はじめに
中国人民解放軍は4月1日から2日続けて、台湾周辺で陸・海・空・ロケット軍および海警局による大規模な軍事演習「海峡雷霆―2025A」を行った[1]。これに対して、台湾国防部は2日間で軍用機延べ約100機、艦艇約20隻以上、海警船10隻以上を確認したと発表した[2]。
同時に中国国務院台湾事務弁公室は、陸軍部隊の長距離実弾射撃や軍による警告隔離、阻止、差し押さえ等の具体的な封鎖関連行動を行ったことを初めて言及した上で、「世界に中国は一つしかなく、台湾は中国の一部である。これが真の台湾海峡の現状だ。民進党当局は「台湾独立」の誤った論調を喧伝(けんでん)しており、「台湾独立」をたくらむ挑発を繰り返し、両岸(中国の大陸と台湾)が一つの中国に属しているという現状を変更しようと妄想して、台湾海峡の平和と安定に重大な損害を与え、台湾同胞の利益と幸福を大きく損なっている。これを許せば、台湾同胞を危険な戦争へと押しやることになり、断固として阻止し罰しなければならない」と述べた[3]。
報道では言及されていないが、「海峡雷霆―2025A」は、これまでの演習とは異なり、演習前に台湾本島を取り囲む広範囲での航行制限海域設定を公表することなく大規模演習を行ったことは大きな変化である。筆者は、今回の大きな変化について、中国政府がサラミスライス戦術[4]を前進させているものであると分析している。また、今回の演習では公弁室が逐次、演習の状況を発表していた。演習と同時に行われる公弁室からの発表は、中国が政治と軍事を連携させた戦略的コミュニケーションを用いた「一つの中国」政策の実現を試みるものである。
このような中国の一連の軍事的活動に対し、日本は一つ一つの大規模軍事演習の分析も必要だが、中国のサラミスライス戦術に対する長期的視点からの戦略・戦術対応を準備することも重要である。本論では、台湾統一を目指す中国の海洋戦略達成の骨格となっているサラミスライス戦術を振り返りつつ、日本の対応策としての「ワンシアター(オーシャン)」構想の可能性と課題について論じる。

中国のサラミスライス戦術の経緯
中国人民解放軍のサラミスライス戦術による活動は、習近平政権発足前後から活発になっている。2012年に南シナ海スカーボロ礁を事実上支配したことをはじめ、2014年以降、南沙諸島西沙諸島のウッディ島や南沙諸島のミスチーフ礁、ファイアリークロス礁、スビ礁など南シナ海における島嶼の占拠などの代表的な事例をあげることができる。
中国による南シナ海の島嶼の占拠や他国港湾の軍港化は、それ自体大きな問題であるが、サラミスライス戦術が、台湾に対する「一つの中国」化のために使用されている戦術であることを忘れてはいけない。長年、中国と台湾の両国軍用機などの兵力が台湾海峡の中間線を超えないという暗黙の了解事項があったが、2019年3月31日に戦闘機(J-11)2機が台湾海峡の中間線を超え、暗黙の了解が破られる事象が発生している[5]。2020年9月19日には、中間線を越え台湾空軍から無線警告を受けた人民解放軍のパイロットが「台湾海峡に中間線はない」と回答し、中国外交部と中国国務院台湾事務弁公室もそれぞれ「台湾海峡に中間線は存在しない」との認識を示した[6]。これはサラミスライス戦術による「一つの中国」達成のための大きな前進となった。そして現在では、中間線越えが常態化し、暗黙の中間線は消滅している。
近年の台湾周辺におけるサラミスライス戦術
暗黙の中間線を消滅させた以降の中国政府の対応や軍事演習についての分析を踏まえて、中国が台湾周辺でサラミスライス戦術を確実に進めていることについて深掘りしたい。
まず、2022年8月、ナンシー・ペロシ米国下院議長の訪台後の大規模演習について言及しなければならない。ペロシ下院議長が訪台し、蔡英文総統(当時)と会談を行った同じタイミングで、中国軍は大規模演習を行った。この大規模演習では、陸・海・空・ロケット軍が参加した統合かつ台湾本島を取り囲むミサイル攻撃を伴った大規模な演習であった。また同時に台湾侵攻を示唆する中国の虚実を織り交ぜた報道や台湾総統府や外交部、国防部のウェブサイトに対して、複数のコンピューターまたはデバイスから同時に大量のアクセスを行うDDoS 攻撃が行われ、さらに街中のコンビニエンスストアなどで電光掲示板がハッキングされて、ペロシ議長の訪台を非難する掲示が表示された[7]。

2023年4月の「聯合利剣」演習では、軍用機が3日間で合計 232 回確認され、このうち台湾防空識別圏の南西空域・東南空域、海峡中間線を越えた飛行は54回に及び、1日あたりの記録として過去最高となった。また艦艇の活動として、空母「山東」等が西太平洋に進出し、宮古島南方の海上で艦載機の発着艦訓練を実施した[8]。このように本演習では、これまでにない軍用機が参加し、台湾防空識別圏侵入、海峡中間線越えもこれまでにない機数を侵入させている。さらに台湾本島東部で演習中の空母「山東」から発艦した軍用機が、初めて台湾防空識別圏東部から侵入している。
2024年5月の「聯合利剣―2024A」演習では、新たに演習区域に大陸沿岸の台湾が支配する離島が含まれたこと、初めて中国海警局船舶が演習に参加し海上法執行訓練を行ったこと、設定された演習区域が、2022年の演習時よりも拡大したことがある[9]。特に中国海警局船舶が初めて軍事演習に参加し海上法執行訓練を実施したことは、台湾有事において台湾本島への船舶入港停止を狙ったものとして注目された。
同年10月の「聯合利剣―2024B」の特徴として、空母「遼寧」を展開させるとともに参加軍用機は戦闘機など、1日としてはこれまでで最も多い延べ125機にのぼること、また演習区域を台湾本島にさらに接近させるとともに中国海警局船舶が台湾本島を取り囲むように航行し、また「1つの中国」の原則に従って台湾を法に基づいてコントロ-ルする実際の行動であることを海警局が述べている[10]。
そして、上述した今年4月の「海峡雷霆―2025A」では、陸軍部隊の長距離実弾射撃や軍による警告隔離、阻止、差し押さえ等の具体的な封鎖関連行動を行ったこと、また台湾本島を取り囲む広範囲での航行制限海域設定を公表することなく、台湾周辺で大規模演習を行ったことは、サラミスライス戦術として大きな進展であった。このようにサラミスライス戦術の特徴である軍事行動を踏まえながら各軍事演習を分析していくと、弾道ミサイル発射、台湾本島を取り囲む演習、つまり当初、封鎖の意図を示す演習区域の発表から始まり、その区域を台湾本島へ近づける演習へと、さらに区域非発表による台湾本島封鎖演習へと変遷するとともに、グレーゾーン事態も想定した中国海警局船舶による台湾本島を取り囲んだ監視、識別、警告、駆逐といった訓練が行われていることがわかる。
大規模演習以外においても、例えば2023年4月に台湾国防部が発表しているように、中国人民解放軍の無人機(TB-001)が初めて台湾を周回するような経路で活動し[11]、こうした活動が継続的に行われ、現在では定常化していることもサラミスライス戦術の一環として捉えることもできる。
このように中国人民解放軍は、サラミスライス戦術を使用し哨戒活動から大規模軍事演習などを繰り返す中で、少しずつ「一つの中国」を達成しようとしている。このサラミスライス戦術は、例えば、ロシアのウクライナ侵攻のように、少しずつ本格的侵攻に近づく大規模演習を行うことで、大規模演習なのか、それとも実際に「台湾侵攻」を企図するものなのかを曖昧にするという効果も持っている。
抑止策としての「ワンシアター(オーシャン)」の可能性
中国・台湾に隣接する台湾有事やサラミスライス戦術抑止への日本の役割は大きい。中谷防衛大臣が取り上げている「ワンシアター」(一つの戦域)という考えを取り上げながら、日本の抑止対応策を考えたい。
まず抑止の最も有効な方策として、中国の安全保障上の脅威を共有する各国と平時から連携を深めることが重要である。共同での抑止や対処のため、対話や演習、そして戦略的コミュニケーションを実践する上で浮かび上がったのが「ワンシアター」という考え方である。「ワンシアター」とは、インド太平洋地域を一体の「戦域」ととらえ、同盟国、同志国とともに防衛協力を強化する構想である。中谷防衛相は、2025年3月30日のヘグセス米国国防長官との会談で「日本は『ワンシアター』の考え方を持っている。日米豪、フィリピン、韓国などを一つのシアターと捉え、連携を深めていきたい」と伝え、ヘグセス長官はこれを歓迎したことが報じられている[12]。
こうした新しい構想について、2025年5月30日から3日間にわたって開催されたシャングリア・ダイアログにおいて、中谷防衛大臣がどのように発言するのか注目が集まっていた。ここで中谷大臣は「ワンシアター」構想をインド太平洋地域での多国間の協力を目指す海洋戦略「OCEAN(オーシャン)(One Cooperative Effort Among Nations)」構想として言い換えて演説を行った[13]。この理由は、有事を連想させる名称が周辺国などを刺激する恐れもあり、中谷大臣は記者会見や国会答弁での「ワンシアター」の公言をこれまで避けていた。そのため、インド太平洋地域の各国防衛当局、そして世界や日本の世論に受け入れやすい言葉にバージョンアップさせ、理念も「ワンシアター」構想より和らげ、価値や利益を共有する国々がインド太平洋地域を俯瞰的にとらえて、各国の自主的な安全保障・防衛の取り組みを連携させることを目指すことからである[14]。
言い換えられた「オーシャン」構想においても、台湾について敢えて言及していないが、東シナ海、南シナ海、南太平洋島嶼国が含まれており、台湾周辺もこの地域に含まれるものと解釈できる。日本が「オーシャン」構想を掲げ、各国と連携を強めることは、台湾周辺海域のみならず、東シナ海、南シナ海および南太平洋で、中国が同戦術を行使している領域での抑止につながる。
その「オーシャン」構想を実現するために、日本自身の防衛能力を高めることも必要である。日本は、2022年12月、国家安全保障戦略、国家防衛戦略および防衛力整備計画のいわゆる「安保関連3文書」を策定し、5年内にGDP2%レベルの防衛予算を達成させることを目標としている。国家安全保障戦略の基本認識は、「力による一方的な現状変更及びその試みが恒常的に生起し、日本周辺における軍備増強が急速に拡大している」状況で、「ロシアのウクライナ侵攻のような国際秩序の根幹を揺るがす深刻な事態が、東アジアで発生することは排除されない」であり[15]、この認識のもと防衛力の抜本的強化を図っている。具体的には、宇宙・サイバー・電磁波の領域および陸・海・空の領域の防衛能力を有機的に融合し、その相乗効果により、自衛隊の全体の能力を増幅させる(領域横断作戦能力)ことに加え、侵攻部隊に対し、その脅威圏の外から対処するスタンド・オフ防衛能力等を持つことを掲げている。

「ワンシアター(オーシャン)」構想の課題
「オーシャン」構想については、多くの課題もあることを理解しておかなければならない。ここでは2つの課題を取り上げたい。
まず、日本と台湾との関係である。現在、日本と台湾の間での文化や経済交流は活発だが、安全保障面での交流は限られている。すなわち、安全保障上、台湾地域は、「ワンシアター(オーシャン)」の真空域となっている。そのため、日本は台湾と経済だけでなく安全保障や政府レベルまでの実務的な関係を構築、拡大・強化する必要がある。「ワンシアター(オーシャン)」構想を実現するためには、安全保障分野における官民交流(トラック1.5)を促進することが求められるが、政府間同士の交流(トラック1.0)へと発展させるには時間がかかるのではないか。
「ワンシアター(オーシャン)」構想のもう一つの日本の限界は、南シナ海や南太平洋に至るまでの海空域まで安全保障上の責任を持って関与できるのかというものである。冷戦後の日本は、事態対処法を2003年に制定し、さらに安全保障関連法を2015年に成立させ、集団的自衛権の限定行使の容認、自衛隊の活動範囲の拡大、海外での後方支援などを可能とした。そして近年では、円滑化協定(RAA)[16]実施法を成立(2025年4月16日)させ、また各国と物品役務相互提供協定(ACSA)[17]を締結し、海外での活動の円滑化を図っている。現在、防衛省・自衛隊は、「オーシャン」構想が想定する区域諸国とインド太平洋方面派遣(IPD)をはじめ、陸海空自衛隊が多くの共同訓練や親善訓練、親善訪問などを実施している。しかしながら、特にサラミスライス戦術が力による一方的な現状変更の段階に至る場合や島嶼紛争、さらには戦争発生時においても、領土、領海、領空を持たない海空域まで、責任を持った関与ができるのかという地政学的課題である。まさに国家安全保障戦略や国家防衛戦略の改定などで議論しなければならない課題である。
これらの限界が解決できないのであれば、日本が中心となり責任を持って「ワンシアター(オーシャン)」構想を推し進めるための推進力は弱まることとなる。
おわりに
ここまで論じてきたように、中国のサラミスライス戦術は、中国の海洋戦略達成のための主要な戦術となっており、多くの成果を出している。つまり、台湾に対する軍事力を用いた大規模演習のみならず、東シナ海や南シナ海沿岸国、南太平洋諸国への一方的な現状変更が行われている。しかしならが、価値観を共有する同盟や同志国間で、本格的にサラミスライス戦術に対処する具体的な議論には至っていない。
「ワンシアター(オーシャン)」構想が、中国のサラミスライス戦術を使用した脅威にさらされている台湾周辺を含む国々との連携と情報共有による抑止と対処となることを期待し、今後の日本を中心とする国々の具体的な連携による安全保障対策に注視したい。
(2025/06/03)
脚注
- 1 「中国軍 台湾周辺で軍事演習 2日連続 民進党政権へけん制強める」NHK、2025年4月2日。
- 2 以下の2日間の中華民國國防部発表を踏まえた筆者の分析。「即時軍事動態 中共解放軍臺海周邊海、空域動態」中華民國國防部、2025年4月2日; 「中共解放軍臺海周邊海、空域動態」中華民國國防部、2025年4月3日。
- 3 「台湾島周辺の演習は正義の行動 中国国務院台湾事務弁公室」、新華社(gooニュース転載)、2025年4月3日。
- 4 サラミスライス戦術とは、沿岸や島嶼を含む海洋を中心とする対立を軍事的に有利に進めるため、サラミを薄く切り落とすように一つ一つは争いとならないように侵攻し、気づいた時には、島嶼の占拠などその戦略目的を達成しているという戦術であり、戦略的目標を達成するための手段としての戦術であるとされている。
- 5 林哲全・王尊彦主編『2018 評估報告 印太区域安全情勢』 国防安全研究院、2019 年、24-25 頁。
- 6 一連の経緯については、福田円「バイデン政権の「一つの中国」政策と台湾海峡情勢」、日本国際フォーラム、6頁を参照のこと。
- 7 門間理良「中国人民解放軍による対台湾演習の実態と意図」中国・台湾研究会コメンタリー、No.3、防衛研究所、2025年1月15日、1頁。
- 8 門間理良「中国人民解放軍による対台湾演習の実態と意図」、3頁。
- 9 飯田将史「台湾を囲む中国による軍事演習‐その特徴、狙いと今後の展望」NIDSコメンタリー、第325号、防衛研究所、2024年5月28日、1頁。
- 10 「中国軍 台湾周辺で大規模軍事演習 空母も展開 台湾は強く非難」NHK、2024年10月14日。
- 11 「即時軍事動態 中共解放軍臺海周邊海、空域動態」中華民國國国防部、2023年4月28日。
- 12 「中谷防衛相、米側に「一つの戦域」構想伝達 巻き込まれリスク指摘も」『朝日新聞』、2025年4月15日。
- 13 「インド太平洋で防衛協力「OCEANの精神」提唱―中谷氏講演・アジア安保会議」時事通信、2025年5月31日。
- 14 「「戦域」→「オーシャン」構想 防衛相、表現・理念和らげ発表へ」『朝日新聞』、2025年5月30日。
- 15 「国家安全保障戦略」、内閣官房、2022年12月16日、3-5頁。
- 16 円滑化協定(RAA)とは、自衛隊と外国軍が、共同訓練、災害救助などの協力活動で相手国を訪問する際に、出入国手続きや部隊の法的地位などを定める二国間協定。日本は現在、オーストラリア、イギリス、フィリピンとRAAを締結している。
- 17 物品役務相互提供協定(ACSA)とは、自衛隊と他国の軍隊間で、食料、燃料、弾薬、輸送、医療などの物品や役務を相互に提供し合うための協定。日本は現在、アメリカ、オーストラリア、イギリス、カナダ、フランス、インド、ドイツ、イタリアとACSAを締結している。