世界銀行は2020年4月、中東・北アフリカ諸国は「2つのショック」――すなわち新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の蔓延と原油価格の急落に見舞われていると論じた。そして、同地域の経済成長見通しを、2019年10月の前年比プラス2.6%からマイナス1.1%へと大幅に引き下げた[1]。
本稿では、この「2つのショック」が中東諸国の政治・経済に与える影響、そして日本のエネルギー安全保障への影響について考察したい。
エネルギー需要減に協調減産体制の崩壊が追い打ち
上述の4月のレポートに続いて、世銀が6月に発表した『世界経済見通し(Global Economic Prospects)』では、中東・北アフリカ地域の2020年のGDPは4.2%縮小すると予測された。COVID-19の世界的流行と原油市場の低迷により、産油国のサウジアラビアはマイナス3.8%、UAEはマイナス4.5%、イランはマイナス5.3%など、経済の失速が見込まれる。非産油国でも、主要産業の観光や製造業、産油国への出稼ぎ労働の停滞などから、レバノンではマイナス10.9%、チュニジアやモロッコではマイナス4.0%など、厳しい見通しが並ぶ[2]。
また、IMFは6月24日、「世界経済見通し(WEO)」の改訂版を発表したが、中東・中央アジアの2020年経済成長率をマイナス2.8%からマイナス4.7%に引き下げた。特に、サウジアラビアはマイナス6.8%と、極めて厳しい見通しになっている[3]。各国は支出削減や外国資産の引き出し、国際機関からの借り入れなど対応を進めているが、今後は財政悪化の影響が顕在化していくだろう。すでに2020年10月に開催予定であったUAEドバイ万博は1年延期が決定し、サウジアラビアで行われるG20首脳会議も対面での開催には暗雲が立ち込めている。
さらに、中東・北アフリカ諸国の経済は、世界経済の停滞によるエネルギー需要の減少に加えて、産油国による協調減産体制の崩壊と石油価格の急落によって追い打ちをかけられた。3月6日、OPECにロシアなどを加えた「OPECプラス」の減産交渉が決裂し、その後にサウジアラビアが大幅な増産を発表したことから、原油価格が1バレル当たり20ドル割れ寸前にまで急落した。4月12日、OPECプラスは日量970万バレル(b/d)という史上最大規模の減産に合意したものの、COVID-19の感染拡大にともなう需要減と重なって、4月20日にはWTI(ウエスト・テキサス・インターミディエート)原油価格[4]が史上初のマイナス37.6ドルを付けた。
6月6日、「OPECプラス」は970万b/dの減産合意を7月末まで延長することで合意した[5]。この決定は、2020年のグローバルな石油需要が前年比で約900万b/d減少するという予想を踏まえたものだという[6]。産油諸国は価格の安定化に向けて動いているが、エネルギー需要の減少は長期化するとみられており、原油価格には下押し圧力が働き続けている[7]。
中東地域の地政学情勢の不安定化
「2つのショック」に襲われて経済の停滞が予測される中東地域において、治安や地政学情勢は不安定化すると考えられる。コロナ禍の中で報道は減っているものの、イスラエルとイランおよび親イラン勢力、イランと湾岸アラブ諸国、サウジアラビア・UAE・エジプトとカタール・トルコといった多層的な対立構造は解決されていない。また、シリア、イエメン、リビアにおける内戦と諸外国の軍事介入も深刻化するほか、イスラエルによるヨルダン川西岸併合の動きも具体化している。
2019年6月に日本の海運会社が保有するタンカーがホルムズ海峡付近を航行中に攻撃を受けた事件は、中東情勢の不安定化が日本の権益にとって直接的な脅威となるリスクを浮き彫りにした。2019年から2020年初頭にかけてのペルシャ湾岸における緊張状態の高まりは一旦緩和されたが、6月下旬からイラン国内の核施設や軍事施設を含む複数の場所で原因不明の火災・爆発事故が発生している。今後も域内における実行主体不明の軍事攻撃や突発的な武力衝突が発生する可能性は否定できない。
COVID-19の蔓延によって、各国政府は国内の感染対策や経済回復に集中し、軍事介入や攻撃的な対外政策は抑制されるという見方もある[9]。しかし、コロナ禍によって人の移動が制限され、対立する諸国の交渉チャネルが限定的になったことで、緊張緩和や和解は阻害される可能性がある。対立する諸国間での誤算、または突発的な武力衝突によって、局所的な対立が過剰な反応を引き起こし、中東域内で「意図せざる戦争(unwanted war)」を引き起こすリスクは緩和されていない[10]。
日本のエネルギー安全保障への影響
日本など石油や天然ガスを輸入に依存する国々にとっては、原油価格の下落は経済的にプラスに働くという見方もある。しかし、「安すぎる石油」は産油国の政治・経済不安を誘発するだけでなく、本来必要な投資や開発を阻害し、エネルギー産業の縮小をもたらすため、中長期的にグローバルなエネルギー供給体制を毀損する恐れがある。また、中東地域の非産油国の経済は周辺の産油国に出稼ぎ労働や産品輸出、投資などを通じて依存している場合が多いため、前述の通り産油国の経済停滞の影響を大きく受ける。日本は中東に原油の約8割、天然ガスの3割弱を依存していることから、「2つのショック」を受けた中東諸国の不安定化は、日本のエネルギー安全保障や経済に深刻な影響を与え得ると考えるべきである。
したがって、日本もエネルギーとテロ・治安問題の連鎖に警戒が必要である。例えば2013年にアルジェリア南部で発生した「イナメナス事件」では、天然ガス施設が武装勢力に襲撃され、邦人も犠牲となった。コロナ禍によって軍や警察の行動が制限されるようになれば、それだけ石油・ガス関連施設の警備・監視活動は手薄になるため、テロ攻撃などへの対応も難しくなる。また、イラクやシリアでは、軍や警察がCOVID-19の対応に追われ、米軍などの連合軍が一部国外に退避したことで、「イスラーム国(IS)」がテロ活動を活発化させている[11]。
米国のジャーナリストであるロバート・カプランは、地政学的な観点からエネルギーについて考えるためには、エネルギーの供給地と消費地、そしてそれらを結ぶルートに焦点を当てる必要があると述べた。そして、チョークポイントやシーレーンといった概念が重要な意味を持つと指摘した[12]。「エネルギー地政学(energy geopolitics)」は必ずしも古典的な国家間の戦略的競争を前提とした考え方ではないが、国家の存続と発展に不可欠なエネルギー資源の安定的確保のために、地政学や安全保障と組み合わせた視点が求められる。この点は、石油・天然ガスのパイプラインが国境を越えて張り巡らされ、ホルムズ海峡、バーブル・マンデブ海峡、スエズ運河といったチョークポイントが複数位置する中東地域において顕著である[13]。
「エネルギー地政学」の観点からは、中東の産油・ガス国の不安定化にとどまらず、輸送ルート、大規模な自然災害や紛争など、多様な供給途絶や市場変動のリスクを検討する必要がある。COVID-19の蔓延と原油価格の低迷という「2つのショック」が国際社会を揺さぶる現在、中東諸国の動向を注視し、地政学的な観点から日本のエネルギー安全保障を再検討する必要性はいっそう高まっているといえよう。
※著者の肩書は掲載時のものです。
(2020/07/16)
脚注
- 1 World Bank, MENA Economic Update April 2020, April 9, 2020.
- 2 World Bank, Global Economic Prospects June 2020, June 2020
- 3 国際通貨基金「類例のない危機、不確実な回復」、『IMF世界経済見通し:2020年6月改定見通し』2020年6月24日。
- 4 世界の原油取引では、主要消費地である北米、欧州、アジアの三大市場の価格が重視されるが、北米はWTI原油、欧州は北海ブレント原油、アジアは中東産ドバイ原油が価格指標になる。このうち、WTIと北海ブレントは先物市場での取引量が多く、価格決定の透明性が高い。ニューヨーク市場のWTIは米国内の原油生産や在庫など、米国固有の事情の影響を強く受けやすい。またロンドン市場の北海ブレントは、欧州に近い中東やアフリカの情勢変化を敏感に反映する傾向がある。
- 5 OPEC, “Declaration of Cooperation: Statement at the11th OPEC and Non-OPEC Ministerial Meeting,” June 6, 2020
- 6 OPEC, “The 11th OPEC and non-OPEC Ministerial Meeting concludes,” Press Releases, June 6, 2020.
- 7 小山堅「世界恐慌以来の経済落ち込みで、WTIは2002年2月以来の20ドル割れ」日本エネルギー経済研究所『国際エネルギー情勢を見る目』 No.476、2020年4月16日。
- 8 日根大輔「湾岸産油国の状況」日本エネルギー経済研究所中東研究センター、情勢分析報告会『新型コロナウイルスと湾岸諸国』、2020年6月25日。
- 9 Masoud Mostajabi, “Will COVID-19 exacerbate or defuse conflicts in the Middle East?” Atlantic Council, May 21, 2020
- 10 Robert Malley, “The Unwanted War: Why the Middle East Is More Combustible Than Ever,” Foreign Affairs, vol.98, No.6, pp.38-46, 2019.
- 11 Louisa Loveluck and Mustafa Salim, “ISIS exploits Iraq’s coronavirus lockdown to step up attacks,” The Washington Post, May 8, 2020.
- 12 Robert D. Kaplan, “The Geopolitics of Energy,” Forbes, April 4, 2014.
- 13 拙稿「中東情勢と日本のエネルギー安全保障」『Security Studies 安全保障研究』2-2巻、2020年6月、15-30頁。