はじめに
1997年に英国から中国に返還された香港は、その後50年間の「一国両制(一国二制度)」の下、大陸本土とは異なる「香港特別行政区」と呼ばれる特別な地位を有している。多くの日本人にはあまり知られていないことではあるが、香港返還以降、それまで駐留していた英国軍に代わって人民解放軍が香港に進駐している。
6月13日、香港を訪問中のデイビッド・ヘルビー米国国防次官補代理に対して、「人民解放軍駐香港部隊(PLA Hong Kong Garrison)」の陳道祥司令官(少将)が「人民解放軍は香港の問題に干渉しない」と伝えた[1]。一方で、7月1日には、人民解放軍は香港域内において陸海空軍部隊の緊急出動能力・統合作戦能力を検証するために、特殊作戦部隊を艦艇やヘリコプターに搭乗させた実働演習を行いその存在を香港市民にアピールした[2]。
人民解放軍駐香港部隊とは
駐香港部隊の任務は「中華人民共和国香港特別行政区駐軍法」第5条[3]によって規定されている。具体的には、外敵の侵略に対する香港の防衛と、動乱によって香港特別行政区政府がコントロールできない緊急事態に陥った場合のいわゆる治安維持である。
中国版ウィキペディアとも呼ばれる「百度百科」[4]によれば、人民解放軍は陸軍1個歩兵旅団[5]、海軍艦艇大隊[6]及び空軍ヘリコプター航空団[7]からなる総勢約6000名の将兵を香港域内に駐留させている。部隊の装備は2009年から2013年にかけて近代化され、とりわけ特殊作戦能力や化学戦能力を向上させているという[8]。香港に駐留する将兵は、南部戦区をはじめ広く大陸全土から選抜されており、香港に隣接する広東省深圳及び東莞に所在する後方部隊で香港勤務に必要な法律知識等の特殊な教育と訓練を受けている。香港域内の部隊に配属された後、彼らの駐留期間は将校の場合で3年から6年、下士官・兵の場合は1年である。
軍隊とローカルコミュニティ
一般論として軍隊、とりわけ陸軍は部隊が駐屯する地域の住民やその社会と密接な関係を有しているものである。部隊に所属する将兵の多くはその地域の出身者であったり、将兵の家族もまた地域社会の一員であったりすることが多く、「オラが村の兵隊さん」といった想い、相互信頼の情を将兵及び住民の双方が共有している場合が多い。地域住民の信頼を得た部隊やその将兵は、住民やコミュニティの安心・安全を守る最後の砦、ラストリゾートである。自衛隊の場合も災害派遣のみならず、平素からの地域住民との信頼関係の醸成に日々努力している[9]。
自国の軍隊ではないものの、在日米軍の場合も基地周辺の地域社会との積極的な交流により相互の信頼関係向上に努めている。米軍将兵・家族の中には米軍基地の外に住み、コミュニティの一員として溶け込んでいる者もいる。また日本で伴侶を得て家族をつくる米軍将兵も多く、このような交流を通じて、日本を第二の故郷と呼び、日本を好きになって米国に帰る米軍将兵のみならず退役後も日本に定住する者も少なくない[10]。
中国においても、人民解放軍自身は建軍当初から長征など軍民不可分の物語を持っている。その上、今もなお、人民解放軍現役部隊、同予備役部隊及び民兵という3種類の兵役制度を通じて各地域のコミュニティや市民の生活と軍隊は深く結びついている。特に習近平政権になってからは「軍民融合」を合言葉に地域、企業、軍隊との様々な形での一体化が進められている。
駐香港部隊と香港市民
しかし、香港に駐留している人民解放軍と香港の市民・コミュニティとの関係は、大陸本土のそれとは異なっている。駐香港部隊は、司令部こそ香港島中心部のセントラルと呼ばれる繁華街に所在するものの、駐屯地や軍用桟橋、軍用飛行場など部隊の大半は市街地から離れた場所にあり、観光客はおろか香港市民も日常的に人民解放軍の存在を意識することはない。
駐留部隊の下士官・兵の大半は、駐留期間中に駐屯地の外へ出る機会はほとんどない。また香港市民が人民解放軍の将兵と交流する場も、年に数回の駐屯地等開放日などの機会に限られている[11]。中国本土では天安門前広場などで行われる軍事パレードも、香港では駐屯地内部で行われている[12]。駐香港部隊司令官の官邸こそ香港島の名勝地ビクトリア・ピークに近い豪邸エリアに所在するものの、駐留部隊将兵の生活は駐屯地内で完結しており、また家族も大陸本土に残している[13]。そのため将兵やその家族が一般市民として香港市民と生活の場を共有することも無い。
したがって、駐香港部隊の将兵が香港市民と接する機会は少なく、彼らが香港を第二の故郷と感じるまでに親しみを覚えることはなかなか難しい。特に2018年に深圳がGDPで香港を越えるなど[14]、近年の香港は将兵たちにとって返還当初のような経済的に魅力のある街ではない。目覚ましい経済発展を続けている大陸本土と比べて、香港は「無益な政治闘争ばかり繰り返すダメな場所」[15]であり、人民解放軍将兵にとって許されない宗教活動などが街中で行われている退廃的で害悪のある街でしかないのかもしれない。
香港市民は二級国民?
中華人民共和国憲法第55条は、祖国を防衛し、侵略に抵抗することは、中国人にとって「神聖な職責」であり、兵役に服し、或いは民兵組織に参加することは中国人の「光栄ある義務」であると規定している。大陸本土の中国人であれば共産党員でなくても等しく入隊を希望することが可能である。
ところが、たとえ共産党による統治に賛成する者であっても、香港市民は人民解放軍に入隊することを認められていない[16]。かつて英国植民地時代ですら香港市民は香港防衛のための義勇軍に志願することができていた[17]。また現在もグリーンカードを入手すれば、香港市民もアメリカ軍に入隊してアメリカンドリームを手に入れることができる[18]。しかし返還から20年を過ぎてもなお、香港市民には中国人としての「神聖な職務」を果たすことを認められていない。
香港市民からすれば、それは「一国両制」の下での「兵役免除」と言う権利の保障であり、人民解放軍の「兵役に服さない自由」であるのかもしれない。しかし、人民解放軍将兵から見れば、香港市民は「光栄ある義務を果たす資格のない」二級国民であると見えていても不思議ではない。
駐香港部隊は香港市民のラストリゾートたりえるのか
日本においては、近年の世論調査などで「最も信頼できる」機関として6割以上が自衛隊を上げ[19]、8割以上の人が「現状どおり日米の安全保障体制と自衛隊で日本の安全を守る」ことに賛成している[20]。こうした評価は自衛隊員や在日米軍将兵とコミュニティとの平素からの相互信頼関係がなければ得られない。その前提は自衛隊員や在日米軍将兵が自らもコミュニティの一員であり、守るべき故郷であると感じているからでもある。
一方、香港における現状を見れば、駐香港部隊の将兵たちが香港を守るべき故郷・コミュニティであると感じているとは言い難い。将兵たちの守るべき香港に市民やコミュニティが含まれていないのだとすると、彼らが香港市民を守る最後の砦、ラストリゾートとして香港市民の信頼を得るにはまだまだ容易ではなさそうだ。
- 本論文で述べている見解は、執筆者個人のものであり、所属する組織を代表するものではない。
(2019/08/06)
脚注
- 1 Greg Torode, Phill Stewart, “Exclusive: China's PLA signals it will keep Hong Kong-based troops in barracks,” Reuters, 9 July 2019.
- 2 原俊敏、易定、「驻香港部队组织联合海空巡逻演练(香港駐留部隊が海空統合パトロール演習を実施)」、『中国军网』、2019年7月1日。
- 3 http://www.mod.gov.cn/regulatory/2016-02/19/content_4618048.htm
- 4 「中国人民解放军驻香港特别行政区部队」、『百度百科』。
- 5 陸軍部隊は1個歩兵旅団(装甲歩兵大隊、機械化歩兵大隊、自動車化歩兵大隊、偵察大隊、砲兵大隊、化学大隊、特殊戦大隊、防空大隊(LY-60地対空ミサイル、LD2000近距離防空システム))で編成されているとみられる。
- 6 海軍部隊は1個艦艇大隊(最新のJiandao級コルベット2隻、Houjian級ミサイル艇6隻及び揚陸艇4隻等)で編成されているとみられる。
- 7 空軍部隊は1個航空団(Z-9型指揮偵察ヘリ、Z-9型武装ヘリ等6機以上)で編成されているとみられる。
- 8 駐港部隊發宣傳片(駐香港部隊広報ビデオ)「有信心有能力維護香港長期繁榮穩定(香港の長期繁栄と安定を守る自信がある)」。
- 9 例えば、「与那国島への陸自配備から1年余 島民に溶け込む自衛隊 国境の砦に「活気」と「安心」もたらす『地域のために、地域とともに』」、『産経ニュース』、2017年7月3日。
- 10 拙著「日米同盟の礎としての在日米軍経験者との絆」、海上自衛隊幹部学校『戦略研究会 コラム 101』、2018年5月28日。
- 11 易定「驻香港部队将举行军营开放日活动 免费派发3万参观券(駐香港部隊が基地開放日活動実施、無料参観券3万枚配布)」、『中国军网』、2018年6月26日。
- 12 军报记者「习近平检阅驻香港部队(習近平が駐香港部隊を検閲)」、2017年6月30日
- 13 例えば駐香港部隊将兵家族のための幼稚園は広東省深圳市に所在している(「中国人民解放军驻香港部队幼儿园介绍(中国人民解放軍駐香港部隊幼稚園紹介)」、『深圳学校网』。
- 14 「深圳GDP初めて香港抜く、18年高成長」、『日本経済新聞』、2019年2月27日。
- 15 倉田徹、張彧暋『香港-中国と向き合う自由都市』、岩波新書、2015年12月19日、vi頁。
- 16 香港特別行政区基本法の附則「付属文書三::香港特別行政区において施行される全国性法律」により、中国の兵役法は適用除外とされている。
- 17 Royal Hong Kong Regiment (The Volunteers) , Wikipedia.
- 18 拙著「中国夢とアメリカンドリーム」、海上自衛隊幹部学校『戦略研究会 コラム079』、2016年7月4日。
- 19 『日本経済新聞』、2019年1月21日。
- 20 「自衛隊・防衛問題に関する世論調査(平成30年1月調査)」、内閣府。