はじめに

 2025年5月12日、中国は「新時代の中国の国家安全保障」と題した白書を公表した[1]。習近平国家主席は政権発足当初より国家安全保障に強い関心を示しており、これまで、2014年1月に中国共産党中央政治局会議において「中央国家安全委員会」の設置を決定し[2]、同年5月の中央国家安全会議第1回会議において「総体的国家安全保障観」が習近平より提唱され[3]、2015年7月に「国家安全法」として立法化され[4]、2021年11月には「国家安全保障戦略(2021-2025)」が中国共産党中央政治局において審議されてきた[5]。今回の白書はそれらを踏まえたうえで、中国の国家安全保障に関する理念と成果やこれからの取り組みについて国内外に説明したものである[6]。

 そこで本稿では、中国、とりわけ習近平政権の国家安全保障観を概観したうえで今回の白書から浮かび上がる国家安全保障の視点から中国がどのように日本を捉えているかという点について深堀してみたい。

中国の国家安全保障観

 「総体的国家安全保障観」が2014年に習近平によって提唱され、2015年に「国家安全法」として立法化した中国では、国家安全保障に含まれる領域は多岐に及ぶ。2014年の時点では政治、国土、軍事、経済、文化、社会、科学技術、情報、生態系、資源、原子力の11項目が挙げられていたが[7]、その後、金融、インターネット、食糧、海外権益、宇宙、深海、極地、生物、人工知能、デジタルなどが追加され[8]、今回の白書ではそれらを総称して「総体的」な「大安全(大安全保障)」であると規定した。

 また「国家安全保障」を「政権、主権と統一、領土の完全性、人民の福祉、経済社会の持続的発展及び国家のその他の重大な利益に相対的に危機がなく内外からの脅威を受けない状態、さらには安全な状態の持続を保障する能力」(国家安全法第2条)であると定義して、国家主権、領土と統一、人民の福祉と社会の発展など我々のイメージする一般的な「国家安全保障」に加えて「政権」すなわち「中国共産党の統治体制」の保障を最優先に位置付けている。今回の白書においても「中国共産党の執政的地位と中国の特色ある社会主義体制が保障されなければ、中華民族の偉大な復興は到底実現できず、中国は四分五裂する」[9]と警鐘するとともに、随所で「中国共産党の指導」を繰り返し強調している。

 今回の白書では、このような安全保障観に立って中国が直面する国家安全保障上のリスクとして、諸外国と共有するグローバルあるいはリージョナルな伝統的あるいは非伝統的安全保障上のリスクと並んで、中国固有のリスクとして西側反中国勢力が中国を包囲し抑圧し封じ込めることにより、中国を「西側化」、「分断化」しようとする浸透・破壊工作を行うなどの様々な圧力が高まっていることを訴えている。具体的には、一部の国家が台湾海峡、南シナ海、東シナ海などで騒動を引き起こし、あるいは新疆ウイグル、チベット、香港について頻繁に問題を起こすなど中国の内政に干渉している[10]と言及している。

国家安全保障の視点からみた日本

 この白書では、中国の国家安全保障上の重要あるいは懸念する国や地域が順に列挙されている[11]。しかし、白書の本文中に「日本」という語句は一度も出現しないことは極めて興味深い。

 安全な世界の構築として真っ先に挙げているのは、ロシアであり中露の包括的戦略パートナーシップはさらに強化され、第三国など外部要因には左右されない強固な関係であると強調している。次いで米国に言及し、米国に「一つの中国原則」と3つの米中共同声明[12]の厳守を米国に求めるとともに、台湾問題、民主人権活動、中国の社会制度、中国の発展と利益への挑戦は中国が看過できないレッドラインであると強調している。3番目に重要なパートナーとして欧州を挙げ、欧州が戦略的に自立することを強く支持している。

 4つ目に周辺諸国が出てくるが[13]、ここではパキスタン及びインドネシアを挙げそれら17か国との「運命共同体」構想の成果に触れる一方で、「インド太平洋戦略」を口実とした地域分裂の企てや「アジア版NATO」に反対すると述べた後、以下、グローバルサウス、中東、アフリカについて言及が続いている。そのほか喫緊の取り組みとして、ウクライナ、パレスチナ、朝鮮半島、ミャンマー北部及びアフガニスタン問題などへの貢献と、豪州、カンボジア、ベトナム、タイ、ミャンマーラオスとの麻薬や賭博詐欺対策のための協力についてそれぞれ簡潔に触れている。

 このように安全保障上の関心国が順次国名を挙げて記述されている一方で、約2万2千字に及ぶ今回の白書の冒頭から結語に至るまで、「日本」という単語は一度も現れない。

正面から明示しないことによる誤解の芽

 本来、国家安全保障、特に領土や海域など最も機微である隣国関係について日本と同様にフィリピンにも全く言及していない。尖閣諸島や南シナ海については、前述のとおり「台湾海峡、南シナ海、東シナ海などで騒動を引き起こ」す内政へ干渉する「一部の国家」として記述されているのみであり[14]、尖閣諸島についてはパトロールと法執行が常態化できていると簡単に記述されているのみである[15]。

 2021年に審議を行ったとされる「国家安全保障戦略(2021-2025)」が公表されていないため、その中で、日本の位置づけや日本への対応についてどのように規定されているのか知る由もない。しかし、今回の白書が「総体的国家安全保障観」から連なる習近平政権の安全保障認識であると考えれば、「白書」において触れていない国家や環境が白書の根拠ともいえる「戦略」において重要視されていると考えることはなかなか難しい。

 中国社会は日本社会と同様もしくはそれ以上に文字の社会であり、文字化されていないものは存在しないに等しい[16]。したがって、戦略においても今回の白書と同じように日本の存在を軽視あるいは矮小化したようなラインで記述されているのだとすると、人民解放軍や中国海警あるいは中国漁民[17]なども眼前で日本の国益保護のため毅然として活動する海上保安庁巡視船などを矮小化あるいは軽視しかねず、彼らの対日心理も危ういと言わざるを得ない。実態を客観視せず、矮小化することで生じる誤った判断は、一瞬にして国家間の緊張がエスカレーションするおそれのあることを彼らは想像できていない可能性が高い。

 日本のみならずフィリピンに対する記述も同様であり、まさに南シナ海におけるフィリピン海軍や沿岸警備隊、フィリピン漁民に対する中国当局や中国漁民の態度はそれを証明していると理解すべきであろう。

 日本では年々激しさを増す中国による領海侵入・領空侵犯を含む軍事活動やロシアとの戦略的連携を客観的に把握して日本の安全保障や国際秩序に対する挑戦として明示的に把握し国民全体の認識として共有しようとしている。その結果として国家安全保障戦略や防衛白書、外交白書の中で中国を対象とするところは必然的に大きな割合を占めるようになってきた 。そうした意識が政治はもとより最前線で活動する自衛官や海上保安官にまでしっかりと共有され、不用意なエスカレーションを生じさせない毅然とした活動につながっている。

 今回の白書において中国は「インド太平洋戦略」や「アジア版NATO」に対して明確に反対を表明している。その一方でこれらが安倍元総理や石破総理が発した言葉であることは明らかであるにもかかわらず、日本を明示的に非難せず、また、領土問題として尖閣諸島を殊更に取り上げていない。それを日中関係に無用な摩擦を避けようという中国の対日配慮であると評価する向きがあるかもしれない。しかし、一般的にはこうした白書は書かれていないことを忖度して推測するより、明示されていることから書き手の意図を理解することこそ自然である。そうであるとすれば、今回の白書から見えてきた日本とは、中国の国家安全保障上考慮する優先順位が極めて低い存在であるということであろう。

まとめに代えて

 現実に起きている緊張状態(尖閣諸島周辺海空域のみならず、南シナ海や中印国境も同様である)を国内外に明示的に説明しないということは、国家としてのそれら緊張状態を矮小化あるいは軽視、無視しようという意図にも見える。中国指導部による無視や軽視は国益衝突の第一線で作戦行動に従事している人民解放軍や中国海警あるいは漁民など彼ら自身が直面する機微な状況を軽視することにつながりかねない。2001年海南島沖上空で米海軍の哨戒機と接触した中国海軍戦闘機の操縦士、2010年尖閣諸島沖で海上保安庁巡視船に突っ込んできた酔っぱらいの中国漁船の船長など彼らの蛮勇はその一例であろう。

 現場で活動する自衛官や海上保安官は中国がそのような認識のもとに行動している可能性があることを十分に理解しておく必要がある。

(2025/06/17)

脚注

  1. 1 「新时代的中国国家安全(新時代の中国の国家安全保障)」中华人民共和国中央政府、2025年5月12日。
  2. 2 「中国共产党第十八届中央委员会第三次全体会议公报(中国共産党第18期中央委員会第3回全体会議広報)」中国共产党新闻网、2013年11月12日。中央国家安全委員会(National Security Commission of the Chinese Communist Party)は日米の国家安全保障会議に相当する中国共産党中央委員会の下部機関であり、諜報活動などを行う行政機関である国務院の「国家安全部(Ministry of State Security)とは異なる。現在、習近平が主席、李強首相、趙楽際全人代委員長、蔡奇党中央書記処書記の3名が副主席を務めている。
  3. 3 「习近平:坚持总体国家安全观 走中国特色国家安全道路(習近平:総体的国家安全保障観を堅持して中国の特色ある国家安全保障の道を進む)」中国共产党新闻网、2014年4月16日。
  4. 4 「中华人民共和国国家安全法(中華人民共和国国家安全保障法)」全国人民代表大会、2015年7月1日。
  5. 5 「中共中央政治局会议审议《国家安全战略(2021-2025年)》《军队功勋荣誉表彰条例》和《国家科技咨询委员会2021年咨询报告》 习近平主持」(中国共産党中央政治局会議による『国家安全保障戦略(2021-2025)』、『軍隊勲章栄誉表彰条令』及び『国家科学技術諮問委員会2021年諮問報告』の審議を習近平が主宰した)」中华人民共和国中央政府、2021年11月18日。 ここで審議された「国家安全保障戦略」は公開されていない。
  6. 6 「有关部门负责人就《新时代的中国国家安全》白皮书答记者问(関係部門責任者が『新時代の中国の国家安全保障』白書について記者の質問に答える)」新华网、2025年5月12日。
  7. 7 「习近平:坚持总体国家安全观 走中国特色国家安全道路」。
  8. 8 「中共中央关于党的百年奋斗重大成就和历史经验的决议(党の百年奮闘の重要な成果と歴史的経験に関する中共中央の決議)」中华人民共和国中央政府、2021年11月16日。
  9. 9 「新时代的中国国家安全」第二章第三項「坚持把政治安全摆在首位(政治の安全を最優先に堅持する)」
  10. 10 「新时代的中国国家安全」第一章第三項「中国在化解风险中保持稳固坚韧(中国はリスクを解決しながら堅固な強靭性を維持する)」。
  11. 11 「新时代的中国国家安全」第五章第二項「推动倡议落实增进共同安全(グローバル・セキュリティ・イニシアティブを推進して共通の安全を増進する)」。
  12. 12 3つの米中共同声明:上海コミュニケ(1972年)、外交関係樹立に関する米中共同コミュニケ(1978年)、第2に上海コミュニケ(1982年)。
  13. 13 中国外交部「新时代中国的周边外交政策展望(新時代の中国の周辺外交政策と展望)」2023年10月。
  14. 14 「新时代的中国国家安全」第一章第三項「中国在化解风险中保持稳固坚韧(中国はリスクを解決しながら堅固な強靭性を維持する)」において、「个别国家粗暴干涉中国内政,在台海、南海、东海滋扰搅事(一部の国家が台湾海峡、南シナ海、東シナ海で騒動を引き起こしている)」と記述されている。
  15. 15 「新时代的中国国家安全」第三章第四項「维护国家领土完整和海洋权益(領土の完全性と海洋権益を維持する)」において「在钓鱼岛海域常态化巡航执法(釣魚島海域で法執行パトロールを常態化)」と記述されている。
  16. 16 36年を経た天安門事件に対する中国国内の状況がその典型ともいえる。「天安門事件から36年 政府の徹底した言論統制で知らない若者も」NHK、2025年6月4日。
  17. 17 中国の漁民は海上民兵の主たる構成要素である。