戦前の軍隊による災害救助活動の実態 ―海軍の震災救助活動を中心に―[1]

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大井 昌靖,元防衛大学校准教授

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1 はじめに

 昨今の天災にあって自衛隊の災害派遣に関心が寄せられている。それは太平洋戦争後に設立された自衛隊だから災害に対しても出動するようになったというわけではない。戦前の軍隊においても程度の差はあれ、災害への出動は任務の一つであったことは事実である[2]
 明治維新後、創設期の陸軍に災害出動の規定は定められていたが、その目的は救援ではなく、災害地域の治安維持に関する機能を求められていた。このため府県知事が災害救援を目的として軍隊の出動を要請(当時は「請求」が使われた)することもなかった。1885(明治18)年の大阪洪水にあっては決壊した堤防の緊急処置に工兵隊が大阪鎮台から派遣されたが、それは府県知事からの要請に基づく出動ではなく、鎮台司令官(高島鞆之助)の判断による「臨時演習」という名目であった[3]
 その後、陸軍にあっては一定地域の防衛に主眼を置く鎮台制から、機動性を重視した師団制に移行する過程で、府県知事の要請に基づく災害時の治安維持活動は制度上消滅した。しかし7千人以上の死者が発生した1891(明治24)年の濃尾地震において、第3師団長の桂太郎は、独断で兵を出動させ、自治体及び警察だけでは対応しきれない部分を補い、救助・復旧活動に尽力した[4]。事態がおさまり、桂は東京に呼び出され事情聴取を受け、辞表を提出し宮中に参内するが、明治天皇は桂を謁見するとともに、その辞表を却下した[5]
 この第3師団長の独断による災害出動が前例となり、以後は明確な規定が存在しないまま、府県知事からの要請がない場合の陸軍の災害出動は部隊指揮官の裁量に委ねられていた[6]。そして日露戦争後「衛戍条例」を改正することで軍隊の災害出動が制度として確立された。「衛戍(えいじゅ)」とは、フランス陸軍を模範として導入されたもので、軍隊が恒常的にある地域に駐屯することを指し、その軍隊がその地の警備および軍隊の秩序・軍規・風紀の監視ならびに軍隊に属する建造物の保護に任じることを「衛戍勤務」といい、その指揮を執るのが「衛戍司令官」である[7]
 一方海軍にあっては、1889(明治22)「鎮守府条例」に災害出動が規定された[8]。海軍が災害に出動した大規模なものには、1923(大正12)年の関東大震災がある。その後も、1927(昭和2)年北丹後地震、1933(昭和8)年昭和三陸地震、1943(昭和18)年鳥取地震、及び1945(昭和20)年三河地震においては海軍が出動した記録が残されている。本稿では、これらの震災における海軍の救援活動を主題とするが、まずは、陸軍も含め軍隊が災害時に出動する根拠と陸海軍の分担及び活動の方針を整理し、続いて震災時の海軍の救援活動を紹介していきたい。

2 軍隊の災害出動の法的根拠

 陸軍の災害出動の法的根拠は、1910(明治43)年に改正された衛戍条例(勅令第26号)である。この第3条において、衛戍司令官たる部隊長は衛戍勤務に関して、編成部隊の指揮系統とは無関係に管轄区の師団長の監督を受けた[9]。そして、第9条では、災害又は非常の際、府県知事より部隊出動の請求があれば直ちに応ずること、請求を待つ遑(いとま)がなければ部隊を出動させ処置することが規定されていた[10]。同年、衛戍勤務令(軍令陸第3号)が定められ、ここに衛戍司令官は、予め災害・非常の際に必要な衛戍地の警備・治安維持の計画を定め、府県知事より請求を受けたならば直ちに応じ、請求を待つ遑がなければ部隊を出動させ処置することとされた[11]。なお、衛戍条例は、1937(昭和12)年に「衛戍令」と改正された[12]
 一例を挙げると、防衛研究所所蔵の「宇都宮師管区規定綴」には、宇都宮に駐屯した師団隷下の高崎(東部第38部隊[13])、沼田(東部第41部隊)、水戸(東部第37部隊)などの各部隊長が、それぞれの衛戍地の衛戍司令官として作成した衛戍服務規程・勤務規定を師団長に報告する文書等が綴られている[14]。その中で、水戸衛戍司令官の定めた勤務細則では、災害・非常時には、準備して命令を待ち、その遑がないときは、臨機応変に処置することを隷下の部隊に求めていた[15]。これは一つの例であるが、他の師団区や隷下部隊においても同様に規定があったことは想像できる。つまり、陸軍の災害対処の手続きは、明治末期から、衛戍令により確立しており、その区域を管轄する師団長によって監督され、隷下部隊にいたるまで命令を待つ遑がないときには臨機応変の処置が指揮官に求められていたのである。
 一方、海軍の災害出動の根拠は、鎮守府令及び艦隊令である。1889(明治22)年に勅令として制定された鎮守府条例の第12条には、①地方長官により地方の安寧を維持する為の兵力の請求があれば直に応ずる、②地方長官の請求を待つ遑がないときは便宜兵力を用うる、とされていた[16]。これは陸軍の衛戍令とほぼ同じ趣旨といえる。鎮守府条例は、1907(明治40)年に勅令から軍令となり(軍令海第2号)、さらに1923(大正12)年に鎮守府令と名称が変更になるが、この条項に変更はなかった[17]。さらに1915(大正3)年に「艦隊令」(軍令海第10号)により、艦隊司令官にも同様の権限が付与された[18]
 つまり、鎮守府司令長官及び艦隊司令長官は、府県知事の請求により、地方の安寧を維持するという目的の下に災害出動が可能であった。そして請求を待つ遑がないときには、独自の判断で部隊を出動させることができたのである。しかし、海軍には陸軍のような衛戍という概念はなく、鎮守府や警備府が所在する横須賀市、佐世保市、呉市、舞鶴市などの警備を担任するのみで、その他の場所にある基地などは、あくまでも基地施設を防護するのみであった[19]。一方で艦隊司令長官麾下の海軍部隊にあっては、部隊が広く展開して艦隊司令官が直接掌握できないケースが生起する可能性が十分あることを考えると、麾下部隊の指揮官の判断での部隊の出動は可能であるべきだが、そのような規定は見いだせなかった[20]

3 軍隊の災害対処

 それぞれが異なる法体系のもとに災害出動にあたる陸軍と海軍は、任務協定を結んでいた。太平洋戦争中の1943(昭和18)年8月15日に「国内防衛ニ関スル陸海軍任務分担協定」(以後「陸海軍任務分担協定」と称する。)が定められ、ここで任務分担が明確にされた。ただし災害対処というよりは、防衛目的なので、戦時の戦闘被害や空襲などへの対応も含まれている。
 まず、陸上区域の防衛は陸軍の担当で、例外的に海軍が担当するのは、軍港、要港所在地及びその付近の防空、海軍航空隊所在地の防空、及び海軍施設の警備とされていた。
 ここで防衛とは、軍隊の行う一切の防衛行為を指し、防空とは、敵の空襲を阻止撃退し、又は空襲による被害を防止するための行為で軍防空(軍の作戦としての防空)、民防空(防空法に基づく軍以外の者が行う防空)が含まれる。さらに警備とは、治安を維持するための行為である。災害時の軍の派遣は警備というくくりになっていた[21]。具体的には、横須賀鎮守府の場合、海軍が警備を担当するのは軍港所在地である横須賀市、及び海軍施設・海軍が収用する土地や施設である。
 すなわち、災害時、横須賀鎮守府司令長官が、府県知事からの要請なしに部隊を出動させることができるのは、海軍の任務分担である海上区域の防衛と横須賀市に災害があった場合のみで、それ以外の陸上区域は、陸軍の任務であった。前述のとおり「陸海軍任務分担協定」は1943(昭和18)年制定であるが、1935(昭和10)年には参謀本部内で調整が始まっているので、ある程度の期間は準用されていたことは想像できる[22]
 本来、災害への対処は内務省及び府県庁や市町村役所役場の所轄である。その環境下にあって軍隊は、どのような姿勢で災害に臨んでいたのか。また、どの程度の活動をすれば部隊を撤収させることができたのか。さまざまな経験を経て、太平洋戦争末期の1944(昭和19)年3月に内地・朝鮮・台湾に在る軍隊を広域防衛の見地から、一元指揮するために設けられた防衛総司令部により定められた「警備指針」が、最終的に確立した軍隊の姿勢と考えてよい[23]。この「警備指針」では、「災害時に於ける警備」と「空襲に応ずる警備」に分けて、出動時の軍隊のとるべき行動の指針が示された。
 「災害時に於ける警備」では、衛戍令・衛戍勤務令により出動する他、甚大な災害に対し地方官民機関の能力が十分でないときには、戦争遂行上、治安維持上必要とする場合に軍隊の出動となる。また、出動する軍隊の任務は、災害の防止、復旧、救護、国民生活の確保、交通、通信等の業務であり、これらの作業は、応急にとどめ、なるべく速やかに官民機関に移行することとされていた。
 「空襲に応ずる警備」では、災害時よりも、多くの留意事項が示された。空襲下に於いては保安、災害救助等を状況に応じて適切に実施するものとされ、その重点は、警備よりも援助を主体とすべき場合が多いとされた。そして具体的な内容を箇条書きにすると、次の通りである。

  • 被害の局限・応急処置・復旧等に関して官民の活動が不十分であれば、官民機関を鼓舞、推進し、必要であれば自ら中核となって各種業務を処理する。
  • 復旧業務は、官民の旺盛なる責任観念と自発的復興心を発揮させ、特殊技能・集団的作業力を必要とする場所では積極的に援助し、工兵隊は遺憾なく特性を発揮させる。
  • 交通、通信の復旧は、治安維持だけでなく、救助・救護にも重要なので、応急的に必要範囲を迅速に復旧する。
  • 軍需工場等の復旧は最も急を要し、各種運輸機関、水道、瓦斯、電気等の復旧に留意して、警備地区内に於ける工場等の価値を十分に知悉し、あらかじめ計画的に準備する[24]
 このように、災害、空襲(戦災)にかかわらず軍隊は、救助・救護、各種の復旧等の救援活動にあたり、そして、災害にあっては応急にとどめ、空襲にあっては、応急的に必要な範囲を迅速に、軍需産業を優先して、ライフラインと軍隊の特質に留意し実施することになっていた。実際に震災に対して軍隊はどのような対応をしたのか、以後は海軍を中心にこれを述べていきたい。

 

4 関東大震災

 1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災においては、戒厳令のもと、陸海軍を挙げての災害救援が行われた。海軍は、連合艦隊、練習艦隊、横須賀・呉・佐世保鎮守府所属の艦艇、軍艦45隻、駆逐艦63隻など150隻、約3万人を派遣した[25]。なお、当時の分類で軍艦とは巡洋艦以上を指し、駆逐艦は含まれないので別々に数が示してある。この実態については、先行研究もいくつかあり[26]、それだけで一つの論考となりうるので、別途機会があれば紹介するとして、ここでは、あまり知られていない海軍部隊の行動について述べたい。
 地震によって、海軍の航空基地も被害を受けた。海軍横須賀航空隊は、建築物で無傷のものはなく、水上航空機の運搬路、滑走台は全損に等しく、岸壁も全て屈曲し殆ど崩壊という惨状であった[27]。一方で海軍霞ヶ浦航空隊の被害は、震源地からはやや離れていることもあり、建築物に軽微な破損が生じた程度であった。その霞ヶ浦航空隊には、航空偵察と横須賀、芝浦(海軍省)間の定期便の運行という任務が与えられた[28]
 その霞ヶ浦航空隊の隷下にある船橋送信所は、地震発生と同時に首都圏の電信、電話が総て潰滅した状況下で、奇跡的にその機能を保持していた。送信所の指揮官である大森大尉は東京・横浜方面の大火災を遠望し独断で全海軍宛に、「東京今日暴風雨正午より強震連続横浜大火盛んに燃えつつあり[29]」との電文を送信した。これが全海軍部隊宛に発信された関東大震災に関する最初の情報であった[30]
 しかし、施設の付近で不穏な動きがあるという報告も発信され、霞ケ浦航空隊の司令部は警備を強化する必要があると判断した。航空隊に近隣の民家等への災害救援任務は付与されていなかったので、部隊を基地外に派出する根拠がなかった。このため、船橋送信所の警備用人員を送るのに、霞ヶ浦航空隊は、「行軍演習」という日命を発令して、機関銃2丁で武装した35名の銃隊小隊を移動させた[31]
 この「行軍演習」というのは指揮官の独断専行といえる。そして、海軍基地周辺であっても陸上区域は、災害救援は衛戍令にもとづく陸軍の任務であり、海軍は命令なくしては部隊を派出できなかったのである。

5 北丹後地震

 北丹後地震は1927(昭和2)年3月7日午後6時27分に発生し、京都府北部を中心に死者2,925人、負傷者7,806人の被害をもたらした。住宅の倒壊と火災によって多くの焼死者を出し、市場村・山田村・峰山町・吉原村・浜詰村では、総戸数に対する全焼、全壊戸数が8割を超えた。
 舞鶴要港部所属の第9駆逐隊(「椿」、「樺」、「桑」、「槙」)は、演習のため行動中で宮津湾に錨泊して入湯上陸(入浴を目的とする上陸)を許可していた。地震の発生は「船体に激動を感じ、陸上灯火一次消滅、喧騒を極む」という状況で感知し、地震発生の3分後の6時30分には上陸員を帰艦させるために警急呼集を下令し、ボイラ点火を令した[32]。そして、探照灯で陸上を照射して状況把握に努めた。
 第9駆逐隊司令部は、電信により舞鶴要港部参謀長あてに帰還すべきかとの伺いをたてた。その返事は約1時間後の午後7時40分に届き、「帰還ニ及バズ状況ニヨリ何時急速帰還セシメラルルヤモ知レザルニ付、含ミ置カレタシ」であった。つまり、災害対処に関する明確な指示はなく、帰還の命があるかもしれないという程度の返事であった。その直後の7時48分、第9駆逐隊は独断で巡察隊を陸上に派遣し、これを救護隊として岩龍町へ派遣するとともに状況を舞鶴要港部に報告した。その状況は、他の部隊等からの情報も含め、舞鶴要港部から海軍省へ報告された。その後は、舞鶴要港部司令官の命令により、輸送にあてる駆逐艦をいったん帰還させ、軍艦「多摩」の出動などが示された。第9駆逐隊は派出した救護隊を第1救護隊とし、さらに第2救護隊を組織して救護活動を開始した(3月7日~13日)。その後現場に到着した軍艦「多摩」からも救護隊が編成され4交代で(1回に50~80名程度)診療を実施(3月8日~12日)し、他にも舞鶴要港部病院、舞鶴防備隊から救護班が派出され12日まで活動した[33]。さらに救援物資、在郷軍人会、警察官、消防組、青年団員などの輸送に軍艦及び駆逐艦が動員された[34]
 北丹後地震における海軍の災害出動の特徴は、たまたま演習中で、現場近くに居合わせた第9駆逐隊司令の独断専行による初動対応が行われたことである。

6 昭和三陸沖地震

 昭和三陸沖地震は、1933(昭和8)年3月3日午前2時32分に岩手県釜石町東方約200キロの海底を震源として発生した。三陸沿岸の宮古、石巻と仙台の各測候所の地震計は強震を記録した。地震後30分ほどして津波が襲来し、岩手県が最大の被害を受け、ついで宮城県、青森県も被害を受けた。三県の被害は、死者2,995名、負傷者1,096名、流出家屋4,885戸、倒壊2,256戸、浸水4,147戸、焼失249戸、さらに漁船7,122艘が流出するという大惨事であった[35]。岩手県知事は、盛岡の衛戍司令官(騎兵第3旅団長)及び盛岡連隊区司令官に通報、救援のため部隊の出動と物資の供給を要請し、さらに午前7時に横須賀鎮守府司令長官、大湊要港部司令官にも救援を要請した。海軍は、横須賀鎮守府から駆逐艦5隻が被服・糧食等を積載して、大船渡、釜石、宮古、久慈の各港に向かった。軍艦「厳島」が義捐の品を釜石、宮古に輸送した。大湊要港部司令官は、特務艦「大泊」を輸送任務にあて、駆逐艦4隻を海上の捜索・救難活動にあてた。
 航空隊は、霞ヶ浦海軍航空隊と館山海軍航空隊から4機の偵察機が出動し、3日午前11時には岩手県海岸上空から被災状況を確認、写真偵察を実施した[36]。その偵察機の飛来は、被災直後の住民に大きなインパクトを与えたことが次のように記録されている。
 「夜の明くるとともに惨憺たる災禍の光景を眼の辺りにし、飢えと寒さとに戦慄恐怖していた三万四千の罹災民は、皆その勇ましい轟音を聞いて蘇生の思いをなし、救援の近く至るべきを察して漸く愁眉を開くを得た」[37]
 しかし、軍隊の災害出動は初動の対応と急場の非常用糧食を配布するところまでで、その後は漸次撤収している。出動した駆逐艦等11隻、陸軍372名(延べ1,126名)、航空機4機は、すべて7日以内にその任を解かれた。
 昭和三陸沖地震における海軍の災害救援は、岩手県知事からの要請による出動で、海上区域における輸送、捜索と航空偵察が任務であった。海軍の基地から現場が離れており、北丹後地震のように現場近くに展開していた部隊もなかったことから、要請に応じた災害救援、そして初動のみの対応であった。

7 鳥取地震

 鳥取地震は、太平洋戦争中の1943(昭和18)年9月10日午後5時36分過ぎに発生し、鳥取市街などで震度6を記録した。被害は鳥取市を中心とした県下東部が大きく、死者1,210人、負傷者3,860人、全壊・半壊家屋27,450戸、東部一円のバス運行は、橋の落下や道路の亀裂・沈下でほとんど休止状態となった。鉄道もトンネルの崩壊のため不通となり、電信電話網もほとんど壊滅し、鳥取市を中心とする地区は、外部からの救援物資補給の道が断たれ孤立状態に陥った[38]
 陸軍は中部第47部隊から鉄道の復旧に兵員延べ2,400名が当たり、12日間を費やして全通させた[39]。また、陸軍中部第52部隊からは、140名が来援し、市内の道路の補修、橋梁の補強・復旧、榎峠の復旧を実施した[40]
 一方海軍は、舞鶴鎮守府[41]がこれに対応し、駆逐艦に軍医以下下士官兵、看護婦、そして毛布蚊帳、食料品、医薬品を満載し、現地に派遣、救護にあたらせた[42]。そして、その救護活動は、一週間で撤収した。
 鳥取地震も海軍の基地から離れており、近傍に展開している部隊もなかったことから、海軍の任務は要請に応じた救援物資及び人員の輸送であり、初動の対応のみであった。

8 三河地震

 三河地震は、1945(昭和20)年1月13日午前3時38分に発生した。愛知県の三河平野という極めて狭い地域をおそった直下型のM7.1の地震で、明治村などで震度7を記録した。2万3千戸以上の家屋が全半壊し、2,306名の死者を出した。午前3時という深夜であったため、逃げ出す余裕がなく、狭い地域にもかかわらず多くの人が圧死した[43]。緊迫化する戦況下にあって、この地震被害は極秘にされ、町村当局などでも記録を残すことすらはばかられた為に記録は極めて少ない[44]
 死者がもっとも多かった愛知県明治村には、海軍の明治航空基地及び第210航空隊があった。この第210航空隊は、本土防衛を目的とした基地航空隊から編成された第3航空艦隊の麾下にあって、搭乗員の錬成を主任務としていた。そして本格的な防空部隊ではなかったにもかかわらず、名古屋地区の防空を担当していた[45]。兵員数は3,600名程度とされている[46]。当該航空隊日誌の1月13日の欄には「明治基地付近ニ強震アリ、本隊二於テハ被害ナシ、隣接郷村被害甚大」「隊外震災救護ナラビニ被害復旧作業ニ従事」と記録されている[47]
 このときの海軍の救援活動を調査した名古屋大学災害対策室の林能成・木村玲欧によれば、「整備隊200人のうち半分よりやや少ない人数が周囲の集落へ瓦礫の片づけ手伝いに一週間弱行った。医官と衛生兵2名が震災当日に小学校に臨時の診療所を作って治療をした。基地の兵が救助や土木作業をしたり、基地の資材を使って棺桶をつくったりなどの労働をし、道路の瓦礫を撤去した。さらに兵隊が自らの余暇に下宿先等の家の再建を手伝った。」といったことが口述記録として残されている。しかし、その支援の範囲などは、基地の都合に大きく左右され、公的な災害対応に求められる「公平さ」への配慮はないとまとめられた[48]
 また、安城町役場に海軍岡崎航空隊より、カスガイと釘の寄贈があり、さらに15日に50名、16日に250名、17日に300名が復旧を援助したと記録されている[49]
 第210航空隊の震災翌日14日の戦時日誌には、「1445より1525までB-29、19機が4群に分れ名古屋地区に来襲し、零戦13機、月光3機、彗星3機で邀撃」と記載されており、本土防空任務の傍らで隊外の救援活動にあたっていた[50]。であれば兵員3,600名中、救援活動に出動した100名に満たない数を少ないとはいえない。さらに隊内で棺桶をつくるなどの支援までしていたことは、かなりの人員を救援活動に割いていたことになる。
 衛戍令、衛戍勤務令は陸軍を対象にしており、海軍はこの規定に含まれていない。一方、前述の「陸海軍任務分担協定」によれば、陸上区域の防衛は陸軍の担当であった。海軍明治基地の場合は、軍防空と基地施設の警備が任務であり、基地周辺の災害への対応は含まれていない[51]
 横須賀鎮守府の警備規定からは、戦時における警備区内の海軍基地及び施設の警備は横須賀鎮守府の担任であるので海軍明治基地は、その対象となる。しかし、横須賀鎮守府は、府県知事の要請を待つ遑がないときに指揮官の判断で部隊を出動させるような規定を示していなかった。第201航空隊は、第3航空艦隊の麾下であるので、艦隊令も根拠となり、艦隊司令長官は、府県知事の請求により、出兵が可能で、遑がないときには、独自の判断で部隊を出動させることができた[52]。しかし、陸軍のように隷下部隊の指揮官の裁量で臨機応変の対応ができるように示した規定は見つかっていない。
 すなわち、明治航空基地若しくは、第210航空隊にとって、災害時に於ける周辺地域の警備(救援)は任務ではなかった。基地業務にとって重要な道路の啓開などを実施する必要性はあったかもしれないが、周辺の被災住民の救援活動を実施する根拠はなかった。岡崎航空隊も同様である。これは陸軍の衛戍司令官の任務であった。しかし、人道的な配慮から「隣接郷村被害甚大」につき「隊外震災救護ナラビニ被害復旧作業ニ従事」したものと推察する。そのため、棺桶の製作など「警備指針」の規定を超える支援までもができたのであろう。これも指揮官の独断専行である。なお、家の再建の手伝いなどは余暇を使って個人的な配慮で行っているので、これは軍隊の支援とはいえない。

9 まとめ

 海軍の任務は基本的には海からの支援なので、鎮守府司令長官の令により、麾下の部隊が出動するとしても、遅きに逸することはないであろう。昭和三陸沖地震及び鳥取地震の例がそうである。しかし、関東大震災における霞ヶ浦航空隊の船橋送信所への銃隊小隊の「行軍演習」による警備要員の派出、北丹後地震における第9駆逐隊の処置、海軍明治基地の近隣への災害救援は、鎮守府司令長官等の令を待つ遑はなく、現場の指揮官の独断専行であった。
 このように海軍の災害救援は、基地や部隊が近隣にあった場合には、臨機応変、独断専行とならざるを得なかった。なぜならば、陸上区域については、陸軍の担当であったからである。横須賀市の場合、警備は鎮守府所在都市ということで海軍が警備を担当し、市内を海軍の各部隊で担当を分担していた。そして鎮守府司令長官の命により出動となるが、その遑がないケースまでは、想定されていなかった。鎮守府司令長官は、遑がないときには司令長官の判断で部隊の出動を令することができるので、麾下の指揮官にその権限を委任する必要性がないということであろう。これは他の鎮守府でも同様と考えられる。それゆえ、すでに出動中の部隊(艦艇)及び航空基地にあっては曖昧なまま見過ごされ、結果的に現場に居合わせた指揮官の判断に委ねられていた。
 これら軍隊、特に海軍による災害出動の歴史を現在の自衛隊の災害派遣と比較することに大きな意義があるわけではないが、古くから軍隊は、要請を待たずとも自らの判断で災害時に出動し、救援に従事する組織であったという事実は広く知られるべきであろう。

[1]本稿は兵術同好会発行『波涛』223号(2013年1月)に掲載された「海軍の災害救援に関する一考察―鎮守府令と陸海軍の任務協定の視点から―」を加除・修正し、改めて編集した論考である。

[2]大井昌靖「昭和期の軍隊による災害・戦災救援活動」『軍事史学』第48巻第1号(2012年6月)。

[3]吉田律人「軍隊の『災害出動』制度の確立」『史学雑誌』第117編第10号(2008年10月)76頁。

[4]同上、79-80頁。

[5]徳富猪一郎編『公爵桂太郎伝 乾巻』(故桂公爵記念事業会、1917)488頁(国会図書館デジタルコレクション)

[6]吉田律人「軍隊の『災害出動』制度の確立」『史学雑誌』第117編第10号(2008年10月)82,92頁。

[7]秦邦彦編『日本陸海軍総合事典』(東京大学出版会、1991年)677頁。

[8]「鎮守府令」軍令海第10号、1914年11月28日(国立公文書館デジタルアーカイブ)。

[9]「衛戍勅令ヲ改正ス(平時編制ノ改正等ニ順応ノ為)」勅令624号(国立公文書館デジタルアーカイブ)。

[10]「衛戍条例」勅命第26号、1910年2月28日改正(国立公文書館デジタルアーカイブ)。

[11]石田準吉『国家総動員史 補巻』(国家総動員史刊行会、1987年)1427頁。

[12]「衛戍勅令ヲ改正ス(衛戍令ノ改正等ノ為)」勅令152号(国立公文書館デジタルアーカイブ)。

[13]1940年8月、陸軍の兵制改編に併せ、防諜対策のため、師団や連隊の名称・固有番号を伏せ秘匿名で呼ぶようになった。たとえば東部第38部隊は歩兵第115連隊、東部第37部隊は歩兵第102連隊である。本稿では、とくに固有の名称・番号とする必要性はないので、記録にあるとおりの名称(秘匿名)を使用した。

[14]「規定綴(衛戍勤務規定)」宇都宮師管区司令部(防衛研究所図書館所蔵)。

[15]「水戸衛戍勤務細則」水戸衛戍司令官(防衛研究所図書館所蔵)。

[16]「鎮守府条例」勅令第72号、1889年5月28日(国立公文書館デジタルカーカイブ)。

[17]鎮守府条例中改定の件」軍令海第9号、1913年3月28日(国立公文書館デジタルアーカイブ)。ただし、条文は第10条に移行した。

[18]「艦隊令」軍令海第10号、1914年11月28日(国立公文書館デジタルアーカイブ)。

[19]「横鎮警備規定」(防衛研究所図書館所蔵)。鎮守府が警備を担任する陸上区域を横須賀市、伊豆諸島・硫黄島などの島嶼及び警備区内の海軍管理・使用の施設と定めていた。

[20]調査した文献は、「第一艦隊例規」(附 連合艦隊例規)(防衛研究所図書館所蔵)であり、ここには、災害への出動を規定した規則はなかった。

[21]「国内防衛ニ関スル陸海軍任務分担協定」参謀本部、1943年8月15日(防衛研究所図書館所蔵)。

[22]「国内防衛ニ関スル陸海軍任務分担協定案」参謀本部第3課、1935年12月26日(防衛研究所図書館所蔵)。当該文書は(案)であり、これを参謀本部内で回覧して、他課の意見を伺っている。

[23]「警備指針」防衛総司令部、1944年3月1日(防衛研究所図書館所蔵)。当該指針は、陸軍の防衛総司令部の示した指針であるが、そこでは、「陸軍」ではなく「軍隊」という表現が使用されている。

[24]同上。

[25]神奈川県警察部『大正大震火災誌』(神奈川県警察部、1925年)801-802頁。

[26]倉谷昌伺「関東大震災における日米海軍の救援活動について」『海幹校戦略研究』(海上自衛隊幹部学校、2011年12月)。村上和彦「軍隊による災害救援に関する研究 : 関東大震災を中心として」『戦史研究年報』(防衛省防衛研究所戦史研究センター、2013年3月)。などがある。

[27]神奈川県警察部『大正大震火災誌』、855頁。

[28]「大正12年公文備考 変災災害七 巻159」(防衛研究所図書館所蔵)0786頁(0623頁以降はアジア歴史センターのウェブサイトに公開されていない)。

[29]「通信関係(5)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050972400、大正12年 公文備考 巻156 変災災害(防衛省防衛研究所)第15画像目

[30]倉谷昌伺「関東大震災における日米海軍の救援活動について」112頁。

[31]「通信関係(5)」JACAR:Ref.C08050972400、0790頁。当該報告書には「銃隊小隊」という言葉が使用されている。

[32]蒸気機関の船舶において緊急に出航するためには、まずはボイラの点火である。蒸気の昇圧は時間が要するため機関を使用する可能性がある場合は早めに点火しなければならない。

[33]「丹後地方震災関係」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015974800、公文備考 変災災害2止 巻132(防衛省防衛研究所)1-22画像目。

[34]大阪毎日新聞1927年3月10日。

[35]吉村昭『三陸海岸大津波』(文春文庫、2004年)78-79頁。

[36]岩手県編纂『岩手県昭和震災誌』(岩手県知事官房、1934年)283-315頁。

[37]同上、283-296頁。

[38]鳥取県『鳥取県史 近代第二巻、政治編』669-670頁。

[39]鳥取県『鳥取県史 近代第三巻、経済編』766-767頁。

[40]鳥取県『鳥取県震災小誌』(鳥取県、1944年)71-78頁。当該小誌は、米子工業高等専門学校『鳥取地震災害資料』(1983年)のなかに複製されて収められている。

[41]舞鶴要港部は、1934(昭和14)年に舞鶴鎮守府となった。

[42]派出数は132名とされている。(『鳥取県震災小誌』73頁)。

[43]山下文男『隠された大震災』(東北大学出版会、2009)63-84頁。

[44]同上、165頁。

[45]渡辺洋二『日本本土防空戦』(現代史出版会、1979年)173頁。

[46]林能成・木村玲欧「1945年三河地震による災害と海軍基地の対応について」『歴史地震』第21号(2006年)226頁。

[47]「戦時日誌」第210海軍航空隊(防衛研究所図書館所蔵)。

[48]林能成・木村玲欧「1945年三河地震による災害と海軍基地の対応について」225-233頁。

[49]安城市歴史博物館『企画展三河地震』45頁。

[50]「戦時日誌」第210海軍航空隊。

[51]「国内防衛ニ関スル陸海軍任務分担協定」参謀本部(防衛研究所図書館所蔵)。

[52]「艦隊令」軍令海第10号、1914年11月28日(国立公文書館デジタルアーカイブ)。