アメリカの「インド太平洋戦略」におけるASEAN

 2019年6月1日、米国防総省は「インド太平洋戦略報告書」(Indo-Pacific Strategy Report、以下「報告書」)を発表した。「報告書」は、中国を「法の支配に基づく秩序の価値と原則を棄損する」「修正主義国家」と明記し、中国は軍事力や経済力を用いて短期的にはインド太平洋の地域覇権を追求し、長期的にはグローバルな超大国になることを目指している、と断じた[1]。「報告書」では、中国の挑戦を受ける現覇権国アメリカがインド太平洋戦略を実施するにあたり、パートナーシップが主要な政策の1つとしてあげられている。パートナーシップを維持強化する対象国として、多くのASEAN諸国が次のように区分けされ、列挙されている。

  • 同盟国:フィリピンとタイ
  • 戦略的パートナーシップ国:シンガポール
  • 新たなパートナー国:ベトナム、インドネシア、マレーシア
  • 今後協力強化を模索すべき国:ブルネイ、ラオス、カンボジア

 このように「報告書」は、ミャンマー以外のすべてのASEAN諸国に関して、各国の現状を踏まえつつ、今後どのように協力強化を図っていくかを個別に詳述している[2]。ここには、アメリカのインド太平洋戦略におけるASEANの重要性が表れている。
 では、指名され、協力が期待されているASEAN側の反応はどのようなものであろうか。ASEANは当初から、アメリカのインド太平洋戦略に懸念を抱いてきた。懸念の要因は第1に、アメリカが戦略を練り上げるプロセスにおいて次第に明確な輪郭をともなってきた、中国との対決姿勢である。ASEANは確かに、地域安全保障におけるアメリカの絶対的な力を必要とし、特に南シナ海での中国の影響力拡大に際しては、アメリカの関与に頼ってきた。しかし一方でASEANは、中国の推進する「一帯一路」に深く関わり、今や特に経済的に、中国はASEANにとって不可欠のパートナーとなっている。そのためASEANは、中国との対決に際してアメリカ側につくよう求められると、米中いずれかの側に立つことはできないというジレンマに陥る。
 第2に、ASEANの一体性が損なわれる恐れである。インド太平洋戦略はアメリカが同盟国との協力を基軸に推進しており、ASEANは中心的役割を担う立場にない。従来「アジア太平洋」を中核的な地域概念として、自らが中心となって安全保障や経済などの様々な多国間協力枠組みを発展させてきたと自負するASEANにとって、インド太平洋戦略は地域における自らの役割を低下させかねないものと映る[3]。また「インド太平洋」という地域概念は、価値観の共有の側面を併せ持っている。もしもインド太平洋戦略に加わる国々が、戦略が掲げる価値観の共有を必要とするならば、ASEANの加盟国すべての参加は必ずしも自明ではない(実際、理由は不明であるが、「報告書」においてミャンマーへの言及はない)。この場合、ASEANの一体性を保つことは難しくなる。
 第3に、ASEANの中心性が保たれない恐れである。前述の通り、インド太平洋戦略においてASEANの一体性が担保されない場合、一体性が保障されることによってはじめて可能となるASEANの中心性が保たれる保障はない。その場合、ASEANが中心に位置することによってバランスを保ち、米中を含む域外大国の関与を促進してきたASEANの各種多国間協力枠組みは、機能しない恐れがある。
 ただアメリカは、中心性をめぐるASEANの懸念を理解し、その不安を解消しようとしているふしはある。「報告書」は、戦略の実施に際してもう1つの政策である「ネットワーク化された地域の促進」において、多国間協力を通じた地域機構の強化に言及している。そこでは、ASEANはアメリカのインド太平洋戦略が内包する海洋の自由、市場経済、良好なガバナンス、明確で透明性あるルールに基づく秩序の尊重、といった価値や政策を促進するにあたってのカギとなるパートナーと位置付けられている。またアメリカはASEANのコンセンサスに基づく意思決定のモデルを尊重する、とASEANの基本理念を重視すると同時に、東アジア首脳会議(EAS)、ASEAN地域フォーラム(ARF)、拡大ASEAN国防相会議(ADMM Plus)といったASEANの多国間協力枠組みへの米国の関与を強調している[4]。

アメリカの「インド太平洋戦略」におけるASEAN

ASEAN独自の「インド太平洋」概念

 アメリカからのアプローチに対してASEANは、米中対立が激化する中、自らの戦略的自律性の確保を目指し、アメリカでも中国でもない「第3の道」を選択した。それは、ASEAN独自の「インド太平洋」概念の提示である。当該概念を取りまとめるにあたってイニシアチブをとったのは、インドネシアであった。インドネシアのジョコ・ウィドド大統領は、2018年4月にシンガポールで行われたASEAN非公式首脳会議において、「インド太平洋協力」戦略を発表した。戦略のポイントは①包括性、透明性、総合性、②地域のすべての国々の長期的な利益に適う、③平和、安定、繁栄を維持するためインド太平洋諸国の共同の取り組みに基づく、④国際法とASEAN中心性の尊重、の4点であった[5]。
 インドネシアの提案を受け、ASEANは同年8月の外相会議で、ASEANとしてインド太平洋概念に関する議論を進めることで合意した。その際会議の共同声明は、「我々はインドネシアのインド太平洋概念に関するブリーフィングに留意した。我々は、ASEAN中心性、開放性、透明性、包括性、ルールに基づくアプローチを包含し、相互の信頼、敬意、利益に貢献するインド太平洋概念に関するさらなる議論に期待している」と言及した[6]。
 2019年6月23日、ASEAN首脳会議は「インド太平洋に関するASEANの見通し」(ASEAN Outlook on the Indo Pacific、以後「見通し」)を発表した。同「見通し」は2018年から本格化したASEAN内での議論の集大成とはいえ、日付上、アメリカの「報告書」に対するASEANの返答のような形となり、また実際、アメリカに対する回答のように読み取れる箇所もある。5ページほどの「見通し」の内容は、50ページにわたるアメリカの「報告書」に比べて一般的かつ抽象的で、個別具体性に乏しいものであるが、それもASEAN内で様々な利益や思惑を持つ10カ国の意見を総合した結果と考えれば、致し方ない側面もある。
 「見通し」の特徴として、次の3点をあげることができる。第1に、「中国囲い込み」(encirclement)に対する婉曲的な参加拒否である。「見通し」はその冒頭で、インド太平洋の地域情勢を概括し、「経済的・軍事的な大国の台頭によって、不信、計算違い、ゼロ・サムゲームに基づく行動パターンなどを回避する必要がある」として、米中対立への懸念を表明している。そして大国間の戦略競争に際してASEANの取るべき対応として、「競合する利益の戦略環境のなかで、誠実な仲介者であり続ける必要」があり、「競合ではなく対話と協力のインド太平洋地域」を創出すべきと論じる。ここではゼロ・サムではなく戦略的信頼やウィン・ウィン関係の構築等、アメリカの姿勢と相反するASEANのインド太平洋に関する地域イメージが、繰り返し述べられている[7]。
 第2に、ASEAN中心性と、ASEANの多国間協力枠組みの重要性の再確認である。「見通し」は、ASEANの中心性をインド太平洋で協力を促進するための基本原則と位置づけ、ASEANの多国間枠組みの中で特に東アジア首脳会議(EAS)を、協力促進の場として活用することを訴える[8]。ここでは、アメリカの強調する同盟とパートナーシップという、2国間の安全保障協力枠組みのネットワーク化ではなく、ASEANが大国関係の中心となって彼らの利害を調整するという、ASEANが今まで追求してきた地域協力のあるべき姿を再確認している。
 第3に、安全保障ではなく経済へのフォーカスである。これは対立ではなく協力(cooperation)を強調するという、「見通し」の基本路線を反映している。「見通し」はインフラ投資の促進を中軸とする連結性向上や持続的成長を重視し、同時に環インド洋連合(IORA)、ベンガル湾多分野技術経済協力イニシアチブ(BIMSTEC)、赤道アジア(BIMP-EAGA)などのサブ地域レベルの枠組みや、東アジア地域包括経済連携(RCEP)を中心とする地域の経済統合枠組みとの相乗効果を期待する。ASEANは、このように多種多様な協力枠組みとの連携によって、多層的な地域協力の秩序を志向している。また海洋に関しても、安全保障面での対立ではなく、資源、連結性、環境汚染対策、科学技術協力といった協力面に焦点を当てている[9]。

ASEAN独自の「インド太平洋」概念

 「見通し」で使われている文言は、通例のASEANの諸文書に比べても非常に注意深く選ばれており、かつその表現は曖昧である。これは、ASEANが米中対立の扱いに神経をとがらせていることの証左であろう。ここでは「南シナ海」に言及もなく、「アメリカ」「中国」といった国名すら出てこない。従来の文書より一層曖昧さを帯びた今回の「見通し」は、米中対立の激しさと対立に関するASEANの強い懸念を示すと同時に、米中どちらの側にも立たないというASEANの立場ややり方を再確認した。ただ、ウィン・ウィン関係や経済の強調、RCEPへの期待、南シナ海をはじめとする安全保障問題への言及の回避、といった点を考慮すると、ASEANのビジョンはむしろ中国の「一帯一路」構想と親和性を持っている。インドネシア当局者によると、ASEAN首脳会議で「見通し」を採択するにあたり、シンガポールはさらなる議論を要求し、採択プロセスは一時停滞したという[10]。シンガポールの慎重姿勢の理由は明らかではないが、アメリカとの戦略的パートナーシップが自国の安全保障と緊密に結びついている同国にとって、アメリカの戦略を否定するかのような文書に賛意を示すことにためらいを見せたのかもしれない。
 アメリカ(と中国)とASEAN各国の、国力の面からの絶対的な非対称性に鑑み、ASEANがアメリカとの2国間交渉で持つレバレッジは小さい。しかし、アメリカもインド太平洋戦略の実施にあたってASEANからの支持を取り付ける必要がある。カンボジアなどの例を鑑みるに、アメリカがASEAN諸国に対して外交的圧力をかけすぎると、もう1つの選択肢である中国へ彼らを追いやることになる。その意味では、米中対立における微妙なバランスの中で、ASEANが戦略的に動く余地はあるとはいえる。ただ、ASEANが米中対立を解消し、インド太平洋地域の平和と安定を実現する妙案を持ち合わせているわけでもない。また「見通し」にある、大国間の利害調整の場としてEAS(東アジア首脳会議)を活性化するという発案の有効性を、彼らがどこまで確信しているのかも定かではない。それでもASEANは、主権国家の集合体として、大国政治に翻弄されながらも、自らの自律性と選択の余地を残そうと奮闘している。

(本稿の見解は筆者個人のものであり、所属組織の公式見解ではない)

(2019/07/12)