「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」と「自由で開かれた国際秩序(FOIO)」

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相澤 輝昭,防衛大学校防衛学教育学群准教授 元一等海佐

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はじめに

 本稿は、日本が主導的に推進して来た外交政策上のスローガンである「自由で開かれたインド太平洋(FOIP: Free and Open Indo-Pacific)」が「法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序」(筆者らはスローガンとしてはこれを「自由で開かれた国際秩序(FOIO: Free and Open International Order)」と呼称すべきと考えている(細部後述))に置き換えられようとしているかに見える現状とその含意などについて解説するものである。
 筆者は比較的早い段階からFOIPに着目し、調査分析に取り組んで来た研究者であり、様々な形で情報発信に努めてきた[1]。それらはいずれも日本政府の情報発信を読み解いていくという手法によるものであったが、そうした言わばFOIPウォッチャーとしてのルーティンワークの中、2023年10月の国会における岸田総理所信表明演説[2]には大変驚かされることとなった。この中では2018年1月の国会における安倍総理施政方針演説[3]以来、継続使用されて来たキーワードであったFOIPが「法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序」に置き換えられていたのである。筆者は関心を同じくする研究者にこのことを情報提供し、成蹊大学の墓田桂教授が早速それをキャッチアップし「FOIPは死んだのか?」[4]と題する論考を海外オンライン誌に寄稿した。その後、UAEハリファ大学のブレンドン.J.キャノン[5]助教授も交えての3名で、「自由で開かれた国際秩序(FOIO)」は日本外交の新たな中核的理念となり得るか?という問題認識の下に分析を実施し、その成果を海外シンクタンクのウェブサイトに論考として寄稿したところである[6]
 なお、この間、安倍晋三元総理のスピーチライターを勤めた元内閣官房参与の谷口智彦氏が2023年12月17日付産経新聞に「消えた『インド太平洋』」と題するコラムを寄稿、このことを契機に「自由で開かれた国際秩序(FOIO)」はFOIPを否定するものなのか否か、図らずもSNS上での議論を巻き起こすこととなった[7]。筆者らの見解は必ずしも谷口氏と一致するものではないが、一方でこの指摘にはインド太平洋地域の平和と安定に係る極めて重要な論点が含まれていることもよく理解しており、以下、本稿ではこれらの議論も念頭に置きつつ、前述した筆者らの論考に基づき解説を実施していく。

1.「自由で開かれた国際秩序(FOIO)」に係る基本的な問題認識

 本件に関する筆者の基本的な問題認識について端的に述べれば次のとおりである。
 ①日本政府はこれまで外交政策上のスローガンとして主用して来たFOIPを「法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序」(英文はFree and Open International Order Based on Rule of lawであり略語はFOIOBRLとなるが、これはスローガンとしては冗長であり、後述するとおり「法の支配に基づく」という枕詞の重要性も十分理解した上で、筆者らは「自由で開かれた国際秩序(FOIO)」という表現(略語)を提唱した 。本稿では以下、その趣旨の下にFOIOの略語を基本的に使用)に置き換えようとしているかに見える。
 ②もっともFOIPには元よりFOIOの考え方が中核的理念として含まれていたのであり、そのことはこれまでの情報発信の中でも明示されてきたところである。特に2022年2月のロシアのウクライナ侵攻、2023年10月のイスラエルとハマスの紛争、あるいは域外のグローバルサウスとの関係など、国際社会の関心はインド太平洋以外の地域にも広く志向している現状にも鑑みれば、地域的な境界のあるFOIPが、言わばより上位の概念であるFOIOへと置き換えられていくのは、むしろ自然なことでもある。
 ③ただし、既に日本の外交政策上の重要な「資産」ともなっているFOIPを一律にFOIOに置き換えてしまうのは必ずしも賢明な施策ではなく、特に中国との関係において、国際社会の関心をインド太平洋地域に引き付けておくという意味からもFOIPという用語自体に極めて重要な意義があることに留意しておく必要がある。したがって、これらについては「戦略的情報発信」という観点からも「法の支配に基づく」というキーワードの使用を含め、ケースバイケースで上手く使い分けていくことが肝要である。

2.FOIPの形成過程とFOIO

 以上、述べてきたような問題認識に基づき解説を進めていく上での前提として、先ずは「FOIPとは何か?」という点について、改めて筆者なりの見解を述べておこう。
 当初は「よく判らない」と言われていたFOIPに関する政府説明も徐々に整理された形になり、また、国内外における様々な議論を経て一般的な理解もかなり進んで来たところではあるが、今日に至るも日本政府としてFOIPを詳細に解説した政策文書は発簡されておらず(これには後述するように中国との関係で二面性を有するFOIPの性質上、詳細な文書化が困難という側面もある)、明確な「定義」が示されていないという問題がある。よってこれについては「外交青書」などの各種政府文書や演説、談話などの断片的な記述から類推していくより他はなく、筆者が本件研究に際し「日本政府の情報発信を読み解いていく」という手法を採らざるを得なかった理由もここにある。実際このような特性を有するFOIPを端的に説明するというのはなかなか至難の技であり、まさにこの点がFOIPの「判りにくさ」の所以でもあるのだが、筆者はこれについて、これまで次のような説明をしてきた。
 すなわち、FOIPは「自由主義的な国際秩序の維持を見据えた国際協調のための理念」[8]である一方、中国との関係において本来的な二面性を有しており、我が国をはじめとする関係各国は「『競争戦略』のための『協力戦略』」[9]という二重構造を前提とした対応をせざるを得ないということなのである。また、この考え方に対する国際社会の見方も変化しており、当初は日米豪印4カ国枠組み(Quad)がその中核とみなされていたが、現在ではASEANや太平洋島嶼国、また域外国である欧州諸国なども含め、この理念に賛同する全てのアクターを対象としたより幅広い多国間協調を目指す形へとシフトしつつある。そしてそのための重要なインセンティブがまさに「海上における法の支配」など普遍的な「海洋ガバナンス」ということなのである[10]
 なお、このFOIPにおける中国との関係の本来的な二面性という問題については、後に他ならぬ安倍元総理が「『アジア太平洋』という考え方から、インド洋と太平洋を一つの『自由の海』として捉えるという新たな地政学的概念を示した」、「軍事大国への道を邁進する中国を念頭に、アジアにおける基本的な価値観を共有する国々、また日米豪印の連携も模索していた」と述べ、やはり中国との関係が最も重要な関心事項であったということを明らかにしている[11]
 また、政府部内におけるFOIPの形成過程については関係書籍の記述や当時の関係者の証言[12]を通じてその基本的な構図や誰がどのようにといったレベルでの経緯もある程度は知られるようになってきたものの、まだ詳細が明らかにされた訳ではない。しかしながらFOIPが安倍元総理のリーダーシップで生み出された施策という見解は今や衆目の一致するところであり[13]、現時点では、FOIPはその下での多くの政府関係者による「合作」と理解しておくのが妥当であろう。そしてそうした経緯も踏まえつつ、FOIPの形成過程におけるFOIOとの関係について述べれば次のとおりである。
 FOIPは第1次安倍政権の外交コンセプトであった「自由と繁栄の孤」[14]を起源とし今日まで至る「価値観外交」[15]、すなわち、「地球儀を俯瞰する外交」と「国際協調主義に基づく『積極的平和主義』」の一環と説明されてきた[16]。「価値観外交」は「普遍的価値(自由主義、民主主義、基本的人権、法の支配、市場経済)に基づく外交」とされており、「自由と繁栄の孤」はその考え方の下に「ユーラシア大陸に沿って自由の輪を広げ、普遍的価値を基礎とする豊かで安定した地域を形成」するものと説明されているが、これらは元よりFOIOの考え方に基づくものとみなすことができるであろう。更に言えば、FOIPは当初は開発協力の文脈において説明される場合が多かったが、その初出である「2017年版開発協力白書」でも「法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序の維持」の章で「『自由で開かれたインド太平洋戦略』は法の支配に基づく自由で開かれた海洋秩序が国際社会の安定と繁栄の礎との考えに基づいています」と明記されているところでもある[17]
 また、FOIPの実践面について言えば、2017年11月のトランプ米大統領訪日に際して、いわゆる「三本柱」が日米首脳会談の合意事項として発表されるが、ここではその筆頭項目として「法の支配、航行の自由等の普遍的価値の普及・定着」が示された[18]。そして『外交青書2018』の特集記事では「インド太平洋地域における法の支配に基づく自由で開かれた海洋秩序を維持・強化することにより、この地域をいずれの国にも分け隔てなく安定と繁栄をもたらす『国際公共財』」とするという解説がなされ[19]、以降、FOIPの解説においては「法の支配を含むルールに基づく国際秩序の確保」という説明が明示的に付け加えられるようになったのである。言うなれば、FOIOは当初から中核的理念としてFOIPに含まれていた考え方で理論的にもFOIPの上位の概念であり、FOIPはFOIOの一部、すなわち、FOIOをインド太平洋地域で「具現化」したのがFOIPなのである(この相関関係に係るイメージは【図1】を参照)[20]。そして筆者自身もそうした理解の下、FOIPの「自由で開かれた」という理念は地域的に限定されるべきものではなく、より広範な地域を対象として念頭に置いた「自由で開かれた世界の海(FOGO)」を目指すべきと主張してきた[21]

 【図1】FOIOとFOIPの相関のイメージ(外務省の概念的な説明を元に墓田桂が作成)(Hakata, Aizawa, Cannon, “Japan’s Strategic Messaging”, ISDP, Feb 14, 2024,p6.から引用)

 なお、ここで言う「法の支配」は前述のとおりFOIO/FOIPにおける極めて重要なキーワードとなっているが、その具体的内容について日本政府は2014年5月のアジア安全保障会議(シャングリラ・ダイアローグ)における安倍首相の基調講演[22]を引用、①国家は国際法に基づいて主張をなすべき、②主張を通すために力や威圧を用いない、③紛争解決には平和的収拾を徹底すべき、という三つの基本原則をもって説明しているところである。

3.FOIOを巡る最近の動き

 前置きがやや長くなってしまったが、第1節③で述べたような最近の国際情勢に鑑みての日本政府のFOIO/FOIPに関する情報発信状況、特に2022年2月のロシアのウクライナ侵攻以降、2023年6月のG7広島サミットを経て、前述した2023年10月の岸田総理所信表明演説の前後、そして2024年1月の岸田総理施政方針演説に至るまでの動きについて、改めて述べれば次のとおりである。
 前節で述べたようにFOIOの考え方は当初からFOIPの中核的理念であり、2018年以降は『外交青書』などの政府文書でも文言として明示されるようになって来たのであるが、ウクライナ侵攻を経た2023年1月の国会における岸田総理施政方針演説[23]では「力による一方的な現状変更の試みは、世界のいかなる地域においても許されない。広島サミットの機会に、こうした原則を擁護する、法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序を堅持するとの強い意志を、改めて世界に発信します」という言及がなされた。そして広島サミットでは首脳コミュニケにおいて「国際的な原則及び共通の価値を擁護」として「法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序を堅持し、強化する」との言及がなされたのであった[24]
 なお、これらについてはいずれも別項目においてFOIPに関する言及もなされている。
 そして冒頭で述べた2023年10月の岸田総理所信表明演説についてであるが、ここではそれまでFOIPについて述べられていた文脈において「法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序」が2回使用され、一方で「インド太平洋」については別のパラグラフで「成長センター」としてのみ言及される形となっていたのである。
 その後も筆者らは日本政府としての関連情報発信を注視していたが、例えば、2023年12月に東京で開催された「日本ASEAN友好協力50周年特別首脳会議」では岸田総理の晩餐会挨拶などでFOIOへの言及が見受けられたものの、成果文書における記述では従来のとおりFOIPと「インド太平洋に関するASEANアウトルック(AOIP)」との関係を特に強調した形となっていた[25]。また、2024年1月、上川陽子外相訪欧時の日・フィンランド外相会談に際し発表された「北欧外交イニシアティブ」[26]においては「北欧外交の四つの分野」の「北極と海洋」の項に「法の支配に基づく自由で開かれた海洋秩序(UNCLOSに基づく法的枠組み)が不可欠」という記述がなされた一方で、「安全保障・防衛」の項中に「欧州・大西洋とインド太平洋の安全保障は不可分」との記述もあり、言わばFOIOとFOIPの双方に目配りしたとも思われるような構成となっていた。
 そして特に注目していた2024年1月の岸田総理施政方針演説[27]では「外交・安全保障」の(各国との関係の深化)の項においてASEANとの関係に言及しつつFOIPについて、(グローバル・サウスとの連携)の項においてはFOIOについて、それぞれ言及される形となっていたのである。
 このように日本政府内では一見してFOIO/FOIPに関する情報発信の揺らぎがあるようにも見受けられる現況はどのように理解すれば良いのであろうか?少なくとも第212国会における岸田総理所信表明演説以降もFOIPは実際に用語として使用されていることから谷口氏の指摘のようにFOIPが「日本外交の辞書から消えた」ということにはならないであろう。また、ここまで縷々述べてきたとおり、FOIPには元よりFOIOの考え方が中核的理念として含まれていたとするならば、そのことを理解した上で岸田総理に「安倍カラーを消したい」という意欲が働いたということも考えにくい。だとすれば、所信表明演説における用語としてのFOIPを除外した形でのFOIOへの言及は、やはりウクライナ問題をはじめとする国際社会の関心がインド太平洋地域を超えて大きく広がりを見せている中、地域的な境界のあるFOIPをより上位の概念であるFOIOへと置き換えようとしたものと理解するのが妥当であろう。しかしながら、このことはまさに両刃の剣で、FOIPが消えてしまうと「インドと海洋空間に当てたシャープな焦点が消える」こととなり「中国を牽制するのが安倍の動機だったはず。頼みもしないのに岸田は角を取ってくれた」となり北京を面白がらせることになるとの谷口氏の見解は的を射たものと言えるだろう[28]。であればこそ、これも前述のとおり、特に中国との関係においては国際社会の関心をインド太平洋地域に引き付けておくという意味からもFOIPという用語自体に重要な意義があることに十分留意しつつ、「法の支配に基づく」というキーワードの枕詞の使用も含めケースバイケースで上手く使い分けていくことが肝要なのである。この点については次節で本件調査を通じて判明したFOIOの起源に係る事項について解説した後、次々節において具体的に論じることとする。

4.「自由で開かれた」という用語の意義とFOIOの起源

 さて、筆者らは前述した問題認識に基づき関連する文献調査を進めていく過程で、FOIOの「自由で開かれた国際秩序」という用語が当初想定してよりもずっと早い時期から日本国内の様々な文献中で使用されて来たという興味深い事実を発見した[29]。このことは前述した理由から「自由で開かれた」というキーワードも公式の「定義」と呼べるものが存在していない中、その意義について改めて考察する上でも非常に示唆的なものであり、ここでこの点について述べておくこととしたい。
 なお、「自由で開かれた」というFOIO/FOIPの看板と言うべきキーワードが然るべく定義されていないのは本来望ましいことではないが、この問題が余り議論にならなかったのは、第2節で述べたとおりFOIPが「価値観外交」の一環と説明されることにより一般にはこれが自由主義、民主主義、基本的人権、法の支配、市場経済などの「普遍的価値」と同義のものと理解されたということなのであろう。とは言え、FOIPの初期段階ではこれが定義されていないがゆえに、2018年5月の「第8回太平洋・島サミット(PALM8)」に際し、自国漁業水域が「自由で開かれる」ことで脅かされると早合点した島嶼国から「俺たちの魚を獲りに来る気か!」と反発を受けたという笑えない逸話も伝えられており[30]、やはり共通理解を形成する努力は必要である。その意味で、一般的な理解普及にどれだけ影響があったかは不明であるが、FOIPの形成過程に関与した政府関係者には何らかの影響を与えた可能性も在り得る、この用語の起源について述べれば次のとおりである。
 「自由で開かれた国際秩序」という用語が最初に登場するのは1980年7月、大平総理の政策研究会報告書の「総合安全保障研究グループ報告書」[31]である。ここでは日米関係に関する考察で「日本がアメリカとともに、自由で開かれた国際秩序を志向」という表現がなされている。これについての具体的な解説はないものの、続く文章に日本は「自由な政治・経済・社会体制の擁護に努めることが、極めて重要」という表現があり、こうした内容を念頭に置いたものであったことが見て取れる。
 新聞のコラムでは1990年1月、日本経済新聞で田中直樹氏が、日本が世界の中でリーダーシップを発揮する条件について論じた寄稿中にこの用語が見て取れる[32]。ここで田中氏は、戦後日本の繁栄は米国が第2次大戦中に用意したブレトンウッズ体制の下で「自由で開かれた国際秩序を用意して貰ったおかげ」と指摘している。また、2010年11月には朝日新聞で船橋洋一氏が、「『自由で開かれた国際秩序』を築け」を中見出しとして題したコラムを掲載している。ここで船橋氏は日本のTPPへの積極参加を促す文脈において中国の国家資本主義の挑戦に言及しつつ、「『法の支配』に基づく『自由で開かれた国際秩序』を中国も含めともに守り、育てる」ことを主張しているところである[33]
 また、政府文書としては「平成23年度以降に係る防衛計画の大綱」(22大綱)中でこの用語が使われており、ここでは「我が国の安全保障における基本理念」において「自由で開かれた国際秩序を維持強化して我が国の安全と繁栄を確保する」と明記されている[34]
 そして2012年には後に初代国家安全保障局長に就任する谷内正太郎氏が「海洋国家の外交戦略」と題する論考を発表しており、ここでは「22大綱」にも言及しつつ、「自由で開かれた国際秩序」に関し「言い換えれば、『自由で開かれた国際貿易秩序、海洋秩序』をつくることに日本が貢献し、参画するということ」と述べられている。また、別のパラグラフで「日本が中国の覇権的行動に対抗するためには、誰も否定できないユニバーサルなメッセージを掲げてそれを実行していくとの意志を表明することが、対抗軸になりうると思う」という表現もあり、FOIO/FOIPへと繋がる考え方が伺われるところである[35]
 以上、述べて来た幾つかの事例も踏まえれば、第2節で述べたとおり政府部内におけるFOIPの形成過程について詳細が明らかになっている訳ではないものの、ここに掲げたような考え方がこれに関与した政府関係者に何某かの影響を与えた可能性も想定し得るところであり、そのようにして「語り継がれてきた観念を安倍政権が継承した」[36]という見方も大いに頷ける話と言えるであろう。

5.FOIO/FOIPに係る「戦略的情報発信」

 ここまで述べてきたとおり、国際社会の関心がインド太平洋地域を超えて大きく広がりを見せる中、日本政府が地域的な境界のあるFOIPをより上位の概念であるFOIOに置き換えようとしていること自体は基本的に妥当な考え方と言えるだろう。一方で日本外交の「資産」として国際的にも評価が定着しているFOIPを一律にFOIOに置き換えてしまうのは必ずしも賢明な施策ではないということも前述のとおりである。問題はこれによって必然的に生ずるFOIPの後景化という印象を如何にして回避ないしは低減させるかということであり、以下、この点について述べていく。
 谷口コラムに端を発した一連の議論にも鑑みれば、やはり中国との関係においては国際社会の関心をインド太平洋地域に引き付けておくという意味でもFOIPという用語自体が極めて重要であり、そのための「戦略的情報発信」が肝要と先に述べたところであるが、では具体的にはどのような形で情報発信を行っていけば良いのであろうか。
 そのためには先ず、第2節で述べたようなFOIO/FOIOの関係性を含めた丁寧な説明が不可欠ということである。地域的な境界のあるFOIPをより上位の概念であるFOIOへと置き換えようとすること自体は理に叶ったことであるとしても、これについてはFOIOが当初からFOIPの中核的理念であり、FOIPはFOIOの一部、FOIOをインド太平洋地域で「具現化」したものということを繰り返し強調していく必要があるだろう。
 一方で外交上のスローガンとして掲げるには冗長さを避け、簡明でキャッチーな用語として構成することもまた重要であり、筆者らが日本政府による「法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序」という表記を敢えて「自由で開かれた国際秩序(FOIO)」という表現(略語)で提唱した理由もまさにこの点にある。もちろん、このことは使用される文脈に応じて「法の支配に基づく」というキーワードとなるべき枕詞を冠していくことを前提としたものである。
 また、このような観点からは、やはりFOIO/FOIPを包括的、体系的に解説した詳細な政策文書が公刊されることが本来的に望ましいが、前述した理由からこれが現実的に困難であるならば、次善の策としては情報発信する媒体により濃淡を使い分けるということを考慮するのが良いだろう。すなわち、演説や談話においては極力簡潔に、一方で、例えば「国家安全保障戦略」や「外交青書」など既存の政府文書中ではスペースの許す限り詳細にというイメージである。そしてそこでは目標系列[37]という考え方を援用、FOIOを最終的に達成するべき「目的」、FOIPはその目的を達成するための指標である「目標」という形で説明するのも一案かもしれない。例えば、演説や談話においては「『法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序』の実現のため、インド太平洋をはじめとする地域の平和と安定の確保に取り組んで参ります」といった形である。これはFOIOを強調することでFOIPを後景化させないためにFOIO/FOIPを一体のものとして説明するという趣旨であるが、実際のワーディングは文脈に応じ、すなわち、それがインド太平洋地域を対象としたものか、域外を念頭に置いたものかによって使い分けをしていけば良いだろう。いずれにせよ肝心なのはFOIPが「消してはならない」考え方であることを担保しておくということに尽きる。そしてFOIO/FOIPは、このような形で情報発信を推進していくことによって、インド太平洋とその先(the Indo-Pacific and beyond)を見据えて、さまざまな地域や空間、テーマにも適用できる新しい展開が期待されるところである[38]

おわりに

 以上、本稿では2023年10月の岸田総理所信表明演説を契機に生起したFOIO/FOIPの関係性に係る議論に関し、次のような事項について解説してきた。すなわち、①FOIOは当初からFOIPの中核的理念であり、FOIPはFOIOの一部、言うなればFOIOをインド太平洋地域で「具現化」したものであって、今般の事案も元よりFOIPの否定を企図したものではなかったということ、②その上で、ロシアのウクライナ侵攻をはじめ国際社会の関心事項がインド太平洋地域を超えて大きく広がりを見せる中、地域的な境界のあるFOIPをより上位の概念であるFOIOへと置き換えようとする企図自体は基本的に妥当な考え方であるということ、③一方で日本外交の重要な「資産」として国際的にも評価が定着しているFOIPを一律にFOIOに置き換えてしまうのは必ずしも賢明な施策ではなく、FOIOの強調によって必然的に生ずるFOIPの後景化という印象を回避ないし低減させ、中国との関係を念頭に国際社会の関心をインド太平洋地域に引き付けておく「戦略的情報発信」の観点からもFOIO/FOIOの関係性を含む丁寧な説明が不可欠であること、などである。
 最後に改めて強調しておきたいのは上記③の観点からもFOIPは「消してはならない」考え方ということであって、今後、そのような理解の下にFOIO/FOIOが広く普及、定着していく上で、本稿がその一助となれば幸甚である。(了)

[1]最も総括的な物としては相澤輝昭「『自由で開かれたインド太平洋(FOIP)』の変遷と展開」、笹川平和財団海洋政策研究所『海洋政策研究』第15号 2021年3月、1~36頁を参照。https://www.spf.org/opri/global-data/opri/publications/jsop/ISSN1880-0017_vol15.pdf

[2]首相官邸ウェブサイト「第212国会における岸田内閣総理大臣所信表明演説」2023年10月23日。https://www.kantei.go.jp/jp/101_kishida/statement/2023/1023shoshinhyomei.html

[3]首相官邸ウェブサイト「第196国会における安倍内閣総理大臣施政方針演説」2018年1月22日。http://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/statement2/20180122siseihousin.html

[4]Kei Hakata, “RIP FOIP? Examining Japan’s New Foreign Policy Mantra,” The Diplomat, Nov 3, 2023, https://thediplomat.com/2023/11/rip-foip-examining-japans-new-foreign-policy-mantra/.

[5]Kei Hakata, Teruaki Aizawa, and Brendon J. Cannon,“Japan’s Strategic Messaging for a ‘Free and Open International Order (FOIO)’: Can It Preserve its Indo-Pacific Achievements?”Focus Asia Perspective & Analysis, The Institute for Security and Development Policy(ISDP), Feb 14, 2024, https://isdp.eu/content/uploads/2024/02/ISDP-Focus-Asia-Hakata-Aizawa-Cannon-Feb-14-2024.pdf;“Japan's evolving strategic messaging to the Indo-Pacific and beyond”Expert Speak, Observer Research Foundation, Jan 2, 2024, https://www.orfonline.org/expert-speak/japans-evolving-strategic-messaging-to-the-indo-pacific-and-beyond;この他、墓田桂が和文で同旨論考を発表している。墓田「『自由で開かれた国際秩序』は実現するか」『Voice』2024年3月号、110-117頁。

[6]谷口智彦「消えた『インド太平洋』」産経新聞、2023年12月17日。同記事には「自由で開かれたインド太平洋」という用語を消してしまうのは中国を喜ばせるだけであり安倍カラーを消したいという意図で実施されたのであればさもしいこと、とする指摘があったことから、産経新聞公式Xのポストなどにおいて本文記載のような議論が生起した。

[7]Hakata, Aizawa, Cannon,“Japan’s Strategic Messaging”, pp5-6.

[8]この整理は例えば、田中明彦「自由で開かれたインド太平洋戦略の射程」『外交』Vol.47 Jan/Feb 2018、北岡伸一「インド太平洋構想 自由と法の支配が本質」読売新聞「地球を読む」2018年12月17日、などの指摘に基づく筆者の見解である。

[9]神谷万丈「『競争戦略』のための『協力戦略』-日本の「自由で開かれたインド太平洋戦略(構想)の複合的構造」(神谷(2019))『Security Studies 安全保障研究』第1巻第2号 SSDP安全保障・外交政策研究会 2019年2月。http://ssdpaki.la.coocan.jp/proposals/26.html

[10]相澤輝昭「インド太平洋における海洋ガバナンス:FOIPの視点から」、笹川平和財団海洋政策研究所「海洋安全保障情報特報」2022年3月31日号、1~2頁など。https://www.spf.org/oceans/global-data/commentary-20220413.pdf

[11]安倍晋三「自由で開かれたインド太平洋構想について-日本語版読者へのメッセージ」、ブレンドン・J・キャノン/墓田桂(編著)『インド太平洋戦略-大国間競争の地政学』中央公論新社、2022年9月、ⅳ頁。また、この後に刊行された『安倍晋三回顧録』中央公論新社、2023年2月、313-318頁にも同旨の記述がある。

[12]例えば、鈴木美勝『日本の戦略外交』、ちくま新書、2017年、136-138頁。NHKウェブサイト「自由で開かれたインド太平洋秘話」「NHK 政治マガジン」2021年6月30日など。https://www.nhk.or.jp/politics/articles/feature/62725.html など。

[13]今日ではFOIPは安倍政権のレガシーとする見方が国内外で定着している。例えば、読売新聞オンライン「安倍政権の『レガシー』と今後【外交】ルールに基づく国際秩序を主導」、「調査研究」2020秋号。2020年11月10日など。https://www.yomiuri.co.jp/choken/kijironko/ckworld/20210201-OYT8T50097/

[14]外務省ウェブサイト「『自由と繁栄の弧』をつくる」、2006年11月30日。http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/18/easo_1130.html

[15]外務省ウェブサイト「『拡がる外交の地平』~日本外交の新機軸~」、2006年12月。http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/free_pros/pdfs/shiryo_01.pdf

[16]外務省ウェブサイト「自由で開かれたインド太平洋」、2024年3月1日。https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000430631.pdf

[17]外務省ウェブサイト「2017年版 開発協力白書」、2018年2月、6頁。https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/files/000345941.pdf

[18]外務省ウェブサイト「日米首脳ワーキングランチ及び首脳会談」2017年11月6日。http://www.mofa.go.jp/mofaj/na/na1/us/page4_003422.html この「三本柱」は後に再構成されているが、「法の支配、航行の自由等の普遍的価値」はこの文言のまま維持されている。

[19]外務省ウェブサイト『外交青書2018』「第1章 2017年の国際情勢と日本外交の展開」「特集 自由で開かれたインド太平洋戦略」2018年4月、13頁。https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2018/pdf/pdfs/1.pdf#page=4

[20]Hakata, Aizawa, Cannon,“Japan’s Strategic Messaging”, pp5-6, 墓田「『自由で開かれた国際秩序』は実現するか」116頁。

[21]相澤輝昭「その後の『自由で開かれたインド太平洋(FOIP)』の変遷と展開」、笹川平和財団海洋政策研究所「海洋安全保障情報特報」2019年6 月15日号。https://www.spf.org/oceans/global-data/user33/20190627163005471.pdf なお、この主張は今後、国際的な海洋安全保障における重要な焦点となるであろう北極海の問題をFOIPの枠組みで論ずるには無理があるという点を問題認識の一つとして念頭に置いている。

[22]外務省ウェブサイト「第13回アジア安全保障会議 安倍内閣総理大臣の基調講演」、2014年5月30日。https://www.mofa.go.jp/mofaj/fp/nsp/page4_000496.html

[23]首相官邸ウェブサイト「第211国会における岸田内閣総理大臣施政方針演説」2023年1月23日。https://www.kantei.go.jp/jp/101_kishida/statement/2023/0123shiseihoshin.html

[24]外務省ウェブサイト「G7広島首脳コミュニケ(2023年5月20日)」(仮訳)https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100507034.pdf

[25]外務省ウェブサイト「日本ASEAN友好協力50周年特別首脳会議」、「共同ビジョン・ステートメント」、2023年12月17日。https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100601210.pdf

[26]外務省ウェブサイト「北欧外交イニシアティブ」、2024年1月9日。https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100604508.pdf

[27]首相官邸ウェブサイト「第213国会における岸田内閣総理大臣施政方針演説」2024年1月30日。https://www.kantei.go.jp/jp/101_kishida/statement/2024/0130shiseihoshin.html

[28]墓田「『自由で開かれた国際秩序』は実現するか」117頁。

[29]Hakata, Aizawa, Cannon,“Japan’s Strategic Messaging”, pp2-3. 当該部分は墓田桂の文献調査に基づくものである。墓田「『自由で開かれた国際秩序』は実現するか」112-114頁。

[30]「『俺たちの魚を獲りに来る気か!』、島サミットで採択 『自由で開かれたインド太平洋戦略』の浸透に苦慮した日本」産経新聞、2018年5月28日。

[31]総合安全保障研究グループ「大平総理の政策研究会報告書-5 総合安全保障戦略」、1980年7月2日。データベース「世界と日本」、日本政治・国際関係データベース。https://worldjpn.net/documents/texts/JPSC/19800702.O1J.html

[32]田中直樹「リーダー国へ、時代構想持て」日本経済新聞、1990年1月4日。

[33]船橋洋一「通商国家の原点に返れ 『自由で開かれた国際秩序』を築け」朝日新聞、2010年11月3日。

[34]「平成23年度以降に係る防衛計画の大綱」(2010年12月17日、安全保障会議決定、閣議決定)1頁。https://www.kantei.go.jp/jp/kakugikettei/2010/1217boueitaikou.pdf

[35]谷内正太郎「海洋国家の外交戦略-太平洋同盟を軸として」、『世界平和研究』、2012年春季号3-4頁。

[36]墓田「『自由で開かれた国際秩序』は実現するか」113頁。

[37]本来は米軍や自衛隊など軍事組織における意思決定プロセスで使用される用語であったが近年はビジネス用語としても一般的に使用されるようになって来たところである。

[38]墓田「『自由で開かれた国際秩序』は実現するか」116頁。