ヴァンスはオバマと同じ「物語候補」
Dreams from My FatherとHillbilly Elegy*
*Dreams from My Father & Hillbilly Elegy1

渡辺 将人
作家政治家の「物語」:連邦上院議員と大統領選挙候補者の「原料」として
「物語候補」には熱狂と胡散臭さが同居する。オバマもそうだった。だが、それは「物語候補」の宿命であり、「物語」が前提になっていることの爆発力を毀損するほどの懸念材料ではない、はずである。「はず」というのは、強い「物語」を持つ候補者には、「苦悩」➡︎「成功」への脱皮方程式にモデルの違いが存在するからだ。オバマのケースで上首尾にいったからといって他の政治家でもそうとは限らない。
オバマの場合、「物語」の苦悩の核心は人種をめぐる苦境(根無草の多人種・多文化の悩み)だった。その末に、シカゴでのコミュニティ活動で黒人社会に包まれ、ハワイやインドネシアを捨てて「シカゴ人」になることを決める。また、白人祖父母に育てられ、アジア人や白人と恋愛してきたオバマは、サウスサイドの黒人女性ミシェルとの結婚により「はれてアメリカ黒人になることを選ぶ」。だからオバマの成功への「脱皮」は共感を集めた。
共和党副大統領候補のJ.Dヴァンス連邦上院議員もオバマ型の「物語候補」だが、苦悩の核心は階級をめぐる苦境だった。海兵隊を経てイェール大学ロースクール卒で学歴により階級を乗り越えたが、この「脱皮」にはオバマのそれとは質的なメッセージ性の違いがある。
同じ「物語候補」でも、政治家へのルートでヴァンスに促成栽培感があるのも事実だ。オバマのDreams from My Fatherは、1995年の刊行時には大多数には見向きもされなかった。当時オバマは34歳。小説家志望の若き憲法学者は私小説として自分の物語を書いたが社会的ヒットに至らず、「アフリカ系文化」のコーナーに長年ひっそりと置かれ、知る人ぞ知る作品にすぎなかった。オバマがイリノイ州議会議員として2004年民主党大会で行った演説が話題化した時、その本が10年の歳月を経て増刷される。それが起爆剤となり見事、連邦上院議員と大統領へのレールが敷かれた。オバマにとっては2冊目の著作The Audacity of Hope(2006年)はなくても大統領になれたが、Dreams from My Father無しには政治家オバマは存在してない。ただ、Dreams from My Father刊行後、ホワイトハウスへの道に繋がる上で「熟成期間」があった。
オバマ本とヴァンス本:作品刊行後の「熟成期間」と社会的な「一人歩き」
ヴァンスのHillbilly Elegyにはその「熟成期間」がない。2016年という刊行時年齢こそ当時のオバマと近い32歳だが、ヴァンスの場合は刊行と同時に全米大ヒット。しかも、それはヴァンス自身の悩みというパーソナルな「物語」ではなく、「トランプ支持者の物語」の社会現象として一人歩きを始め、それがいつしかヴァンス自身ではなくまるで「トランプの物語」の代弁になっていった。「物語」で連邦上院議員になり、ホワイトハウスを目指すところはオバマと同じだが、「熟成期間」がない。この刊行と全国ヒット、そして自身の政治家転身までの「早回し」は刮目すべき点だ。
他方、社会的需要による「一人歩き度合い」の質もオバマのDreams from My Fatherとは少し違う。オバマの場合は「自伝」と誤解される「一人歩き」だった。Dreams from My Fatherは世界的にはオバマの大統領立候補で有名になり日本語版も予備選直前の2007年末に刊行されている。その過程で小説が自伝と勘違いされたのだ。日本語翻訳版もそこが明確に理解されないまま刊行されたが、日本の版元や訳者の責任ではない。当時、その峻別を求めるのはあまりに酷だった。アメリカでも大多数には自伝と勘違いされ、オバマ陣営がその「誤解」を好都合と意図的に放置して拡散したからだ。
筆者がこのオバマの1冊目の作品が小説だと深く理解したのはオバマの評伝の取材過程だった。オバマの大学時代の文学仲間の親友たちが「バリーの自伝ではない、架空のエピソードと人物が多い」として、キャラクターの合成や現実とは離れたエピソードを丁寧に教えてくれた。これは「リテラリー・バイオグラフィー」という文学ジャンルで、実在の人物や出来事をモチーフにそれらを混ぜ合わせて作者の人生を物語として再構築する。登場人物の名前も創作が少なくなく、時系列も正確ではない。ホワイトハウスは当時、筆者の取材に部分的には協力しつつも(大統領副報道官が下院事務所の筆者の後輩だった)、イスラム教徒の元友人やパキスタン人のルームメートが掘り起こされてしまうことを懸念していただけでなく、筆者の本での文学仲間への取材を通じて、Dreams from My Fatherが厳密な意味での「自伝」ではないことが日本やアジアからアメリカに過度に環流することを不安視していた。取材協力者との複雑な条件もあり『評伝バラク・オバマ』(『大統領の条件』)2の英訳を筆者が断念したことに政権関係者は胸を撫で下ろしていた(彼らが確認するのは常にそれだった)。だから、オバマは回顧録(第一弾。第二弾は依然未刊行)でも、幼少期から青年期の生い立ちをさらりと流した3。細かく記すとDreams from My Fatherとの齟齬が生じてこれを未だに正確な自伝だと思ってくれている読者に面倒なハレーションを生じさせるからだ。
ヴァンスの場合は「トランプ支持者の苦境」を正確に代弁していると誤解される「一人歩き」だった。Hillbilly Elegyに書かれている内容がどこまで本当か、それこそオバマの本のような小説ではないのか、という批判はあまりない。なぜなら、この本はヴァンスの自伝として価値があったのではないからだ。誤解を恐れずに言えば、無名の弁護士資格を持つベンチャーキャピタリストの人生には誰も関心がなかった。これが当時、トランプの快進撃で関心を持たれたアパラチアのアメリカ人の物語としてドンピシャだったからだ。その意味では、トランプ出馬と2016年予備選以降の善戦がなければ、この本は全米はもとより世界で有名になっていない可能性が高い。トランプ現象に見出され、下駄を履かせてもらったかのようなHillbilly Elegyはトランプ現象の物語になり「トランプ支持者の物語」になった。すると明後日の方向から思わぬ矢が飛んでくるようになる4。
Hillbilly Elegyへの3つの批判:ステレオタイプ、事実関係、偽善性?
第1の批判は、ヴァンスがアパラチアの下層白人(ホワイト・トラッシュ)の生い立ちを過度に強調するために、ステレオタイプに沿ったキャラ描写で現実を歪めているという批判だ。「この地域に対する私たちの理解を一人の人物の物語に集約することは問題がある」と指摘するのは、自身もアパラチア地方出身でありケンタッキー州ベレア大学のアパラチア研究講座で教えるサイラス・ハウス教授である5。Hillbilly Elegyを「回顧録ではなく、醜いステレオタイプや定型表現を扱った論文」として切り捨てている。ヴァンスの叔父たちを「誰とでも喧嘩する酔っ払いで、妻を殴る」と描写したり「アパラチアの男の典型」と位置付けているなど、この本に登場する意図的に操作的な話が「有害な固定観念を助長する一般化」になりかねないことはハウス教授の言う通りだろう。
固定観念の問題は難しい。扱うこと自体が寝た子を起こす問題もある。筆者自身、『ホワイト・トラッシュ』という本を2018年に日本で監訳刊行する際、一番気を使ったのが「ホワイト・トラッシュ」を日本に紹介する上で、どこまでがアメリカで許容されている概念で、何かステレオタイプを醸成しているかの説明だった。だが、Hillbilly Elegyによりアパラチアの問題に人々が関心を持ったのもまた事実であり、「階級や人種、ジェンダーに関する差別的なメッセージ」が意図的に織り込まれている有害指定的な差別本であるという断定は党派的に過ぎる気がする。これはアメリカで吹き荒れるキャンセル・カルチャーや禁書本問題とも通底する、表現の自由と「有害」認定の問題として実は深刻だ。
第2の批判は、事実関係への突っ込みである。ヴァンスの祖父母は幼い頃にアパラチアを離れ、ヴァンスの母親もアパラチアで実際に暮らしたことがなく、ヴァンス自身もアパラチア経験があるわけではないのに、この本が出版された後、ヴァンスが「ほとんど彼は知らない地域の代表として」あらゆるニュース番組に出演している、という「アパラチアの物語」のパッケージ問題だ。これはヴァンスというより版元の書籍のプロモーションやメディア側に責任もありそうだ6。特定地域の文化的特質をわかりやすくまとめて単純化することは、ハリウッドがやってきたことである。それにヴァンスとヴァンスの本がうまく取り込まれ、「アパラチアの物語」分野が生成された。しかし、そこから先は読者や視聴者のリテラシーの問題のような気もする。ただ、他者がある地域を描写していることによる誤解の可能性やミスリード問題と、逆にその地域で生まれ育った代弁者かのように振る舞うことで説得性を増すことは、異質の罪深さであることには首肯できる部分もある。
第3の批判は、ヴァンスが現在は「白人労働者」の一員ではない偽善性問題だ。アパラチア的な生活を軽やかに抜け出し、イェール大学ロースクールを出たヴァンスは今や成功者である。しかし、ヴァンスのように地元を出て立身出世することができない現在進行形で苦境にある人々の現実を、逆説的に軽んじてしまうのではないかという声もある。これに対しては、ヴァンスの人生をパックしたこの本は、アメリカの「とある物語」であり、2時間完結のハリウッド映画にはハッピーエンドが必須だ、と回答するしかない。「物語」には「陰性」と「陽性」のオーラがある。大作家の名作にはひたすら救いがない「陰性」オーラだけの作品も少なくないが、商業的に短期的に成功する作品は何らかの形で「陽性」オーラが欠かせない。「陰性」のままではドキュメンタリーとしては秀逸でも、「物語」としては落ちとして完結させにくい。オバマの本がそうであったように、成功者が自らの悩みや苦境を振り返るスタイルの本が好ましい。本当にどん詰まりのまま「遺書」のような恨み節一辺倒の負のオーラだけでは売れない。ヴァンスの本も白人労働者の悲惨さを描きながらも、著者は無事に苦境を抜け出した「救い」があるから、多くの人に受け入れられた。最後は「陽性」でないといけない。
だからヴァンスのHillbilly Elegyはこれでいいのだ。白人労働者へのある種のステレオタイプを助長し、事実関係には様々な齟齬もあり、たしかに今やヴァンス自身は「エリート」で白人労働者とは縁もゆかりもない立場にいる偽善性をまとう本ではあっても、同時代のアメリカ人が心を寄せたがった「巨大な物語」であることは揺らがないからだ。「物語候補」ヴァンスは、たとえ政治的な立場は正反対でも「オバマ型の政治家」であると筆者が考えるのはそのためだし、トランプが彼を選んだ一因もそこにあろう。テレビのリアリティ・ショーから出てきた二世不動産王のトランプにはない凄まじい「物語」をヴァンスは持っている。
オバマとヴァンス、2人の物語候補をとりまく「20年の差分」
ヴァンスは「物語」で統治できるのか。オバマも同じことを問われた。<「Yes, We Can」だけで、人を泣かせて感動させても、それで統治ができるのか><演説が上手いだけでは、意味がない>という2008年にオバマに集中砲火のように浴びせられた攻撃をヴァンスが跳ね除けるには、あまりに経験が足りないことは共和党幹部も心配する。「共和党ではビジネス歴が重要で、連邦での政治家歴はむしろ短い方がいいのだ」という開き直りの擁護論の背後に、高齢のトランプに暗殺未遂以上の何かがあれば、ヴァンスがその瞬間に自由世界の指導者になることへの緊張感が漂う。高齢大統領が続くアメリカでは、無任所の副大統領が大統領を務めるかもしれない現実性が、かつてよりも高まっている。バイデンは認知機能問題が取り沙汰されたが、トランプは暗殺未遂の常連になり始めている。
「どこか信用できない」と共和党支持者に陰口を叩かれながらも、強烈なオバマ型の「物語候補」のはずのヴァンスは「キャットレディ」騒動以降、差別主義者だという民主党側のナラティブに封じ込まれている。ヴァンスの「物語」に本で感動した層の中には、階級格差に憤るサンダース支持者的なリベラル派もいた。そうでなければ全米ベストセラーにはならない。ヴァンスの本は労働者系トランプ支持者の共和党流入を加速した「功労本」である。その本の著者が共和党の上院選に出ることは矛盾していないが、「そこまで党派的だったか」と元読者が少し離れた。さらにトランプに副大統領に指名され、またもや元読者が離れた。分極化社会の政治人生とは、多くの人に好かれることを諦めることだ。その時代の「政治的書籍」を書くことや政治家でいることは、自分のイデオロギー以上に偏りを偽装し、それを望む人たちを喜ばせる仕事になりつつある。
1995年と2016年――オバマとヴァンスの2冊の「物語」の刊行の間には「20年」のアメリカの時代変化、いわば「差分」が横たわっている。この間、アメリカには何が起きたのか。一つはソーシャルメディアの完全な定着とマスメディアの影響低下。もう一つはそれと連動する分極化の深刻化だ。両党の正副大統領候補4名の中で、候補者の「人生自体がメッセージ」になる、読者(有権者)に感情移入させられる「オバマ型候補」はヴァンスだけだが、「物語」に幻滅や反発を感じる層のバックラッシュのリスクも大きい。「物語」が、ある種の人たちに欺瞞と不信感を植え付け、怒りを焚きつけることは共和党には短期的には望ましい。また、この本をスケープゴートにして「反トランプ」の動員パワーの炎に薪をくべるならば民主党には好都合だ。その場合は、そこから利益を得るのはハリス陣営かもしれない。
さて、ヴァンスの対抗馬のウォルズはどうだろうか。中西部の平均を代弁する学校教師にしてフットボールのコーチ。アメリカの強欲な成功者ではなく、ウォール街やシリコンバレーの競争世界の成功者なら「ルーザー」と揶揄するかもしれないが、その地に足がついた姿勢がミネソタ州の「農村リベラル」風土と相まって愛され、知事にまでなった。ハリス陣営が評価したのはその「普通」な感じだ。だが、「普通」を突き詰めると例外性の塊である「物語」とは遠くなる。
勿論、ウォルズにも「物語の種」はあった。ハンターで銃愛好家なのに銃規制派に転じた「政策転向」物語でも、コーチとしての「監督者」物語でもない。若き日の中国での暮らしをめぐる物語だ(「ウォルズ夫妻と中国:天安門事件の年から、広東とチベットに広がった『物語』」に続く)。
(了)
- [1] Barack Obama, Dreams from My Father: A Story of Race and Inheritance (Times Books, July 18, 1995) /(邦訳版)『マイ・ドリーム-バラク・オバマ自伝』(ダイヤモンド社、2007年)
J.D.Vance, Hillbilly Elegy: A Memoir of a Family and Culture in Crisis (Harper, June 28, 2016)/(邦訳版)『ヒルビリー・エレジー-アメリカの繁栄から取り残された白人たち』(光文社、2017年)(本文に戻る) - 渡辺将人『大統領の条件-アメリカの見えない人種ルールとオバマの前半生』(集英社文庫、2021年)(本文に戻る)
- 渡辺将人「作家オバマの「文学作品」として オバマ回顧録論②」(SPF『アメリカ現状モニター』No.89, 2021年4月27日公開)<https://www.spf.org/jpus-insights/spf-america-monitor/spf-america-monitor-document-detail_89.html>(accessed on Sep. 30, 2024)(本文に戻る)
- Lizz Shumer “Was J.D. Vance's Hillbilly Elegy Really a True Story? All About the VP Candidate's Controversial Memoir” (People, July 15, 2024) < https://people.com/is-jd-vance-hillbilly-elegy-true-story-all-about-the-memoir-8678366 > (accessed on Sep. 30, 2024)(本文に戻る)
- Michael Kruse, “He’s Dangerous. So Is His Book” (Politico, May 6, 2022) <https://www.politico.com/news/magazine/2022/05/06/jd-vance-book-dangerous-00030374>(accessed on Sep. 30, 2024)(本文に戻る)
- Ibid. (本文に戻る)