「インド太平洋」概念が米国戦略文書に登場

 2017年12月に発表された米国のドナルド・トランプ政権初となる国家安全保障戦略(National Security Strategy, 略称NSS)報告書において、「地域の文脈における戦略」の項目の中に、「インド太平洋」という概念が、「欧州」「中東」「南・中央アジア」「西半球」「アフリカ」と並んで登場した。[1] NSSは政権の重視する安全保障政策の全体像を提示するもので、国防のみならず外交と経済、特に同盟国やパートナーとの関係の在り方についても指針が示される。

  これまでも日本やオーストラリアでは、「インド太平洋(Indo-Pacific)」概念に基づく政策がすでに提唱されてきたが、この地域概念が米国の国家戦略に登場したことで、多様な域内協力を求める声が高まってくるだろう。日本では、2006年に発足した第一次安倍内閣において、日米豪印の定例の首脳会談を設置しようと働きかけた経緯がある。この構想は実現できなかったが、2012年に政権復帰した安倍首相は日米豪印の4ヶ国協力に意欲を示してきた[2]。2017年11月12日には「日米豪印のインド太平洋に関する協議」という局長級の会合が開催され、海洋安全保障や航行の自由の確保などに向けた協力が検討されはじめている。[3]

 「インド太平洋」の文脈には、これまで「アジア太平洋」として議論されてきた尖閣諸島や南シナ海での中国での拡張姿勢への対処などが含まれる。これらの課題は、日米をはじめとした関係国間で認識が共有され、対応や協力が実務レベルで具体的に進められてきた。これらは今後も着実に拡充されていくことは間違いない。その一方で、これからの課題は、マラッカ海峡の西側に位置する「インド洋」側の世界における協力である。

 インド洋では、この数年間で中国海軍の艦船や潜水艦が頻繁に出入りするようになっている。スリランカやパキスタンなどにはそれらの寄港地も整備され、最近ではバングラデシュが中国製の中古潜水艦2隻を購入し就航させるなどしている。また中国は、インフラ整備や投資、そして強力な購買力を梃子にして地域の国々への影響力を拡大している。インドはスリランカやモルディブなどの近隣国との関係のてこ入れや日米との関係強化など、これに対抗する動きをみせている。このような中印の相互関係は、地域の安全保障バランスを形成しており、インド洋の地政学的な重要性が増している。

ベンガル湾での地域協力がなぜ重要か?

 インド洋地域は、東南アジア、南アジア、西アジア、中東、東アフリカに加え、オーストラリアや海外領土を持つ欧州など、政治体制や経済発展度合いが異なる20を超える国々が集まっている。この地域における協力については、これまでも民間の学識者を中心に広く議論されてきた。例えば、筆者が企画・参画した日米豪印4ヶ国のシンクタンクによる「THE QUAD-PLUS」プロジェクトや[4]、笹川平和財団が主導する「インド洋地域の安全保障」プロジェクトなどだ。[5]

 これらの会議では、対テロや捜索救難・情報共有といった個別テーマでの協力の可能性が議論されることが多い。しかし、「インド洋地域」という観点では、地域が広大で周辺地域毎に特性が大きく異なるため、協力アプローチを絞り込むのは難しいというのが筆者の実感だ。沿岸国政府によって組織される「環インド洋地域協力連合(IORA)」も活発とはいえず、海洋の利用についての広域ガバナンス機構は不在である。

 そのような中で、最近はインド洋地域の中の特定の準地域にフォーカスして、具体的なアジェンダ設定をしようという動きがある。その例が、ベンガル湾地域での協力である。インド亜大陸の東側に位置し、東南アジアと南アジアの双方にまたがるベンガル湾は、東シナ海と南シナ海から続く海洋通商路の一角を形成する。中国の提唱する「一帯一路」のターゲットとも重なり、次なる安全保障協力の焦点となる可能性が高い。

 すでにベンガル湾の東端を成すアンダマン・ニコバル諸島(印領)近海においては、中国のインド洋進出を睨んで日米印による潜水艦探知網の設置が検討されている。[6] また、日本が正式参加することになった日米印の合同海上軍事演習「マラバール2017」もベンガル湾で開催された。2017年9月の日印首脳会談の共同声明にも、海洋状況把握(Maritime Domain Awareness、略称MDA)の向上に向けた両国間の協力が盛り込まれた[7]。

インドの海

ベンガル湾地域での日印協力が進展

 ベンガル湾地域での協力が注目されるのは中国の海洋進出への対抗のためだけではない。沿岸国のインド、スリランカ、バングラデシュ、タイ、ミャンマー、インドネシアはいずれも多くの人口を擁する発展途上国である。例年のように大規模な自然災害が報じられている地域であるが、気候変動の影響により、今後さらに集中豪雨や洪水・干ばつ、農作物の収量低減などが発生することが予見されている。また、経済成長と社会開発に伴う急激な都市化や格差の伸張、漁業資源や用水源をめぐる競争も存在する。

 さらには、民族・宗教アイデンティティを背景にした紛争や過激派の浸透も懸念されている。ミャンマーのロヒンギャ問題にみられるように、大規模な人の移動や土地を巡る衝突も起こりかねないのである。製造業の拠点を地域に多く持ち、現地の需要を自国の経済に取り込みたい日本としては、これらの国々の安定は欠かせない。各層での信頼醸成への取組みへの協力や、平素からの防災・災害救援や緊急時の協力枠組みの形成が重要なテーマとなる。

 経済的な側面からは、長く孤立していたミャンマーが、2011年の民政移管以降、国際社会に復帰したことを見逃してはならない。アジア開発銀行の報告書が「歴史的な機会」と評するように、同国の経済開放などにより東南アジアと南アジアを横断する経済圏がより現実的な構想として認識されるようになったからだ[8]。近年では、インドを中心に東南アジアの経済回廊をインド北東部に延伸させようという機運が高まっている。インドのモディ政権の掲げる「アクトイースト」政策は、まさにその実現を図ろうとするもので、越境道路や鉄道網、港湾開発など経済発展につながるインフラ整備を積極的に進めようとしている。

 すでに日印政府間では、「アクトイースト」政策を「自由で開かれたインド太平洋戦略」と繋げる「アクト・イースト・フォーラム(Japan-India Act East Forum)」を2017年12月に立ち上げている[9]。このフォーラムは、ベンガル湾の北端にあるバングラデシュの北部・北東部に隣接し[10]、東南アジアとインドの連結点となるインド北東部での道路網やインフラ整備を中心に日印間の協力事業を促進しようというものだ。

 インド北東部は、東南アジアへのゲートウェイであるほかに、中国との国境において係争地が存在している。日本にとっても戦略的な意義があることは疑いない。このように、ベンガル湾地域での日本の協力対象は、ベンガル湾での海洋安全保障協力、非伝統的安全保障分野での協力、域内の経済連結性の支援、など幅広い可能性がある。日本がインドをはじめとする域内諸国との協力をどのように進展させていくかも注視されている。

 これまで、一部の専門家を除けば、日本においては東南アジアと南アジアは明瞭に分かれた地域と認知されてきた。このため、これらを横断的に捉えるベンガル湾地域は容易には構想しにくいだろう。しかしながら、今後、日本や米国の展開する「インド太平洋」戦略において、ベンガル湾地域は東シナ海・南シナ海と同様に、戦略的に重要地域となる可能性が高い。日本にとっては、安全保障に直結する防衛協力だけでなく、地域の発展と安定に向けた経済協力を織り交ぜた関わり合いを持つ必要のある地域として、目を離すわけにはいかない。