これが西ヨーロッパ全域を射程に収めたことから、NATOにおいてはヨーロッパ諸国とアメリカの離間(デカップリング)をもたらし、東西陣営間の戦力バランスをソ連側に有利にすると考えられた。そのためこのミサイルを脅威ととらえたNATOは1979年、対抗措置として「二重決定」を行った。これは、ヨーロッパにアメリカ製の中距離核戦力(INF)を配備することでソ連に圧力をかけると同時に、双方が配備しているINF廃棄のための交渉を進めるというものである。この決定に基づきNATOは1983年から射程2,500㎞の地上発射型巡航ミサイル・トマホーク(GLCM)と射程1,800㎞パーシングIIの配備を開始した[1]。

 INF条約の交渉は正式には1981年から開始されたものの、1983年にはイギリスとフランスが保有する中距離核戦力の扱いをめぐる対立からソ連側により中断された。しかし、1985年にミハイル・ゴルバチョフ(Mikhail Gorbachev)がソ連共産党書記長に就任すると協議が再開され、大きく進むことになる。米ソ双方からの提案、逆提案を経て、米ソは1986年のレイキャビク・サミットにおいて大筋で合意し、1987年12月にロナルド・レーガン米大統領(Ronald Reagan)とゴルバチョフ書記長によって調印された。

 なお、INF条約はヨーロッパの戦略環境の変化から始まったため、交渉の途中段階まで、INF廃棄の焦点はヨーロッパにあった。1986年初頭のゴルバチョフ提案はヨーロッパ配備のINFを含む核兵器の禁止であったし、1986年10月のレイキャビク・サミット前にアメリカが用意していた妥協案は、ヨーロッパに配備したINFを全廃する一方、アジアに配備したSS-20は100基に半減するというものであった。このアジアにおけるINFの存続を排したのが日本であった。当時の中曽根康弘政権は、西側の安全保障は不可分であり、西側全体の安全保障を考慮してSS-20の問題解決が図られるべきであること、SS-20がヨーロッパから極東へ移転されるような解決は受け入れられないことを繰り返し申し入れていた。そのためアジアの犠牲の上に解決が図られるアメリカの妥協案には強硬に反対した。その結果、アメリカはINF全廃を目指すことを決断し、「グローバル・ゼロ」が達成されることになったのである[2]。

INF条約の問題点

 INF条約は米ソ間で対立と核軍拡競争が繰り広げられてきた歴史を和解と軍縮に転換したという点で大きな意義があった。加えて、冷戦終結を挟んで進んだ軍縮は、冷戦終結に伴う混乱を抑え込む役割も果たした。しかしながら、締結から32年を経て世界の安全保障環境が変化する中で、現在ではINF条約が持つ意義も変化し、問題も浮上していた。

 特にアジアにおいては中国の経済発展と軍事力増強、1990年代以降のミサイル開発の加速、さらには北朝鮮の核開発とミサイル開発に伴い、軍事的バランスが大きく変化している。中国は現在、70基の大陸間弾道ミサイル(ICBM)のほか、INF条約で廃棄対象となった中距離弾道ミサイル(IRBM、射程3000-5500km)16基、核弾頭搭載可能な準中距離弾道ミサイル(MRBM、射程1000-3000㎞)80基、GLCM(射程1500㎞以上)54基に加え約280個の核弾頭を保有していると見積もられている[3]。このうちMRBMは日本全域を射程に収めており、IRBMはグアムのほか東南アジア全域とロシア東部全域を攻撃できる。中国のINFはアジアにおけるアメリカの同盟国を射程に収めているだけでなく、沖縄やグアムの主要な米軍施設を攻撃できる能力を備えているのである。北朝鮮もまたICBM6基、IRBM12基、MRBM10基と見積もられている[4]。

 このような状況の下、ロシアとの間の条約に縛られていては、アメリカは中国などの急速な核戦力の拡大に対応できず、アジアにおいて自国と同盟国を危険にさらしかねないことはかねてから指摘されていた。米ロのみがINFを禁止された条約を維持することは中国に好都合である。バラク・オバマ前政権時代から、アメリカは既に中国の勢力拡大を警戒しヨーロッパからアジアに軸足を移している。「競争相手」となった中国に対抗するためには、ジョン・ボルトン大統領補佐官(国家安全保障担当)が指摘したように、アメリカのINF条約脱退の主な目的は中国への対抗であると考えられる。「INFミサイルの脅威を低減させるためには、INF条約への加盟国を増やすか、自前の抑止力を再構築できるようアメリカがINF条約を永遠に破棄するかしかない」[5]のである。

日本への影響

 一度INFを全廃したアメリカが再度戦力を構築し配備するには時間がかかることは指摘するまでもない。その間、アジアとヨーロッパの同盟国は「INF条約後」の世界に適応する方法を考えなければならないだろう。ただし、中国から離れたヨーロッパと、ロシアだけでなく中国と近接する日本では戦略環境が異なる。ヨーロッパはロシアの脅威に集中することができる一方で、日本はアメリカとともに中ロ両国の中距離戦力構築に対抗しなければならない。INF条約の失効は、アメリカとロシアのみならず、中国を巻き込んだINF開発競争につながり、日本はロシアと中国の核の脅威に同時に直面する可能性もある。この点で、日本はより複雑なバランスへの対応を迫られることになろう。

 日本にとって喫緊の課題となるのは軍備強化を急激に進めながら、南シナ海などで軍事力を誇示することで既存の国際秩序に挑戦する中国への対応である。将来アメリカがINFを東アジアに配備するとすれば、中国をも想定するものになるであろう。その際、新たなINF配備の候補地として日本が挙がることは避けられない。実際に、専門家の間ではすでに日本が受け入れ国候補として挙げられているという[6]。ハワイやグアムは有力な候補地ではあるものの、配備場所が限られ多数のINFを配備することはできない。また韓国は、米韓関係が不安定であり、戦域高高度地域防衛(THAAD)配備をめぐって韓国が中国の意向を重視したという経緯もある。フィリピンもまた過去に米軍が撤退した歴史を持ち、安定した基地の運用が可能かどうかには疑問が残る。

 当然、非核三原則を堅持する日本に核弾頭を搭載するINFを配備するのは現状では非常に難しく、アメリカの潜水艦や艦艇へのミサイル搭載のほうが現時点ではより現実的な選択肢であろう。しかしこの場合にも、アメリカの核搭載艦が日本の領海を通過する場合や米軍基地に立ち寄る可能性は高い。核を搭載した艦船の寄港や領海内通航が非核三原則に反するという議論が再び展開されることは想像に難くない。日本は中国の脅威への対抗の必要性と非核三原則との間で厳しい選択に直面するかもしれない。

 冷戦期にアメリカがドイツにINFを配備した際には、ドイツでは激しい反核運動が巻き起こり、安全保障の確保と非核感情との間でドイツは大きく揺れた。同様の問題に日本は今後取り組まなくてはならないのではないか。日本の安全保障を確保するうえではアメリカによるINFの再保有、配備は、アメリカが冷戦期にヨーロッパの防衛とソ連への抑止のためにヨーロッパにINFを配備したのと同様、INFは中国に対する大きな抑止力となる。この点を見落とすことなく戦略的に思考することが必要な時代が来ていると言える。

 (2019/03/08)

脚注

  1. 1INF配備の意義については、梅本哲也『核兵器と国際政治―1945-1995』日本国際問題研究所、1996年、137-159頁、岩田修一郎『核戦略と核軍備管理―日本の非核政策の課題』日本国際問題研究所、1996年75-78頁が詳しい。また交渉過程については、Raymond Garthoff, The Great Transition: American-Soviet Relations and the End of the Cold War, Brookings Institute Press, 1994, pp.197-337.
  2. 2INF交渉に対する日本の影響力については、佐藤行雄『差し掛けられた傘:米国の核抑止力と日本の安全保障』時事通信社、2017年、23-33頁、および瀬川高央、「中曽根政権の核軍縮外交 -極東の中距離核戦力(SS-20)をめぐる秘密交渉-」『經濟學研究』第58巻3号、2008年、167-181頁に詳しい。
  3. 3IISS, Military Balance, p. 250; Hans M. Kristensen, and Robert S. Norris, “Status of World Nuclear Forces 2017,” FAS Nuclear Information Project, 2018,
  4. 4Ibid. p.275.
  5. 5LARA SELIGMAN, “Trump’s Plan to Leave a Major Arms Treaty With Russia Might Actually Be About China”, Foreign Policy, OCTOBER 22, 2018
  6. 6「米離脱強まる対中姿勢:INF新ミサイル、日本配備も」『朝日新聞』、2019年2月2日。