エリザベス女王在位70周年に寄せて―祝典にともなう観艦式と日本海軍―

PDF

大井昌靖,元防衛大学校准教授

Contents

1 はじめに

 今年は、英国エリザベス女王(1952年2月6日即位)の在位70年(プラチナ・ジュビリー)となる年で、パレードをはじめ様々な祝賀行事が年間を通して予定されている。コロナ禍でもあり、日本からの祝典等への参加については明らかではないが、歴史的に日本は、海を隔てた英国王室と様々な友好関係を培ってきた。その一端として、在位を祝う式典、及び即位を祝う式典に日本海軍が関与した史実を紹介したい。
 対象とする時代は、日本にとっては明治維新から太平洋戦争前まで、それは英国王室のヴィクトリア女王(1837-1901)、エドワード7世(1901-1910)、ジョージ5世(1910-1936)、エドワード8世(1936-1936)、そしてジョージ6世(1936-1952)の即位までの期間となる。ジョージ6世の長子にあたるのが、エリザベス女王であり、そのエリザベス女王に次いで在位が長いのが高祖母にあたるヴィクトリア女王で、在位期間は63年7ヶ月である。
 まずは、日本海軍の軍艦が1878(明治11)年に英国本土で即位の記念日を祝った記録があるので、これを紹介し、以後ヴィクトリア女王在位50年(1887年)、在位60年(1897年)、エドワード7世戴冠式(1902年)、ジョージ5世戴冠式(1911年)、そしてジョージ6世戴冠式(1937年)とそれらに伴う観艦式への日本海軍の関わりを述べていく。

2 軍艦「清輝」のヨーロッパ航海

 日本海軍の軍艦が、1878(明治11)年に英国本土で、女王の即位日を祝ったのは、初の国産軍艦「清輝」(艦長:井上良馨海軍中佐、後の元帥)で、1年3か月にも及ぶヨーロッパ派遣の途中であった。この年の1月17日に横浜を出航した「清輝」は、香港、シンガポール、ボンベイなどを経由してスエズ運河を通過、そしてイタリア、フランス、スペインの港に寄港しながら、6月26日英国のプリマス(Plymouth)に到着した。
 英国とは幕末に日英修好通商条約が結ばれており、不平等条約といわれながら、この「清輝」の航海にあっては、英国の支配する植民地等の港に多く寄港し、数々の便宜を図ってもらっていた。当時の文献では、修好通商条約を結んでいた諸外国を「同盟国」と呼んでおり、寄港地から日本への電信による報告など、日本公使館がない港では同盟国に便宜を図ってもらうように指示が出されていた。
 英国では、丁度このときヴィクトリア女王即位(41年目)を祝う休日になっていた。「清輝」がプリマスに入港した際に、在ロンドンの日本公使館から職員が支援に来艦しており、このあたりの事情を伝えたのであろう。式典等に「清輝」が関与したわけではないが、6月28日午前8時から満艦飾を実施して、正午に21発の祝砲(礼砲)を発射、夜には花火を挙げ、燈火を舷側に灯しイルミネーションを施して、即位の吉日を祝った。これを現地の英国人は大変歓び、井上艦長らは至るところで、謝辞を受け、現地では大きな話題になっていた。それは「一時の華美を取った」と報告書に記されている。日本の軍艦が英国本土に来たのは初めてであり、英国人にとっては、東洋の小さな国から来た珍客が女王の即位日記念日を祝ってくれたということであろう(大井昌靖『初の国産軍艦「清輝」のヨーロッパ航海』)。このときは、たまたま現地にいたので、周りの状況に合わせて、祝意を表したものであり、英国王室との交流はなかった。それから9年後の1887(明治20)年、ヴィクトリア女王在位50周年の祝典が挙行され、日本からは皇族が参列した。

軍艦「清輝」(広瀬彦太『近世帝国海軍史要』(国会図書館デジタルコレクション))

3 ヴィクトリア女王在位50年祝典(1887(明治20)年)

 ゴールデン・ジュビリーと呼ばれる在位50年祝典に係る一連の行事は、1887年6月に行われ、観艦式も挙行された。この祝典は国を挙げての大騒ぎ、そしてヨーロッパ中にいるヴィクトリア女王の親戚筋にあたる各国の皇帝・国王などを多く集めて開かれた「ヨーロッパ王室のゴッドマザー」の祝典とも言われている(君塚直隆『ヴィクトリア女王』)。

ヴィクトリア女王(グローバル・コモンズ)

 各国が王族もしくは代表者を差遣わして参列させるということで、日本からは、軍事視察のために欧米諸国を訪問中の小松宮彰仁親王(陸軍中将)を参列させることとなった。この年の3月、ドイツ皇帝ウィルヘルムの満90歳の誕生日に欧州諸国が皇太子若しくは皇族を特派すると判明したことから、その時イタリア滞在中だった彰仁親王が、急遽連絡を受け、これに参列した。そして、ドイツのベルリン滞在中に、今度はヴィクトリア女王の在位50年祝典に参加するよう指示を受け、参列することになったのである。
 彰仁親王は、6月20日にバッキンガム宮殿で女王に謁し、21日は女王の式列に加わりウェストミンスター寺院へ臨み、礼拝式に参列、以後パレード、午餐会、夜会、舞踏会など数日間にわたって数々の行事に参加した。しかし、このときの英国側の対応は決して良いものではなかった。当初、式典参列者名簿に彰仁親王の名前がなかったことからはじまり、宿泊場所が欧州諸国の王族とは異なるホテルを用意されたうえ、礼拝式に臨む際の移動は自前で馬車を準備させられ、式後のパレードにあっては、馬車の到着が遅れ、女王の車列に加わることができなかった。英国当局に苦情を言うものの要を得ず、こういった儀式に慣れていなかったことも原因とされながら、「我が国はまだ東洋の一孤島に過ぎずと見られている」(宮内庁『明治天皇紀 第6』)と記されている。観艦式も挙行されたが、これに彰仁親王が参列したかは定かではない。
 このような苦い経験から10年後、在位60年(ダイヤモンド・ジュビリー)の祝典にあっては、英国から観艦式参加の招待を受けた。

4 ヴィクトリア女王在位60年祝典(1897(明治30)年)戦艦「富士」

 1897年5月4日付、外務大臣の大隈重信は英国外務大臣からの書簡を受け取った。それは、英国女王の即位60年祝典に際して観艦式を挙行するので、日本から将官旗を揚げた軍艦1隻の派遣を歓迎するという招待状であった。一連の祝典期間は1か月半後の6月21日から28日で、大隈大臣は直ちにこの書簡の内容を海軍大臣の西郷従道に伝えた。
 当時の日本は、日清戦争に勝利し、下関条約(1895年4月調印、同年5月発効)によって遼東半島の割譲を得たが、フランス・ドイツ・ロシアによる三国干渉により放棄となり、「臥薪嘗胆」の声のもと、対ロシア戦争に備える動きが始まったとされる時代である。日本と英国は、1894(明治27)年に日英通商航海条約を締結し、相互対等の原則のもとに、それまでの不平等条約は改正されていた(ただし、条約は5年後に有効)。10年前の在位50年の際には観艦式への招待はなく、祝典に参列した皇族への扱いにも不満があったことから、日本としては、万全の準備をして、この招待に応じるのは必須であったといえる。
 しかし、1か月半で派遣軍艦を選定し渡英させるには準備期間が短すぎる。そもそも日本から英国までの航海に当時は1か月以上を要した。そこで海軍省は、英国造船所で建造中の戦艦2隻(「富士」・「八島」)の参加を検討した。両艦とも、竣工(完成)後は英国で領収、自らの手によって運航し、日本へ回航する手筈になっており、すでに艦長を初めとする回航要員は渡英していた。しかし、「八島」は、観艦式までに領収できる完成度には達しないことから参加は見送られ、「富士」のみを早めに領収して観艦式に参加させることになった。
 加えて英国からの招待状にある将旗を掲げるために、「富士」を常備艦隊の旗艦に指定し、日本から海軍少将たる有栖川宮威仁親王が、元首相の伊藤博文を伴って、フランスの郵便船により渡英することとなった[1]。ロンドンで実施された礼拝式、パレード、午餐会、夜会、舞踏会など様々な行事には、威仁親王を全権、伊藤を随行員として出席し、海軍少将たる皇族と首相経験者ということで面目を保ったのである。

全権一行の写真
(威仁親王行実編纂会『威仁親王行実.卷下』(国会図書館デジタルコレクション))

 ちなみに、有栖川宮威仁親王は1874(明治7)年に海軍兵学校に入校し、在学中のまま英国東洋艦隊旗艦のアイアンデューク(Iron Duke)で実習後、英国留学、帰国後は軍艦乗組みのキャリアを歩み、日清戦争では「松島」艦長を務め出征、1896(明治29)年海軍少将昇任とともに常備艦隊司令官に任じられていた。そして、この祝典に参加するために現職のままフランスの郵便船により渡英した[2]
 「富士」は、英国の造船所において、6月19日に日本側に引き渡され、ただちに軍艦旗を掲げ、翌20日に造船所を発して21日に観艦式の海面であるポーツマス(Portsmouth)港外のスピットヘッド(Spithead)と呼ばれる海面に到着した。参加艦船(英国の軍艦162隻、諸外国軍艦14隻)はすでに指定された5列の艦列に錨泊しており、最後に到着したのが「富士」だった。そして、翌22日が在位60年の当日であり、正午に礼砲(通常は21発であるが、英国軍艦は60発)を発射した。
 25日午前8時、ロンドンでの一連の行事を終え、ポーツマスに移動してきた威仁親王が「富士」に乗艦、その将旗を前部マストに掲揚した。翌26日ウェールズ親王(後のエドワード7世)を観閲官として観艦式が挙行された。観艦式はウェールズ親王の乗艦する御召艦「ヴィクトリア&アルバ-ト」(Victoria & Albert)が艦列の間を航行し、各艦は御召艦が横を通過するときに、登舷礼式によりウェールズ親王に対して最敬礼を表した。
 威仁親王は、当初「富士」に乗艦して受閲の予定であったが、一将官として参列するよりも終始日本皇室からの貴賓として待遇するという英国王室の意向により、ウェールズ親王が乗艦する御召艦に伴に乗艦した。このとき御召艦に乗艦したのは、王族、大使及び海軍元帥のみであり、海軍少将たる日本の皇族も同じ待遇を受けたのであった。そこには英国王室の日本皇室への特別な配慮が感じられる。これは10年前の粗末な扱いに苦情を受けたことを英国側が覚えていたのかもしれない。その夜は、停泊する全艦船が電灯艦飾(イルミネーション)を実施した。
 2日後の28日、正午に礼砲を発射、夜間は再び電灯艦飾を実施、これにより一連の行事は終了し、「富士」は7月1日に観艦式の海面を出航して、ポートランド(Portland)に入港、残りの工事を施したうえで、日本へ回航された。この観艦式への参加にあっては、「帝国の国威を海外に輝かし、我が海軍の精鋭を誇るを得たるは誠に賞賛に余りある」(『威仁親王行実. 卷下』)と記録され、10年前の「東洋の一孤島にすぎず」という実情からは大きく改善された。
 この在位60年祝典から3年7か月後の1901(明治34)年1月、ヴィクトリア女王は崩御、その長子ウェールズ親王がエドワード7世として即位した。そして、戴冠式とそれに伴う観艦式が、翌1902(明治35)年6月に実施されることとなった。

5 エドワード7世戴冠式及び観艦式(1902(明治35)年)一等巡洋艦「浅間」及び二等巡洋艦「高砂」

 1902年1月、日本と英国はロンドンにある英国外務省において日英同盟を締結した。日英の関係が深くなることは、この年の6月に開催が予想されるエドワード7世の戴冠式に参列するのは当然の儀礼であり、日本側は、その日程を早くから情報収集していた。2月には、明治天皇の名代として、小松宮彰仁親王(1887年、ヴィクトリア女王の即位50周年の祝典に参列した)を差し遣わすことが決定されていた。
 彰仁親王は、もとは仁和寺宮嘉彰親王、その後東伏見宮を経て小松宮彰仁親王となった。明治維新にあっては幕府軍追討の征東大将軍、その後海陸軍務総督となり、明治政府で兵部卿を務めた。その後英国留学、帰国後は佐賀の乱及び西南戦争に征討総督として出征し、1982(明治15)年から小松宮彰仁親王となった。日清戦争中に死去した有栖川宮熾仁親王に代わって参謀総長となり、1898(明治31)年にその職を免じられ元帥たる陸軍大将となっていた。
 一方で軍艦の派遣については、1902年2月14日付で、海軍大臣から内閣総理大臣に請願が提出されている。それは、日本に対する英国政府の感情に好印象を与えるため、及び、大日本帝国の国威を世界に発揚し、その重きを広く世界の人心に浸透させるには絶好の機会であり、一等巡洋艦1隻、二等巡洋艦1隻の計2隻の編成による艦隊を派遣すべきという内容であった。
 2月20日の『東京朝日新聞』には、「来る六月の英皇戴冠式に帝国軍艦を派遣し観艦式に参列せしむることは今や一般の輿論となりたる」とあり、国民にとっても関心事項であった。そして、伊集院五郎海軍少将を指揮官として、常備艦隊の一等巡洋艦「浅間」と二等巡洋艦「高砂」が派遣されることとなり、加えて英国で建造され、5月に引き渡し予定の駆逐艦「朝潮」が、日本回航を延期して、伊集院少将の指揮下に加えられ、3隻体制で戴冠式(6月24日)に伴う観艦式(同月28日)に臨むことになった。英国本土で建造直後の軍艦の参加は、5年前の「富士」の実績もあり、参加艦艇を多くすることで英国に日本側の誠意を示そうという思惑が感じられる。
 1902年4月7日に横浜を発した遣英艦隊(「浅間」、「高砂」)は、6月10日に英国のプリマスに到着し、「朝潮」と合流した。そして、3隻は、6月23日にプリマスを出航し、翌24日ポーツマス港外のスピットヘッドに到着、あらかじめ指定された位置に投錨した。そこに英国海軍の士官が来艦し、2日前(22日)にエドワード7世は、虫垂炎を発症し、戴冠式及び観艦式は一旦無期延期となった旨が伝えられた。
 一方、明治天皇名代の彰仁親王一行は、4月19日にドイツ汽船に乗船して横浜を出港、6月11日にパリ経由でロンドンに到着していた。戴冠式が延期になったことで、彰仁親王は、その全権を在ロンドン日本大使館の林薫大使に委譲し、当初から予定されていたヨーロッパ各国を訪問して帰国の途についた。また「朝潮」も観艦式参列の任務を解かれ、日本へ回航となった。残された遣英艦隊(「浅間」、「高砂」)は、しばらく待機となった。日本国内でも『東京朝日新聞』には、当局者もその進退をきめられないようだが、一旦帰国してしまえば再び英国に行くことは困難で、英国国王の病状は快方に向かっているようなので、しばらく滞在して式典挙行を待つのがよいと記載されている。
 遣英艦隊は一旦ポーツマスに入港、その後出航し、テムズ川を僅に遡ったところにあるシェアーネス(Sheerness)に6月28日入港した。そして、延期された戴冠式の日程が発表されるまではここで待機し、予定が確認できたところで、出航して、欧州沿岸の港を訪問し、期日までにポーツマスに戻るということになった。

シェアーネス停泊中の「浅間」
(中尾新太郎『渡英のおもかげ』(国会図書館デジタルコレクション))

 シェアーネスで約一か月滞在した後、エドワード7世の病状の回復にともない、戴冠式は8月9日、観艦式は同月16日という決定を受けて、遣英艦隊は7月27日にシェアーネスを出航し、ベルギーのアントワープを訪問、その後8月1日に観艦式海面に再度回航、所定の位置に投錨した。8月4日、伊集院少将は、御召艦「ヴィクトリア&アルバート」を訪問し、エドワード7世の謁見を受けた。その際に、9日にロンドンで実施予定の戴冠式への参列を許された。当初の予定にはなかったことである。戴冠式には、伊集院少将をはじめとして、両艦長及び20名の士官が参列した。
 戴冠式と一連のロンドンでの行事に続いて、8月16日に観艦式が挙行された。観艦式の隊形は、英国の軍艦大小合わせて100隻が4列に並び、外国艦船の錨地は5列目に指定された。当初外国からの参加は、12か国(日本、イタリア、ポルトガル、オランダ、チリ、ノルウェー、デンマーク、フランス、ドイツ、スペイン、ギリシャ、スウェーデン)17隻であったが、延期となった結果、参加したのは、日本、イタリア、ポルトガルの3カ国からの計4隻となり、合計で104隻の軍艦が並んで錨泊していた。そして、5隻の小型艦を前後に従えて、エドワード7世の座乗する「ヴィクトリア&アルバート」が、艦列の間を3回航過して、5列目の外国艦船の後方へ投錨した。この航過の際に各艦乗組員は整列して、エドワード7世に対して最敬礼を実施した。
 一日を挟んで18日、各艦船は、Gridironと俗称される非常に複雑な艦隊運動を実施するよう計画されていたが、当日は荒天となったことで、簡単なものに変更となった。しかし、観閲官エドワード7世からの講評として、”Magnificent Sight, Splendid Order Kept”(素晴らしい光景である。見事な隊形が維持された)という信号が発せられた。戴冠式に伴う一連の行事終了後、遣英艦隊は、アイルランドのクイーズタウン(Queenstown)、続いてウェールズのカーディフ(Cardiff)へと寄港し、親善行事などを実施して、9月1日に帰国の途についた。
 当初計画では、外国からは、12か国17隻の軍艦の参加が予定されていたものの、延期になったことで、3か国4隻になった。遠く日本からやってきた「浅間」、「高砂」は、時間をつぶして再計画を待っていたこともあり、好意的に受け入れられたことは、司令官をはじめとして士官らが、英国国王に謁見する機会を得、さらに当初計画では予定されていなかった戴冠式に参列が許されたことにも表れている。
 また、この派遣は、日英同盟締結にともなう、日英軍事協定の細部を商議するという任務も帯びていた。別便(民間船)で渡英する福島安正陸軍少将と英国陸軍当局者との会見が計画されており、その内容は、作戦方針や、日本側の作戦地域範囲を極東に局限すること及び英国から極東に派遣可能な陸兵の数などの調整で、陸軍に関わる事項が主であった。一方で海軍の事項に関しては伊集院少将と協議することとされていた。観艦式だけでなく、幅広く所要を充たした派遣であった。
 そして、9年後、エドワード7世の崩御に伴い、即位したのが、その次男のジョージ5世(長男は病没、海軍軍人で若手士官のころに日本を訪問したこともあった)であり、その戴冠式と、それに伴う観艦式が1911(明治44)年に挙行された。

6 ジョージ5世戴冠式及び観艦式(1911(明治44)年)一等巡洋艦「鞍馬」及び二等巡洋艦「利根」

 前年の12月2日付で、英国駐在の加藤高明公使から、戴冠式は1911年6月22日という情報が、外務大臣を経由して海軍大臣に伝えられた。第3次日英同盟合意の直後であり、日露戦争後の日本の国威を海外に示すには絶好の機会であった。海軍は軍艦2隻の派遣を決め、外務大臣に通知、それを受けた加藤公使は、1月16日に英国側に伝えた。しかし英国側の返事は同月26日付の書簡で、外国軍艦の参加は各国1隻としており、停泊場所もないので2隻は受け入れられないと云うものであった。その後、英国側と日本大使館で交渉があったと思われるが、最終的に軍艦の参加は1隻という英国側の返答が、外務大臣経由で海軍大臣に伝えられたのは2月18日であった。
 その間、海軍は着々と派遣の準備を進めており、2月17日付で、第2艦隊司令長官の島村速雄海軍中将を指揮官として一等巡洋艦「鞍馬」と二等巡洋艦「利根」の派遣を下命していた。なお、「鞍馬」は最新鋭の装甲巡洋艦で、派遣が決定されたときは就役前であった。
 軍艦の参加は1隻のみという英国側の返答に対して、すでに派出を下命していた海軍は、「鞍馬」のみ参列し、「利根」は随航するだけという方針を決め、2月23日付で外務大臣あてに通牒した。そこには、観艦式に参加するのは「鞍馬」のみであるが「利根」についても相当の便宜を与えて欲しい旨を英国側に通知するようにとの要望も書かれていた。さらに招待されているのが1隻だということはまだ発表してくれるなという追記まで付された。そして、明治天皇に対しても、「鞍馬」を観艦式に参列させ、「利根」は随航すると奏上された。海軍は半ば強引に2隻を派遣させ、あわよくば2隻とも観艦式に参列させようと目論んだのである。
 当初配布された英国側の非公式の観艦式実施要領には、「鞍馬」のみが日本からの参加とされ、「利根」の記載はなかった、しかし、観艦式の本番にあっては、17か国から参加した外国艦船に指定された艦列の10番目に「鞍馬」、そして列の最後尾18番目に「利根」の錨地が指定されていた。英国側の格別の配慮により、「利根」も参列できたのである。
 一方、戴冠式には、明治天皇の名代として、東伏見宮依仁親王と周子妃の参列が1月10日に決定されていた。依仁親王は、1877(明治10)年に海軍兵学校予科に入校し、途中で英国へ留学、その後フランスの海軍学校に入学し1890(明治23)年に卒業、フランス軍艦で実習後、1892(明治25)年帰国、以後は軍艦勤務となった。日清・日露戦争に出征、「千代田」、「高千穂」、「春日」と3隻艦長を務め、軍令部出仕となり、外国事情等の調査研究を担当する現役の海軍少将であった。そして随員には、東郷平八郎、乃木希典の海陸の両大将が選ばれた。両大将が随員に選ばれた経緯は不明であるが、日露戦争後の日本の国威を示すための思惑があったことは、間違いないであろう。一行は日本郵船の貨客船「加茂丸」で4月12日横浜を出港、6月初旬英国に到着した。
 戴冠式は6月22日に行われ、依仁親王と同妃、そして随行員たる東郷・乃木両大将はウェストミンスター寺院内に参列した。翌23日に開催された外務大臣主催の晩餐会は、ジョージ5世と同妃を主賓として各国代表皇族、特派大使のみを招待したものであったが、日本に限り随行員の東郷・乃木両大将も招待された。これは、「両大将にとっての光栄のみならず、在留邦人等の最も欣快とするところであった」(東伏見宮蔵版『依仁親王』)と記されている。

親王一行(中央が親王 一人おいて左が東郷大将、一人おいて右が乃木大将)
(東伏見宮蔵版『依仁親王』(国会図書館デジタルコレクション))

 翌24日に、スピットヘッドにて観艦式が挙行され、ジョージ5世と同妃は、御召艦「ヴィクトリア&アルバート」に乗り、ここに依仁親王と同妃も同乗した。東郷大将は各国皇族と共に供奉船「エンチャンテレス」(Enchantress)に、乃木大将は陪観船「ブラッシー」(Brassy)にそれぞれ乗船した。各国の王族用に準備された「エンチャンテレス」に外国人で乗った軍人は東郷大将のみであった。参加艦艇は、戦艦32隻、装甲巡洋艦25隻、その他合計167隻で、外国からは、17カ国18隻が参加した。複数艦が参加したのは日本のみであるが、その経緯は前述のとおりである。
 観艦式後の27日、バッキンガム宮殿で大園遊会が開かれたとき、ジョージ5世は特に東郷・乃木両大将を御前に召し、「観艦式に於いて日本艦隊の良く整備せることを感じたり、両大将日本帰着後も、永く英国に対して好い記憶を保たんことを望む」と伝えた。両大将は大いに面目を施して御前を退下したと記録されている(小笠原長生編『東郷元帥詳伝』)。
 ジョージ5世の戴冠式とそれに伴う観艦式は早くからその日程の情報収集がなされ、随行員として日露戦争の英雄2人を指名し、さらに観艦式にあっては、招待は1隻であるところ、随航と称して、2隻で出発させるなど、日露戦争後の国威を示そうという思惑が大きく感じられるが、結果的に2隻を受け入れ観艦式に参加させた英国側の懐も深かったと言えよう。一連の行事が終了し、親王一行は英国各地を訪問したのちに、「加茂丸」にて帰京、乃木大将は欧州各国を歴訪して帰国、東郷大将は米国に渡り、国賓として歓迎を受け、太平洋を西航して帰国した。
 その後、第一次世界大戦を経て、日本の安全保障環境は、1922(大正11)年のワシントン海軍軍縮条約、及び1930(昭和5)年のロンドン海軍軍縮条約体制、そして海軍軍縮無条約時代と移っていく。その流れの中で、1923(大正12)年日英同盟が解消、1933(昭和8)年、日本は国際連盟から脱退、そしてドイツに近づき、1936(昭和11)年11月には「日独防共協定」が締結された。そのような時代にあって、ジョージ5世崩御の知らせが届いたのは、この年の1月である。

7 ジョージ6世戴冠式及び観艦式(1937(昭和12)年)重巡洋艦「足柄」

1936(昭和11)年1月、ジョージ5世の崩御に伴い、独身のまま王位を継承したエドワード8世は、離婚歴のあるアメリカ人女性との結婚問題で1年足らずの同年12月に退位し、代わって弟のジョージ6世が即位した。
日本皇室ではジョージ5世の崩御の際、すでに戴冠式への昭和天皇の名代に弟の秩父宮雍仁(やすひと)親王の参列が検討されており、同年12月26日、雍仁親王と勢津子妃が渡英することが発表された。雍仁親王は昭和天皇の弟であり、現在の上皇陛下が1933(昭和8)年にお生まれになるまでは、皇位継承順位第1位であった。

秩父宮雍仁親王
(東洋文化協会編『皇室皇族聖鑑. 大正篇』(国会図書館デジタルコレクション))

 一方、海軍は、軍艦の派遣準備などの所要もあるので戴冠式に伴う観艦式の日程を早く得ようとしており、1937(昭和12)年1月4日、駐英武官から、観艦式は5月20日に決定したものの、招待の有無は不明という旨の報告があった。その後2月18日に外務省を経由して、観艦式に軍艦1隻を招待することが伝えられた。そして、第4戦隊司令官の小林宗之助海軍少将を指揮官として、最新鋭の重巡洋艦「足柄」が派遣されることとなり、3月11日に派遣の命令が発出された。なお、「足柄」は観艦式後にドイツ訪問が予定されていた。
 これまで英国へ派遣される軍艦は2隻の場合が多かったが、今回1隻になったことに日英関係の悪化は無関係である。前述したように前回(1911年)の観艦式では、外国軍艦の招待は1か国につき1隻となっていたのを、無理やり2隻を送り込んだのであって、今回は英国の要請のとおり1隻としただけである。ドイツ訪問という親独を示すような目的があったかもしれないが、英国を訪問した軍艦が欧州各国を訪問することに不自然さはない。昭和天皇の弟である親王の派遣も含め、英国王室へ対する日本側の態度に変化はなく、これまでの皇室外交そして軍艦による外交の一環といえよう。
 雍仁親王一行は、3月18日に日本郵船「平安丸」で横浜港を出航した。英国までの旅程は、太平洋を横断してカナダのバンクーバーに上陸、特別列車によりアメリカ大陸を横断、ニューヨークから海路英国に向かうというもので、帰国まで6か月という長期の行動であった。そして一行は、4月12日、客船「クイーン・メリー」(Queen Mary)にて英国に到着した。一方で「足柄」は、4月3日に横須賀を出航し、シンガポール、アデン、マルタを経由したのみで5月10日、ポーツマスに到着した。1か月余りの航海であり最短の行動であった。
 戴冠式当日の5月12日午前3時45分、ロンドン中心部にある王立公園ハイドパークから21発、ロンドン塔から41発の礼砲が発射され、午前8時40分、戴冠式が行われるウェストミンスター寺院へ向かう行列がバッキンガム宮殿を発した。各国代表の自動車の先頭には、雍仁親王と同妃、そして各国の王族、各国代表使臣がその後に続いた。次いで、英国王室のクイーン・メリー皇太后、エリザベス・マーガレット両王女をはじめ王族、首相、各閣僚が続いた。午前10時30分、ジョージ6世と王妃が八頭立馬車にて礼砲響く中を、バッキンガム宮殿を出発した。そして、上下両院議員、枢密院議員などの特別拝観席の前を通り、セント・ジェームズ公園、トラファルガー・スクエアを横切り、国会議事堂広場を通ってウェストミンスター寺院に到着し、厳かに戴冠式が執り行われた。
 翌13日はバッキンガム宮殿で晩餐会、14日は舞踏会など様々な祝典の行事を経て、20日にスピットヘッドにおいて観艦式が挙行された。「足利」は、5月18日にポーツマス港を出て、スピットヘッドへ移動し、外国艦船17隻の並ぶ所定の錨地に投錨した。9列に並んだ艦船の総数は250隻であった。ジョージ6世は王妃と共に、御召艦「ヴィクトリア&アルバート」に乗艦した。雍仁親王と同妃は、御召艦の直ぐ隣に位置する軍艦「クイーン・エリザベス」(Queen Elizabeth)に乗艦した。各国の国賓など外交団は、英国客船「ストラスモア」(Strathmore)に乗船指定されており、雍仁親王に対しては特別の待遇と言われている。
 観艦式は、午後3時半頃に開始され、「ヴィクトリア&アルバート」は、11隻の艦船を従え、受閲艦列に向かった。御召艦が最初の艦列に近づくと全英国軍艦は一斉に21発の礼砲を放った。これに続いて参列外国軍艦も礼砲を放った。御召艦の通過の際には、各艦乗員は祝唱〝Hip hip hooray(萬歳)〟を三唱した。そして上空は英国海軍の航空部隊による観閲飛行が行われた。
 「足柄」には、日本大使館員、駐在武官、在留邦人有力者、新聞記者その他約130名が乗艦し、この観艦式を見学していた。御召艦が「足柄」の前方を航過する際には、「英国皇帝陛下 萬歳」を三唱し、軍楽隊は英国国歌を三度吹奏した。親閲後御召艦は、最初の位置に戻り投錨し、各艦隊司令官を始め各国軍艦の艦長が参集、ジョージ6世への拝謁を許された。このとき小林司令官と武田艦長は「戴冠式記念章」を授与されている。
 この観艦式は250隻の艦船に加え、航空機も参加するという、これまでで最大級のものであった。日英同盟が解消され、ドイツに近づく日本の政策下にありながらも、日本は昭和天皇の弟である親王を差遣し、将官旗を掲げた軍艦を派遣し、国王の戴冠式を祝ったのである。

8 在位の祝典及び戴冠式を通してみた英国との関係

 これまで述べた5回の祝典とそれに伴う観艦式をまとめて所見を述べたい。在位50年祝典にあっては、観艦式への参加はないが、欧米を訪問中の親王を急遽向かわせるという形となった。行事に慣れていないこともあり、日本皇室への扱いも良いものではなかった。10年後の在位60年祝典(1897年)にあっては、観艦式の招待状が届いたのが1か月半前で、ぎりぎりであったことから、観艦式には英国で建造中の戦艦をあて、祝典に際しての明治天皇の名代は、艦船の指揮官が兼ねるという急場しのぎの形であったが、10年前の苦情を英国側が覚えていたのであろうか、待遇は各段に向上していた。それ以後は前国王の崩御により、新国王の戴冠式・観艦式が挙行されることは予測がつくので、早い時期からその日程の情報収集と差遣す皇族(天皇の名代)及び派遣艦船の選定が行われ、十分な余裕をもって派遣がなされていた。
 エドワード7世の戴冠式(1902年)の観艦式への参加は、日英同盟締結直後という事情にあって、当初は3隻を参加させる計画から、国王の病気により一連の行事が延期され、結果的には2隻へ変更となったが、司令官以下士官にロンドンでの戴冠式を見る機会を与えるなど、結果的に多くの便宜を図られ、歓迎されていた。ジョージ5世戴冠式(1911年)にあっては、日露戦争後の国威発揚を目的とした英雄2名(東郷・乃木両大将)を随行させ、さらに参加の軍艦は1隻と示されていながら2隻を強引に渡英させたが、結果的に2隻とも観艦式には参列を許され、また東郷・乃木両大将は大歓迎を受け、国威を示した派遣であった。そしてジョージ6世戴冠式(1937年)は、日英同盟が解消され国際連盟からも脱退し、ドイツとの協定を進めていたにもかかわらず、これまでとまったく変わらない、寧ろ昭和天皇の弟である秩父宮を差遣わすなど、十分に配慮された派遣であった。参加の艦船が1隻になったのは、単に英国側の艦船1隻のみの招待という規定に沿っていただけである。
 このように明治初期から太平洋戦争前にかけての日英両国の皇王室外交及び軍艦による外交は親密に続けられていたのである。

9 海軍軍楽隊にとっての派遣

 1902年、1911年及び1937年の英国への軍艦派遣にあっては海軍軍楽隊(以下、軍楽隊と言う)が乗艦していた。そのため、近代日本における音楽文化の一端を担った軍楽隊にとっても、この3回の派遣は意義があるので、その概要を紹介しておきたい。
 1902年(エドワード7世戴冠式)の派遣は、軍楽隊にとって初めての海外(欧州方面)への派遣であった。この遣英艦隊の派遣に際して、常備艦隊司令長官の角田秀松海軍中将は訓示を出し、ヨーロッパの列国海軍に対して、遣英艦隊が「日本海軍武力の標準」になるとされ、各国が注視していることから、列国に畏敬の念を抱かせるように努めよと示した。軍楽隊も日本海軍武力の標準として諸外国から認識されることに間違いはなく、各寄港地でのさまざまなイベントで演奏の機会を与えられ、イベントを盛り上げ、日本海軍が立派な軍楽隊を保有していることを「帝国海軍武力の標準」としてヨーロッパ各国に示した。このときの派遣軍楽隊長は中村祐庸で、創設時から30年間軍楽隊を率い、「君が代」の作曲にも関係した人物である。そして人物・技量共に優秀な隊員が選抜された(人数不明)。
 1911年(ジョージ5世戴冠式)の派遣の頃になると、海外派遣は数回経験していたものの、初めて管弦楽編成28名で乗り込んだ。もともと軍楽隊が用いるのは管楽器に限られていたが、1908(明治41)年から弦楽器が導入され、管楽器と弦楽器の両方を演奏できる隊員が養成された。そして初めての管弦楽編成で海外派遣となったのである。派遣軍楽隊長は瀬戸口藤吉で、軍艦マーチで親しまれる行進曲「軍艦」を作曲したことでも有名である。

シンガポールでの管弦楽編成での演奏の様子
(中尾新太郎『渡英のおもかげ』国会図書館デジタルコレクション)

 1937年(ジョージ6世戴冠式)の派遣は、軍楽隊最大の派遣とされており、44名編成で、500曲以上のレパートリーが用意されていた。戴冠式が終わって一段落した5月18日、ロンドンのハイドパークの奏楽堂で軍楽隊による演奏会が行われ、地元紙『ニュース・クロニエル』には、その感想が記されている(一部要約)。

あちこちに新しい日本の片鱗が見られた。西洋の制服を着、西洋の楽器で西洋の音楽を演奏し、他国人からは言い表わせない東洋精神、狂信に近く見えるような打ち込んだ精神の現われを示し、そこには新しい日本を伺うことができた。

 このときの派遣軍楽隊長は、その後終戦まで海軍軍楽隊長を務めた内藤清五であり、その他に、初代海上自衛隊東京音楽隊長となった髙山実、鹿倉節といわれる多くの名曲を残した鹿倉(のちに斎藤に改姓)丑松も派遣されていた。この派遣が終わるころに丑松によって作曲された「足柄行進曲」は、翌1938年にレコードとして発売されている。
 このように英国国王の戴冠式に伴う観艦式に参加するための派遣は軍艦だけでなく、そこに乗艦した軍楽隊にとっても重要な演奏の機会であったと同時に、数回の派遣を通じて規模、レベルともに向上したのである。

10 おわりに

 最後にエリザベス女王との関わりを付しておきたい。現イギリス君主のエリザベス女王はジョージ6世の長子にあたり、父君の1937年の戴冠式の際は、10歳で一連の行事に参加している。また、1953(昭和28)年女王の戴冠式にあっては、日本から当時の皇太子(現上皇陛下)が参列された。それは、太平洋戦争後の反日感情がありながらも敗戦国から来訪したという卑屈な気持ちを払拭するほど英国側の温かい歓待があり、将来の両国関係立て直しのために目に見えぬ一つの盤石を置かれたとされている(波多野勝『明仁皇太子 エリザベス女王戴冠式列席記』)。また、観艦式も実施されたが、海上自衛隊創設前であり艦船参加の記録はない。
 男子たる皇族は、軍隊に入るのが常とされていた戦前、日本皇室と英国王室の交流は、軍隊に関わる話を避けて語ることはできない。戦後日本の皇室は大きく変わったが、英国王室の男性は、依然軍隊に入隊していることも事実である。英国で挙行された観艦式を通じて、海軍は英国王室と日本皇室の交流に関わっており、それは日英関係を考える上で無視できない史実と考える。

主要参考文献 廣瀬彦太『近世帝国海軍史要』(国会図書館デジタルコレクション)。
宮内庁『明治天皇紀』第6、第9、第10(吉川弘文館、1974年)。
楽水会『海軍軍楽隊―日本洋楽史の原典―』(国書刊行会、1984年)。
大井昌靖『初の国産軍艦「清輝」のヨーロッパ航海』(芙蓉書房出版、2019年)。
清沢冽『現代日本文明史(第三巻)外交史』(東洋経済新報社出版部、1941年)。
君塚直隆『ヴィクトリア女王』(中公新書、2007年)。
君塚直隆『ベル・エポックの国際政治』(中央公論新社、2012年)。
波多野勝『明仁皇太子 エリザベス女王戴冠式列席記』(草思社、2012年)。
高松宮蔵版『威仁親王行実.卷下』(国会図書館デジタルコレクション)。
東伏見宮蔵版『依仁親王』(国会図書館デジタルコレクション)。
『朝日新聞(復刻版)明治編108 明治35年2月』(日本図書センター、1996年)。
小笠原長生編『東郷元帥詳伝』(国会図書館デジタルコレクション)。
遣英艦隊記念帖編纂委員『遣英艦隊記念』(国会図書館デジタルコレクション)。
大井昌靖「1902(明治35)年の遣英艦隊の意義」『軍事史学』第55巻第2号(軍事史学会、2019年9月)。
川井裕「軍艦「足柄」の英国観艦式派遣及びドイツ訪問について」『戦史研究年報』第12号(防衛省防衛研究所、2009年3月)。
谷村政次郎「昭和十二年 軍艦『足柄』の訪欧」『水交』第647-653号。
「明治30年 公文備考 儀制下検閲教育上巻2」(防衛省防衛研究所)(C06091096000)。
「明治35年 公文備考 巻3儀制1」(防衛省防衛研究所)(C06091372100)。
「公文備考 昭和12年 C 儀制 巻1の4」(防衛省防衛研究所)(C05110564700)。

[1] 親王は新鋭軍艦「吉野」により渡航することを主張したが、海軍省の方針は国内からの軍艦の派遣はしないということで落ち着いた。

[2] 常備艦隊司令長官の下に常備艦隊司令官が任命されていたので、常備艦隊の指揮官が不在になったわけではない。