政治教育者としての「スピンドクター」
オバマ回顧録論③

渡辺 将人
オバマ回顧録論の3回目は、「大統領オバマ」を製造し、政権の方向性にも多大な影響を与えたアメリカ政治特有のプレイヤーである選挙コンサルタント(メディア戦略専門家はspin doctorとも呼ばれる)について考察する(「作家オバマの『文学作品』として オバマ回顧録論②」より続く)。
「もう一つの目次」としての索引が示すもの
書籍の索引(index)は人物や事象の記載ページを辞書的にたどる上での手助けをしてくれるものだ。だが、意外な使い途もある。全体像の把握だ。索引欄には本文に登場したり引用される人物名、組織名、事実関係が網羅されている。索引を眺めるだけで、その本の輪郭が見えてくるし、事象のピックアップや呼称の仕方に著者の立場も滲む。「登場頻度」も一目瞭然だ。事項数が膨れ上がり、関連事項別に枝葉を分けた形で一段を占有する人物やキーワードもある。
筆者は「索引」は「第2の目次」だと考えている。目次と口絵写真と共に索引を眺めることも本文への想像力をかきたててくれる。アメリカの政治本の目次は、日本のビジネス書や新書のように小見出しまで詳細に盛り込まれないことも多い。章題だけでピンとこない場合は、索引が「第1の目次」の補完にもなる。
ただ、学術書ではない邦訳の翻訳では索引を省く慣習もある。ページ数で価格が決まる以上、読者に求めやすい価格に抑える版元の苦渋の決断で、致し方ない部分がある。今回の邦訳『約束の地』も索引が省かれている。
原書の索引を眺めて、目を引く1つがデイビッド・アクセルロッド(David Axelrod)という人物だ。索引によれば73箇所も登場する(複数ページにまたがる同一項目は1箇所でカウント)。索引ページの縦2段組の右段をほぼ占有し、次のページ左段にも3分の1ほど食い込んでいる分量だ。試しに他の人物を見てみると、ビル・クリントン(7箇所)、ヒラリー・クリントン(68箇所)、ジョージ・W・ブッシュと同政権(79箇所)、ナンシー・ペローシ(19箇所)、ドナルド・トランプ(3箇所)、ジョー・バイデン(43箇所)、ジョン・マケイン(42箇所)、ミシェル・オバマ(96箇所)といったところだ。副大統領や大統領の座を本選で競った相手よりも多く、政権の党の指導者や元閣僚とも肩を並べる。ブッシュ(子)への言及はブッシュ政権も含んでの数字だ。日本では一般的には知られていないような人物に73箇所もオバマが言及したのはなぜなのか。
彼こそが「大統領オバマ」の製造者だからだ。回顧録ではどのような指導を受けてきたか、大統領への個人指導としての「政治教室」の足跡を記している。政権でのアクセルロッドの役職は大統領上級顧問だった。だが、本業はテレビCMのプロデューサーにして選挙広報のコンサルタントである。アメリカ政治では彼と同じような選挙コンサルタントが政治家のプロデュースを行い、そのまま政権入りすることが少なくない。アメリカ特有の複数の事情が絡んでいるが、最も大きな理由は選挙である。
「政治家オバマ」の製造者:大統領顧問という名のコンサルタント
アメリカでは候補者単位で選挙陣営を構築して戦う必要がある。政党の公認候補を政党幹部ではなく、有権者が選挙で決めるので、予備選段階では政党は特定の候補に肩入れできない。民主党や共和党の全国委員会も予備選には介入しない。アメリカ特有の人種や宗教のセンシティブな要因が「地上戦」の重要性を高め、1960年代以降はテレビ広告など「空中戦」が拡大し、そして昨今ではオンラインの「サイバー戦」が欠かせない。候補者が個別に外部コンサルタントを雇用することで「選挙産業」が生まれた。
クリントンの元参謀のジェームズ・カービル、ポール・ベガラらは選挙戦略全般を専門とし、クリントンの顧問だったディック・モリスは世論調査専門家、ブッシュ(子)の元上級顧問のカール・ローヴはダイレクトメール業者、トランプの元首席戦略官のスティーブ・バノンは映画プロデューサーを経てネット・ニュース「ブライトバート」を拡大した。いずれもコミュニケーションやメディアが本業だ。学術的な広報の知見がある「専門家」というより、叩き上げの「業者」のイメージに近い。
共通しているのはコミュニケーションに関する実務経験からくる嗅覚だ。クライアントである政治家の世論対策や支持率に責任を持つ。日本では政治家の側近である事務所の公設秘書出身の政務秘書官とは別に、官僚機構が官邸や大臣の広報機能を助けるが、終身雇用職の上級官僚機構が脆弱で選挙中心主義のアメリカでは、選挙戦を「一蓮托生」で請け負った人物の発言権がむしろ大きい。武力行使や紛争への介入から法案の妥協ラインにまで影響を与える。顧問は議会の承認が要らないが、大統領に雑談や耳打ちができる近さにいる。それだけの力を持つのに彼らは、外交や内政の政策のサブスタンスの専門家ですらない。彼らのコミュニケーション戦略上の判断が、政策専門家を押しのけて物事を決めることがある。
オバマ政権の「シカゴ・マフィア」
オバマ政権で一定以上の階職にいた補佐官がオフレコで語る共通の愚痴に、オバマのホワイトハウスでは大統領と夫人の側近を固める「シカゴ組」の権限が強く、その輪にアクセスできないと、政策的な影響を与えにくい構造があった。その中心にいたのがアクセルロッドだった。白人票を味方につけて黒人候補者を当選させることに長けていた人物だ。2008年の大統領選挙でオバマのスローガンとして有名になった「Yes, We Can」は、アクセルロッドの発案だ。もともと2004年連邦上院選で使われたフレーズのリサイクルだった。「経済が問題なんだよ、おばかさん(It’s the economy, stupid!)」という1992年のクリントンのスローガンを考えたのは前出のカービルだ。選挙で政策を売り込むロジックを彼らが主導し、政権誕生後も政策全般への影響力を専門外にもかかわらず維持する1。
オバマがアクセルロッドのことを「アックス」と苗字の方の略称で呼ぶのは、もう一人、「シカゴ・マフィア」の中にデイビッド・プラフという地上戦戦略に長けたコンサルタントがいたからだ(『約束の地』では34箇所登場)。同じ名前で紛らわしいのでオバマは彼らを苗字で呼んだ。他に政権初期の報道官からのちに米マクドナルド広報責任者に転じたロバート・ギブズ(46箇所登場)、それに黒人女性のバレリー・ジャレットがインナーサークルだった(22箇所登場)。政権で大きな力を一貫して持ったのは元大統領上級顧問のバレリー・ジャレットだった。「シカゴ・マフィア」で唯一、内部に2期8年残り続けたが、これは夫人の元上司という過去も関係している(ところで、ミシェルはクリントン政権前半のヒラリーの失敗に学び、政権の政策への関与を避けたが、政治外交情報はかなり共有されていた様子もある。例えば、オバマはビン・ラディン殺害という最高機密度の作戦を実行前に夫人には教えていたことを本書で明かしている)。
大統領顧問が「最強」なのは、口は自由に出せるのに責任を取るポストでないからだ。しかも、辞任した後も隠然とした影響を外から与える。トランプ政権の実力者だったジャレッド・クシュナーも上級顧問として自由さを確保した。首席補佐官は選挙での敗北や節目の危機の際に責任を負わされがちで短期で交代する。首を切りやすい特段親しくない人物を据えることもある。首席補佐官は党内や議会に精通した経験が必要なので「選挙屋」には務まらない。オバマは政権立ち上げ時には、政敵であるクリントン派のラーム・エマニュエル(60箇所登場)を首席補佐官に迎えた。
オバマへの政治教育:選挙と演説
回顧録で彼らスピンドクターの「暗躍」や大統領への影響をどこまで赤裸々に書くかは大統領によりけりだ。クリントンは回顧録でディック・モリスが持ち込む世論調査で政策を決めていた過程をある程度まで開示しているが、部分的なものだ。オバマの『約束の地』には選挙を通してアクセルロッドらに政治家として育てられていく様子が克明に描かれている。上巻の前半の多くを占めるのは選挙、それも予備選だ。選挙活動で実に87日間を過ごしたアイオワ州への思い入れはとりわけ凄まじい。政治家一族でもなく、陣笠の1期目の新人上院議員が初戦のアイオワで民主党のエスタブリッシュメントだったヒラリー・クリントンを負かしたことは本当に事件だった。アックスがこう言った、アックスによれば、という類の表現が本書にこれでもかと頻出する。オバマは「特定領域の専門技能を発揮するために国民から雇われているわけではないのだ。世論を動かし、仕事を進めるためにうまく機能する連携を築く。それが大統領の仕事だ」(上巻151頁)と大統領を定義するが、これはアクセルロッドら選挙参謀に感化されてのことだ。
アクセルロッドらのコーチは「作家オバマ」のプライドの領域にも及んだ。演説である。オバマは名文家ではあっても政治演説は苦手だった。知識人的な冗長さが聴衆を退屈にさせ、主張が不明確だった。日本で有名なオバマの名調子は、アクセルロッドらによる矯正後の完成品である。
これではまるで講義である。案の定、アクセルロッドに根本から否定された。オバマが政治や選挙を心からは好きになれなかったのは、物事の単純化を迫られることが苦痛だったからかもしれない。
「脱人種」路線とスピンドクターたち
たいていのことはアクセルロッドらの「指導」に従ったものの、オバマが参謀らの方針にわだかまりを感じていたことが一つあった。「人種ニュートラル戦略」である。アメリカの人種問題は少しも解決していない。そもそもオバマは人種問題を避けてきた。オバマが目指した人種問題の解決の仕方は「人種を論じない」アプローチだったからだ。それは彼の独特の生い立ちがそうさせた部分と、政治戦術的に周囲がそう強いた面と、二つの要因がある。
選挙参謀たちはオバマに人種を語らないように指導した。オバマは回顧録で以下のように述べている。
「公民権や警官の職権濫用、その他黒人に特有の問題ばかりに焦点を当てすぎると、より幅広い有権者層から、反感とまではいかずとも不信感を持たれてしまうと懸念していたのだ」(上巻197 頁)
白人の支持を得ることが黒人候補として勝利の要だった選挙だったからだが、オバマ政権の問題は政権発足後もこの人種ニュートラル戦略を貫いたことだった。
こうした人種風土に風穴を開けることを放棄し、波風を立てずに他の政策に集中したのだ。
オバマはスピンドクターのおかげで大統領になれたことを素直に認めながらも、彼らに従いすぎたことに起因する問題も示唆している。それでもオバマがコンサルタントとしてアクセルロッドを信頼したのは、彼がイエスマンではなかったからだ。アクセルロッドはあり得る最悪のシナリオを提示して、オバマに選択させた。オバマを褒めそやさず、弱点もずけずけ指摘する。実利的なオバマはへつらいに価値を見出さず、耳に痛いことを指摘し、リスクを教えてくれる冷徹な参謀を好んだ。大規模な医療保険改革を目指すオバマに対して、アクセルロッドがエマニュエルと二人で冷水を浴びせるシーンが出てくる。アクセルロッドは「もし失敗すれば、あなたの大統領としての地位が大きく損なわれることはご承知おきください」(下巻72頁)とまで脅かした上で、大統領に最後の決断をさせている。
慎重な「回顧録」戦略:終わりなき「キャンペーン」として
広報のプロに育てられて大統領への切符を手にできたオバマからは、退任後もまだ選挙戦を続けているかのような慎重さが抜けない。終わりなき「キャンペーン」の継続の証が、今回のオバマ回顧録の企画・販売における戦略性だ。まず異例の刊行の遅さと分冊方式だ。本シリーズ1回目で述べたように、大統領回顧録は基本的に次の政権中に出る。出版が遅かったクリントン回顧録ですら2004年6月に刊行されている。オバマの回顧録は2020年11月。後任の再選を決める大統領選挙後まで刊行されず、蓋を開ければ「前編」だけ。「後編」はまだ先だ。
オバマは回顧録執筆の過程で膨大な量の初稿の削除編集に凝ったとされているが、トランプ政権誕生は無関係ではないだろう。ヒラリー政権であれば書き方が変わった。回顧録は時間が経過するほど、純粋な政権記録から逸脱し、後任時代との比較による自分の政権成果のアピールになってしまう。トランプ再選が確実な場合、バイデンやトランプについての記述に一定の差し替えも要しただろう。公刊ゴーサインや延期カードの検討に(発動せずにすんだ)、世論調査やコロナ禍も間接的に影響を与えたはずだ。オバマにとって回顧録出版は「本」であると同時に、まだ「政治」なのだ。
つまり、トランプがどこまでオバマのレガシーを転覆させるか、また中国や中東の世界情勢がどうなるかを見極めてから、自分の政権の政策に対する「説明」を確定させたい希望が透けている。後続政権への世間の反響を見ながら、「後編」の筆致の調整もできる。凄まじい慎重さだが、賞味期限の長い本を目指す上では納得できる。後続の政権の動きや世間の評価を見届けないままで仕上げる通常の回顧録は、政権記録としては価値があるが、それゆえに「読みの甘さ」を露呈するリスクと隣り合わせだからだ。成果だと自画自賛した法案がすぐひっくり返されれば目も当てられない。オバマは過剰な自画自賛や断定的な分析を巧妙に避けている。これは回顧録に深みと安定性を与えたいと欲張るがゆえの慎重さだ。
また、各言語の翻訳版に対する「縛り」も徹底している。オバマには1冊目の著書が「自伝」として世界で一人歩きした苦い経験がある。今回の回顧録は表紙・口絵写真の統一やタイトル訳まで管理されており、日本の翻訳書の慣習である「訳者あとがき」も許されていない。
日本ではアメリカ大統領回顧録は新聞社や新聞社系列の出版社など報道機関が翻訳権を獲得することが多かった。過去例を見ても、フォード(サンケイ出版)、カーター(日本放送出版協会)、レーガン(読売新聞社)、クリントン(朝日新聞社)、ブッシュ(子)(日本経済新聞出版)と持ち回りのような顔ぶれだった(本シリーズ1回目で触れたように(父)ブッシュには厳密な意味での大統領回顧録がない)。この連鎖がオバマで断ち切られた。集英社はコンドリーザ・ライス回顧録で実績があり、ミシェル夫人の回顧録でも成功を収めているが、報道機関ではない版元から出るのは珍しい。
版元が報道機関でも、訳出が元ワシントン特派員らで行われる場合と、プロの翻訳家に依頼される場合とがあり、前者型では当該大統領を解説する別の種類の本になるケースもある。カーター回顧録が典型で、監修のNHKのベテラン記者の冒頭企画が盛り込まれていて、NHKの番組を本にしたようなテイストが漂う。解説は「異文化の橋渡し」としては日本の翻訳書文化の意義ある慣習なのだが、それを誰がどういう形で担当するかには解答はない。しかし、それだけにオバマのように原著者がナーバスになるのも理解はできる。また、各言語の言語事情から、翻訳は一元的な管理に本来は向かない問題もある。たまたまA Promised Landは『約束の地』という日本語でもシャープ感のあるタイトルでハマったが、ミシェル夫人の回顧録のように日本語に直訳しにくいタイトルだった場合は苦しい(夫人回顧録の原題はBecomingで直訳しても意味が伝わりにくいため、邦題は独自タイトルの『マイ・ストーリー』になっている)。
複数での翻訳は下訳のスピードは圧倒的だが、訳語の統一や文体の調整に手間がかかるので詰めの段階で時間がかかる問題もある。しかし、『約束の地』はこれが10人で訳されたことを感じさせない仕上がりになっている。口絵キャプションまで原書の再現を徹底しているが、要所、要所で日本の読者に伝わる工夫も施されている。
舌を巻いたのは、カバー袖の要旨欄で「アイオワ州予備選」と書いてあることだ。原書ではiowa caucusで直訳すればアイオワ州党員集会である。オバマ勝利は「党員集会」であることにミソがあったので本文でも要旨でもアイオワが強調されている。初戦が秘密投票ならオバマは不利だった2。専門的には党員集会のままで訳したいところなのだが、カバー袖は店頭で手にとって眺める場所だ。徹底した「わかりやすさ」が優先する。選挙の形態の一つであるとは分かりにくい「党員集会」を避けて「アイオワ州予備選」としておくのは一理ある。日本向け書籍の判断としては実は秀逸な機転訳だ。だが、鳩山元総理への言及部分の翻訳は、日本版にとって思いがけない難所となった。
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