はじめに

 海上保安庁は日本の政府開発援助(ODA)の一環として、1970年代から外国の海上保安機関等にキャパシティービルディング支援(能力構築支援、略してキャパビル)を実施してきた。日本の海上における安全を守り治安を維持する海上保安庁の専門的知識や経験を外国海上保安機関と共有することにより、対象機関の能力向上を図ることを目的とした。また日本のODAは非軍事的協力を基本方針としているため[1]、海上保安庁がその中心的役割を果たしてきたのである[2]。

 こうした中で、近年、海上保安庁の実施するキャパビルの重要性が改めて見直されている。2016年8月にケニアで開催された第6回アフリカ開発会議(TICAD VI)の基調講演で当時の安倍総理大臣が「自由で開かれたインド太平洋(FOIP: Free and Open Indo Pacific)」を提唱すると、海上保安庁のキャパビルがその政策実施の一部として組み込まれたのである。FOIPの政策実施の三本柱として①法の支配、航行の自由、自由貿易等の普及・定着、②経済的繁栄の追求、そして③平和と安定の確保が挙げられているが、③平和と安定の確保の具体的政策として海上法執行能力の構築、人道支援・災害救援等が列挙された[3]。海上保安庁のキャパビルが重要な外交政策の一部となった。

 ところで、現在、海上保安庁が実施する外国の海上保安機関等に対するキャパビルは、水路測量に始まり、海上交通の安全確保、捜索救助、海上に流出した油などの処理、海上法執行など多岐にわたる。時代とともに変化するアジアの安全保障環境に合わせて拡大してきたキャパビルであるが、本稿では、変遷する海上保安庁のキャパビルの意義とその重要性について論じる。

水路測量協力で始まった海上保安庁のキャパビル

 海上保安庁のキャパビルの起源は1969年のマラッカ・シンガポール海峡の測量に遡る。同海峡は全長約900kmに達する狭くて浅い大型タンカーなどにとっては航海の要衝であり、原油の輸入量のほぼ全量を海上輸送に頼っている日本にとっては、重要なシーレーンの一部である。とりわけ、1970年代に日本の高度成長が始まるとエネルギー需要が急速に高まり、海峡内を通航する船舶の交通量が急増した。ところが、当時は十分な水路測量が行われておらず、航行の支障となる沈没船や浅瀬が多数存在する危険な海峡であった[4]。折しも1967年にリベリア籍のタンカー船「トニーキャニオン号」が英仏海峡の西端で座礁し、およそ12万トンにも及ぶ原油が船内から海上に流出した結果、英仏の海岸に深刻な汚染を及ぼす事件が発生していた。このため、海峡内を航行する大型タンカーの事故や大規模な油の流出に伴う海洋環境の破壊が懸念されていた[5]。また事故の際には、沿岸国であるインドネシア、マレーシア、シンガポールの収入源である沿岸漁業や観光業への深刻な経済的影響も懸念された。

 そこで一刻も早く水路測量を行い正確な海図を作成する必要があり、海上保安庁の水路測量の専門家が現地に派遣された。専門家は沿岸国と協力しながら水路測量を実施し、正確な海図を作成することに貢献した。翌年の1970年から沿岸地域の関連機関からの要請を受け、海上保安庁は水路測量、海上交通などに関する研修を開始した。さらに海上保安庁のキャパビルは、対象となる地域をアジアから他の地域へ拡大し、捜索救助や油流出対処などの新たな項目に拡大した。このようなキャパビルを通じて、海上保安庁と各地域の関連機関との関係が始まった。

2000年代に海上法執行能力支援に拡大

 2000年代に入ると海上保安庁のキャパビルは、海上法執行に関するものに拡大される。海上法執行は海上における治安の維持や沿岸国による強制的な措置を含む警察権の発動を伴うものである点において、一般的な海洋安全や環境保護とは性格を異にする。この背景として、2000年前後のアジアにおける海賊事案の頻発があげられる。国際商業会議所(ICC: International Chamber of Commerce)の下部機関である国際海事局(IMB: International Maritime Bureau)は1998年には60件であった海賊や武装強盗の発生件数が2003年には121件に急増したと報告している[6]。

 南シナ海は日本にとって中東からのエネルギーを運ぶ航路であるほか、アフリカや欧州への国際貿易の重要な航路であり、海賊事案の発生による治安の悪化は単に航行の安全の問題だけでなく、エネルギー安全保障や国際貿易の問題に直結する。さらに、1999年の10月に日本の船会社が運航する貨物船アロンドラ・レインボー号がインドネシアの港を出港した直後に海賊に襲撃される事件が発生した。海賊に船舶を奪われ、日本人の船長と機関長を含む乗組員全員はライフラフト(救命いかだ)で海上に追い出され漂流した。幸いにも乗組員は近くの漁船に救助され、海賊はインド海軍と沿岸警備隊により拿捕されたが、この事件を契機として、日本のイニシアティブによりアジアにおける海賊対策を開始した[7]。

 そして海上保安庁は、2001年から約2ヶ月間の海上犯罪取締研修を開始し、海賊や密輸密航等の国際犯罪の取り締まりに関する講義、捜査活動に関する実技(逮捕術)の指導、巡視艇を活用した実地研修、施設見学を開始した。また、職員を国連薬物犯罪事務所(UNODC: United Nations Office on Drugs and Crime)が主催するセミナーへの講師の派遣や、特定の国を対象とした研修を実施するなど海上法執行能力の向上に貢献している。

 さらに2006年からは、日本からの巡視船の供与が開始された。東南アジア諸国においては巡視船艇の数が不足し、海上保安庁のキャパビルにより専門的知識や経験を習得しても海上で実施できないというジレンマがあった。それにもかかわらず、日本から外国への巡視船の供与は高いハードルがあった。乗組員を防護するため、船橋に設置された防弾ガラスは輸出貿易管理令の軍用船の部品として分類されており、防弾ガラスを備えた船舶は軍用船舶と位置付けられた。このため、巡視船の供与は武器輸出三原則に抵触し、外国為替及び外国貿易管理法に基づき輸出を慎むべき武器とされていた。

 そこで2006年に「テロ対策等治安無償資金協力」が導入され、中進国を含む幅広い国を対象として、テロや海賊などの越境犯罪に対して警察力強化を図る制度がODAとして導入された[8]。この制度の活用により、これまで困難であった防弾ガラスを装備した巡視船をフィリピン、ベトナム、マレーシアなどへ供与することができるようになった。巡視船の供与に合わせ、海上保安庁では、これらの船舶の整備や運航に関する訓練・研修のほか、海上保安庁の巡視船を派遣して、これらの供与された船舶と合同訓練を行うなど運用能力強化も実施している。このような活動を通じて、日本のODAによりインド太平洋地域における海上法執行能力のハード面とソフト面の両方を総合的に強化支援している。

南シナ海での新たな海上法執行能力への必要性

 2010年頃から東南アジアにおける新たな海上法執行能力の強化の需要が生まれる。中国の南シナ海への進出に伴う事件の多発である。例えば、2011年には中国海監(後に中国海警に統合)の船舶がベトナムの主張する大陸棚において海洋調査を実施していたベトナムの調査船に対して妨害を行う事件が発生した[9]。2012年には中国とフィリピンの間でスカボロー礁をめぐる対立が発生し、米国による介入により両国海軍の艦艇は引き下がったものの、再び中国の海警局船舶が現場海域に現れ、以後、中国が実行的支配を継続している[10]。2016年にはインドネシアのナトゥナ諸島の沖合で中国漁船を拿捕したインドネシアの漁業局に対して、中国の海警局船舶が意図的に衝突し中国漁船を解放する事件が発生した[11]。

 このような事件に対して、沿岸国としては軍艦を派遣しにくいという事情がある[12]。これらの事件は、中国の公船による沿岸国の測量や法執行などの主権の行使に対する妨害行為ではあるが、国際紛争の事態ではない。また、中国側はグレーに塗装した海軍ではなく白く塗装した海警局船舶を派遣している。そこに沿岸国がグレーに塗装された軍艦を派遣すれば、中国も人民解放軍海軍の軍艦を派遣することにもつながり、事態をエスカレートさせることになる。そこで同じく白く塗装された巡視船を派遣することとなるが[13]、これら沿岸国の海上保安機関は、1990年後半から2016年頃までに設置された比較的若い機関であり、中国海警局船舶に対抗できる力も遠く及ばない。

 このような非対称性を解消するために、東南アジア諸国の海上保安機関の能力向上が求められている。その新たなアプローチとして、2015年から海上保安庁と政策研究大学院大学(GRIPS)が連携して開講している海上保安政策プログラムがあげられよう[14]。このプログラムは海上保安政策に関する修士レベルの教育であり、主に海上保安機関の職員を受け入れ、国際法、国際関係論、安全保障などの学科に加え、海上警察、海上安全、海洋環境保護に関する政策などに関する高度な専門的・実務理論を教育している。特定の国を意識するのではなく、専ら学問として海上における国際的な法に基づく秩序の維持、法の支配や航行の自由などの理解を深める。またリサーチペーパーの執筆を通じて、自ら問題点を認識し解決法を模索するという自己発展のサイクルを促すものとなっている。

 これらの教育の方向性は、自由で開かれたインド太平洋の政策と整合しており、第73回国連総会において当時の安倍総理大臣は「海洋秩序とは、力ではなく法とルールの支配である」と、海上保安政策プログラムの重要性を訴えた[15]。すなわち、これまで海上保安庁が実施していたキャパビルに加え、海上保安機関の将来のリーダーシップ層に対して教育プログラムを提供し、海上保安組織のさらなる強化を図ることを目的としている。また、法に基づく秩序の維持、法の支配、航行の自由など共通の価値に関する理解を深めることにより、将来の国際連携の強化につながることが期待されている。

おわりに

 海上保安庁のキャパビルは年々拡大してきた。マラッカ・シンガポール海峡における航路の安全確保のための技術協力に始まり、主にアジア諸国の海上保安機関の業務遂行能力の強化へと拡大した。そして海上保安政策プログラムを通じて将来のリーダーを育成し、それぞれの海上保安機関のさらなる発展を促し、法とルールが支配する海洋秩序の構築への取り組みへと発展した。

 中国の急速な海洋進出によりアジア諸国の安全保障環境が変動している。軍事力の差のみならず、海上警察力の圧倒的な差が海洋秩序の不安定感を増長しているといえよう。このような複雑な安全保障環境において、巡視船などの海上資産のみならず、組織を構成するさまざまな階層の「人」に焦点を当てたキャパビル、とりわけ法の支配や航行の自由など共通の価値観を有する将来のリーダー層の人材拡充し、アジアにおける海上保安機関の組織を総合的に強化する支援が重要である。

(2021/07/01)

脚注

  1. 1 「開発協力大綱について」外務省、平成27年2月10日。
  2. 2 なお、防衛省自衛隊も2010年12月に閣議決定された防衛計画の大綱や中期防衛力整備計画において自衛隊による能力構築支援に取り組むことが明記され、独自の予算で他国の軍及び軍関係機関に対して能力構築支援を実施している。「能力構築支援事業」防衛省。
  3. 3 「自由で開かれたインド太平洋」外務省『外交政策』、2021年4月1日
  4. 4 海上保安庁「海上保安庁50年史」(海上保安庁、1998)11頁; 川上喜代四「マラッカ・シンガポール海峡の共同水路測量」『地学雑誌』、82巻3号、1973年。
  5. 5 折しも1967年にリベリア籍のタンカー船「トニーキャニオン号」が英仏海峡の西端で座礁し、およそ12万トンにも及ぶ原油が船内から海上に流出した結果、英仏の海岸に深刻な汚染を及ぼす事件が発生した。
  6. 6 International Chamber of Commerce-International Maritime Bureau (ICC-IMB). Piracy and Armed Robbery against Ships Annual Report 1 January – 31 December 2004. London: ICC-IMB, 2005.
  7. 7 この成果の一つとして、2004年にはアジア海賊対策地域協力協定(ReCAAP:Regional Cooperation Agreement on Combating Piracy and Armed Robbery against Ships in Asia)が締結された。
  8. 8 『外交青書2006年』外務省、2006年、198頁。
  9. 9 例えば、“Sea Spat Raises China-Vietnam Tensions,” NamViet News, June 10, 2011.
  10. 10 スカボロー礁事件にかかる研究として、例えば Francois-Xavier Bonnet "Geopolitics of Scarborough Shoal," Irasec's Discussion Papers, #14, November 2012,3.
  11. 11 例えば、“Chinese coast guard ‘prevented Indonesia from detaining boat’,” The Straits Times, Mar. 22, 2016.
  12. 12 なお、ナトゥナ諸島の沖合での事件のあと、インドネシア政府は漁業監視局のほか海軍の艦船や空軍によるプレゼンスを強化した。“Indonesia ups military presence in Natuna Islands,” Today, Jun. 1, 2016.
  13. 13 沿岸警備隊間の対立によりエスカレーションをコントロールできると論じるものとして中村 進「台湾危機と日米の対応(前編)― アメリカの対応:その懸念と事態のエスカレーション・コントロールの模索 ―」『国際情報ネットワーク分析 IINA』笹川平和財団、2021年5月25日。; 拙稿Furuya, "Maritime Security—The Architecture of Japan’s Maritime-Security System in the East China Sea," Naval War College Review: Vol. 72, No. 4, 2019; Michael Armour, “The U. S. Coast Guard in the South China Sea: Strategy or Folly?” Center for International Maritime Security (CIMSEC), November 6, 2017. など
  14. 14 詳細は政策研究大学院大学。なお、2021年よりキャパビルとしてだけではなく、自由で開かれたインド太平洋のコンセプトに基づく理念を共有し理解を深めるため、先進国からも広く関係機関の職員を受け入れることとなった。
  15. 15 「第73回国連総会における安倍総理大臣一般討論演説」外務省、2018年9月25日。