南シナ海の今 ―中国の威圧的行動の常態化とフィリピンの対応を中心に―

PDF

上野 英詞,日本安全保障戦略研究所 上席研究員

Contents

1.はじめに

 昨今の南シナ海における特徴的景観は、中国の特にフィリピンに対する威圧的な嫌がらせ行動と、「領土は1平方インチたりとも譲らない」(ボンボン・マルコス大統領(以下、マルコス大統領))との決意の下、米国との同盟関係や日本などとの安全保障ネットワークを背景に果敢に対抗する、フィリピンの姿勢である。特定の国を標的とした中国のこうした行為は、2022年8月のナンシー・ペロシ米下院議長(当時)の訪台時における台湾周辺での大規模演習実施や、それ以降の台湾周辺での威圧的な軍事演習の常態化と軌を一にするものである。現在まで(2025年3月末)のところ、こうした威圧的行動もフィリピンの対応措置も、いずれも武力行使の閾値を下回ってはいるものの、海洋やその上空での行動は偶発的事案を出来させるリスクを排除できない。フィリピンはアジアにおける最古の米国との条約同盟国であり、台湾も事実上、米国の防衛コミットメントの対象であることから、いずれの場合も、事態がエスカレートすれば、米国の介入への決意が試されることになりかねない。一方、威圧的行動を続ける中国としても、米国が介入に踏み切る敷居の高さを見極めることは難しい判断となろう。海洋やその上空における偶発的事案が米中武力紛争へのリスクを内包しているという点から見れば、南シナ海は世界で最も危険なフラッシュポイントであると言っていいかもしれない。
 本稿は、中国の威圧的行動とフィリピンの対応を中心に、関連する諸問題を含め、南シナ海の今を考察したものである。

2.南シナ海の地政学的特徴

 南シナ海は面積約350万平方キロに及ぶ。これを北から鳥瞰すれば、底辺にマレーシアとインドネシアが位置し、アジア大陸部とボルネオ島・フィリピン諸島に両側を囲まれ、その上(北)に台湾が位置する、半閉鎖的な海域である。国連海洋法条約第122条によれば、「半閉鎖海」とは、「2つ以上の国によって囲まれ、狭い出口によって他の海もしくは外洋につながっているか、あるいはその全部または大部分が2つ以上の沿岸国の領海もしくは排他的経済水域(以下、EEZ)から成る」と定義される。実際、この半閉鎖海への出入り口としてのマラッカ・シンガポール海峡、スンダ海峡、ロンボク海峡、バシー海峡及び台湾海峡といった諸海峡は、重要な戦略上のチョークポイントとなっている。そしてこれらの諸海峡から南シナ海を経て日本や韓国に至る海上交通路(シーレーン)が通っており、世界の原油タンカーのほぼ半分が通航するなど、南シナ海は、グローバル経済を支える海上交通の要衝であり、海洋国家日本にとって、海上貿易の半分強そして原油輸入の大部分が通航する生命線ともいえる海域となっている。また、この海域は豊富な漁場であり、更には石油や天然ガスなどの埋蔵資源も多いと推定され、既に沿岸各国は海底資源の掘削に着手している。
 南シナ海には、パラタス諸島(東沙諸島)、パラセル諸島(西沙諸島)、マクセルフィールド諸島(中沙諸島)及びスプラトリー諸島(南沙諸島)などがあり、パラセル諸島とスプラトリー諸島を中心に大小様々な自然に形成された陸地、海洋自然地形が相互に近接して点在している。
 南シナ海紛争の核心は、基本的にこれら海洋自然地形の領有権とその周辺の海洋管轄権を巡る紛争である。南シナ海、特にスプラトリー諸島に点在する海洋自然地形については、中国とフィリピンに加えて、ベトナム、マレーシア、ブルネイそして台湾が全部あるいはその一部に対する領有権を主張し、領有権主張国はその一部を埋め立てたり、建造物を構築したり、あるいは要員を派遣したりして実効支配を誇示している。
 安全保障の観点から東アジアの地理的環境を見れば、ユーラシア大陸の東側に、日本列島、台湾そしてフィリピンに至る連続的な島嶼群が連なっている。台湾を境に、北に南西諸島を外縁として東シナ海が、南にフィリピン諸島とボルネオ島を外縁とする南シナ海がある。これら南北に線状に連なる列島、島嶼群による外縁が第1列島線と称されるものである。この外縁の中間に位置する「台湾は第1列島線における不可欠の結節点(a critical node within the first island chain)にあり、インド太平洋地域における安全保障と米国の国益を守る上で不可欠の、そして日本列島からフィリピン、南シナ海に連なる、米国と同盟国及びパートナー諸国とのネットワークにおけるアンカーの役割を果たしている[1]。」米国は、日本とフィリピンとの間で同盟条約関係を維持するとともに、戦略的に重要位置にある台湾との間でも「台湾関係法」(1979年)に基づいて台湾の防衛にコミットしている。
 他方、これら南北に連なる外縁をユーラシア大陸側から見れば、これらは大陸国家の太平洋への進出に対する障壁となっている。中国は世界第3位の陸地面積を有する国だが、中国大陸の沿岸は北から渤海、黄海、東シナ海そして南シナ海に面しており、それらの外縁、第1列島線が中国の太平洋への進出に対する「障壁」となっている。従って、中国にとって、台湾を挟んで南北、即ちフィリピンとの間のバシー海峡、そして日本の沖縄本島との間の宮古海峡は太平洋に進出する上で極めて重要な戦略的価値を有する。実際、沖縄本島と宮古島間の海域などを進出経路とする中国海軍の戦闘艦艇の太平洋への進出は高い頻度で継続しており、また空母の太平洋への進出に際しては、南シナ海からバシー海峡を通過する事 例や、東シナ海から沖縄本島と宮古島の海域を通過する事例が確認されている。また、航空戦力についても、2017年 以降、沖縄本島と宮古島間の空域の通過を伴う太平洋進出が一層活発になっている[2]
【図1】台湾は第1列島線における不可欠の結節点

Source: Sacks, David, Meghan O'Sullivan, et al. "U.S.-Taiwan Relations in a New Era: Responding to a More Assertive China," Council on Foreign Relations Independent Task Force Report, June 2023. p.51.

 しかしながら、この「障壁」は、中国から見て、逆に「防壁」としての機能も併せ持つことに注目しなければならない。中国から見て、この「防壁」は第1列島線として領域拒否ゾーンを構成し、それを超えた接近阻止ゾーンとしての第2列島線とともに、中国の近海防衛戦略の要となるラインである。従って、特に第1列島線の内側の海域である、東シナ海と南シナ海における領域支配の確立は中国の「接近阻止・領域拒否(A2/AD)」にとって必須の要件であり、中国が日本の尖閣諸島周辺海域とともに、南シナ海のフィリピン管轄海域(フィリピンは自国の管轄海域を「西フィリピン海」と呼称している)において、中国海警局所属艦船を中心とするプレゼンスを常時維持している所以である。

3.南シナ海における中国の狙い

(1)中国の南シナ海に対する領有権主張と南シナ海仲裁裁判所裁定

 中国にとって南シナ海は、第1列島線の内側にある領域拒否ゾーンである。中国の南シナ海に対する領有権主張は2009年5月7日に国連に提出した文書に添付された「9段線」地図に明示されている。中国は、マレーシアとベトナムが合同で2009年5月に国連大陸棚限界委員会(CLCS)に大陸棚外縁の延長を申請したことに対する抗議の口上書で、9段線地図を論拠として提出した。中国が南シナ海の領有権を国際的に主張するために9段線地図を使ったのはこれが初めてとされる。この口上書で中国は「南シナ海の島嶼及びその隣接海域に対する議論の余地のない主権を有するとともに、当該海域ならびにその海底および下層土に対する主権的権利と管轄権を享受している」と述べるとともに、「長い歴史の過程で形成されてきた南シナ海における中国の主権と関連する諸権利は、歴代中国政府に受け継がれ、国内法によって何度も再確認され、国連海洋法条約を含む国際法規によって護られてきた」と主張している。いわゆる「歴史的権利」と称するものである[3]。しかしながら、中国は、座標など9段線地図が依って立つ根拠については一度も明確に言及したことはない。
 9段線は、2023年8月に公表された「中国標準地図2023年版」で、台湾の東側に1本の段線を加えた10段線に拡大された[4]。この地図の特徴は、初めて大陸本土と同縮尺で南シナ海の9段線で囲まれた領域を自国領として明示するとともに、台湾の東側にもう1つの段線を引き、10段線として台湾の領有権を誇示するものになっていることである。
 こうした中国の南シナ海に対する領有権誇示とそれを根拠にしたスプラトリー諸島への強引な侵出に対して、フィリピンは2013年1月、西フィリピン海(南シナ海におけるフィリピン管轄海域の呼称)における領有権紛争の平和的かつ持続的な解決を実現するために、国連海洋法条約に基づいて、オランダのハーグにある常設仲裁裁判所に中国を提訴した。フィリピンの提訴項目は、国連海洋法条約を判断基準として、条約の限度を超えた中国の主張や南沙諸島の海洋自然地形の法的地位やその地理的位置など、15項目について判断を仰いだものである。中国は、2014年12月の南シナ海の管轄権問題の仲裁申し立てに対する中国政府の立場に関する口上書を常設仲裁裁判所に提出し、仲裁裁判所には本件に対する管轄権がないと主張し、以後、一貫して仲裁手続きを受け入れない姿勢を示してきた。
ハーグに設置された南シナ海仲裁裁判所は2015年10月、「仲裁裁判手続きへの中国の不参加は仲裁裁判所の管轄権を奪うものではない」とし、仲裁手続きを進めることを決定した。そして3年半後の2016年7月、南シナ海仲裁裁判所はフィリピンの提訴項目に対して裁定を下した。
 仲裁裁判所の裁定は、主として以下の諸点から注目される[5]
 第1に、南シナ海の大部分をカバーする中国の9段線主張と、9段線内の海域に対する中国の主権的権利、管轄権または「歴史的権利」に関する判断である。裁定は、①南シナ海の海洋資源に対する中国の「歴史的権利」の主張は国連海洋法条約の規定の限度を超える部分については無効であり、②中国が南シナ海や海洋資源を歴史的に排他的に管轄してきた証拠はなく、③中国の9段線内の海域における「歴史的権利」の主張は如何なる法的根拠もない、とした。
 第2に、南沙諸島の海洋自然地形の法的地位に関して、裁定は、南沙諸島には「岩」はあっても、「島」はないとの判断を示した。南シナ海紛争の論点の1つは、対象となる海洋自然地形に対する主権とその法的性格を巡って展開される。国海洋法条約では、これら海洋自然地形の法的性格について、環礁などの低潮時には海面上にあるが満潮時には海面下に沈む海洋自然地形を「低潮高地」とし、領海外にある「低潮高地」は如何なる海洋権限も有せず、領有の対象ともならない(第13条1、2項)。「岩」とは恒久的に海面上にある「高潮高地」で、人間の居住や経済生活が維持できない海洋自然地形で、領海と領空のみを有する(第121条3項)。人間の居住や経済生活が維持できる海洋自然地形が「島」で、領海、領空及び排他的経済水域を有する(第121条1、2項)。
 中国は仲裁過程への参加を拒否し、また仲裁裁判所の管轄権を認めていないが、仲裁裁判所の裁定は最終的なもので、国連海洋法条約加盟国としての両当事国に対して法的拘束力を持つことになっている。この裁定は、ほぼ全ての提訴項目でフィリピンの主張を受け入れたもので、南シナ海を「核心的利益」とし、9段線に囲まれた海域に対する「議論の余地のない主権」を主張して、人工島の造成や、次項に見る南シナ海における中国の強引な力による現状変更の試みは、国連海洋法条約からも断罪される結果となった。しかしながら、南シナ海仲裁裁判所は、海洋自然地形に対する主権問題や海洋境界画定に関しては管轄権を有しない。従って、この裁定は、フィリピンと中国の南シナ海における領有権紛争の直接的な解決をもたらすものではないし、中国に裁定の遵守を強要するメカニズムもない。
 実際、中国は今日に至るまで、この裁定を完全に無視し、強引な力による現状変更を推し進め、9段線に囲まれた海域を内海化し、「議論の余地のない主権」海域を目指す姿勢を変えていない。中国南海研究院の呉士存創始院長は、その過程で必要なら「剣を抜く」勇気を持つべきであるとして、以下のように述べている。
 
 南シナ海情勢の新たな特徴、課題及び任務に直面して、中国は、地域の安全と安定を維持するための知恵と忍耐力を持つだけでなく、新たなアプローチで、そして必要なら剣を抜く勇気を持って、自国の権益を擁護し、あらゆる挑発行為に対処する能力を持つべきである。今世紀以降の南シナ海情勢の進展は、地域の長期的な平和と安定は中国の一方的な自制と寛容だけでは達成できないという重要な教訓を我々に教えてくれた[6]

(2)スプラトリー諸島に対する侵出と人工島の造成

 スプラトリー諸島に対して、中国は、1988年3月のベトナム海軍との「南沙海戦」で、スプラトリー諸島の6つの海洋自然地形、即ち、カルテロン(Cuarteron Reef)礁(中国名:華陽礁)、フェアリークロス(Fiery Cross Reef)礁(中国名:永暑島)、ガベン(Gaven Reef)礁(中国名:南薫礁)、ジョンソン南(Johnson South Reef)礁(中国名:赤瓜礁)、スービ(Subi Reef)礁(中国名:渚碧礁)及びヒューズ(Hughes Reef)礁(中国名:東門礁)に対する実効支配を確立した。ミスチーフ(Mischief Reef)礁(中国名:美済礁)については、中国は、米国が1992年に南シナ海に面したフィリピンのクラーク基地とスービック基地から撤退した後の1995年に占拠した。南シナ海に面した両基地からのからの米軍の撤退は、ミスチーフ環礁に対する中国のこうした行動における心理的負担を軽減させたと推測される。ミスチーフ礁の奪取以降、中国がスプラトリー諸島の海洋自然地形を新たに占拠したという情報はないが、次項に見るように、フィリピン占拠の海洋自然地形に対する執拗な威圧的妨害行動を繰り返している。
 中国は、2013年頃から迅速かつ大規模な埋め立てを行い、スプラトリー諸島で占拠する7カ所の海洋自然地形―ジョンソン南礁、カルテロン礁、フェアリークロス礁、ガベン礁、ヒューズ礁、スービ礁、ミスチーフ礁―を人工島に作り替えた。仲裁裁判所の裁定に従えば、スービ礁とミスチーフ礁の原初形状は「低潮高地」で、如何なる海洋権限も有さず、領有の対象にもならない。他の5カ所の原初形状は「岩」で、12海里の領海を有する。また、マクセルフィールド諸島で中国が実効支配するスカボロ(Scarborough shoal)礁(中国名:黄岩島)も「岩」とされ、12海里の領海のみを有する。海洋自然地形における埋め立て工事や人工島の造成は、国連海洋法条約に照らして違法ではないし、またベトナムやフィリピンも自国占拠の海洋自然地形の補強や補修などのために小規模な埋め立て工事を実施している。しかしながら、南シナ海の戦略的景観を一変させる程の規模とスピードで実施された中国による埋め立て工事とそれによる人工島の造成は、現在の形状からは当該海洋自然地形の原初形状を判断できないし、原初形状に戻すことも最早不可能な明確な現状の変更である[7]
 これら人工島の内、ミスチーフ礁、スービ礁及びファイアリークロス礁の3カ所は3,000メートル級の滑走路と格納庫などを有し、中国が保有する全ての軍用機が離着陸可能とされ、また他の人工島もアンテナやレドーム型監視タワーなどが設置されているが、現在までのところ、管見の限り、人工島における戦力配備や軍事活動状況を確認できていない。中国が造成した人工島の滑走路や各種の施設が、その軍事的価値とは別に、平時における南シナ海の厳しい海洋環境や台風などの自然災害に対してどの程度の抗堪性があるかどうかは不明だが、いずれにしても、「半閉鎖海」でグローバルな海上交通路の要衝である南シナ海の東部中央部のスプラトリー諸島に、3本の3,000メートル級滑走路を備えた中国の前進軍事拠点の出現は、地域全体の安全保障上重大な影響を及ぼすことは間違いないであろう。

4.中国の南シナ海でのフィリピンに対する威圧行動の常態化

 南シナ海における中国の威圧的行動に見る最近の象徴的な事案は、フィリピンに対する嫌がらせである。表1は2021年から2024年までの中国のフィリピンに対する威圧的行動件数(概数)を四半期毎に示したものである。フィリピンでは、2022年6月にフェルディナンド・マルコスが大統領に就任した。マルコス大統領は7月の議会での施政方針演説で、「如何なる外国勢力に対しても、共和国領土の1平方インチたりといえども放棄するような如何なるプロセスも指揮しない」と述べ、南シナ海の領有権紛争に対して強い決意で臨む姿勢を示した[8]。以後、マルコス大統領は、後述するように、対米同盟の再活性化を始めとする、領有権紛争に対処するための幾つかの措置に着手していく。同時、これらフィリピンの諸措置に比例して、下表に見るように、中国のフィリピンに対する威圧的行動が2023年から次第に増加していく。
 

 中国の威圧的行動は、南シナ海の約90%をカバーするとされる9段線内の海域の支配を目めざして、特にフィリピンEEZ内の海洋自然地形を標的としている。その威圧的行動の特徴は、海軍艦艇、中国海警局船舶そして海上民兵船舶による、自国のEEZ内で哨戒するフィリピンの海軍艦艇と沿岸警備隊巡視船や、合法的に活動する補給船や漁船などの民間船舶や航空機に対する脅迫、嫌がらせ、威嚇といった、ハラスメント行為と、海上民兵船舶を中心とする多数の船舶を群集させて、フィリピン占拠の海洋自然地形を取り囲み、滞留させ、当該海洋自然地形を事実上封鎖するといった行為である。
 上記リストによれば、中国の威圧的行動の重点は3カ所―セカンド・トーマス(Second Thomas)礁(比名:Ayungin Shoal、中国名:仁愛礁)、スカボロ礁(比名:Panatag Shoal)、サビナ(Sabina)礁(比名:Escoda Shoal、中国名:仙濱礁)―で、最も多かった場所はセカンド・トーマス礁であった(図2参照)。米シンクタンクの資料によれば、これら3カ所に対する2024年の中国海警船の哨戒日数は、セカンド・トーマス礁では263日、スカボロ礁では313日、そしてサビナ礁では128日であった[9]
 セカンド・トーマス礁では、2021年Q4に3回(1回は放水砲使用)、2022年Q2に1回、2023年Q1に1回(レーザー照射)、Q2に1回、Q3に2回(1回は放水砲使用)、Q4に5回(1回は衝突、1回は放水砲使用、1回は衝突と放水砲使用)、2024年Q1に2回(1回は衝突と放水砲使用、1回は放水砲使用)、Q2に2回(衝突)、Q3に2回であった。
 
【図2】関係位置図
 

a.セカンド・トーマス礁

 セカンド・トーマス礁は、フィリピンのパラワン島西方約194キロのスプラトリー諸島にある南北17キロ、東西5キロ強の縦長の環礁で、中国が人工島に造成し、3,000メートルの滑走路を有するミスチーフ礁(比名:Panganiban Reef)に形状が似ており、しかもそこから約40キロの位置にある[10]。この形状と近接性が中国の執拗な嫌がらせの一因になっていると思われる。2016年7月の南シナ海仲裁裁判所の裁定[11]によれば、同礁は、フィリピンのEEZ内に位置する海洋自然地形で、UNCLOSの規定では、低潮時には海面上にあるが、満潮時には海面下に沈む「低潮高地」で、領海などの如何なる海洋権限も発生しないし、領有の対象にもならない。
 フィリピンは、同礁の実効支配を誇示するために、1999年以来、海軍戦闘艦(大戦当時の米海軍戦車揚陸艦)、BRP Sierra Madreを座礁させ、同艦に少数の海兵隊員を常駐させてきた。このプレゼンスを維持するためには、真水や日用品などの持続的な補給が不可欠である。中国の威圧的行動はこの補給活動に対する妨害行為で、2014年3月頃から散発的に続いてきたが、特に2023年以降、目立って増えてきた。2023年2月にはフィリピン沿岸警備隊船に中国海警船が軍用レベルのレーザーを照射する事案があった。2024年になって、中国の妨害行為は更にエスカレートし、3月と6月の事案では、放水砲の使用や衝突(体当たり)によってフィリピン側に負傷者が出た。フィリピンは中国の妨害行為を「危険な行動」と非難し、マルコス大統領は南シナ海での作戦中にフィリピン人が死亡した場合、「レッドライン」を越えるであろうと述べ、更に米国も、1951年の米比相互防衛条約第4条が南シナ海のあらゆる場所におけるフィリピン軍、政府は公船または航空機(沿岸警備隊を含む)に対する武力攻撃にまで及ぶことを再確認した[12]
 中比両国は7月21日、補給活動について「暫定合意」に達したとされるが、中国側は事前通知や現場での検証、更には補給にBRP Sierra Madreの補修資材を含めないことなどを求めているという[13]
 セカンド・トーマス礁の今後の注目点は、老朽化が進む、BRP Sierra Madreの取り扱いであろう。補修資材の補給を認めない中国側としては、当然ながら同艦の老朽化が進行して、最終的に解撤され、それに伴って海兵要員も退去することを望んでいよう。同礁がフィリピンのEEZ内にあることから、沿岸国の権利を行使して、同艦を、例えば、中国の人工島造成に倣って、宿泊施設を備えた石油プラットフォームや石油掘削リグの再利用など、既製の構造物に迅速に置き換え、最終的に堅固な前進拠点にすべし、との意見もある。[14] しかしながら、こうした選択肢は中国の反発を招くことは必至であり、長期的な前進拠点の構築による引き換えに、フィリピンが敢えて短期的なエスカレーションの危険を冒すかどうか。同礁がミスチーフ礁に近接しているだけに、BRP Sierra Madreに対するフィリピンの今後の方針が注目されるところである。

b.スカボロ礁

 次に多かった場所はスカボロ礁で、2022年Q1で1回、2023年Q3で1回、Q4で2回(1回は放水砲使用)、2024年Q1で3回、Q2で4回(2回は放水砲使用)、Q3で2回、Q4で2回(1回は放水砲使用)であった。
 スカボロ礁はマクセルフィールド諸島の中で海面上に露出している唯一の環礁で、ルソン島の西方約230キロにあって、北方のバシー海峡を窺う戦略的に重要な位置にある。環礁は周囲約55キロ、ラグーンの面積は約130平方キロで、ラグーン内の水深は10~20メートルで、南東端には海に通じる幅約400メートルの水路があるが、通行可能幅が狭いため、100トン未満の船舶しかアクセスできない。ラグーンは豊富な漁場で、フィリピン漁民の漁場であり、荒天時の避難所でもあった。しかしながら、2012年4月に中国漁民の操業を巡って中比両国の海警船、沿岸警備船が2カ月近くに亘って対峙したが、双方の公船が撤収した後、中国が同礁を占拠し、今日に至るまで実効支配している。2016年7月の南シナ海仲裁裁判所の裁定によれば、同礁は「岩」で、12海里の領海のみを有する。
 また、裁定では、中国によるスカボロ礁周辺でのフィリピン漁民の漁業活動の妨害も指摘された。漁業活動の妨害はその後も続いており、フィリピン沿岸警備隊と漁業水産資源局は2023年9月、中国がフィリピン漁民の漁業活動の妨害するため、スカボロ礁のラグーンの水路周辺に「フローティング・バリア」を設置したと非難した。[15] このバリアはマルコス大統領の命令で数日後に一部(アンカー)が切断されたが、その後、中国は2024年2月にバリアを再設置し、海警船が監視しているという。[16] 中国メディアによれば、中国は2024年12月以降、スカボロ礁の領海とその周辺海域とその上空での哨戒活動を継続的に強化し、違法侵入船舶を監視し、追い払い、関連海域の管理を一層強化し、国家の領土主権と海洋権益を断固として保護している[17]
 スカボロ礁については、中国は2024年11月に、国連海洋法条約に準拠して、スカボロ礁に16カ所の基点を結ぶ直線基線を引き[18]、12月に「黄岩島に隣接する領海の基線に関する声明」と「海図」を寄託した[19]
 スカボロ礁を巡る今後の焦点は、中国が同礁の埋め立てに着手し、滑走路を建設し、軍事基地化するかどうかである。2025年3月末現在、スカボロ礁の埋め立ての兆候は見られないが、もし今後、同礁が滑走路を持つ人工島に作り替えられれば、中国の弾道ミサイル搭載原子力潜水艦(SSBN)が海南島三亜の海軍基地から太平洋へ進出する重要なルートと見られるバシー海峡を扼する位置に前進軍事拠点を持つことになる。更に、同礁と、パラセル諸島の有人島で南海諸島全体を管轄する三沙市政庁が置かれた、ウッディー島(Woody Island、中国名:永興島)に加えて、スプラトリー諸島の中央部で3,000メートル級の滑走路を持つ3カ所の人工島(ファイアリークロス礁、スービ礁、ミスチーフ礁)からなる、中国の南シナ海支配上、極めて重要な意味を持つ基地ネットワークが完成することになる。

c.サビナ礁

 上記2カ所に加えて、2024年に大(major)事案があった場所はサビナ礁で、Q2で1回、Q3で3回(他に中事案が1回)、Q4で1回(他に小事案が1回、中事案が1回)であった。
 サビナ礁は領有対象とはならない「低潮高地」で、パラワン島から140キロに位置し、フィリピンのEEZ内にある。その西方65キロにセカンド・トーマス礁があり、同礁への補給活動を継続していく上で中継場所として重要な位置にある。更に、パラワン島から約157キロに位置し、相当の石油、天然ガスの埋蔵資源があると推測され、中比共同開発も検討されたことがある、リード・バンク(Reed Bank、比名:Recto Bank、中国名:礼楽礁)に近いことから、フィリピンのエネルギー安全保障の面からも重要である。
 この環礁が中比間の対峙場所となったのは、フィリピンが2024年4月に日本が供与した最新の沿岸警備船を周辺海域に配備し、同環礁での中国の違法な埋め立て活動を監視し始めて以来である。フィリピンは、サビナ礁で粉砕されたサンゴの山が発見されたことから、中国がパラワン島に最も近い場所に恒久的な前哨基地を造成することを懸念している。フィリピン大統領府の発表によれば、中国はサビナ礁に海軍艦艇と4隻の海警船とともに、34隻の海上民兵船を群集させ、サンゴ礁を破壊して「人工島」を造成しており、フィリピンは沿岸警備船のローテーション展開によって24時間態勢で監視している[20]。フィリピン沿岸警備隊によれば、こうした監視体制下で、8月31日、中国海警船が錨泊中の沿岸警備隊船の左舷船首に衝突(体当たり)し、日本供与の警備船が一部損傷する事案があった[21]。同船はその後、撤収し、交代船が派遣されたが、今後、フィリピン警備態勢の空隙を突いて、前出2012年4月のスカボロ礁における事例―フィリピン警備船の撤収後、中国による占拠、今日に至る実効支配―に似た経緯を辿るかどうか注目される。また、粉砕されたサンゴの山が本格的な埋め立て活動の前兆かどうかは不明だが、これまでの中国の人工島造成能力から見れば、今後の動向が注目される。中国が3,000メートル滑走路を有する人工島、ミスチーフ環礁に近いサビナ礁を人工島に造成すれば、カンド・トーマス礁とリード・バンクは包囲され、封鎖されることになろう[22]

d.その他

 上記3カ所以外に、パラワン島西方約310キロのフィリピンのEEZ内にあるスプラトリー諸島の中央部の環礁、ウィットサン(Whitson)礁(比名:Tulian Felipe、中国名:牛軛礁)にも、数年前から中国の海上民兵船が群集し、滞留している[23]
 以上に見てきたように、特に2023年以降、フィリピンEEZ内の環礁を巡って中比双方の政府公船が対峙する、一種の「チキンゲーム」が常態化している。これまでの重大事案では、フィリピン側に負傷者や船舶の損傷が出ているが、放水砲の発射や衝突(体当たり)を躊躇わない中国の威圧的行為も、フィリピン側の現場での対応も、いずれも武力行使の閾値を下回っている。しかしながら、この間、中国は、南シナ海の9段線内の海域の支配を目指して、硬軟取り混ぜた戦術を駆使してきた。南シナ海の海洋やその上空での威圧的行為と対応は、作用、反作用のスパイラルにエスカレートしかねない、そして米国を巻き込む米中戦争に発展しかねない危険性を常に内包している。
 次に、こうした危険性を内包した環境下で、フィリピンのマルコス政権は、小国として、力による現状変更を推し進める大国、中国に立ち向かうに当たって、現場での対応以外に、如何なる手立てを講じているのかを見ていきたい。

5.フィリピンの対応

(1)米中の狭間に位置するフィリピンの苦悩

 前項で見たように、フィリピンは中国の妨害行為に対して現場で果敢に対応しているが、同時にマルコス大統領は、前政権の外交、安全保障政策を方向転換し、2023年から中国の妨害行為を映像証拠によって世界に発信するキャンペーンや、軍の近代化や海事法制の制定とともに、米国との同盟関係の活性化、日本などとの安全保障ネットワークの構築に本腰を入れ始めた。
 他方で、隣国であり、最大の貿易相手国でもある中国との良好な関係維持にも腐心している。マルコス大統領は2023年1月、中国を公式に訪問し、習近平国家主席と会談した。この会談で両国は、幅広い分野での農業、インフラ、開発協力及び海上安全保障などを含む14の2国間協定に署名するとともに、中国は総額約230億ドルの投資を約束した。南シナ海問題については、マルコス大統領は帰国後、「習主席と私は、西フィリピン海問題についても深く率直な議論を交わした。我々は、西フィリピン海での相違点を双方が管理し、他の実りある関与と多面的な協力を妨げないよう、2国間関係が成熟していることに留意した」と語った[24]
 マルコス大統領は、「我々は大国間競争においていずれかの選択を強いるルールに従うことを拒否する[25]」との方針から、米国との同盟関係の活性化や日本などとの安全保障ネットワークの構築を通じて南シナ海領有権紛争に対応する足場を固める一方で、同時に中国との経済協力関係を維持していくという、一種のバランス外交を進めている。しかしながら、後述するように、例えば、もし台湾有事が生起した場合、フィリピンの地理的位置と国内に米軍のアクセス・サイトを認めていることから、厳しい選択を迫られることになろう。

(2)フィリピンの国家防衛戦略

 フィリピンは2023年8月、「国家安全保障政策 2023-2028(National Security Policy 2023-2028)[26]」を発表した。西フィリピン海の問題については、「フィリピンの主要な国家利益の1つであり、フィリピンは1982年国連海洋法条約及び2016年7月の最終的かつ拘束力のある南シナ海仲裁裁定に基づき、西フィリピン海に対する主権、主権的権利及び管轄権を行使している。…(中略)…領有権主張国の相違や主張国が自らの立場を主張する方法は、我が国の領土保全のみならず、フィリピン国民の正当な権利の行使とその安全と福祉に対しても戦略的な課題であり続けている」と述べている。
 そして中国の西フィリピン海における威圧的な行動に対処するため、ギルバート・テオドロ国防長官は2024年1月、新しい防衛構想として、「包括的群島防衛構想(CADC: Comprehensive Archipelagic Defense Concept)[27]」を発表した。CADCは、群島国家であるフィリピンの海洋領域における資源が中国の9段線によって違法にかつ一方的に侵害されていることから、フィリピンのEEZ全域に亘ってフィリピン軍の能力を強化し、群島防衛を強化することを求めている。現在のフィリピン軍は、長年のゲリラ対策による陸軍重視政策のため、海軍と空軍の能力が不足していることから、CADCは、主権的権利を持つ海洋及び空域防衛のため、海上及び防空能力を迅速な強化が必要であり、そうすることで、領土保全のみならず、200海里EEZと350海里の大陸棚外縁までの海域における法執行活動の支援が期待できるとしている。CADCによれば、軍はより多くの艦船、航空機及びレーダーシステムなどを取得するとともに、軍施設のアップグレードと、群島水域と200海里EEZの安全保障のための人員配備を進めることになっている。
 CADCは、能力強化を推進するに当たって、2つの大きな障害があるとしている。第1に、この防衛構想の予想される費用と、フィリピン国民が国防衛支出の増加に伴う巨額の負担を引き受けるかどうかである。マルコス大統領は2024年1月、Re-Horizon 3と称される総額350億ドルの軍調達リストを承認した。マルコス政権が進める、中国の妨害行為を映像証拠によって世界に発信するキャンペーン、「透明化戦略」(後述)は、国防予算に対する国民に支持を高める上で重要な役割を果たしているとされる。そして第2に、米国と他の同盟国がCADCを技術的に、そして財政的に支援してくれるかどうかである。この点で、米国との同盟関係の活性化と同志国との安全保障ネットワークの構築が重要となる。

(3)透明化戦略

 フィリピンは、2023年から中国の妨害行為を映像証拠によって世界に発信するキャンペーンを始めた。中国の南シナ海でのグレーゾーン活動―前述のフィリピンに対する、武力攻撃の閾値を下回る威嚇的な妨害行為―を監視する、米スタンフォード大学のSeaLightチームは、フィリピンのキャンペーンを、「積極的透明化(Assertive Transparency)」と名付け、「ゲームチェンジャー」として高く評価している。SeaLightは、中国の南シナ海におけるグレーゾーン活動に対して、フィリピンは2つの革新的な措置で、中国のグレーゾーン活動を白日の下に晒したとして、高く評価している。1つは前述の仲裁裁判所への提訴であり、もう1つが「積極的透明化」キャンペーンである。「積極的透明化」とは、「グレーゾーン・アクターが違法で悪意ある威圧的な行為を行う暗い空間を意図的に探し出し、それを公衆の目に晒す戦術である。当然ながら、グレーゾーン・アクターは、ゾーンがグレーの場所で活動する。従って、日の光はその天敵である」ということであり、「言い換えれば、中国は無法の海の暗黒を利用する意欲によって、非対称的な優位性を享受してきたが、2023年は、中国が隠蔽しておきたかった行動を暴露することに、マニラが自らの非対称的な優位性を発見し、活用した年となった。」ということである。下図は「積極的透明化」のイメージで、「透明化は最終的には目的達成のための手段であり、目的そのものではない。海上のグレーゾーン活動に光を当てることは、グレーゾーンの活動を抑止し、打ち負かすというより大きな目的を追求するための重要な戦術の1つである[28]。」ことを示している。
 
【図3】「積極的透明化」のイメージ

 実際、フィリピンは、例えば、前述のセカンド・トーマス礁への補給活動に対する中国の妨害行為について、フィリピン側の補給船や沿岸警備船に外国人ジャーナリストなどを乗船させ、中国海警船による放水砲の発射や衝突(体当たり)のシーンを映像と記事で世界に発信させてきた。また、沿岸警備隊が撮影した、フィリピンEEZ内での中国の海上民兵船の群集、滞留の映像などもメディアに積極的に公開してきた。
 この戦術は、自国の行動の正当性、合法性を主張する中国のナラティブの虚偽を暴く有効な手段であり、またそれによって米国や同志国によるフィリピンへの支援を引き出す上で役立っている。図3に示された3要件の内、国際的支援の構築には成功し、国土の強靱化も米国や日本などの同志国の支援を得て軍近代化を進めつつある。従って、この戦術の成否は、第3の要件、グレーゾーン・アクター、中国のコスト計算如何にかかっていよう。現実には、これまでのところ中国のフィリピンEEZ内への侵出を防ぐには至っていない。中国は、短期的な世評よりも、南シナ海における長期的な核心利益の追求に重きを置いているように思われる。

(4)海洋関連法の制定

 マルコス大統領は2024年11月8日、2本の海洋関連法、即ち「フィリピン海域法(The Philippine Maritime Zones Act)」と「フィリピン群島シーレーン法(The Philippine Archipelagic Sea Lanes Act)」に署名した。
 フィリピン海域法は、国連海洋法条約に準拠して、フィリピンの内水域、群島水域、領海、接続水域、EEZ及び大陸棚を定義したものである。フィリピン群島シーレーン法は、群島国家としてのフィリピンの主権と海洋領域の保護を目的とするもので、国連海洋法条約と国際民間航空条約(シカゴ条約)に従って、外国の軍艦及び外国登録航空機の通過に当たって使用し、アクセスするルートと範囲を規定するものである。国家安全保障担当大統領補佐官は、この2本の海洋関連海事法はフィリピン政府に「合法的かつ平和的な海事活動を推進しながら」、海事関連法と管轄権を効果的に執行する権限を付与するものであるとした上で、「これらの法律は、フィリピンの海洋資源と権益を保護し、管理するための明確で強固な法的枠組みを提供し、フィリピン国民の利益のためにそれらを持続可能な形で利用できるようにするものである」と述べた[29]
 これらの法律に対して、中国外交部報道官は、「いわゆるフィリピン海域法は、中国の黄岩島(スカボロ礁)や中国管轄の南沙諸島(スプラトリー諸島)のほとんどの海洋自然地形、更にはそれら海洋自然地形の周辺海域を、フィリピンの海域内に違法に取り込んでいる」と述べ、これらの法律は南シナ海に関連する「違法な仲裁裁判所裁定」を正当化しようとするものと指摘し、「南シナ海における中国の領土主権と海洋権益は、明確に歴史的かつ法的根拠に基づいており、フィリピンの法律に影響されない」と述べ、また法律は南シナ海行動宣言(DOC)に違反しており、南シナ海の状況を「より複雑」にするとも主張した上で、中国は必要な全ての措置を講じる権利を留保していると強調した[30]。中国が前述した黄岩島周辺の16カ所の基点を結ぶ直線基線を公表したのは署名から2日後の11月10日であったことから、フィリピン海域法への対応策として、黄岩島(スカボロ礁)の領有権を主張するためであったと見られる。
 フィリピン群島シーレーン法についても、中国の専門家は、この法律で3本の群島シーレーンが指定され、指定水路のみで無害航行が可能としているのは、西太平洋諸国の通航権に広範な影響を与えるとして、地図を示して批判している[31]

(5)対米同盟関係の活性化

a.米軍アクセス可能サイトの拡大
 フィリピンの対応で最も重要なのが対米同盟関係の活性化であり、中国の威圧的な妨害行為に対処する上で、力の裏付けとなるものである。米比同盟関係は1951年の米比相互防衛条約を基盤とするアジア最古の同盟関係だが、ドゥテルテ前政権下では事実上、機能不全状態にあった。米比同盟関係の活性化は、2023年2月にフィリピンを訪問したロイド・オースチン米国防長官(当時)がカリート・ガルベス比国防長官(当時)との会談で、フィリピン国内で米軍がアクセスできる拠点の拡大に合意したことで、具体化し始めた。
 米比両国は2014年に防衛協力強化協定(以下、EDCA)を締結した。EDCAは、長期的にはフィリピン軍の近代化を促進し、短期的には米軍が同盟コミットメントを遂行するために必要な国内基地5カ所―4カ所の空軍基地(ルソン島、パラワン島、ミンダナオ島及びセブ島に各1カ所)、及びルソン島南部の国内最大の陸軍基地―へのアクセスを可能にすることを目的とするものであった。バサ空軍基地は、ルソン島沖のスカボロ礁周辺海域の空中哨戒と、そこでの危機生起の場合に米比両軍の空中対処にとって重要である。また、アントニオ・バウティスタ空軍基地は、中国の妨害行為の重点目標となっているセカンド・トーマス礁や、その近くのリード・バンクでのエネルギー探査を守るために、同様の役割を果たし得る位置にある。2月の会談で、新たに4カ所のサイトが追加され、9カ所とすることが合意された(図4参照)[32]。EDCAによって、米軍は、合意された軍事基地に米比両軍用の施設を建設するとともに、それらの施設に装備を事前配備し、米軍部隊をローテーション展開させることができる。
 米国防総省は2023年4月、新たに追加されたEDCAサイトの名前を公表した。それによれば、カガヤン州サタアナのカミロ・オシアス海軍基地、イサベラ州ガムのキャンプ・メルチョール・デラ・クルス、パラワン州のバラバック島、カガヤン州ラルローのカガヤン・ノース国際空港(通称:ラルロー空港)の4カ所である。米国防総省によれば、既存の5カ所のサイトに加え、これらの新たなサイトは、米軍とフィリピン軍の相互運用性を強化し、自然災害や人道的災害など、インド太平洋地域における様々な共通の課題に、よりシームレスに対応できるようになる。国防総省は、フィリピン国防省と足並みを揃えて、これらのサイトでの近代化プロジェクトを迅速に推進する。そのため、既存のEDCAサイトへのインフラ投資額、8,200万ドルに加えて、2024年4月には、9カ所のサイト全てに1億2,800万ドルに投資を拡大する計画である。[33]
 
【図4】EDCAによる米軍のアクセス可能サイト

 新たに追加されたサイトでは、台湾に近接する北部カガヤン州に2カ所指定されたことが、後述する台湾有事との関係で注目される。これら北部の2カ所については、地元当局を始め、国内に反対論や懸念がないわけではない[34]
b.米比防衛ガイドラインの改訂
 米比同盟活性化で最も注目すべきは、マルコス大統領の訪米(2023年4月30日~5月4日)の成果である、「米比防衛ガイドライン(The United States and the Republic of the Philippines Bilateral Defense Guideline)」の改訂である。オースティン米国防長官とガルベス比国防長官は2023年5月3日、米国防総省でマルコス大統領が見守る中、米比両国が共有する「自由で開かれたインド太平洋」ビジョンに資する同盟協力を近代化するため、「2国間防衛ガイドライン(The Bilateral Defense Guidelines)」に調印した。改訂ガイドラインの調印は、マルコス大統領の同盟関係活性化の具体的指針となるものである。
 改訂ガイドラインは、南シナ海のいずれかの海域を含む太平洋地域において、米比双方の政府公船、航空機、または沿岸警備隊を含む軍隊のいずれか一方の締約国に対する武力攻撃が、1951年の米比相互防衛条約第IV条及び第V条に基づく相互防衛コミットメントの発動対象になることを再確認している。第IV条の条文は「太平洋地域におけるいずれか一方の締約国に対する武力攻撃」となっており、南シナ海への中国の侵出に伴って、フィリピンは米国に対して、「太平洋地域」に南シナ海が含まれるとの確約を求めてきた。従って、今回、ガイドラインに明記されたことは、フィリピンの安全保障にとって大きな意味を持つ。
 ガイドライン第14項は、「南シナ海のいずれかの海域を含む太平洋地域において(in the Pacific, to include anywhere in the South China Sea)、米比いずれか一方の軍隊――双方の沿岸警備隊を含む――航空機あるいは政府公船に対する武力攻撃は、米比相互防衛条約第IV条及び第V条に基づく相互防衛コミットメントの発動対象になる」と明記している。また、ガイドラインは、脅威が陸、海、空、宇宙及びサイバースペースを含む複数の領域で生起するとともに、非対称、ハイブリッドそして非正規戦とグレーゾーン戦術の形態をとる可能性があることを認識し、通常型と非通常型の両方の領域において相互運用性を構築するための方針を示している[35]
c.「鉄壁」の対比防衛コミットメント―試される米国の決意―
 「太平洋地域」に南シナ海が含まれることが改訂ガイドラインに明記されたことは、米国のコミットメントへの同盟国の信頼を維持する上で、米国にとっても大きな意味を持つ。
 米国のジョー・バイデン大統領(当時)は、EDCAサイトの拡大やガイドラインの改訂とともに、フィリピンに対する防衛コミットメントを何度も明言してきた。例えば、2023年10月にセカンド・トーマス礁で中国海警船がフィリピン沿岸警備船に衝突(体当たり)事案が発生した時、バイデン大統領は、「明確にさせておきたい。米国のフィリピンに対する防衛コミットメントは鉄壁(”ironclad” defence commitment to the Philippines)である。米国とフィリピンとの防衛協定は鉄壁である」と述べ、「鉄壁(ironclad)」を繰り返した。[36] また、2024年4月の日米比3国首脳会談の際にも、バイデン大統領は「明確にしておきたいのは、フィリピンと日本に対する米国の防衛コミットメントは鉄壁(ironclad)であり、以前にも述べたように、南シナ海でフィリピンの航空機や艦船が攻撃されれば、相互防衛条約が発動される」と述べた[37]
 ドナルド・トランプ大統領が2025年1月に就任して以降、初めてピート・ヘグセス国防長官は、3月27日から28日にかけてフィリピンを訪問し、マルコス大統領とジルベルト・テオドロ国防長官と会談した。会談を通じて、両国は、米比同盟の永続的な強さを強調し、自由で開かれたインド太平洋地域を維持していく上でのその重要性を再確認した。ヘグセス国防長官とテオドロ国防長官は共同声明で、ますます複雑化する安全保障環境において、1951年の米比相互防衛条約に対する両国の共通のコミットメントを改めて表明するとともに、相互防衛条約が南シナ海のあらゆる場所において、両国の軍隊、航空機、公船(自国の沿岸警備隊船を含む)に対する武力攻撃にまで及ぶことを再確認し、更に、相互防衛条約に加えて、1998年の訪問軍地位協定及び2014年のEDCAが継続的な同盟調整及び相互運用性のための重要な基盤であることを確認した。また、インド太平洋地域における抑止力を再構築し、力による平和を達成するための幾つかの大胆な措置を講じ、確固たるアジェンダを設定することで合意した。主な新しい取り組みには、海軍・海兵遠征艦艇阻止システム(NMESIS)や高性能無人水上艦艇など、より高度な米国の能力をフィリピンに展開する、バタネス諸島(注:バッシー海峡を挟んで台湾に最も近い)における米特殊作戦部隊とフィリピン海兵隊高度の高度な2国間特殊作戦部隊の訓練を実施するなどが含まれている[38]
 特に2023年以降のフィリピンEEZ内での中国よるフィリピンに対する威圧的事案が頻発するようになってから、米国のバイデン前政権は「鉄壁」の対比防衛コミットメントを繰り返し明言し、またトランプ現政権も国防長官の訪比を通じて、対比防衛コミットメントを確約した。更に、この間、米国は、フィリピンとの2国間演習や、日本を含む多国間演習などを頻繁に実施してきた[39]
 では、米国の対比防衛コミットメントが実際に発動される敷居の高さはどの程度か。依然、武力行使への閾値以下に留まっている中国の威圧的行動とどの程度の差があるのか。フィリピンEEZ内での一種の「チキンゲーム」のイニシアチブを握っている中国としても、米国の介入の敷居の高さを見極めることは極めて困難であろう。一方、米国としても、フィリピンEEZ内での海洋自然地形を巡って中比両国が実際に干戈を交える事案が発生した場合、米比相互防衛条約第4条は「自国の憲法上の手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する」としており、即時介入までの時間的余裕を持ち得るとしても、難しい決断を迫られるであろう。

(6)多国間安全保障ネットワークの構築

 マルコス大統領は、対米同盟の活性化に加えて、多国間安全保障ネットワークの構築にも力を入れている。この面では、日本との安全保障関係の強化が特に重要である。
 日本とフィリピンは、台湾を挟んで南北に位置し、第1列島線上にあり、しかも両国とも米国の条約同盟国である。更に、フィリピンは自国のEEZ内にある海洋自然地形を巡って中国の執拗な威圧的行為に直面しており、他方、日本では尖閣諸島に中国海警船の船影が絶えることがない。日比両国は、台湾を挟んで、域内の平和と安定に対する戦略的利益を共有する関係にある。
 日比の安全保障関係は、2024年4月のワシントンでの日米比3国首脳会談以降、着実に進化してきている。首脳会談後の共同ビジョンステートメントは、①南シナ海における中国の危険かつ攻撃的な行動と、南シナ海における埋立て地形の軍事化及び不法な海洋権益に関する主張を懸念し、南シナ海における海上保安機関及び海上民兵船舶の危険で威圧的な使用、並びに他国の海洋資源開発を妨害する試みに断固反対する、②東シナ海の状況について深刻な懸念を表明し、尖閣諸島を含む、中国による東シナ海における力又は威圧によるあらゆる一方的な現状変更の試みにも強い反対の意を表明する、④台湾海峡の平和と安定の重要性を確認し、台湾に関する我々の基本的立場に変更はないことを認識し、両岸問題の平和的解決を促す、としている。その上で、日米比3国間の協力を深化させるため、日本はフィリピン沿岸警備隊の能力向上を支援していくとしている。更に日米比3国間及びその他のパートナーとの間の海軍種間の共同訓練・演習を通じた協力や、フィリピンの国防近代化の優先事項に対する米国及び日本の支援を連携させ、3国間の防衛協力を推進する、としている[40]
 2024年12月に閣議決定された「国家安全保障戦略」においては、同盟国・同志国間のネットワークを重層的に構築するとともに、それを拡大し、抑止力を強化していくための重要な措置として、共同訓練、情報保護協定、物品役務相互提供協定、円滑化協定の締結、防衛装備品の移転、能力構築支援などを挙げている。以後、日本は2024年7月、フィリピンとの間で「日比部隊間協力円滑化協定」に署名した。情報保護協定や物品役務相互提供協定についても、日比間の協議日程に上っており、今後一層、安全保障面の連携、協力の深化が期待される。フィリピンとの連携と、同国の沿岸監視能力や海洋状況把握能力の強化は、日本にとって死活的な南シナ海のシーレーンの安全を確保する上で極めて重要である。

6.おわりに

 以上、自国のEEZ内で威圧的行動を繰り返す中国に対する、フィリピンの対応を中心に、南シナ海の今を考察してきた。日本もフィリピンも、列度の差はあれ、ともに中国の海洋における威圧的行動に直面している。また、「第1列島線における不可欠の結節点に位置している」台湾とは、南北に位置しており、台湾有事には無縁ではいられない。更に、両国とも、米国との条約同盟国であり、しかも米国は、フィリピンに対しては南シナ海における武力攻撃を米比相互防衛条約第4条及び第5条に基づく相互防衛コミットメントの発動対象としており、日本に対しては尖閣諸島を日米安全保障条約第5条の適用対象であることを確認している。こうした安全保障面の共通点から、制度化を伴う日比安全保障協力の一層の深化を図るとともに、中国の威圧的行動に対して、「透明化」キャンペーンを始めとする、マルコス政権の対応は、日本としても大いに見習うべき戦術であろう。
 
[5] 拙稿「南シナ海仲裁裁判所の裁定:その注目点と今後の課題」、『海洋安全保障情報季報』第14号、2016年参照。裁定原本についてはCases | PCA-CPAを参照。
[10] セカンド・トーマス礁の衛星画像については、例えば、USNI News, June 17, 2024を参照
[30] Ibid.
[39] 米国の南シナ海での軍事活動について、中国のシンクタンク、South China Sea Probing Initiativeは2018年から詳細なレポートを発表しており、中国の情報収集能力が窺えて興味深い。2024年の活動レポートについては以下を参照。
An Incomplete Report on US Military Activities in the South China Sea in 2024, South China Sea Probing Initiative, March 25, 2025