トランプとバイデンについて
オバマ回顧録論 ⑦

渡辺 将人
オバマ回顧録論の7回目(最終回)は、オバマ時代が残したポピュリズムの種とトランプとバイデンへのオバマの評価を考察する(「オバマにとっての北朝鮮と中国 オバマ回顧録論⑥」より続く)。
オバマ政権が終わろうという頃、筆者は同政権の高官らに網羅的に会って政権への自己評価を聞いて回ったことがある。最大の成果は外交ではなく内政、とりわけ医療保険改革法という点で一致していたが、興味深い意見に以下のようなものがあった。ある黒人の高官は、オバマについての最大の誤解は「元々は左派だったのに中道化してしまった、という落胆」と述べた。
「オバマは最初から穏健だった。景気刺激策もあの2倍は必要だったのを8,000億ドル程のみに留めた。サブプライムローン問題でも、住宅所有者にツケを払わせてウォール街規制には腰が引けた。彼はラディカル(急進的)でもなんでもない。でも、人は彼が穏健だと思わない」
オバマへの「誤解」は選挙戦、特に民主党予備選では有利だった。オバマはアフガニスタン戦争には賛成していると回顧録でも改めて明言しているし、ドローン攻撃も多用したが、イラク戦争に反対したことで就任時は「反戦主義者」の雰囲気を漂わせた。政治メディアもオバマを左派議員と評定しがちだったが、願望に基づく「誘導」圧力からの報道も多分にあった。オバマの曖昧な穏健さは、右からは「ラディカル」だと誤解され、左からは「ラディカルさが足りない」と突き上げられる運命を背負い込んだ。この両極の感情が左右双方にポピュリズムを生み出すオバマ時代の下地を築いたと言える。
内部の敵としての左派への嫌悪感?
トランプ政権との相対評価で忘れられがちだが、もっとも辛辣なオバマ批判は、保守派ではなく、足元の左派から繰りだされた。オバマ政権は左派を幻滅させた政権だった。左のポピュリズムは枚挙にいとまがない。ブラック・ライブズ・マター(BLM)運動は、「本当に黒人の味方なのか」という黒人たちのオバマへの期待の裏返しの疑念と失望の感情から、2013年(オバマ政権2期目序盤)に始動したものだ。「反トランプ」で生まれたものではない。BLMだけでなく、「ウォール街占拠」運動、バーニー・サンダース旋風など急進左派的な運動は、いずれもオバマ時代の産物だ。ただ、これらの左派ポピュリズムは2011年秋以降の「ウォール街占拠」運動以外は2期目に発生したもので、今回の回顧録前篇である『約束の地』の射程外である。サンダースへの言及も皆無だ。
冒頭で紹介した元高官が筆者に明かすように、オバマは超党派路線を目指した。それに対して、共和党との政争を目的化する議会民主党は、オバマの姿勢が「十分に党派的でない」と反発した。黒人、左派を次々と幻滅させたオバマの敵は「内部」にいたと言える。その苦悩の吐露は切実だ。
〝オバマの戦争〟をやめろと呼びかけるプラカードを掲げる抗議者、不法就労者の強制送還を続けるオバマ政権を批判するヒスパニック、軍で性的指向を隠すことを強いる原則を批判するLGBTQの活動家、オバマの人種的に煮え切らない態度に幻滅する黒人スタッフ、中道的な妥協に憤るリベラル派議員――。彼らの怒りが次々と飛び出す。だが、オバマの左派への懺悔録と思いきや、そこには左派の攻撃を切り捨てるオバマの本性も垣間見える。
ところで、ポピュリズムとの関連で言えば、回顧録の中で、ネット選挙運動にオバマが否定的な中間評価を下していることは見過ごせない。オンライン選挙運動を広めた張本人で、その力で草の根の支援を受けたオバマは次のように述べる。
「だが、こうしたテクノロジーはその後、当時の私の理解を超える柔軟性や応用性を示し、またたく間に商業的利益に取り込まれ、既存権力層に利用されるようになっていった。さらに、人々を調和させるためでなく、惑わしたり分断したりするために使うことも簡単にできた。私をホワイトハウスにたどり着かせたツールの多くが、私が支持するすべてのものに対立する形で使われる日がくることを、私は想像できていなかった」(上巻216頁)
いうまでもなく、ティーパーティ運動のオンラインでの広がりであり、SNS利用大統領であるトランプ政権への誕生がここでは示唆されている。
ティーパーティ運動とトランプ
オバマ政権下における右のポピュリズムの代表例はティーパーティ運動だった1。そこに反移民運動、保護主義、キリスト教保守などが結合し、トランプ旋風を巻き起こした。筆者が『約束の地』で驚いたのは、オバマがティーパーティ運動にかなりの字数を割いて詳細に回顧していることだった。その書き込みは、運動の呼びかけの契機となったCNBCのコメンテーターであるリック・サンテリの叫びにまで及ぶ。本来は大統領回顧録でわざわざ触れるような人物ではない。オバマはティーパーティ運動を焚きつけたサンテリに政権が要警戒の目を向けていたことを振り返る。(ヘリテージ財団がYouTubeにアップロードしている当時のサンテリの叫びはこちら)
「ロバート・ギブズから、CNBCのビジネスコメンテーターであるリック・サンテリが住宅ローンの救済策についてテレビで大演説をぶったと聞かされた。ギブズは心配しているようだった。この手のことでギブズの勘が外れることはめったにない。『すごく話題になっています』とギブズは言った。『記者団にも感想を求められました。ご覧になったほうがいいと思います』夜になって私はそのビデオクリップをノートパソコンで観た」(上巻430頁)
大統領が自らノートパソコンでビデオクリップを視聴するという行為は興味深い(CNBCのサイトなのか第三者がアップロードした動画サイトのものかは不明だが)。オバマは「サンテリの動画をしばしば思い返した」(上巻433頁)と述べ、「小さな政府」を求める保守系の運動に一定の理解を示す。オバマの医療保険改革に反対するティーパーティ運動は大富豪のコーク兄弟が出資する人工的運動だとの疑いもあった。だが、オバマは以下のようにこの運動を総括する。
「とはいえ、ティーパーティが共和党内におけるポピュリスト的うねりを真に体現するものであったことは否定できない。この運動はたしかに、草の根的な熱意と荒々しい怒りに駆られた真の信奉者たちによって構成されていた(中略) そうした怒りの一部は、向ける方向性こそ誤っていると思うが、私にも理解できる」(下巻113頁)
そしてオバマは「ティーパーティ運動に惹かれる白人の労働者階級」と何の対策もうってくれない共和党とブッシュ政権への怒りと不満が根底にあるとして、トランプ現象の萌芽まで解説してみせる。しかし、ティーパーティは、黎明期はロン・ポール議員が駆動した反ウォール街救済のリバタリアン運動で、参加者には富裕層も少なくなかった。次第に運動に文化保守的な労働者層が参入し、運動初期の自由貿易派のリバタリアンとは袂を分かち、後発組の文化保守的な保護貿易派がティーパーティをある種乗っ取り、ティーパーティを名乗り続けた。このやや複雑だが大切な経緯がオバマ回顧録では省かれている。オバマにとってここで重要なのは、ティーパーティ運動とトランプ支持者を重複させ、「抵抗勢力」誕生を1つの線で描くことだからだ。
『約束の地』にはトランプ前大統領の「影」が覆う。末尾で取ってつけたようにトランプ論が出てくるのも特徴的だ(下巻486-491頁)。オバマ政権の成果をひっくり返す存在にオバマの筆は相当に翻弄されている。しかし、トランプについてオバマは「猛攻撃」を加えていない。オバマがアメリカ生まれではないとの陰謀論の「バーサー」運動をトランプが主導したことは批判しつつも、オバマ政権の最初の2年をトランプが「全体的に見てなかなかいい仕事をしていると思う」と評価していた逸話も紹介する(下巻488頁)。オバマがここでさりげなく行っているのはトランプの無党派性の強調である。オバマはトランプを保守政治家、共和党の重鎮としては認めない。存在をさほど気に留めていなかったという態度を貫く。
そして、トランプを面白がって熱心に報道した米メディアを批判する。特に苛立っていたのは夫人のミシェルだった。「ミシェルは、トランプやこの男との共生関係にあるメディアのことを考えるだけで激怒した」(下巻490頁)。
バイデンの見えない役割とクリントン派の影
一方、『約束の地』でのバイデンへの言及は実に少ない。オバマとバイデンの不仲説はワシントンでは有名な話で、2012年再選選挙前にはバイデンが下ろされて、ヒラリーが副大統領候補になるとの噂も広まったこともある。
そもそも副大統領の権限は少ない。だから本書にバイデンの「活躍」が一切出てこないのも致し方ない面はある。大統領選挙本選までは対等のコンビのように演じさせられ、いざ実際に政権が始動すると、大統領は補佐官や顧問などの側近で固め、情報も遮断されるのが常だ。ブッシュ(子)政権で「裏大統領」のような権勢を振るったチェイニーは極めて例外的だった。
また、バイデンが思いがけず大統領になってしまったことが、回顧録に与えた影響は小さくない。オバマにとっては「元部下」というよりも、歴代の大統領として歴史的に評価される「対等なライバル」になってしまった。バイデンのオバマ政権時代での行動を好意的に書けば、バイデンへの読者の高評価と連動し、バイデン政権を輝かせる。それがオバマ政権の再評価につながる好循環なら良いが、オバマが挫折した課題でバイデンが成果を出したら、オバマの評価を傷つける。褒めるにしても筆が躍りすぎると、逆にバイデン政権の成果が伸び悩んだときにオバマの人物評価や政治予測の鈍さを露呈してしまう。どちらに転んでも、現在進行形の後続政権の顔になってしまった元部下のかつての勤務評定を公にすることは、人事考査を行う上司の目の曇りも先見の明も浮き彫りにする。いっそ評価を留保してバイデンにはあまり触れないのが「安全策」だったとしても十分に理解できる。
2020年、本書の仕上げの時点でバイデンが民主党予備選でどこまで到達していたかは不明だが、バイデンへの書き込みが最終段階で「調整対象」になった可能性は十分に窺える。回顧録後篇の刊行までにバイデン政権に成果が出ていれば、その成果をオバマ政権が土台を作ったかのように描けるかが後篇の勝負になってくる。こうなると後続政権の様子を見ながら書き方を変えられる回顧録の出し方はアンフェアだという感想も出るだろう。しかし究極的には、回顧録とは歴史的事実を逸脱しない範囲で行う政治的ブランディング戦であることをオバマ回顧録がはからずも教えてくれているとも言える。
オバマが回顧録でバイデンについて正直に明かしていることで興味深いのは、2008年大統領選挙で副大統領候補をバイデンに依頼した際、バイデンに断られた事実だ。「彼も健全なエゴの持ち主で、ナンバー2に甘んじることを嫌ったからだ」と説明する。だが、オバマはバイデンの「発言に遠慮や配慮がない」問題など欠点を挙げつつも、外交政策での経験、連邦議員とのパイプを賛美し、交通事故で妻と娘を失い、再婚して家族を支えてきた物語など逆境に強い性質、そして人柄に感銘を受けたことを記している(上巻266-267頁)。
バイデンの目立たないものの貴重な役割が光るのは、政権内での建設的な異論提起役を引き受けていた事実だ。回顧録半ばに出てくる、軍が就任したばかりのオバマにアフガニスタンへの増派を要請する会議のシーンで、バイデンだけが唯一増派に懸念を発する場面がある。オバマはこのバイデンの発言で決断への時間の猶予を得る。これはバイデンなりの作戦だった。
「軍の計画に突っ込んだ質問をすることで、ジョーは私を助けてくれていたのだと思う。少なくとも部屋に1人、反対の意見を主張する人間がいることで、私たちは問題について深く考えるようになった。そして、その反対意見を出すのが私ではないほうが、周りの人間は少しばかり自分の意見を言いやすくなる」(上巻500頁)
ところで、トランプとオバマの「アウトサイダー」としての類似性と比べれば、エスタブリッシュメントのバイデンはむしろヒラリーと同種の政治家で、民主党内ではオバマ派ではなくクリントン派のスタッフを多く抱える。ヒラリー最側近のサリバン国家安全保障担当補佐官のほか、やはりクリントン派でオバマ側近集団に「外様」扱いされていたラーム・エマニュエル元シカゴ市長の駐日大使指名の意向など、バイデンはクリントン夫妻派の登用を躊躇しない。この辺りには民主党内のオバマ・クリントンの骨肉の12年戦争が代理戦の形で反映されていて興味深い。オバマはエマニュエルの首席補佐官登用時の側近の拒否反応を回顧録に赤裸々に記す。
「ラームはヒラリー・クリントンを支持していたではないか、と不満をこぼす者も少しいた。彼のことを、右派にも左派にもおべっかを使い、ダボス会議に出席するたぐいのエリートで、金融業界に甘く、ワシントン政界に重きを置き、中道に偏執する古いタイプの民主党議員とみなす者もいた」(上巻336頁)
今回のエマニュエル駐日本大使指名案にも左派から反発が示されている。だが、エマニュエルを政界で数十年知るシカゴ政界の重鎮は筆者にこう語る。「日本にとってはラーム(エマニュエル )がいい。彼ならバイデン大統領に直接アクセスできる」。元オバマ政権内の隠れクリントン派にして米政界随一の寝技師は、敵にまわせば厄介だが、味方につけると心強いタイプの豪腕政治家である。日本に迎えるとなれば、オバマ回顧録に豊富に盛り込まれている同氏に関する記述は改めて要参照と言えるだろう。
回顧録前篇の『約束の地』は2011年5月のビン・ラディン殺害のシーンで終わる。しかしこれは、オバマにとっては、必ずしも対テロを主眼にした「外交政策」ではなかった。
「私には、ビン・ラディン追跡を重視する明白な理由があった。この男が自由を満喫している限り、9・11で命を失った人々の家族の心痛は消えず、アメリカが侮辱され続けることになるからだ」(下巻494頁)
オバマはアメリカの内側に向かってビン・ラディン掃討を行っていた。オバマ政権は徹頭徹尾、内政中心主義だったが、それはトランプ政権とのもう1つの意外な共通項でもあった。
繰り返し述べてきたように、これだけ長い期間をかけて時間差で分冊発行される大統領回顧録には優れた点とマイナス点が併存する。大統領が8年の任期を終えた直後の成果と失敗への率直な感想を読みたかったという世界の読者も少なくないだろう。後続政権2つ目に突入している今、オバマが書いているのはもはや政権終了直後の素直な感想ではない。トランプ元大統領の今後の言動(トランプ回顧録)、バイデン政権の動向に否応なしに影響される「同時代進行型」の回顧録だ。だが、自政権の遺産を後続政権から照らす、ある種の比較論としては、純粋な従来型の大統領回顧録の枠にはまらないオバマらしい実験の書である。それだけに後篇が姿を現すまでは総合的な評価が難しい、異色の作品だ。
(了)
オバマ回顧録論(7回シリーズ)は今回で最終回となる。回顧録が素通りした「空白の青少年期」などルーツの真相、バイデン政権に残されたもの、「女性版オバマ」とも囁かれたカマラ・ハリス副大統領の実像などは、シリーズで論じきれなかった。本稿に盛り込めなかったこれらの内容は「もう1つの回顧録」として先月上梓した拙著『大統領の条件』2をご笑覧いただければ望外の喜びである(「試し読み」http://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?isbn=978-4-08-744248-9)。