オバマにとっての北朝鮮と中国
オバマ回顧録論 ⑥

渡辺 将人
オバマ回顧録論の6回目は、オバマ政権にとっての東アジア外交、北朝鮮と中国の問題を取り上げる(「諸外国と『文化』言及のジレンマ オバマ回顧録論⑤」より続く)。
「動かない難題」としての北朝鮮
オバマとトランプは政治に独特の嗅覚を持っていた。オバマが持っていたのは「動かないもの」を見分ける嗅覚で、トランプが持っていたのは「人が驚くもの」を見分ける嗅覚だ。
完璧主義者のオバマは結果主義でもあり、成果が出そうにない「ロングショット」の案件を頭から避ける傾向があった。これは内政においてもそうで、人種問題など大統領が先頭で介入すれば双方の対立がむしろ広がる案件には手を出さなかったし、医療保険制度改革もクリントン政権下でヒラリーが目指した皆保険よりも小規模の法案で、手堅く保険会社を味方につけた。
オバマが内政で、勝敗を度外視して感情剝き出しの勢いで打って出たのは、銃規制法案だけだった。コネチカット州の小学校乱射事件の際、オバマはそれまでに見たことない怒りの感情を示していたという。
外交でオバマが真っ先に距離を置いたのが北朝鮮だ。北朝鮮問題は動かない。動くときは突然事態が急展開するのだが、動いたと見せかけて、本質は動いていないことが多い。筆者が「米朝首脳会談再考と日朝の構図」1で詳述したように、ここ20年で言えば、現実的に事態が「進展」したのは2002年の小泉訪朝による拉致被害者の一部帰国から、ブッシュ(子)政権2期目の6カ国協議と米朝接近の頃までの数年程度に凝縮されている。
それ以降の時期はいずれも散発的な動きで根本的「進展」はない。部分を見ると動いていても、20年のスパンでは2000年代前半の動きに比べれば微々たるものにとどまっている。当時、筆者が北京支局に増員特派員的に詰める羽目になったのも、6カ国協議があまりに長期化し、北京支局を拠点に北朝鮮を担当する要員として帰国不能になったためで、極めて異例な時期だった。
「政権遺産」への野心を掻き立てる北朝鮮の魔性
「政権の遺産(レガシー)」になる歴史を築けそうな、そんな匂いを発する魔性を北朝鮮は漂わせる。クリントン政権はオルブライト国務長官を訪朝させて接近し、ブッシュ政権はライス国務長官をけしかけて、一時は平和条約を視野に連絡事務所設置案までテーブルに載せた2。しかしいずれも成功していない。オバマ政権は過去の政権の経緯を冷静に勉強した。その上で、北朝鮮はリスクがあり過ぎると判断したのだ。その結果が、自らは何も仕掛けない「戦略的忍耐(strategic patience)」であり、危機が発生しない限りは「手をつけない」ということだった。
どの政権も末期に北朝鮮に手を出すのは、失敗したときのダメージが、再選や他の重要政策実現の資産を失わせるからだ。だが、政権末期に動き出してもどうせ「時間切れ」になる。早期に本気で手をつけるリスクを取れる政権でないと動かさない。しかし、そういう政権はなかなかないので動かないというスパイラルだった。左派の専門家までが、リスクを気にしない破天荒なトランプなら動かせるかもと期待したのはそのためだった。
だが、トランプは「成果を出す」ことではなく、「人が驚くもの」は何かを嗅ぎ分ける天才だった。そこで歴代の両党の政権が失敗し、オバマが8年棚上げした北朝鮮に目をつけた。ここまでは興味深い展開だった。しかし、目立つことが第一目標であるトランプは、その先のシナリオに弱かった。政権からその道数十年の外交専門家を排除していたことも負の作用をもたらした。華々しい米朝会談だけでやはり頓挫した。
オバマが回顧録刊行に時間をかけた理由をめぐる憶測の1つに、トランプ政権の北朝鮮のイニシアチブの成り行きを見届ける必要が生じてしまったとの説があるが、これは納得できる読みだ。
『約束の地』でも北朝鮮に単独で触れている箇所はなく、「北朝鮮が弾道ミサイルの発射テストを開始したとき、国連大使のスーザン・ライスは安全保障理事会に強力な国際制裁を採択させることができた」(下巻180頁)として、オバマ政権成立後のアメリカへの国際的な信頼増進に関連して述べているところがある程度で、北朝鮮の指導者の固有名詞も出てこない。日本の拉致問題への言及も残念ながらない。
オバマ独自の中国観?
ルーツ的には「太平洋大統領」だったオバマがアジア外交で力を発揮できなかったのは皮肉だし、中国の覇権主義を黙認し、北朝鮮を事実上放置する8年になったことへの批判は小さくない。だが、「内政優先」政権の大方針に加え、全てを見通せてしまうオバマのバランス感覚も裏目に出た感がある。
中国についてオバマの考え方は曖昧模糊としている。オバマは回顧録での中国関連の記述で、1970年代以降の中国史を彼なりに概括し、意外なことに「アメリカ政府の甘い対応」を批判的に振り返ることから始める。
「1990年代前半、労働組織のリーダーたちはますます公正さを欠いていく中国の貿易慣行について警鐘を鳴らしていたが、かなりの数の民主党議員——特に工業が斜陽化している州選出の議員が、中国を擁護したのだ。共和党にも中国を批判する者はいたが、そうした人々は、アメリカが少しずつ他国に降伏しつつあると考えて怒りを募らせるパット・ブキャナンタイプのポピュリストか、邪悪な共産主義の拡大をいまだ懸念する高齢の冷戦タカ派のどちらかだった」(下巻215頁)
民主党から共和党まで、アメリカの対中政策の各流派を解説して見せた上で「中国についての私自身の見解は、どのグループの見方ともぴったりとは重ならなかった」と述べる。つまり、両党の先輩政治家や、アメリカの並居るアジア専門家の研究者や外交エリートをばっさりと切り捨て、自分の中国観は違うと言うのだ。
「世界経済への統合を中国に促したクリントンとブッシュの決断は正しかった」と両政権を肯定した上で、民主党の足元の労働組合の自由貿易に対する拒絶反応を諫める。他方で、「米中間の貿易不均衡が巨大化した現場では、アメリカはもはや中国の為替操作やその他の不公正なやり方を見過ごすことはできない」との考えを示す(回顧録に記されているオバマの温家宝首相への発言)。
金融危機の後始末を背負わされたオバマは、経済的な実利主義から中国との衝突を避けたことを回顧録でこう記す。
「中国は7,000億ドルを超える米国債を保有し、外貨準備も巨大だったために金融危機管理において必要なパートナーになっていた」 「貿易戦争が始まって、世界中を不況に陥らせたり、私が支援すると誓った労働者たちがダメージを被ったりするような事態にしてはならない」(下巻216頁)
オバマはインドネシア経験、シカゴ南部での活動を通して、貧困がこの世で最悪のものだと考えるようになった。『約束の地』でも「何億もの人々を極度の貧困から救った中国の成功は、人類のすばらしい偉業だと思えた」と記している。だが、政治的な公正さや自由を棚上げしたまま格差を広げる経済発展をどう考えるのか、オバマはそこには答えを示していない。
オバマ流レトリックによる中国批判
「作家オバマ」は中国論でも得意の持って回ったレトリックを駆使している。「誉めて、落とす」という例の「オバマ節」に注意していれば、決してオバマが中国に一方的に甘いわけではないことはわかる。しかし、カモフラージュが複雑でストレートに揶揄が響かない。「安全運転」の批判だ。
「封建主義から情報化に至るまであらゆる性質が入り混じる経済を統合しながら、北米と南米の両大陸を合わせた規模の人口の需要を満たすだけの雇用を生み出さなければならない」と、中国の指導者の立場に同情を示す努力をしたかと思えば、「共産党の高官たちが、常習的に国有企業との契約や営業免許を自分の親族に与え、数十億ドルを外国の口座に蓄財しているということを知らなければ、もっと共感できた」と皮肉を込める(邦訳225頁)。
北京での公式晩餐会でのシーンの回顧の仕方も特徴的だ。「晩餐会では中国の伝統芸能である京劇なども上演された」と記した上で、「チベット族、ウイグル族、モンゴル族のグループによる舞踏メドレー」も行われたことに触れるのだが、「司会者は、中国ではすべての少数民族が尊重されていると言った。参考までにといった雰囲気で述べられたその言葉を、政治犯として服役する数千人のチベット族とウイグル族が聞いたらさぞや驚いただろう」と締めくくる(邦訳版下巻225頁)。
上海で現地の大学生と対話した1シーンが出てくる。「学生たちは礼儀正しく熱意もあった」としながらも、「若い彼らは、文化大革命の恐怖を体験したこともなければ、天安門広場での弾圧をその目で見てもいない。そういった歴史は学校で教えられず、親からも聞いていないのではないかと思った」とチクリと刺す。オバマは若者の愛国心が「うわべだけというわけではない」と今から10年以上前の対話に感じ取っていた。
その上で「中国の学生たちの考えはいずれ変化するだろうと考えたかった。しかし、そのような変化が訪れる保証はない」と悲観論を提示し、それは「中国の経済的成功により、その権威主義的資本主義というシステム」が、「あらゆる発展途上国の若者にとって、欧米式の自由主義に代わる有望な体制に見えていた」ことにあると述べる。オバマは「彼らが最終的にどちらの体制を選ぶかによって、次の世紀の地政学が大きく変わるだろう」と指摘する(下巻222-223頁)。
極めて妥当ではあるが、このメッセージはあまりに傍観者的に聞こえるかもしれない。「自由主義一択」とオバマは叫ばないのである。
「対中認識の変化」以前を描くオバマ回顧録
回顧録を熟読すれば、オバマが中国の強さと同時に負の面も認識していることは自明だ。だが、それを正面からは主張しないのもオバマ流である。皮肉めいた言い回しでオブラートに包んで表現する。作家としては上級の批判手法かもしれない。しかし、大統領としての外交上の結果責任はどうか。そのジャッジを『約束の地』という回顧録前篇だけで下すのはフェアではないだろう。オバマ政権の対中政策もオバマ政権末期に硬化していくからだ。TPP(環太平洋経済連携協定)をオバマが明確に対中包囲網と意識していたことは、バーニー・サンダースが後に明かしている。
慶應義塾大学の中山俊宏教授は、トランプ政権以後、バイデン政権でも一貫して厳しいアメリカの対中姿勢について、「アメリカ人の意識の中で中国の存在が大きく変わったことの結果」と指摘する。
1970年代初頭以来の、対中関与政策の挫折でもあった。それは、中国を国際社会に引き出すという姿勢で関与していけば、中国もいずれは「こっち側」にきて、「責任あるステークホルダー」になるという期待をもはや持てなくなったということである。
この対中認識の変化は超党派的なものであった。なにか単一のトリガー・イベントがあったわけではないが、この変化は2010年代半ばあたりからはっきりと確認できるようになった3。
周知の通り、2010年代に中国はサイバー技術を含むテクノロジーの進歩と覇権主義を加速させた。2009年の米中会談で温家宝首相が自虐を巧妙に駆使した以下のような言い訳を披露していたことをオバマは回顧録で明かすのだが、それはある種のノスタルジーも醸し出す。
上記の中山教授の分析を敷衍すれば、オバマが就任した当時の胡錦濤の中国に対するオバマの中国観が、習近平の中国に移行していく過程でどう変化していくのかが「見もの」であり、そればかりは回顧録の後篇「オバマ政権2期目」を待たねばならない。その意味で、『約束の地』におけるオバマの中国論は未完である。
(次回「トランプとバイデンについて オバマ回顧録論⑦」はシリーズ最終回)
- 渡辺将人「米朝首脳会談再考と日朝の構図―ジョージ・W・ブッシュ政権期との比較から―」笹川平和財団『SPFアメリカ現状モニター論考』、2018年7月26日、<https://www.spf.org/jpus-insights/spf-america-monitor/spf-america-monitor-document-detail_7.html>(2021年6月3日参照)。(本文に戻る)
- 2018年、トランプ政権下での米朝首脳会談で話題化した米朝連絡事務所案だが、米国務省にとって調整経験はブッシュ政権期に遡る。2005年当時、ワシントンと東京の複数の日米外交筋への筆者確認に基づきテレビ東京で報じ、共同通信など一部社も同じく報じた件だが、米政府は調整過程の詳細は公にはしていない。(本文に戻る)
- 中山俊宏「【解説】見えてきたバイデン外交の輪郭...もう『トランプおやびん』はいない」FNNプライムオンライン、2021年3月29日、<https://www.fnn.jp/articles/-/161717>(2021年6月3日参照)。(本文に戻る)