1971年にベトナム戦争の問題点を記した機密文書の「ペンタゴン・ペーパーズ」をメディアに漏洩したことで有名なダニエル・エルズバーグ(Daniel Ellsberg)が現在、再び過去の国家機密を公にして、話題になっている[1]。その情報とは、1958年8~10月の第二次台湾海峡危機を巡るものである。

 当時、中国の毛沢東政権は、中華民国(台湾)の国民党政権が支配する大陸寄りの離島である金門島及び馬祖列島に対して大規模な砲撃を実施した。この砲撃は中華民国と米華相互防衛条約を締結していた米国(アイゼンハワー政権)の安全保障コミットメントが、金門島及び馬祖列島という大陸の至近にある離島にまで及ぶのかどうかを試す目的であったとされる[2]。

 結果的に米国は周辺海域に多数の空母を集結させて中国に軍事的威圧を加え、中国による離島への侵攻を座視しない姿勢を取った。そのために中国は砲撃を停止し、大規模なエスカレーションが発生することはなかった。米国は離島への侵攻を座視することで同盟国へのコミットメントが揺らぐことを容認しなかったと言える。結果的に、金門島と馬祖列島は今日でも台湾の実効支配下にある。

 ただし、この過程で無視できないのは、この紛争は一つ間違えば大国間の核戦争にも発展しかねなかったという事実である。当時、米国は中国に対する核の先行使用(first use:核攻撃を受ける前の核兵器の使用)を本気で検討した。そのこと自体は既に知られていたが、今回、エルズバーグが公表した情報によって、具体的に何が検討されていたかが明らかになった。離島を巡る小規模な衝突が大国間の核エスカレーションを招く可能性は決して否定できなかったのだ。

 離島防衛を巡る核エスカレーションのリスクを巡る考察は、単なる歴史的な懐古趣味ではない。それは今日の台湾海峡有事や尖閣諸島防衛にも直接的な含意を持つ問題である。本稿ではこの問題を吟味してみたい。

米国はなぜ1958年に核の先行使用を検討したのか?

 まずは第二次台湾海峡危機の際にどうして米国が核の先行使用を考えたのか、その背景を探ってみたい。米国は1945年7月に世界初の核実験を行い、翌月には広島・長崎に原爆投下し、その後は1949年8月にソ連が核実験を行うまで、単独の核保有国だった。ソ連の核実験後には英国が核実験を行うが、英国は米国の同盟国であり、核兵器における西側陣営の優位は明らかであった。

 しかし1950年の朝鮮戦争の勃発を契機に、冷戦における軍事的側面が色濃くなっていく。特にスターリンのソ連がその圧倒的な通常戦力の優位を持って欧州方面での侵攻を開始しないかが懸念されていた。この懸念は1953年のスターリンの死と、その後の「雪解け」の展開で一部緩和するものの、依然として欧州正面における通常戦力のバランスは東側に有利な状況が続いていた。

 そうした中で、1954年1月に米アイゼンハワー政権が公表したのが「ニュールック」戦略、別名「大量報復(massive retaliation)」戦略であった。これはソ連の通常戦力の優位を米国の核戦力の優位によって相殺(offset)しようとするものであり、後年、「第二」あるいは「第三」の「相殺戦略」の先駆けになるものとして、「第一の相殺戦略」とも呼ばれるようになった。いずれにせよ、この戦略は如何なる東側陣営の攻撃に対しても核戦力による大量報復で応じるというものであり、この姿勢を通じて東側の攻撃を抑止するというものであった。

 だが、この抑止戦略には大きな欠陥があった。東側による小規模限定的な攻撃に対しても全面的な核報復で応じるならば、東側も同じように核報復で応じる事態を招き、いかなる小競り合いも全面的な核戦争に発展してしまうであろう。そうした展開が自明であるならば、そもそも攻撃者は小規模限定的な攻撃に対して米国が全面核報復をするとは信じないであろう。それは余りにも米国にとって非合理的な反撃だからである。故に、米国の「大量報復」戦略は、そのような攻撃に対しては抑止の信頼性を欠くことになる。

 この懸念が顕在化したのが、まさに1958年の第二次台湾海峡危機だったのである。毛沢東は金門島及び馬祖列島といった離島への砲撃が米国の全面核報復を招くとは考えなかった。この点において米国の抑止戦略は信頼性を欠き、抑止は破綻したのである。毛沢東は米国の抑止戦略の穴を突いたのだ。だが米国は中国に対する核兵器の先行使用を検討はしたのである。なぜならば、たとえ限定的にでも核兵器の使用に踏み切らねば、更なる紛争のエスカレーションを阻止できないと考えたからである。この点に抑止の難しさが潜んでいた。

 当時、米国はどのような核兵器の使用を検討したのだろうか?今回、エルズバーグが公表した資料(それは1966年12月にRAND研究所のモートン・ハルペリンがまとめた691頁に及ぶ資料である)[3]は、興味深い事実を伝えている。

 当時、米太平洋空軍の司令官だったL・クーター(Laurence S. Kuter)大将は、米国内で通常兵器だけで台湾を防衛できるかどうか疑われていたことを踏まえ、紛争が始まった時点で中国本土への先行核使用の許可を得たいと考えていたとされる。このため、中国の空軍基地(滑走路)のみに核兵器を使用し、他の目標には使用しない、という計画を立案し、こうした抑制的な核使用によって中国の後ろ盾となるソ連からの核報復の可能性を最小化できる(※当時、中国はまだ独自の核兵器を保有していなかった)と主張していたとされる[4]。

 尤も、後から分かったことでは、中ソ間にはこの当時から後の中ソ対立に至る不和の状況が生まれつつあったため、歴史の反実仮想としては、たとえ米国が中国に核を先行使用しても実際にソ連が核報復したかどうかは疑問であったと言えるだろう。ただ、当時の政府関係者は、ソ連が中国への核使用に対して報復核攻撃を行ってくる可能性が非常に高いと考えていたのであり、決定的に重要なことは、たとえそのようなリスクを冒しても離島を守ることがより重要であると考えていたということなのである。

 その結果、どのような事態が生起するかについて、当時の統合参謀本部議長のN・トワイニング(Nathan F. Twining)大将は次のように語ったとされる。すなわち、もし中国の空軍基地への先行核使用で紛争終結にならなければ、「上海の北まで中国の奥深くに核攻撃を行う以外に選択肢はない」状況になるだろうと。そして、そのような核攻撃は「ほぼ確実に台湾や、米軍が駐留する沖縄への〔ソ連の〕核報復を伴うだろう」と。「しかし、国の政策が沖合の島々を守ることであるならば、その結果は受け入れなければならない」[5]。

 当時の国務長官のJ・ダレス(John F. Dulles)もこれに同調したとされる。「沖合の島々が失われても誰も気にしないだろうが、その損失は共産主義者のさらなる侵略を意味する。世界大戦を起こすほどの価値があるとは思えないが、挑戦に立ち向かわなかった場合の影響を考えてみればわかる」[6]。

 最終的には、アイゼンハワー大統領が紛争序盤から先行核使用するという将軍達の意見を採用せず、ひとまずは通常戦力で対応する決定を行ったことで米国による中国への先行核使用は実行されなかった。しかし、資料は記している。「中国共産党がこの作戦を中止しない限り、すぐに核攻撃をしなければならない、というのが全員の共通の考えだった」[7]。

 第二次台湾海峡危機は、抑止を核に頼る「大量報復」戦略の限界を明らかにした。しかし米国は通常戦力では台湾を守り切れないと考えたからこそ、中国に対する核兵器の先行使用を、たとえソ連の報復で沖縄までが核攻撃されようと追及せざるを得ないと考えたのである。結果的には当時の毛沢東は、米国が核使用に踏み切るまでもなく自発的な紛争終結を選んだ。事態は予想された核エスカレーションに至ることなく、幸運な結末を辿った。

 しかし…。話を現在に置き換えるなら、事態はこれほど幸運な結末で終わるのだろうか?

現在の台湾海峡紛争への含意

 現在、台湾海峡を巡る対立は、再び大国間戦争を引き起こす火種となる可能性を強めている。中国の習近平政権は台湾に「一国二制度」の受容を迫るが、香港の民主化が覆された経緯から、台湾がそれを受け入れる可能性は事実上ない。平和的な統一が難しいなら軍事的な統一を試みるしかない、と中国が考える可能性は高まっている。

 米インド太平洋軍の前司令官P・デービッドソン(Philip S. Davidson)は2021年3月9日、上院軍事委員会の公聴会で、中国は今後6年以内に台湾に侵攻する可能性がある[8]と述べた。現司令官のJ・アキリーノ(John C. Aquilino)も、同月23日の公聴会で台湾海峡有事の時期は「大方の予想よりずっと近い」[9]と述べている。

 中台間、及び台湾海峡を巡る米中間の軍事バランスは、第二次台湾海峡危機の当時と比べて劇的に変化した。1958年当時、中国人民解放軍は金門島や馬祖列島を砲撃で脅かすことはできても、台湾本土への攻撃や侵攻はできなかった。今日では違う。各種ミサイルや航空機、水上艦に潜水艦など多数の戦力を強化した中国は、今や米軍の介入を退けて台湾侵攻を行うことが現実に可能であると見られつつある。そして、更に重大なのは、今や中国は世界の主要な核保有国の一つになっている事実である。その核戦力は米国による「第一撃」の攻撃に耐え、報復することが可能な「第二撃」の能力を備えつつある。

 米国は1958年の時点でも通常戦力のみでは台湾を守り切れないと考えていた訳であるが、今日、状況はどうなっているだろうか。核戦力に頼らずに台湾防衛を貫徹することはますます困難になっていると言ってよい。近年、米国防総省で行われた米中軍事衝突を想定したウォーゲームにおいて、米軍は繰り返し敗北を喫していると言われる[10]。その失敗から学び、既存の戦い方を大幅に変革すれば通常戦力のみでも中国の台湾侵攻を阻止できるとも言われるが[11]、変革は得てして多くの抵抗に直面し、その実現が危機に間に合うのかは定かではない。

 結果、現在の中台紛争においては第二次台湾海峡危機の当時以上に、離島防衛における核エスカレーションの可能性を想定せねばならなくなっているのではなかろうか。米国は、通常戦力のみで台湾防衛を実現し得ないとなれば、核兵器の先行使用を考慮せねばならなくなるかもしれない。しかも、現在では中国自身が核兵器を保有し、それも「第一撃」に対して必ずしも脆弱でない形で保有しているので、第二次台湾海峡危機の当時よりも遥かに高いレベルの核エスカレーションを想定した紛争シナリオを考慮せねばならないのかもしれない。離島(台湾本島も米国にとっては「離島」の範疇だろう)の防衛が米中間の核戦争の引き金になる可能性は決してゼロではない。

 ならば、「取るに足らない」離島防衛のために、大国間の核戦争のリスクを冒すのは馬鹿げているのだろうか?「馬鹿げている」と考える人々がいるのは明らかだ。エルズバーグが今回の情報を公開したのは、離島防衛を貫徹しようとする米国の決意が大国間の核戦争を引き起こすリスクを警告するためである。文脈はやや違うが、M・オハンロン(Michael E. O’Hanlon)も著書『尖閣パラドックス(The Senkaku Paradox: Risking Great Power War Over Small Stakes)』[12]で、尖閣のような離島を巡る紛争が大国間の大戦争を引き起こすリスクを回避すべきと主張した。

 しかし、離島だからとエスカレーションを恐れてコミットメントを限定することは、すなわち相手の挑戦に対する宥和(appeasement)を意味する。その成功体験は次なる挑戦へと挑戦者を駆り立てる恐れがある[13]。この恐れがあるがゆえに、米国は離島防衛を疎かにすることが難しい。宥和による緊張緩和は更なる挑戦を生み出し、むしろ紛争を深刻化させてしまうかもしれない。米国は同盟国を守れない「弱い」国家だとの評判に拍車がかかり、同盟国の離反や国際的な主導権の喪失に繋がるかもしれない。台湾であれ尖閣であれ、その喪失は米国にとっての「死活的な(vital)」利益の喪失に直結し得る。

 だから離島防衛における核エスカレーションの可能性は、決して無視したり否定したりすべきものではないのである。大国間の核戦争の可能性は現実的なリスクである。それは極力、回避することが望ましい。しかし、そのリスクがあるからこそ、離島のような周縁地域でも抑止が効いている面が存在する。我々にとって、最適な抑止やリスクの姿がどのようなものであるべきか、歴史の経験も踏まえて、よく考えなければなるまい。

(2021/06/16)

脚注

  1. 1 Charlie Savage, “Risk of Nuclear War Over Taiwan in 1958 Said to Be Greater Than Publicly Known,” The New York Times, May 22, 2021.
  2. 2 Lawrence Freedman, The Evolution of Nuclear Strategy, 3rd ed., (London: Palgrave Macmillan, 2003), p.263.
  3. 3 Morton H. Halperin, The 1958 Taiwan Straits Crisis: A Documented History (U), RAND Corporation, December 1966.
  4. 4 “Risk of Nuclear War Over Taiwan in 1958.”
  5. 5 Ibid.
  6. 6 Ibid.
  7. 7 Ibid.
  8. 8 Mallory Shelbourne, “Davidson: China Could Try to Take Control of Taiwan in ‘Next Six Years’,” USNI News, March 9, 2021.
  9. 9 Brad Lendon, “Chinese threat to Taiwan 'closer to us than most think,' top US admiral says,” CNN, March 25, 2021.
  10. 10 Hiroyuki Akita, “Future balance of power haunts US as China bulks up,” Nikkei Asia, March 16, 2021.
  11. 11 Valerie Insinna, “A US Air Force war game shows what the service needs to hold off — or win against — China in 2030,” Defense News, April 12, 2021.
  12. 12 “Book: The Senkaku Paradox Risking Great Power War Over Small Stakes, by Michael E. O’Hanlon,” Brookings Institution, April 30, 2019.
  13. 13 この恐れは、歴史的には「ミュンヘン宥和(Munich appeasement)」の教訓として意識されてきたものである。すなわち、ヒトラー率いるドイツが次々にヴェルサイユ条約の取り決めを覆し、ついには隣国チェコスロバキアのズデーテン・ランドの割譲を要求した時、英国首相のチェンバレンはそれでドイツの要求が収まり戦争を回避できるならば、と考えて、1938年9月のミュンヘン会談においてドイツの要求を認めた。戦争回避に成功したと思われたチェンバレンは一躍、時の人となったが、ヒトラーはその程度の要求では満足せず、たちどころにチェコ全土を占領し、スロバキアを保護国化した。英国は宥和政策の失敗を悟るが、ヒトラーの要求は留まるところを知らず、更にポーランド回廊の割譲を要求した。結果的に英国は宥和政策を転換してフランスと共にポーランドと同盟を締結するが、時すでに遅く、1939年9月1日のドイツによるポーランド侵攻によって第二次大戦が勃発したのであった。些細な宥和は戦争回避に役立つかもしれないが、同時に相手に成功体験を与え、更なる挑戦と結果としての大戦を導くかもしれない、との教訓である。