前回、筆者は「オムニユース時代のバイオテクノロジー」という視点から、生命科学技術が医療、農業、環境、産業、安全保障など社会のあらゆる領域へ広がりつつある現状について論じた[1]。生命科学はもはや一部の専門家だけのものではなく、社会そのものを形づくる基盤技術になっている。その視点を基に、このようなオムニユース時代に国家と社会はいかなる制度を構築すべきかをシリーズで考えていきたい。本稿で扱うのは、その出発点となる「バイオディフェンス」(生物防衛)である。

バイオディフェンスとは何か
バイオディフェンスという言葉から、多くの人は生物兵器への対処を思い浮かべるかもしれない。冷戦期には、生物兵器による攻撃を想定し、病原体の監視、防護装備の整備、ワクチンや治療薬の開発、封じ込め体制の強化など、「脅威を特定し、侵入を防ぎ、被害を抑える」という発想が安全保障の中心にあった。しかし現代のバイオディフェンスでは、「何が起きたのか分からない危機」に国家がどう備えるかが求められる。
ある日、都市部で原因不明の感染症が発生したとする。患者が増加し、医療機関は混乱する。しかし初期段階では、それが自然発生した感染症なのか、研究施設での事故なのか、あるいは意図的な生物攻撃なのか判別できない。現実のバイオリスクでは、発生原因が不明な状態から危機対応が始まることの方が一般的である。
2001年の米国炭疽菌郵送事件は、この難しさを示した事例である。同時多発テロ直後、炭疽菌入り郵便物により22人が感染、5人が死亡した。当初はアルカイダなど国外のテロ組織による攻撃も疑われたが、その後の長期にわたる捜査の結果、米国内の研究機関に所属していた科学者による犯行であった可能性が高いと結論付けられた。しかし、その結論に至るまでには長い時間を要した。その間、社会不安は拡大し、郵便、医療、行政機能に大きな影響が生じた。この事件が示したのは、危機の発生直後には「外部からの攻撃」なのか「内部の問題」なのか判別できなかったことである。
近年のバイオディフェンスでは、バイオ脅威を「自然発生」「事故」「意図的利用」を包括するものとして捉える考え方が広がっている[2]。重要なのは、原因が判明する前から対応を始められる体制の構築である。早期警戒、バイオサーベイランス、訓練・演習、研究開発、サプライチェーン強靱化、官民連携などを通じ、リスクを低減し、備え、対応し、回復する能力が求められる。被害を最小化して社会機能を維持し、迅速に回復できる社会を作る「レジリエンス」(強靱性)であり、拒否的抑止(Deterrence by Denial)[3]とも呼びうるものである。社会全体の対応能力を高め、「攻撃しても目的を達成できない」と認識させることで脅威を無効化する考え方である。これこそが、オムニユース時代に求められる現代バイオディフェンスである。このような特徴から、近年のバイオディフェンスでは「Whole-of-Society(社会全体)アプローチ」が重視されている。
バイオディフェンスの5つの柱
現代のバイオディフェンスの核心は、単一の組織や技術ではなく、社会全体を一つの防御システムとして機能させることにある。そのためには、①早期警戒・異常検知、②対応能力、③サプライチェーン強靱化、④リスク管理・規制、⑤バイオ産業競争力、という5つの柱を統合的に整備することが重要となる。

(1)早期警戒・異常検知
第一に重要なのが、感染症や異常事象の兆候を早期に把握する能力である。感染症サーベイランス、ゲノム解析、データ分析、国際的な情報共有を通じて、「いつもと違う」を素早く見つけることが被害の抑制につながる。そのためには、社会全体を「センサー」として活用する考え方が注目されている。下水サーベイランスやリアルタイム診療情報、病原体解析に加え、人工知能(AI)を活用した異常検知も進んでいる。症状の報告や、動物感染症、患者の移動情報などを統合的に分析し、危機を先回りして捉えようという試みである。
同時に、異常を検知しても、それを迅速に共有し、意思決定につなげなければ意味がない。地方自治体、医療機関、研究機関、政府、国際機関が平時から情報を共有し、共通の状況認識を持てる仕組みが必要になる。「病気が広がってから対応する」から「兆候を捉えて先回りする」への転換である。現代のバイオディフェンスは、社会全体を巨大な早期警戒システムへと進化させようとしている。
(2)対応能力
第二に、危機発生時に実際に機能する対応能力の構築である。例えば、感染症が発生した場合、最前線で異常を察知するのは地域の医療機関かもしれない。消防や救急隊は患者搬送や現場対応に当たる。警察は混乱した現場の安全確保や重要施設警備を担う。自治体は住民への情報提供や生活支援を行う。研究機関は病原体分析を行い、政府は全体の調整を担う。必要に応じて自衛隊も輸送支援や大規模な医療支援に参加する。それぞれが個別に効果的であるだけでなく、危機発生時に一つのシステムとして機能できるかどうかが肝心である。
特に近年は、化学・生物・放射性物質・核(CBRN)事案への対応能力の強化が進められている。消防には特殊災害対応部隊(通称:HAZMAT)が整備され、汚染地域への進入、除染、救助活動を行う能力が付与されている。警察も現場封鎖や証拠保全に加え、意図的な攻撃であった場合の捜査能力を強化してきた。自衛隊も大量搬送、野外医療、広域支援、特殊防護能力などを整備している。こうした個々の機能の能力は着実に向上しているものの、重要なのは、「誰が何をするのか」「情報はどのように共有するのか」「指揮命令や意思決定をどのように調整するのか」を平時から明確にし、共通の状況認識の下で迅速に連携できる体制を構築することである。
(3)サプライチェーンの強靱化
第三に、サプライチェーンの強靱化である。新型コロナウイルスのパンデミックでは、マスク、防護具、検査資材、ワクチンなどが世界的に不足し、医療現場や社会活動に大きな影響を及ぼした。物流の混乱や輸出規制によって、必要な物資を必要な時に確保できない状況も生じ、供給網の脆弱性が明らかになった。危機の際に必要な物資を安定して確保できるかどうかは、医療体制だけではなく、社会全体の機能維持に直結する。そのため、重要な医薬品や原材料がどこで生産されているのか、特定の国や地域への依存が過度になっていないか、供給が途絶えた場合に代替調達先を確保できるかを、平時から確認しておく必要がある。バイオディフェンスの観点から見れば、サプライチェーンは単なる物流の問題ではない。危機が起きても社会を止めないための「平時からの備え」であり、社会全体のレジリエンスを支える重要な基盤である。
(4)リスク管理と規制
第四に重要なのが、事故や不適切利用を未然に防ぐリスク管理と規制である。生命科学は医療や食料、環境分野に大きな恩恵をもたらす一方、同じ技術が有害な目的にも転用され得る「デュアルユース」の性質を持つ。例えば、感染症を理解して新しい治療法を開発する研究は、人々の健康を守るために不可欠であるが、同時に、病原体の性質を詳しく理解する知識が意図的な悪用につながる可能性も否定できない。そのため、研究施設の安全管理(バイオセーフティ)、危険な病原体や技術の危険な利用を防ぐ管理(バイオセキュリティ)、研究倫理、情報管理、輸出管理など、多層的な仕組みが必要になる。さらに近年では、AIと生命科学の融合によって、技術の発展と拡散が加速している。技術の発展を止めるのではなく、「何ができるか」だけではなく「どう使うべきか」を考える文化を育て、恩恵とリスクを適切に管理することが求められる。
(5)バイオ産業の競争力
第五に、科学技術基盤とバイオ産業の競争力を維持する必要性である。生命科学技術は医療分野にとどまらず、食品、農業、素材、化学製品、エネルギー、環境分野にも広がり、産業構造全体を大きく変え始めている。こうした変化を背景に、「バイオエコノミー」という考え方も広がっている[4]。バイオテクノロジーを活用して新たな価値を生み出し、経済成長と社会課題解決を両立しようとする考え方である。2030年頃には製造業の約30%にバイオテクノロジーが関係するとの見方も示されており、生命科学技術をどれだけ育成できるかは、国家競争力そのものに直結する課題となりつつある。
そしてこの産業競争力が、危機対応能力とも密接に結びついている。新型コロナでは、ワクチン開発能力や生産設備、人材基盤を持つ国とそうでない国の差が危機対応能力の差として表れた。mRNAワクチンも長年の研究開発投資があったからこそ、迅速な実用化が可能になった。診断技術も同様で、ゲノム解析技術、病原体分析能力、データ解析基盤、AIを活用した研究開発などは、平時には産業競争力を支え、非常時には危機対応能力へと転化する。バイオ産業の競争力とは、オムニユース時代において社会全体を支える「国家の基盤的能力」であり、現代のバイオディフェンスを支える重要な柱の一つなのである。
Whole-of-Societyアプローチ
オムニユース時代の生命科学は、豊かさを生み出す技術であると同時に、新たな脆弱性も生み出している。問題は、「脅威を完全に防ぐこと」ができるかどうかではない。自然発生の感染症、研究事故、意図的利用という境界が不確実な中で、社会がどれだけ早く異常を察知し、混乱を抑え、回復できるかが問われるのである。そのため現代のバイオディフェンスは、警察や軍事部門だけの課題でもなければ、医療や公衆衛生だけの課題でもない。医療、公衆衛生、研究開発、産業、物流、地方自治体、市民社会まで含めた「社会全体(whole-of-society)アプローチ」が求められる。平時に構築した制度、投資、人材育成、連携体制こそが、有事に社会を守る力へと変わる。
もっとも、このような体制の構築は容易ではない。どれほどの人材や予算を投入すべきなのか、研究や産業の発展と安全管理をどのように両立させるのか、社会全体で備える文化を育てるには何が必要なのか、また、安全を追求するあまり、研究活動や経済活動に過度な制約を課してしまう危険はないのか。バイオディフェンスの強化は、単なる危機管理の問題ではなく、社会がどのような価値観の下で技術と向き合うのかという問でもある。オムニユース時代に求められるのは、「危機をなくす」だけではなく、危機が起きても医療、物流、行政などの社会の仕組みが止まらず、人々が安心して生活を続けられる状態を維持することである。そして、その備えを支える制度や規範を、国家はどのように設計すべきなのかについて、次回以降で考えていきたい。

(2026/06/15)
脚注
- 1 田中極子「オムニユース時代のバイオテクノロジー ―境界が消える技術と、直面するガバナンスの課題」国際情報ネットワーク分析IINA、2026年1月9日。
- 2 US Department of Defense, 2023 Biodefense Posture Review, 2023.
- 3 Christine Parthemore and Andy Weber, “Introduction: Deterrence by Denial and the Long Journey of Addressing Biological Weapons Risks,” Journal for Peace and Nuclear Disarmament, 2025, Vol.8, No.2, December 20, 2025, pp. 289-294.
- 4 2009年に経済協力開発機構(OECD)が提唱した概念。バイオテクノロジーを活用しながらサーキュラーエコノミーの実現を目指す経済活動を指す。OECD, “The Bioeconomy to 2030: Designing a Policy Agenda,” April 15, 2009; 日本においても2024年に内閣府がバイオエコノミー戦略を策定している。内閣府「バイオエコノミー戦略(令和6年6月統合イノベーション戦略推進会議決定)」2024年6月3日。
