気候変動への対応を志向した新たな海洋安全保障に関する一研究―「陸地中心主義」からの脱却を目指して―

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小森雄太,笹川平和財団海洋政策研究所 研究員

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1.はじめに

 これまでの海洋安全保障における主たる対象あるいは目的は、冷戦崩壊以前であればアメリカ合衆国(以下「米国」とする)の600隻海軍に代表されるマハン(A. T. Mahan)を提唱した海軍戦略の具現化、冷戦崩壊以後であれば海賊・海上テロ対策の実施、そして、これらの前提となるシーパワーの確立であった[1]。これは換言すると、これまでの海洋安全保障の対象がヒトに由来するものがほとんどであったことを意味している。一方、昨今急速に注目を集めつつある気候変動は単なる環境問題の域を超えて、経済発展や安全保障にも影響を与え得る問題となりつつあり、その懸念を示した専門書も刊行されるなど[2]、気候変動が与える影響は社会一般に共有されつつある。そして、この潮流は「開発」―「環境」―「平和」のグローバルなトリレンマを克服することを目指す海洋ガバナンス[3]の確立に向けた新たな視座の構築を迫るものである。
 本稿においては、このような問題意識を踏まえ、気候変動をテコとして海洋安全保障を検討する上で新たな視点を提示することを目指す。

2.海洋ガバナンスと気候変動の繋がり

 「海洋の総合的管理」とも称される海洋ガバナンスは、「海洋の管理を目指す法秩序の構築、並びに海洋の総合的管理および持続可能な開発に関する政策・行動計画の策定・実施の二つを基盤とした概念[4]」とされる。これを具体化したものとして、法秩序としては1982年に採択された海洋法に関する国際連合条約(国連海洋法条約)(United Nations Convention on the Law of the Sea:UNCLOS)であり、政策あるいは行動計画としては1992年に採択された環境と開発に関するリオ宣言(Rio Declaration on Environment and Development)およびアジェンダ21(Agenda 21)、2000年に採択された国連ミレニアム宣言(United Nations Millennium Declaration)およびミレニアム開発目標(Millennium Development Goals:MDGs)、2002年に採択された持続可能な開発に関するヨハネスブルグ宣言(The Johannesburg Declaration on Sustainable Development)、2012年に採択された我々の望む未来(The Future We Want)、2015年に採択された持続可能な開発のための2030アジェンダ(The 2030 Agenda for Sustainable Development)および持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals:SDGs)などの一連の取り組みがそれぞれ挙げられる。また、これらの国際的な動向や取り組みに呼応する形で我が国を含む主要国においては、海洋ガバナンスの確立に資する政策の基本方針を法令等の形で取りまとめられている[5]。このように国際的な取り組みと各国における取り組みが並行的あるいは補完的に進行している「海洋ガバナンス」をめぐる取り組みであるが、現実にはこれらの諸課題は個別的に取り扱われ、特に軍事安全保障をはじめとする海洋安全保障は国益に直結することもあり、その度合いがより強かった[6]
 一方、気候変動が与える影響や求められる方策を鑑みると包括的な観点からのアプローチが求められるが、これは正しく海洋ガバナンスのあり方と同様の課題を抱えているとも考えられる。即ち、海洋ガバナンスのあり方を検討することによって、気候変動への対応を考える手がかりを得ることが期待されるということである。このような状況に対応すべく、笹川平和財団海洋政策研究所は国連経済社会理事会特別協議資格を有する国際NGOとしてその前身である海洋政策研究財団(正式名称はシップ・アンド・オーシャン財団)の頃から約四半世紀にわたって、海洋ガバナンスに関連するあらゆる分野の発展に資する取り組みを国内外において進めてきたが、これは気候変動への対応も例外ではない【表1】[7]

開催日 取り組み内容 共催者等
2014年9月3日 島と周辺海域のより良い保全と管理に向けて(第3回小島嶼開発途上国国際会議(SIDS2014)サイドイベント)開催 ウーロンゴン大学オーストラリア国立資源安全保障センター(ANCORS)
2015年12月4日 オーシャンズ・デイ(Oceans Day)(国連気候変動枠組条約第21回締約国会議(UNFCCC-COP21)サイドイベント)開催 グローバル・オーシャン・フォーラム(GOF)、国連教育科学文化機関政府間海洋学委員会(UNESCO-IOC)、国連環境計画(UNEP)等
2015年5月25-26日 「島と海のネット」第1回総会 オーストラリア国立海洋資源安全保障センター(ANCORS)、東京大学海洋アライアンス
2016年11月12日 オーシャンズ・アクション・イベント@COP22(Oceans Action Event at COP22)開催 モロッコ政府、国連食糧農業機関(FAO)、グローバル・オーシャン・フォーラム(GOF)、国連教育科学文化機関政府間海洋学委員会(UNESCO-IOC)、世界銀行等
2016年12月6-7日 「島と海のネット」第2回総会開催 ウーロンゴン大学オーストラリア国立資源安全保障センター(ANCORS)、日本財団(特別協力)
2017年11月11日 オーシャンズ・アクション・デー(Oceans Action Day)(国連気候変動枠組条約第23回締約国会議(UNFCCC-COP23)サイドイベント)開催 グローバル・オーシャン・フォーラム(米国)、国連教育科学文化機関政府間海洋学委員会(UNESCO-IOC)等
2018年12月8日 オーシャンズ・アクション・デー(Oceans Action Day)(国連気候変動枠組条約第24回締約国会議(UNFCCC-COP24)サイドイベント)開催 グローバル・オーシャン・フォーラム(米国)、オセアノ・アズール財団(ポルトガル)、国連教育科学文化機関政府間海洋学委員会(UNESCO-IOC)等
2019年6月25日 海洋と気候の連関に関するIPCC 1.5℃特別報告書の知見(Addressing the IPCC Findings Relevant to the Ocean and Climate Nexus)(国連気候変動枠組条約(UNFCCC)第50回補助機関会合(SB50)サイドイベント)開催 モルディブ政府、グローバル・オーシャン・フォーラム(米国)等
2019年12月6-7日 オーシャンズ・アクション・デー(Oceans Action Day)(国連気候変動枠組条約第25回締約国会議(UNFCCC-COP25)サイドイベント)開催 グローバル・オーシャン・フォーラム(米国)、オセアノ・アズール財団(ポルトガル)、国連教育科学文化機関政府間海洋学委員会(UNESCO-IOC)等
2019年10月15日 「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)海洋・雪氷圏特別報告書(SROCC)を受けた10の提言」発表
2019年10月15日 気候変動に関する政府間パネル(IPCC)海洋・雪氷圏特別報告書(SROCC)公表記念シンポジウム開催 環境省
2019年10月17-18日 2019年第2回東アジア気候変動適応と災害管理法・政策フォーラム開催 国立高雄大学法学院、国立高雄大学国際関係研究センター(NUK-IRRC)、台湾海洋委員会(OAC)等
2020年1月22日 「気候変動に伴う移住とその脆弱性」に関する国際セミナー(Journal of Disaster Research 特別号公刊記念イベント)開催
2020年11月20日 バーチャル・オーシャンズ・アクション・デー(Virtual Oceans Action Day 2020) グローバル・オーシャン・フォーラム(米国)、国連教育科学文化機関政府間海洋学委員会(UNESCO-IOC)、オセアノ・アズール財団(ポルトガル)、海洋と気候のプラットフォーム、コンサベーション・インターナショナル(CI)(米国)、国際自然保護連合(IUCN)(スイス)、プリンスアルバート2世・オブ・モナコ財団(モナコ)、世界的な気候行動のためのマラケシュパートナーシップ(MPGCA)
2021年11月4日(予定) 流れを止める:沿岸都市の適応を支援し、回復力を高めるための革新的な方策と行動(Stemming the Tide: Innovative Tools and Actions to Aid Coastal City Adaption and Improve Resilience)(国連気候変動枠組条約第26回締約国会議(UNFCCC-COP26)サイドイベント)開催 スティムソン・センター(米国)等
2021年11月4日(予定) 海洋からの解決策:海洋に依拠する緩和と適応のための調整と協力(Ocean solutions: Coordination and collaboration for ocean-based mitigation and adaptation)(国連気候変動枠組条約第26回締約国会議(UNFCCC-COP26)サイドイベント)開催 プリマス海洋研究所(英国)、World Ocean Network(仏国)等
2021年11月5日(予定) オーシャンズ・アクション・デー(Oceans Action Day)(国連気候変動枠組条約第26回締約国会議(UNFCCC-COP26)サイドイベント)開催 世界的な気候行動のためのマラケシュパートナーシップ(MPGCA)等
2021年11月6日(予定) 国連海洋科学の10年:アジア太平洋地域における気候変動対策の促進(The Ocean Decade: Catalysing Climate Action in Asia and the Pacific)(国連気候変動枠組条約第26回締約国会議(UNFCCC-COP26)サイドイベント)開催 国連教育科学文化機関政府間海洋学委員会(UNESCO-IOC)

 加えて、2016年のパリ協定(Paris Agreement)の発効に先駆けて、気候変動が海洋政策、特に海洋安全保障の分野に大きく影響を与え、既存の軍事力のあり方を問い得る状況であることを日本国内にいち早く紹介するなど[8]、先駆的な取り組みを進めてきた[9]
 これらの取り組みを通じて、気候変動対策を推進するための前提となる世論の喚起に寄与するとともに、気候変動への対応が「海洋ガバナンス」の確立において重要な政策課題であるという認識の共有に貢献したと考えられる。その一方で、気候変動の影響があらゆる分野におよぶことを踏まえると、一部の研究機関やNGOによる取り組みのみでは限界があることも自明である。そのため、国家や国際機関、あるいは国際条約に代表される多国間枠組みなどの公的セクターによる取り組みが重要となってくる。そこで、以下では国際的な取り組みという視点から気候変動への対応を検討し、効果的な気候変動対策、そしてあるべき海洋ガバナンスのあり方を考察する。

3.国際情勢における気候変動

(1)米中対立と気候変動

 本稿冒頭でも指摘したように、気候変動はヒトを由来とするこれまでの安全保障上の脅威とは大きく異なるものである。これについて、冷戦期から警鐘が鳴らされており、例えば、冷戦構造を形成した外交政策である「封じ込め政策(Containment)」の理論的根拠とされるX論文で著名なケナン(George Frost Kennan)は、「国際的な科学コミュニティだけでなく、世界の一般市民も、この暗黒の時代に、より有望な新しい関心事を必要としている。特に共産圏と西欧の大国は、冷戦の衰退しつつある固定観念に代わる、共通して追求することが可能で、全ての人々の利益になるような関心事を必要としている。世界中の若者にとって、希望と創造性の新たな扉を開くことは、精神的にも緊急の課題となっている。このようなニーズに応え、現在の国際社会を覆っている不安と根強い敵意の大変動を緩和するために、人間が存在する自然環境の希望、美しさ、健全さを取り戻すための大規模な国際的努力以上に適した事業があるだろうか。」と指摘し[10]、環境変化が外交・安全保障に与える影響についての警鐘を鳴らしている。また、後にグルジア大統領となるシェワルナゼ(Eduard Amvrosievich Shevardnadze)もソビエト連邦外相時代の1988年に開催された第43回国連総会において行った演説で「たぶん現在は、われわれの環境に対する脅威が確実に迫っている、初めての時であろう。この第二の戦線は、核と宇宙における脅威と同じ程度に、その緊急性を高めている。現在は、何らかの地球レベルのコントロールなしには、平和的・創造的といわれている人類の活動が、地上のすべての生活の基礎に対する地球時限での攻撃に転化してしまうことに、明確に気がついた、初めての時であろう。現在は、通常の軍事手段を用いた防衛を基本とする国レベルや世界レベルの安全保障という伝統的な考え方が、いまや完全に過去のものとなり、早急に改められなければならない、という主張の何たるかを、明確に理解しうるようになった、初めての時であろう。環境カタストロフの脅威という前にあっては、二極化したイデオロギー的世界という対立図式は、却下される。生命圏(Biosphere)には、政治ブロック・同盟・体制という区切りなど一切存在しない。すべての人が、同じ気象体系を共有しており、誰一人として、環境防衛という自分だけの孤立した地位に立てるわけではない。人工の第二の自然、つまり技術圏(technosphere)は、きわめて脆弱なものであることがはっきりした。多くの場合、その破綻はたちまちのうちに国際的で地球レベルのものとなる…」と警鐘を鳴らしている[11]
 その後、冷戦が崩壊し、米国が唯一の超大国となる一方で、民族対立や多極化とも言われる不安定化、そして新たな大国としての中華人民共和国(以下「中国」とする)の台頭といった国際関係の大きな変化が続いたが、1988年に国連環境計画(United Nations Environmental Programme:UNEP)と国連の専門機関である世界気象機関(World Meteorological Organization:WMO)が共同で設立した気候変動に関する政府間パネル(Intergovernmental Panel on Climate Change:IPCC)が数次にわたって公開している報告書において[12]、一貫して気候変動の危険性を主張していながらも地球温暖化の状況は悪化の一途を辿っており[13]、国際的な取り組みあるいは多国間連携が急務となっている。
 そして、現在の国際関係における重要なアクターである米国と中国の対立構造と言い得る米中対立の淵源をどこに求めるのかという議論は、さまざまな視点から検討が行われている。たとえば、第2次世界大戦後の国際秩序の形成および維持を一貫して中心的に担ってきた米国国内における国際協調主義への批判と中国国内における無視できない格差が共産党による統治への批判に繋がることへの懸念の結果という両国の国内事情の結果という指摘もあれば、西欧の自由民主主義という政治体制と中国が千年かけて形成してきた皇帝独裁制という2つの政治体制が21世紀型のテクノロジーを用いて競争している図式という指摘もある[14]。また、特に東アジアにおける海洋ガバナンスをテコとして関係改善の可能性を指摘するものもあれば[15]、トランプ(Donald Trump)政権からバイデン(Joe Biden)政権へ交代したとしても米中関係は改善しないという指摘もある[16]。いずれにしても、確かなことは米中対立が一朝一夕に改善するものではなく、かつての米ソ冷戦のようにある程度長期的な国際構造となることは避けられないということであり、国際的な取り組みを進める際にはこの構造を前提とすることが求められるということである。
 一方で、海難救助(search and rescue:SAR)に代表されるように、外交・安全保障上の対立を形成している関係国が例外的に積極的な連携を進めることもある[17]。そのため、地球規模の問題となっている気候変動についても、米中両国が連携して対応する余地はある。その具体的な機運としては、2021年4月に開催されたアメリカ主催の気候変動に関する首脳会合(気候変動サミット)(Leadersʼ Summit on Climate)が挙げられる。同サミットは主要経済国による今後10年間の取組、途上国支援、クリーンエネルギーへの移行、イノベーション、地方自治体、自然に基づく解決策等を議題として、世界の40の国・地域の首脳を招待され、オンライン形式で一般公開(生中継)されたが、同サミットは2009年に当時のオバマ(Barack Obama)大統領が主導し、二酸化炭素(CO2)の主要排出国17か国・地域(日本、アメリカ、中国、ロシア、インド、ドイツ、カナダ、イギリス、イタリア、韓国、フランス、メキシコ、オーストラリア、南アフリカ、フィリピン、インドネシアおよび欧州連合(EU))が参加したエネルギーと気候に関する主要経済国フォーラム(Major Economies Forum on Energy and Climate Change:MEF)の再開という位置づけでもある[18]
 同サミットについて、直前の4月17日に行われた気候変動を担当するバイデン政権のケリー(John Kerry)特使と中国の解振華(Zhenhua Xie)事務特使の会談では、気候変動で「米中が互いに協力していく」とする共同声明を発表されるなど、米中は安全保障や人権問題などで激しく対立しているが、利害が重なる分野では協調する姿勢を鮮明にしている[19]。一方で、再生可能エネルギーの拡大を通じた国内雇用の創出や経済成長を目指す米国とパリ協定から一時離脱したアメリカを牽制しつつも、経済成長の足かせとなる過度な規制に対する警戒感を示す中国の気候変動への対応の主導権を巡る米中の対立が早くも顕在化しつつある[20]。これらの動きを踏まえると、予断はまったく許さないものの、気候変動を米中対立解消のテコとして、そして海洋ガバナンスの構築するためのきっかけとして位置づけることは十分可能である。

(2)国家間取り組みにおけるマニュアル:どこまで具体化できるのか?

 このような呉越同舟あるいは同床異夢とも言い得る状況ではあるものの、気候変動への対応について、米中両国はまずは手を結んだと評し得る。しかし、平均気温の上昇を抑制したり、食糧問題を改善したりといった成果に至るまではもちろん、気候変動への対応として求められる取り組みを具体化するだけでも、多くの関門が存在している。
 気候変動への対応においては、前述のように経済成長と環境保全の両立を担保することが求められるが、経済成長に影響を与えるという点において、国家の持続可能性、すなわち国家安全保障に直結するということである。たとえば、第2次世界大戦後の冷戦構造においては、アメリカや西ヨーロッパ諸国を中心とする北大西洋条約機構(North Atlantic Treaty Organization:NATO)とソ連を中心とする友好協力相互援助条約機構(ワルシャワ条約機構)(Warsaw Treaty Organization:Warsaw Pact)という軍事同盟が有名であるが、米国が主導したマーシャル・プラン(Marshall Plan)と称される欧州復興計画(European Recovery Program:ERP)やソ連が主導した経済相互援助会議(Council for Mutual Economic Assistance:COMECON)という経済協力システムも存在した。これらの国際機関は軍事面と経済面で関係国を支援することとなったが、これは経済成長が国家安全保障に大きな影響を与えることが明らかであったからである[21]。そのため、気候変動においても、環境保全へ過度に重きを置いてしまうと、経済成長を阻害するのみならず、国家安全保障への重大な支障を来すことが懸念される。従って、国家安全保障にある程度配慮した形で各国が取り組み得る行動計画を策定することが重要となる。
 国家安全保障を前提とした国際的な取り組みとしては、①覇権(hegemony)モデルや②勢力均衡(balance of power)モデル、③集団安全保障(collective security)モデル、④集団防衛(collective defense)モデル、⑤協調的安全保障(cooperative security)モデル、⑥共通の安全保障(common security)モデルなどが挙げられる[22]。これらのモデルにはいずれも常設の事務局をはじめとして、ある程度実効性のある体制が構築されることが前提となるが、これまでの検討を通じて、気候安全保障においても、同様の取り組みを進めることは十分可能である。また、これらの言わば広義の軍事同盟以外の安全保障に係る国際的な取り組みとしては、古くはワシントン海軍軍縮条約(1922年)やロンドン海軍軍縮条約(1930年)、現行のものとしては戦略兵器削減条約(Strategic Arms Reduction Treaty:START)や核兵器の不拡散に関する条約(Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons:NPT)などの軍縮あるいは軍備管理[23]、そしてそれを取りまとめた国際約束である軍縮条約が挙げられる。これらについても、常設の事務局が設置されたり、強い権限を有する検査体制が構築されたりするなど、ある程度の実効性を伴った体制が構築されている。そのため、これらの取り組みも気候安全保障に関する国際的な取り組みの参考になり得る。
 もちろん、気候変動に関する国際的な取り組みとしては、前述のパリ協定やIPCCをはじめとする国際約束やそれに基づく常設機関が存在し、一部の取り組みは着実な成果を上げている。しかし、人道支援や災害復旧(HA/DR)を含む安全保障分野を包含したものとは言い難いのも事実である。また、前述の気候変動サミットにおいて各国が発表したCO2排出量の削減目標が基準年も目標値もばらばらであったことを鑑みると、ある程度統一的な基準を設定することも重要である。

4.海軍収集海象データの提供:気候安全保障に関わるMDA構想の必要性

 前節において、気候安全保障を進めるために必要となる国際的な取り組みを推進する際に、ある程度統一的な基準が求められると指摘した。その切掛けとなり得るのが海洋状況把握(Maritime Domain Awareness:MDA)である。
 MDAは2001年9月11日の米国同時多発テロ事件を契機にアメリカではじまった取り組みであり、国家レベルの問題(防衛、安全、経済等)に影響を与え得る海洋情報を関係政府機関で効果的に共有するための仕組みである[24]。と定義され、2018年5月に閣議決定された我が国の第3期海洋基本計画においても、第2部(海洋に関する施策に関し、政府が総合的かつ計画的に講ずべき施策)において、「4.海洋状況把握(MDA)の能力強化」という項目が設けられ、MDAの重要性を踏まえた情報収集体制や情報の集約・共有体制の整備、国際連携・国際協力の推進が規定されている。そして、我が国における安全保障政策の基本的指針である「平成31年度以降に係る防衛計画の大綱について(30大綱)」においても、「グローバルな課題への対応」という文脈においてMDAの重要性は指摘されており、MDAを実施するための体制の整備は安全保障上の喫緊の課題である。これらの取り組みを具体化させるべく、MDAを実施する上で欠かせない海洋情報の集約・整理に関する取り組みも進められており、海上保安庁は様々な海洋情報を集約し、地図上で重ね合わせて表示できる情報サービスとして、「海洋状況表示システム(海しる)」の運用を2019年4月から開始している[25]
 海洋情報に限らず、情報を一元的に管理・運用することが有益であることは言うまでもなく、MDAにおいても統一的な基準による取り組みが求められる。しかし、安全保障に直結し得る取り組みであるため、各国の利害が一致しないことが想定される。そのため、たとえば、「自由で開かれたインド太平洋」構想(”Free and Open Indo-Pacific” vision:FOIP)に代表されるように[26]、安全保障への貢献を視野に入れてMDAに関する取り組みを進めている我が国やアメリカとは異なり、船舶監視のみならず、海洋観測全般に関する国際協力体制の構築を目指す欧州の取り組みが参考になる[27]
 いずれにしても、これまでの安全保障を前提としたMDAから一歩踏み込んで海洋に係るあらゆる分野を対象としたMDAに拡大することにより、気候変動への対応のみならず、国際的な海洋政策全体への貢献を期待することが可能となる。本書で示した気候安全保障を証拠に基づく政策(evidence-based policy:EBP)へと昇華させるためにも、外交・安全保障分野での連携促進に加え、統一的な基準に基づくMDAなどの取り組みを通じた科学的知見の集積や分析・評価が重要になる。これらの取り組みは容易ではないものの、国益に直結する外交・安全保障からのアプローチを先行するものとして期待できる[28]

5.おわりに

 本稿は気候変動をテコとして海洋安全保障を検討する上で新たな視点を提示することを目指し、検討を進めてきた。そして、米中対立を踏まえた国家間連携の重要性を指摘した上で、科学的調査を前提とした国際的なMDAの整備がEBPとしての気候変動対策、そして、気候変動に対応する海洋安全保障を推進するためには必須であることを明らかにした。これらの知見を踏まえ、以下において、気候変動対策および海洋安全保障の今後に関する若干の私見を述べたい。
 これまで繰り返し述べてきたように、気候変動は地球規模の変化である。そのため、日々の日常においては夏の台風や冬の大雪といった目に見える形にならないとその影響を実感することは難しい。また、仮に実感したとしても、それが地球規模でどのように連関しているのかを理解することはより難しいのが正直なところである。加えて、気候変動による影響が雪氷圏や太平洋島嶼国など、地球上のさまざまな地域で発生することを踏まえると、その被害が一様ではないことは自明である。そして、MDAをはじめとして、気候変動の影響を低減させたり、生じ得る被害から復旧させたりといった技術や取り組みはすでに幾つか存在しており[29]、その普及を待つのみといった状況でもある。そのため、我々に課された課題はハード的な取り組み以上に、ソフト的な取り組みであり、その1つとして気候変動に関する価値観を形成あるいは共有し、かつあるべき方向へ進むことである。
 この言わば「価値観の共有」が最も重要であり、かつ最も困難なものであることを我々はこれまでの歴史を通じて体感している[30]。しかしながら、少なくとも先進国においては、経済成長と環境保全の両立は強く意識されており[31]、単なる負担(cost)としての気候変動を含む環境保全から、環境保全を推進することによって経済成長の基盤維持および発展による得られる利益(benefit)を意識していると考えられる。これは換言すると、持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals:SDGs)が達成されることを意味している。そして、この基盤となるのが海洋ガバナンスの構築であり、地球温暖化の抑制を目指す「攻めの方策」に加えて、気候変動により生じる被害に対応する「守りの方策」を織り込んだ新たな海洋安全保障のあり方を示すことが求められている。
 この取り組みを諦めることは、気候変動への対応のみならず、持続可能な開発、そして人類の持続可能性を否定することにも繋がり得る。このような事態へと至らないためにも、我々はこれまでの「陸地中心主義」から「海洋中心主義」への発展を志向することが重要である[32]。本稿で提示した知見が「価値観の共有」に資することを期待して、筆を擱きたい。

※本稿は笹川平和財団海洋政策研究所編/阪口秀監修『気候安全保障:地球温暖化と自由で開かれたインド太平洋』に寄稿した論説(総合的気候安全保障を目指して)を加筆・修正したものである。

[1] 山崎眞(2008)「二一世紀における海洋安全保障―海洋の安全と強制力の役割―」『国際政治』第154号145-160頁。

[2] 笹川平和財団海洋政策研究所編/阪口秀監修(2021)『気候安全保障:地球温暖化と自由で開かれたインド太平洋』東海教育研究所。

[3] 小森雄太(2021)「海洋安全保障試論―マルチレベルからのアプローチに注目して―」公益財団法人日本国際フォーラム『海洋秩序構築の多面的展開―海洋「世論」の創成と拡大に向けて―(外務省外交・安全保障調査研究事業費補助金(調査研究事業)分野D(海洋をめぐる問題))』プロジェクト年次報告書(コメンタリー)総5頁(https://www.jfir.or.jp/studygroup_article/5746/)(2021年10月15日検索)。

[4] 寺島紘士(2016)「海洋ガバナンスの課題と展望―海洋の秩序形成と持続可能な開発―」『政策オピニオン』第45号1-8頁。

[5] 我が国が2007年に「海洋基本法」を、韓国が2002年に「海洋水産発展基本法」をそれぞれ制定しているのをはじめとして、中国も「第13次5カ年計画(2016-2020)」の草案に「海洋基本法」を2020年までに制定することが明記するなどの取り組みを進めている。また、気候変動の影響を大きく受ける太平洋島嶼国においては、国際的な海洋ガバナンスの確立の取り組みに先行し、排他的経済水域(EEZ)の領域を憲法や法律で規定するなどの取り組みを進めている。笹川平和財団海洋政策研究所編(2019)『2018年度総合的海洋政策の策定と推進に関する調査研究各国および国際社会の海洋政策の動向報告書』10-16頁。

[6] この状況について、海洋問題世界委員会(Independent World Commission on the Oceans:IWCO)副会長を務めたエリザベスM.ボルゲーゼ(Elisabeth Mann Borgese)は「国連海洋法条約と海軍は離婚した状態にある。健全な海軍力による貢献なくして海洋の平和はあり得ない」と海洋安全保障の重要性を指摘している。高井晉他(1998)「海上防衛力の意義と新たな役割―オーシャンピース・キーピングとの関連で―」『防衛研究所紀要』第1巻第1号106-129頁。

[7] 寺島紘士・古川恵太・ウィルフ=スワーツ・前川美湖・藤井麻衣・高原聡子・ジョン=ドーラン(2017)「国連海洋会議からの速報―海洋と海洋資源の保全と持続可能な利用―」第143回海洋フォーラム講演資料、古川恵太・ウィルフ=スワーツ(2017)「海洋と海洋資源の保全と持続可能な開発の実現に向けて~国連海洋会議準備会合からの速報~」第139回海洋フォーラム講演資料、笹川平和財団海洋政策研究所ウェブサイト(https://www.spf.org/opri/)(2021年10月15日検索)。

[8] 秋元一峰・犬塚勤・吉川祐子(2014)「気候変動・変化が及ぼす海洋の安全保障への影響と海軍の役割―その1―オーストラリア国立海洋資源・安全保障センターの報告書から」『海洋情報季報』第7号108-129頁。

[9] 最近では笹川平和財団安全保障研究グループでも下記論説を発表するなど、笹川平和財団全体としても気候安全保障に関するさまざまな調査研究を進めている。長島純(2021)「安全保障の脅威としての気候変動―軍隊のレジリエンス強化の観点から―」国際情報ネットワーク分析IINA(笹川平和財団安全保障研究グループ)(https://www.spf.org/iina/articles/nagashima_07.html)(2021年10月15日検索)。

[10] George F. Kennan (1970), “To Prevent a World Wasteland,” Foreign Affairs. (https://www.foreignaffairs.com/articles/1970-04-01/prevent-world-wasteland) (15/10/2021 last accessed).

[11] 米本昌平(1994)『地球環境問題とは何か』52-53頁。

[12] IPCCはこれまでに、1990年、1995年、2001年、2007年および2014年に評価報告書(Assessment Report)を発表し、現在第6次評価報告書(AR6)の取りまとめが進められている。「気候変動の科学的知見」環境省ウェブサイト(http://www.env.go.jp/earth/ondanka/knowledge.html)(2021年10月15日検索)。

[13] 「IPCC評価報告書の概要」環境省ウェブサイト(http://www.env.go.jp/earth/ondanka/ipccinfo/IPCCgaiyo/IPCChyoukahoukokusho.html)(2021年10月15日検索)、「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」気象庁ウェブサイト(https://www.data.jma.go.jp/cpdinfo/ipcc/)(2021年10月15日検索)。

[14] 待鳥聡史(2019)「米中対立は国内事情の帰結」『NIRA わたしの構想』第41号10-11頁、中西寛(2019)「西側諸国はリベラル・デモクラシーの魅力を高めよ」『NIRA わたしの構想』第41号12-13頁。

[15] 倉持一(2020)「米大統領選挙後の東アジア海洋安全保障を展望する―地政学と地経学の視点から―」『海洋安全保障情報季報』第29号132-142頁。

[16] 関志雄(2020)「バイデン政権の誕生は米中関係の改善のきっかけになるか―協力的競争関係に向けて―」実事求是(独立行政法人経済産業研究所ウェブサイト)(https://www.rieti.go.jp/users/china-tr/jp/ssqs/201210ssqs.html)(2021年10月15日検索)。

[17] 小森雄太(2020)「日本におけるSARの現状と展望:海洋ガバナンスの視点から」角南篤・呉士存監修『東アジア海洋問題研究:日本の中国の新たな協調に向けて』東海大学出版部215-227頁。

[18] 「菅総理大臣の米国主催気候サミットへの出席について(結果概要)」外務省ウェブサイト(https://www.mofa.go.jp/mofaj/ic/ch/page6_000548.html)(2021年10月15日検索)、「エネルギーと気候に関する主要経済国フォーラム(MEF)」外務省ウェブサイト(https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kankyo/kiko/mef_index.html)(2021年10月15日検索)。

[19] 朝日新聞(電子版)「気候変動サミット、中国が参加に前向き米中が共同声明」(2021年4月18日12時56分)。

[20] 産経新聞(電子版)「気候変動サミット米中が主導権争いへ欧州は削減目標で先行」(2021年4月20日21時16分)、日本経済新聞(電子版)「中国・習氏、石炭消費量削減を表明2026年から5年間で、米気候変動サミット」(2021年4月22日22時10分)。

[21] 大芝亮(2008)「主要先進国の動向(2)アメリカ、カナダ、オーストラリア」ODA研究会『主要先進国における海外援助の制度と動向に関する調査』49-65頁、清水聡(2021)「「ソ連・東欧圏」における経済改革と政治危機1960年代のドイツ政治外交と「プラハの春」」『開智国際大学紀要』第20号5-16頁。

[22] 防衛大学校安全保障学研究会編著(2009)『新訂第四版安全保障学入門』亜紀書房57-86頁。

[23] 本稿における「軍縮」や「軍備管理」の理解については、下記を参照されたい。防衛大学校安全保障学研究会編著(2009)『新訂第四版安全保障学入門』亜紀書房133-160頁。

[24] 古庄幸一(2017)「海洋立国としての海洋状況把握(MDA)について」『Ocean Newsletter』第407号6-7頁。なお、欧州においても、海洋環境保全を目的に加える形で広がり、現在では、「海洋からの様々な人為的または自然の脅威に対応するための情報共有基盤・枠組み」として深化している。

[25] 角田智彦(2019)「日本の海洋情報管理の新たな展開」『OPRI Perspectives』第1号1-6頁。

[26] 相澤輝昭(2020)「それぞれの「インド太平洋政策」とFOIPを巡る最近の動向」『海洋安全保障情報季報』第30号189-215頁、鮒田英一(2020)「自由で開かれたインド太平洋」における安全保障協力~海洋秩序維持・強化の観点から」日本国際問題研究所『安全保障政策のボトムアップレビュー』39-49頁。

[27] 日本宇宙フォーラム(2017)『欧州における宇宙を用いた海洋状況認識(MDA)の現状と国際協力に関する調査』4頁。ただし、欧州においても、海軍や沿岸警備隊がMDAの中核的な実施主体であることは我が国や米国と同様である。

[28] 環境保全を通じて利害関係にある各国が協調した取り組みとしては、国連環境計画(United Nations Environment Programme)が世界の18海域で実施している地域海プログラムが挙げられる。長谷川香菜子(2017)「国連環境計画地域海プログラムとは」『Ocean Newsletter』第417号6-7頁。

[29] 本書で紹介したもの以外にも、笹川平和財団海洋政策研究所では、「デジタル化時代の海洋宇宙連携」事業の一環として、次世代型の自動船舶識別装置(Automatic Identification System:AIS)としての運用が期待されている人工衛星を用いたVHFデータ交換システム(VHF Data Exchange System:VDES)の運用を担う国際機関の立ち上げに関する政策研究を進めている。渡辺忠一(2020)「海洋における宇宙利用の現状・未来予測と海洋宇宙連携活動の紹介」内閣府宇宙利用の現在と未来に関する懇談会第3回会合資料3。

[30] 阪口秀(2021)「海洋政策研究所所長に就任して」『Ocean Newsletter』第500号6-7頁。

[31] 香坂玲(2011)「環境保全と南北問題の相克―熱帯雨林・生物多様性の映像受容にみる日本とインドネシアの差」『社会と倫理』第25号71-85頁、黒田昌裕(1995)「地球環境保全対策と南北問題」GISPRIニュースレター(https://www.gispri.or.jp/newsletter/199502-1)(2021年10月15日検索)。

[32] 小森2020は気候変動による生じつつある北極海航路を含む新たな海上交通路(Sea Lines of Communication:SLOCs)をブルーインフィニティループ(Blue Infinity Loop:BIL)基盤とした分析モデルの構築を試みているが、これも陸地中心主義からの脱却を目指した試みである。小森雄太(2020)「新たな海洋ガバナンス構築に関する基礎的研究―ブルーインフィニティループの視点から―」『海洋政策研究』第14号49-71頁。