2019年8月、インドのナレンドラ・モディ首相は、議会に法案を提出し、憲法第370条[1]で保障された特別な自治権をもつ地位にあったカシミールのインド側に位置する旧ジャム・カシミール州から、その自治権をはく奪し、ジャム・カシミール地域とラダク地域の2つに分けた上で、連邦直轄領にすることを決めた[2]。そして軍と治安部隊を増強し、旅行者などを引き上げさせ、大規模な軍事・治安作戦を開始する模様だ。なぜ今、このようなことが始まったのだろうか。モディ首相がこのような動きを見せた背景は、ジャム・カシミールの場合と、ラダクの場合とで違うとみられるので、以下を2つに分けて分析し、合わせて米印関係への影響についても分析する。

アフガニスタンに連動するジャム・カシミール情勢

ジャム・カシミール地域については、実は、アフガニスタン情勢の変化が大きな影響を与えたものとみられる。なぜかというと、そもそもジャム・カシミールにおいてテロ対策が必要になったのは、ジャム・カシミールの地元の人々がインドの政策に不満をかかえていたこともあるが、アフガニスタンからイスラム過激派が流入したこととも関係しているからだ。このことは2度のタイミングでみてとれる。1989年にソ連がアフガニスタンから撤退した後、ジャム・カシミールにおけるテロ活動が活発化したことは、イスラム過激派がアフガニスタンからジャム・カシミールに流入して活動し始めたことを示している。

アフガニスタンに連動するジャム・カシミール情勢

また、2001年の9.11同時多発テロの後、米軍がアフガニスタンで大規模なイスラム過激派掃討作戦を展開して、イスラム過激派勢力が衰退するのと連動したことで、ジャム・カシミールでのテロ活動が徐々に沈静化していった時期とも重なる(図1参照)。そのため、今、米軍がアフガニスタンからの撤退を進めつつある中で、ジャム・カシミール情勢も動き始めたのである。

図1:ジャム・カシミールにおけるテロ活動による死者数推移
図1:ジャム・カシミールにおけるテロ活動による死者数推移インドの紛争管理研究所のデータベースより筆者作成

アメリカのアフガニスタンからの撤退には何が必要か。アメリカにとって最も重要なのは、米軍が撤退した後、アフガニスタン政府が簡単に崩れて、アメリカがまるで敗北したようにみられないような情勢づくりである。そのためには、少なくとも2つしなければならないことがある。アメリカが撤退した後、アフガニスタン政府を支える体制づくりと、アフガニスタン政府を倒そうとするタリバンとの交渉である。
 アメリカに代わってアフガニスタン政府を支える国の一つとして、アメリカはやはりインドに期待している。インドは長年、現在のアフガニスタン政府を支援してきており、大使館以外に5つも領事館を設置、最近は戦闘ヘリコプターなどの供与・訓練・整備、ロシアと共同してアフガニスタンにある旧ソ連製装備の再生工場の設置などを行っている。アフガニスタンにおけるインフラ建設にも積極的に取り組み、道路工事はタリバンの激しい襲撃を受けて死傷者を出しながらも継続している。
 一方、アメリカは、タリバンとも交渉を行っている。タリバンと交渉するには、タリバンと強いつながりを持つパキスタン政府の協力も必要である。最近、トランプ大統領が、訪米したパキスタンのイムラム・カーン首相との会談において、カシミールにおいて印パの仲介を行う意向を示したのも、パキスタン側を喜ばす内容だ[3]。インドにくらべて国力の弱いパキスタンは、インドと二国間だけで交渉するよりも、アメリカが間に立ってくれた方が、交渉しやすい事情があるからだ。
 このような情勢であるため、インドとしては、米軍がアフガニスタンから撤退することに備えなければならなくなりつつある。結果、カシミールでイスラム過激派対策をがっちり固め、米軍撤退の後、イスラム過激派がアフガニスタンから流入してくる事態に備え始めた。今回のモディ首相の決断にはこのような背景があるものと考えられる。

中国に備えラダク増強へ

次に、ラダク地域についてみてみるとどのようなことが言えるだろうか。なぜ今回、モディ首相はジャム・カシミールとラダクを分けることにしたのだろうか。もともとジャム・カシミールとラダクの両方が一体の地域となってインドに編入されたのは、1947年にインドが独立した際、当時のカシミールの藩王(日本で言えば大名)の支配地域をそのまま一体の地域として編入しようとしたからだ。しかし、ジャム・カシミールの南部ではヒンドゥー教徒、北部ではイスラム教徒が多数派であるのに対し、ラダクは仏教徒が多くを占める地域だ。だからラダクの住民はジャム・カシミール州から独立したがっていた。
 ただ、今回のモディ政権の決断は、そのような住民の意向に配慮しただけのものではないようである。実はラダクは、中国との国境問題の最前線である。新疆ウイグル自治区とチベットの両方に接しており、ラダクの東半分であるアクサイチンは、1962年の印中戦争の後、中国の占領下にある。このアクサイチンは、チベットと新疆ウイグル自治区をつなぐ道路が通っており、新疆ウイグル自治区からパキスタンへとつながる一帯一路構想の要だ。
 そのラダク地域では、中国側の軍事力増強が続いているのに対して、インド側の軍事力の整備が遅れている。軍事力の展開には道路などのインフラが必要だが、中国側の方がインフラ建設が早いためである。そのため、インドとしては工事と軍の配備を急ぐ必要がある。
 今回、インドの中央政府がラダク地域を独立した地域として連邦直轄領にすれば、インフラ開発や軍事力の配備はより早く進むだろう。今回の措置は中国対策をすすめる上で有効だ。

中国に備えラダク増強へ

米中対立下での米印関係への影響

このようにみてみると、今回のインド政府の措置は、インドの安全保障から見た場合、ジャム・カシミールで対テロ、対パキスタン対策を進め、ラダクで対中国対策を進める事につながる可能性がある。問題は、これが米印関係に悪影響を与えるかどうかである。ラダクの動きに関しては、アメリカとしても歓迎すべきものと言えるが、ジャム・カシミールでの動きには、いくつか不安定要素もある。とくに、アメリカがパキスタンと交渉したり、カシミールにおいて印パの仲裁を行おうとしたりすれば、当然インドはアメリカに対して不満に思う。一方で、インドがカシミールで激しいテロ対策を行うことは、場合によっては人権上の問題としてアメリカ議会などで取り上げられる可能性があるし、インドがロシアと協力してアフガニスタン対策を進めたりすることは、アメリカにとっては、必ずしも喜べない事態である。つまり、アフガニスタンからカシミールにおいて起きるこれらの事態は、米印関係を弱める可能性がある。
 ただ、このような可能性は、現在の米中関係からみれば小さな問題かもしれない。現在、アメリカは中国との間で非常に多くの問題を同時進行で抱え、深刻化しつつあるからだ。「貿易戦争」が継続するなか、台湾に対するアメリカの武器輸出をめぐって対立し、さらには、香港では逮捕者を中国本土に移送する法案をめぐってデモが続いていて、民主主義をめぐる米中の対立に発展する可能性がある。7月にはマイク・ペンス副大統領が新疆ウイグル自治区やチベットにおける信教の自由について中国を非難したばかりでもある[4]。
 南シナ海においても、中国は人工島の軍事基地建設を続け、中国によるフィリピン漁船沈没、ベトナムの排他的経済水域派での調査をめぐって中国・ベトナム双方の当局の船がにらみ合った状態のままで、これも「航行の自由」作戦を実施して関与してきたアメリカと中国の問題に発展するものだ。さらにアメリカは同盟国に次世代移動通信システムの5G技術をめぐり中国の製品を使わないよう呼び掛けているし、アメリカの要請を受けてカナダで拘束されているファーウェイ幹部をアメリカに引き渡すかどうかの問題も継続している。
 アメリカ国内では、共和党、民主党を問わず、中国を長期的なライバルとみる見方が強まっており、2017年12月に公表された国家安全保障戦略[5]、2018年10月にハドソン研究所で行われたペンス副大統領の中国政策演説[6]、2019年6月に公表された米国防総省の「インド太平洋戦略」[7]においても、中国を挑戦者とみる明確な記述となっている。このような情勢では、中国対策はアメリカの政権の中でとても優先度の高い課題である。中国対策では要とみられているインドとの関係を、アメリカは壊したくない。だから、アフガニスタン情勢の推移をめぐって、米印間に意見の相違があっても、米印関係を悪化させないようにする可能性が高い。例えば、アメリカのパキスタンへの協力、カシミール問題の仲介は表面上の姿勢だけで終わるだろうし、インドのカシミールにおけるテロ政策を人権問題として声高に非難することは避けるだろう。カシミールを巡って印パ間の緊張が極度に悪化した場合は、アメリカが仲介に入る可能性はある。ただ、その際も、今年2月の印パ空中戦の際に見られたように、アメリカはインドよりの立場から介入するだろう[8]。インドがアフガニスタン情勢でロシアと協力したとしても、それがアメリカの撤退を資するなら、むしろそれを歓迎することすら考えられる。結局のところ、米印関係は、アフガニスタン・カシミール情勢からの悪影響を受けず、継続して進展するものとみられる。

(2019/08/22)