スターリンの時代のソ連が推進した大海軍建設について

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丹下博也,前海上保安大学校 基礎教育講座 講師(ロシア語)

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はじめに

 スターリン、この人物は、ソ連の国家指導者として有名である。そして、彼が戦艦と重巡洋艦の建造に意欲を示しながらもそれは未成に終わったとの情報は我が国でも知られていた。しかし、前述の建造は、当時のソ連によって推進された大規模な海軍建設(以下、「大海軍建設」という)の枠内において実施されたものの、同建設は、これまで我が国ではロシア連邦(以下、「ロシア」という)側の資料によっては把握されていなかったように思う。従って今回、実際これに、つまりは当事国の資料に基づく前述の建設の概要調査に着手し、さらにはその概要に考察を加えた。その結果が本稿と言える。なお、本稿中のカッコ内は筆者注釈である。また、海軍を調査研究するとの観点からするならば、同軍が有していた航空兵力に関しても言及しなければならないところであるが、本稿は、専ら海洋政策の観点からの調査研究を目的とするものであるため、同兵力については紙幅の関係で割愛している。本稿は筆者個人の研究者としての考えを述べたものであり、所属組織の見解ではない。

1.スターリンの時代のソ連が推進した大海軍建設の概要について

 本章では、スターリンの時代のソ連が推進した大海軍建設の概要を把握するが、まず、前提条件として、彼が如何なる人物であったのかを説明したい。

 ヨシフ・スターリン(本名ヨシフ・ジュガシヴィーリ)は、1879年12月、グルジア(現在のジョージア)のゴーリに生れた。思想上の問題から神学校を退学処分となった後には、職業革命家となり、1912年、共産党中央委員会委員となってからは、「スターリン」(「鋼鉄の人」との意) との姓を名のった。ロシア革命(1917年)までは逮捕、流刑、逃亡を繰返したものの、1924年におけるレーニンの死後、相次いで政敵を排除し、独裁体制を固めるとともに、1928年からの5か年計画により工業化を強行。 1936年に制定された所謂「スターリン憲法」の起草を指揮したが、その前後から膨大な数の国民が投獄、処刑される「大粛清」が、彼の意思により開始された。 1941年には人民委員会議議長(首相)の地位をも兼ね、第二次世界大戦では国家防衛委員会議長、ソ連邦軍最高総司令官として戦争を指揮し、勝利したが、1953年に死去した。

 この略歴を念頭に置きつつ、前述の建設が如何なるものであったのかを、戦艦、重巡洋艦、そして空母(以下、これらを総称して「大型艦」という)の建造に留意しつつ見てゆく。ロシア側の三つの資料、つまりはソ連における巨大戦艦の歴史に関する資料[1]、第二次世界大戦前までの同国の海洋政策に関する資料[2]、さらには戦後におけるソヴィエト・ロシアの大海軍の歴史に関する資料[3]に基づきつつ述べるのであれば、それは次のようなものとなる。まず、いつからソ連では大海軍建設が始まったと見るかであるが、注1と注2の資料によるならば、それは、「海軍艦艇大建艦」プログラム(программа «крупного морского судостроения»)が、スターリンの同意と共にソ連邦勤労防衛会議により承認された1936年7月であると判断する。そして、同プログラムにより、1937年から1941年にかけてソ連には、「А(アー)」型戦艦8隻、「Б(ベー)」型戦艦16隻、軽巡洋艦20隻、嚮導艦17隻、駆逐艦128隻、潜水艦344隻を内訳とする計533隻からなる海軍が建設されることが予定された[4]。私見ながら、この1936年が、前述の略歴のところで述べた「スターリン憲法」制定の年と同じであることが興味深い。察するに、国家の頂点に立った人物が、海に目を向けたということなのであろう。ならば、何故目を向けたのか、つまりは何故スターリンが大海軍建設の必要性に目覚めたのかという疑問が当然の如く湧いてくる。しかし、注1と注2の資料によるならば、その理由は明確ではなく、ドイツ、日本による脅威が増大したため[5]、一連の国が大型艦の建造に乗り出したためといった記述しか見当たらないのであるが、ここで筆者としては今述べたこと、つまりは、国家指導者と海という二つの存在の関連性に注目したい。何故ならば、この関連性から思い出されるのは、帝政ロシア、ソ連、そして現在のロシアにおいて、正規のロシア陸海軍の創設者として一貫して評価されているピョートル大帝の存在だからである。しかも、同大帝が治世していた17世紀末期、ロシアにとっては、海を通じ対外的に覇権を求め、国際的舞台における自国の役割の向上が志向された時代であった。従って、スターリンがそのようなピョートル大帝の時代に倣いたいと考えたとした場合、前述のプログラムに対する同意は、次なるピョートルになるべく、海洋国家、少なくとも海軍国としてのソ連の発展を望んだことによるものと言えるのではなかろうか。また、ロシア側の情報によるならば、スターリンは、国民に対し自分の偉大な姿を過去のロシアの国家指導者に重ねさせるため、ピョートル大帝を主人公とした映画を製作させたとのことであり[6]、ここにも、スターリンの強い考え、願いが見て取れる。さらには、このように考えるならば、1936年における大海軍建設に対するスターリンの意志は硬かった、と言うよりも、大海軍建設の指導者は彼であったと断言して構わないはずなのである。続いて、1936年のプログラム承認以後の前述の建設の概要に関して、大型艦に留意しつつ述べるのであれば、それは次のようなものとなる。注1の資料によるならば、「1936年8月、『А』型(プロジェクト23)戦艦、『Б』型(プロジェクト25)戦艦の設計に際する技術的要件が承認されたが、後者は、『プロジェクト69』重巡洋艦の建造を実現化するために廃棄された。その代わり、『А』型戦艦は大きなものとなっていった」とのことであり、「その後、『海軍艦艇大建艦』プログラムは見直された。1938年2月にスターリンにより承認された新たなる『大建艦プログラム』〔«Большая судостроительная программа»〕において、『Б』型『小型』戦艦は既に姿を消し、その代わり、プロジェクト23の『大型』戦艦の数は、8隻から15隻に増加された」とのことでもある(この時点で予定されていた総隻数は、空母2隻を含め424であった[7])。さらに、同資料によるならば、同年7月15日、レニングラード市(現在のサンクトペテルブルク市)のバルト工場において「А」型戦艦のネームシップ「ソヴィエツキー・ソユーズ」(「ソヴィエト連邦」との意)が起工され、続いて四番艦までが起工されたとのことであるが、同戦艦は、起工直前において、設計図上どのようなものであったのか、注1の資料によるならば、それは次のようなものであったとされる。我が国の戦艦「大和」は、満載排水量72810t、全長263m、主要兵装460mm砲9門であった。

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図1 「プロジェクト23」戦艦「ソヴィエツキー・ソユーズ」

満載排水量-65150t、最大長-269.4m、最大速力-29kt、主要兵装-406mm砲9門

 そして、「ソヴィエツキー・ソユーズ」の建造が始まった後、1939年4月には、ニコラーイ・クズネツォーフが海軍人民委員に任命され、同人民委員は、同年8月、スターリンらの政府首脳に対して「労農海軍建艦10か年計画」(«10-летний план судостроительства кораблей РКВМФ»)を提出した[8]。同計画は、計699隻の艦からなる海軍が建設されるという過去最大のものであったが、本稿において着目している大型艦を見た場合、戦艦15隻、重巡洋艦16隻、加えて空母2隻ということで1938年のプログラムとほぼ同じである。そして、この1939年については、注1の資料によるならば、「プロジェクト69」重巡洋艦、つまりは「クロンシュタット」と「セヴァストーポリ」が起工されたことを挙げることができる。この艦について興味深いのは、注2の資料における「305mm砲を搭載した重巡洋艦は、〔1938年から〕スターリンの特別の愛をこの彼が亡くなるまで受けた」との記述であろう[9]。「プロジェクト69」艦は、正にこの305mm砲を搭載することとなっていた艦である。それではここで、「プロジェクト69」重巡洋艦が起工直前において、設計図上どのようなものであったのか、注1の資料によるならば、それは次のようなものであったとされる。

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図2 「プロジェクト69」重巡洋艦「クロンシュタット」

満載排水量-41540t、最大長-250.5m、速力-33kt、主要兵装-305mm砲9門

 続いて、1939年から後の建艦プログラム及び計画を見るならば、1940年7月、クズネツォーフ海軍人民委員により承認された「1940年から1942年における海軍建艦計画」(«План судостроительства кораблей ВМФ на 1940-1942 гг.»)に大きな変化を見ることができる[10]。同計画により、1938年から1942年にかけての第三次5か年計画において建造中であった計330隻の艦艇のうち、210隻が1942年1月1日までに戦列に加わることとされたのであった。また、同計画においては、前述の330隻のうち、戦艦は15隻から6隻に減じられ、重巡洋艦は16隻から4隻に減じられ、加えて空母が削除されたこと、さらには、前述の210隻の中には、戦艦と重巡洋艦が含まれていなかったことに注目すべきであろう。そして、この1940年の計画が最終的なものとなったまま、ソ連海軍は、1941年6月におけるドイツ軍の侵攻により、第二次世界大戦に突入してゆくこととなる[11]。また、「プロジェクト23」戦艦と「プロジェクト69」重巡洋艦のその後について、前者の建造は、前述の大戦により阻まれたとのことであり、開戦の時点での工程は、最も進んでいた「ソヴィエツキー・ソユーズ」の場合、約21%であったという[12]。後者の建造については、注1の資料によるならば、「やはり仲間であった「ソヴィエツキー・ソユーズ」型と同じ運命を辿ることとなった」とのことであり、前述のドイツ軍の侵攻の時点での工程は、約12%であったとされる。つまり戦前、ソ連が建造を開始した大型艦は、全て未成に終わったのであった。第二次世界大戦中のソ連海軍については、水上艇を除き、開戦の時点で計272隻の勢力であったことが分かる[13]。その中でも、本稿において着目している大型艦について見るならば、戦艦3隻であったが、その3隻とは、帝政ロシア時代に建造された戦艦に近代化工事を施したものであったことを付記しておく[14]。それからは戦後となるが、注3の資料によるならば、「ソ連邦海軍総司令部の提案により(本質的にはスターリン個人の考えにより)、1946年の10か年計画に基づき、戦艦8隻、重巡洋艦(実際には巡洋戦艦)10隻、巡洋艦84隻、空母12隻、駆逐艦358隻、そして潜水艦344隻の建造が計画された」とのことである。さらに、同資料によるならば、その後、「1946年10月には、修正された1946年から1955年における軍用建艦10か年プログラム〔десятилетняя програма военного кораблестроения на 1946-1955 гг.〕が承認された」とのことでもあり、特に建造を展開すべきとされたのが、「プロジェクト82」重巡洋艦、換言するならば「スターリングラード」型重巡洋艦4隻、軽巡洋艦30隻、駆逐艦188隻、潜水艦367隻であったことが分かる。また、注1の資料によるならば、「1950年3月に開かれたプロジェクト82重巡洋艦の検討会においてスターリンは、35ktまでの速力を求めた」とのことであり、1951年から1952年にかけて、「スターリングラード」をネームシップとする3隻の艦が起工されたものの、1953年、彼の死後に建造は中止されたとも述べられている。中止された理由が、高価であり、戦術的意義が全く不明瞭とするのは、それまでの国家指導者に対して言うことができなかった周りの関係者達の本音といったところであろう。つまりは戦後、ソ連が建造を開始した大型艦も、戦前の場合と同様に未成に終わった。それではここで、やはり、「プロジェクト82」重巡洋艦が起工直前において、設計図上どのようなものであったのか、注1の資料によるならば、それは次のようなものであったとされる。

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図3 「プロジェクト82」重巡洋艦「スターリングラード」

満載排水量-42300t、最大長-273.6m、速力-35.2kt、主要兵装-305mm砲9門

 主要兵装が305mm砲であることは、脚注として注9を付した部分で述べたことを思い出すのであれば、興味深い。大口径砲を搭載した重巡洋艦に対するスターリンの思い入れの深さを痛感する。そして、このスターリンの死去をもって、彼個人の考えにより推進された大海軍建設は終了したと言える。何故ならば、注3の資料には、「1949年のソ連邦における核実験、ミサイル兵器の急速な発展、米国における原子力潜水艦の開発、さらにはスターリンの死去が、ソ連邦における巨大水上艦の建造の中止とソヴィエト原子力ミサイル潜水艦隊設立の始まりの原因となった」と述べられているからである。なお、前述の資料によるならば、ソ連海軍は、スターリンが死去する1953年を含むこととなる戦後10年の間に水上艦(巡洋艦、駆逐艦、警備艦)約200隻と通常動力の潜水艦272隻を就役させたことを付記しておく。それでは、本章の最後に、大海軍建設において建造に着手されることのなかった空母、同艦の保有に関してスターリンと海軍首脳部(筆頭はクズネツォーフ)との間に考えの相違があったことについて述べる。これまで使用してきたロシア側の資料によるならば、注1と注2の資料の中に「スターリンは空母を過小評価した」との記述がある[15]。そして、注2の資料によるならば、1927年、ソ連海軍には練習艦「コムソモーレッツ」を空母に改造する計画があったとのことであり[16]、また、これに端を発し、同軍が空母の重要性を認識し、プロジェクトをも立案し、同艦の保有を常に望んでいたことが理解できる[17]。従って、この建造が実現化しなかったからには、戦艦と重巡洋艦、特に後者を愛してやまなかった前述の国家指導者の反対があったと見るべきなのであろう。では何故、スターリンは空母を嫌い、同艦の必要性を認めなかったのかに関してであるが、その理由については、ロシア側の資料を見ても、明確な記述がないのが現状と言える。だが、筆者は、その理由とは、戦術的又は戦略的な思考に基づくものでもなく、案外単純なものであったのではないかと考えている。つまりは、スターリンが海事・海軍の専門家ではないとの前提に立つのであれば[18]、極度の大艦巨砲主義者であった彼にとって、広大な飛行甲板のみが目立つ空母は、戦闘単位として極めて頼りない存在としか見えなかったのではないかと考える。

2.考察

(1) 本論としての考察

 本節では、前章で述べた大海軍建設の概要に基づき、同建設に関する考察、そして、同建設に関連した考察を述べる。

 それでは、大海軍建設に関して考察する。この場合、まず前章の概要から求められるべきは、同建設が成功したのか否かという判断であろう。1927年から第二次世界大戦開戦の直前まで、つまりは約14年の間に、ソ連海軍には312隻の艦が引き渡され、そのうちの4隻は巡洋艦、30隻は駆逐艦、6隻は砲艦であったが[19]、時間的な間隔、さらには前章でも述べた開戦の時点でのソ連海軍の勢力をも考慮するならば、これらの隻数が、前章で述べたどの建艦プログラム及び計画で掲げられた目標となる隻数にも及ばないものであったことは明らかである。そして、「このような〔312隻という〕成功にもかかわらず、『大海軍』建設プログラムへの着手が1936年と遅いものであったことが、数多くの施設における生産力の低下、さらには〔後述することとなる〕『大粛清』の否定的結果と相俟って、海軍が革命前のレベルにすら復活することを許さず、最新の戦争を遂行するための軍備の質のレベルを確保することを許さなかった」と述べられているのは興味深い[20]。この後、「プロジェクト23」戦艦と「プロジェクト69」重巡洋艦が未成に終わることは、前章で既に述べたとおりである。次には戦後について、やはり前章で述べたところではあるが、注3の資料によるならば、大戦直後におけるソ連の建艦に関する計画(1946年)で掲げられた1955年に達成すべき目標(修正後のもの)が、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦30隻、駆逐艦188隻、潜水艦367隻であったのに対し、実際に就役させることができたのは、水上艦(巡洋艦、駆逐艦、警備艦)約200隻と通常動力の潜水艦272隻であったことが分かる。単純に隻数を比較するならば、戦後10年となっても、ソ連では、「プロジェクト82」重巡洋艦は言うに及ばず、全てが建艦の目標となる隻数を達成できなかったのであった。そして、前述の就役数を考慮しつつ、前章で述べた修正前の計画において掲げられた目標の隻数を思い出すのであれば、同計画がどれだけ現実離れしたものであったのかが痛感される。戦前・戦後のこの状態によるならば、筆者は、スターリンの時代のソ連が推進した大海軍建設は失敗したものと判断する。確かに、前述の建設の最中に第二次世界大戦が起こり、ソ連では陸戦が主体となり、海軍は陸軍を支援する側に回らざるを得なかったため、外洋海軍を志向することができなかったのは事実であろう。しかし、スターリンが熱望したとされる戦艦と重巡洋艦のみならず、海軍が熱望したとされる空母も、彼が亡くなるまで、実際に就役することはなく、同国が望んだ大海軍が建設されなかったのもまた事実である。では何故、大海軍建設は失敗したのか、その原因について考えてみたい。これに際して、まず思いつくのは、今まで述べてきた目標と現実のギャップからして建設自体に無理はなかったのかという疑問である。その観点に立ち調査するならば、注2の資料において1940年の計画の立案に際して、それまでのものが、自国の現実的な生産力を考慮したものではなく、壮大なものであったと述べられていることに注目すべきである[21]。この記述の正当性については、もはや疑うまでもないが、前述の資料において、これに関連して更に注目すべきは、スターリンを始めとした政府関係者が、1936年と1939年の時点において、先行きの見通しに関して楽観的であったと述べられていることであろう[22]。このことは、戦前における大海軍建設が、失敗の宿命を負うこととなった原因と考える。そして、建艦に関する計画に対するソ連首脳部の見通しが甘かったということは、先に述べた1946年以後、つまりは計画が修正される前からの状態を見るのであれば、戦後についても同様であったと考える。また、無理はなかったのかという観点から戦前における大海軍建設の流れを見た場合、注1と注2の資料の中に散見されるのが、当時のソ連における最新の技術力の不足、換言するならば、同技術力の外国への依存である。この問題は、大型艦建造に際して特に顕著となって現れるものと考えるが、注1の資料における例を挙げるならば、次のとおりとなる。

・新型戦艦の設計に際しては、当初はイタリアの、後には米国の専門家を招かねばならなかった。

・新型戦艦の船体に関して、中央部にはイタリア型のものが、端部には米国型のものが採用された。

・「ソヴィエツキー・ソユーズ」の主機には、英国の会社の物が採用された。

・戦艦の装甲の発注に関する交渉相手は、ドイツのクルップ社であった。

・重巡洋艦「クロンシュタット」の兵装に関する取引先はドイツであった。

 つまりは、戦前においてソ連は、戦艦、重巡洋艦を独力では建造できなかったという実態が浮かび上がってくる。この問題に関し、注2の資料に述べられている主な例として、イサーコフ海軍人民委員第一代理を代表とする使節団が1939年に外洋航行が可能な最新型艦を獲得又は発注するために渡米したものの不調に終わったこと[23]、さらには同年、クズネツォーフが防衛委員会に対して、艦建造で使用される装備品の輸入を申請したことを挙げることができる[24]。注1と注3の資料を見るならば、「プロジェクト82」重巡洋艦に関し、最新の技術力が不足していたと解釈される記述は見受けられないが、それは、ソ連における技術の進歩を意味するというよりは、東西冷戦を迎えた同国にとって、もはや、西側諸国からの正式な援助が望めなくなったためと考える。続いては、前章の冒頭、スターリンの略歴で述べたとおり、彼が独裁者であったことに目を向けることとしたい。何故ならば、そのような強大な権力を持った人物であったからには、その行動は、大海軍建設に大きな影響を与えたはずである。注2の資料によるならば、前述の建設に関してスターリンがとった行動とは、次のとおりであった。

・1936年、スターリンは、「事前の承諾なしに」海軍の艦隊司令官を個別に執務室に呼び出し、どのような艦とどのような軍備を造らなければならないのか、そして、戦時においてその艦は、まずどのような敵に遭遇することになるのかという旨の質問を投げかけた。その後、これに対する回答を得たスターリンは、司令官を退室させるに際して、「あなた自身は、自分にとって何が必要なのかをまだご存知ではないようですね」とコメントした[25]

・1937年、国防人民委員部と海軍人民委員部の指揮を実際に実施したのはスターリン自身であったが、彼は、原則的な諸問題の解決の詳細に個人的に介入してきた[26]

・1938年に開かれた会議において、進行中の大海軍建設が抱える諸問題に関してスターリンは、数多くの海軍軍人達の考えを聞いたが、将来の海軍の規模、構成要素、作業の集中的実施に関して同建設が抱える原則的な諸問題は検討されなかった。何故ならば、前述の規模等は既に「党の決定」として採択されていたからである[27]

 これら三つのことが事実であるとするならば、とにかく当時、スターリンの周りにいた関係者達は、彼に対する対応にかなり苦慮したのではないか。これまで本稿において、海軍の代表者として取り上げてきたクズネツォーフに関する資料を見ても、彼がスターリンには身を張って接していたことが分かる[28]。国家の頂点に立つ人物が、その強大な権力と共に個人行動を始めたならば、国内に混乱が生じるのは当然であり、このような状態が大海軍建設に良い影響を与えなかったのも当然であるに違いない。また、前述の行動は、いずれも戦前のものであるが、戦後となっても、スターリンの個人行動には、歯止めが掛からなかったものと判断する。何故ならば、「プロジェクト82」重巡洋艦のネームシップの艦名が、前述の人物の姓を冠した都市名、つまりは「スターリングラード」(現在のヴォルゴグラード市)であったことに見るように、スターリンに対するソ連国内での個人崇拝は続いていたからである。つまりは、大海軍建設を失敗へと導いたのは、同建設を承認し、指導する側にいたスターリン自身であったと言える。そして、このスターリンに関連し、注2の資料では、前述の建設を失敗へと導いた原因として、本稿では前章の冒頭等でも既に述べたところではあるが、彼が引き起こした「大粛清」(«большой террор»)の存在が、数回にわたり指摘されている[29]。同資料の中の一節によるならば[30]、1936年8月、スターリンは、政敵であったジノーヴィエフとカーメネフを処刑した後、内務人民委員部の指導部を一新し、ソ連の社会では、産業の中における「人民の敵」、「害敵」の摘発が始まったとのことである。さらに前述の節によるならば、その摘発は、造船業界にも及び、1937年6月からは、海軍指揮官にも及び始めたとのことでもある。同節の末尾では、「経験を積み、有能であった海軍軍人ヴィークトロフとガッレールは、数多くの者が逮捕される中にあって、海軍建設の諸問題解決において能力と自主性を十分には発揮できなかった」と述べられているが、前述の海軍軍人達の事実上の前任者となる2人が、「大粛清」により共に死去することとなった事情を考えるならば、その深刻さが理解できよう。スターリンが治世していた時代のソ連が如何なるものであったのかについてはもはや周知の事実であるが、スターリンが死去する1953年まで、「大粛清」が生み出した状況に変化はなかった。以上、繰り返すならば、スターリンの時代のソ連が推進した大海軍建設が失敗に終わった原因とは、ソ連首脳部の見通しの甘さ、同国における最新の技術力の不足、スターリンの個人行動、加えて、彼により引き起こされた「大粛清」ということになるが、これら四つを概観するに、少なくとも半分以上に関しては、スターリンに責任を求めることが可能と考える。

 次には、大海軍建設に関連した考察である。まずは、本稿が、海洋政策の観点からの調査研究を目的とするものであることを踏まえ、前述の建設が、今日の「ロシア連邦の海洋ドクトリン」(Морская доктрина Российской Федерации. 以下、「海洋ドクトリン」という)[31]によるならば、どのように位置づけされるのかを考えてみたい。この海洋ドクトリンは、ロシアの国家海洋政策を決定する基本的な文書であり、2015年7月、プーチン大統領により承認されたものであるが、もし同国が今、これまで本稿において述べられてきたと同規模の大海軍建設に着手したとした場合、同建設は、海洋ドクトリン第3章「国家海洋政策の内容」第1節「国家海洋政策の機能的方針」の中に定められた「海軍活動の実行」を目指すために行われるものであると筆者は解釈する。そして、前述の建設を実行するためにも、同ドクトリン第4章「国家海洋政策の実現化の確保」第1節「造船、艦艇建造」に定められた目標をロシアは目指さなければならないのであろう。海洋ドクトリンは、今日のロシアの海洋政策にとって必要な海上輸送、資源開発、海洋漁業、海洋の科学的調査等を網羅した総合的なものであり、同ドクトリンによって作り上げられるかたちが同国の海洋政策にとって理想的なものであるとしたならば、大海軍建設は、今日のロシアにとっては、偏向的なかたちの政策となる。実際に、同国が今、このような政策を実施し得るのかについては、様々な事情を考慮するならば即断はできないが、単純に考えて、同政策の実施は、艦艇に関して約280隻を有する現在のロシア海軍の勢力を少なくとも倍以上の数のものとすることになり、かなりの必要性が見いだせない限り難しいものと判断する。ところで、海洋ドクトリンといえば、筆者にとって注目したいのは、以前の拙稿でも述べたところであるが、第1章における「海洋潜在力」(морской потенциал)の定義である[32]。何故ならば、やはり以前の拙稿でも述べたところであるが、この定義に似た考え方を提唱した海軍軍人が、かつてソ連に存在したからである[33]。その人物とはセルゲーイ・ゴルシコーフソ連邦海軍元帥であり、彼は、東西冷戦の最中にあってソ連海軍の増強を指導した人物であるが、1979年に上梓した代表作とも言える著書「国家の海洋力」(«Морская мощь государства»)の中で、海軍、輸送船隊、漁業船隊、科学調査船隊等が国家の海洋力の構成部分である旨を述べ[34]、国家の維持発展における「海洋力」(морская мощь)の重要性を説いたのであった。従って、海洋ドクトリンにおける海洋潜在力に関する規定の内容に、ゴルシコーフの思想への関連性があるとの前提に立つならば、彼が、スターリンの時代のソ連が推進した大海軍建設をどのように評価したのかを知ることは、今日の海洋ドクトリンが持つ性格を知る一助になるはずである。その観点に立ち、彼の著作を見るならば、戦前のソ連海軍に関して、戦艦「ソヴィエツキー・ソユーズ」と重巡洋艦「クロンシュタット」が1938年から1940年の間に自国内で建造開始された例を挙げ、これら二つを前者については米国戦艦「アイオワ」と、後者については米国重巡洋艦「アラスカ」と比較している記述が存在することに注目すべきである[35]。そして、ここにおいて更に注目すべきは、ゴルシコーフは、自国で建造された前述の二つの大型艦が未成に終わったことについては言及していないことである。つまり、これらのことから推測される彼の大海軍建設に対する評価とは、次のようなものと考える。

 とにかく、「ソヴィエツキー・ソユーズ」と「クロンシュタット」の存在に言及していることからして、ゴルシコーフは、スターリンの時代のソ連が推進した大海軍建設を少なくとも否定はしていなかった。ただし、フルシチョフが1956年2月の第20回共産党大会においてかの「スターリン批判」を行って以来、スターリンは公式には否定されており、ソ連崩壊(1991年)前に死去することとなる自らの存命中、前述の考えを公にすることもできなかった。また、前述の二つの大型艦の建造は、ゴルシコーフにとってソ連海軍が米国海軍に比肩し得る存在となる誇らしいことであった。従って、これら二つの艦が未成に終わったことは無念でならなかった。

 ならば、その無念は、どのようにして晴らされることとなったのであろう。これに関しては、注1の資料によるならば、「プロジェクト1144」原子力ミサイル巡洋艦の建造によるとの解釈が可能である。何故ならば、同資料の末尾では同艦が、「クロンシュタット」と「スターリングラード」の後継者と述べられているからである。それでは、ゴルシコーフは前述の原子力ミサイル巡洋艦の建造に関わっていたのかについてであるが、同艦の建造史を紐解くと、1957年当初の設計開始の段階から、クズネツォーフの後任として海軍総司令官となっていた彼が既に関与していたことが分かる[36]。さらに、注36の資料によるならば、その後、ゴルシコーフは、1977年に採択された海軍艦船類別において「プロジェクト1144」の艦を原子力対潜巡洋艦から重原子力ミサイル巡洋艦に改めたこと、1980年、ネームシップの「キーロフ」が海軍に引き渡されたことも分かる。この軍人が海軍総司令官の職責を後任者に譲るのが1985年であるからにはその5年前となって、前述の設計段階を起点とするならば23年後となって、ようやく前述の無念は解消されたのだと言える。そして、このように考えるならば、ゴルシコーフは、大海軍建設を少なくとも否定はしていなかったとは、先に述べたところであるが、否定しなかったどころか、逆に彼は同建設を熱心に支持していたと断言して構わないものと考える。その熱心な支持の裏側には、本章における前述の考察でも述べたところではあるが、第二次世界大戦中、陸軍を支援する側に回らざるを得なかった、外洋海軍を志向することができなかったソ連海軍軍人としての彼の悔しさもあったのかもしれない。それではここで、注36の資料により、スターリンが熱望したとされる大型艦の後継者である「プロジェクト1144」原子力ミサイル巡洋艦の概要を、次に紹介する。このプロジェクトの艦で、現在唯一稼働中なのは、北洋艦隊に所属する「ピョートル・ヴェリーキー」(「ピョートル大帝」との意)であるという。

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図4 「プロジェクト1144」原子力ミサイル巡洋艦「キーロフ」

満載排水量-24300t、最大長-251m、最大速力-31kt、主要兵装-対艦ミサイル20基

 ところで、前述の「キーロフ」について、注3の資料では、その就役が、歴史的意義からして、1907年における英国戦艦「ドレッドノート」のそれに比肩し得るものであると述べられており、その観点からするならば、ゴルシコーフは大艦巨砲主義者であったと解釈することも可能である。従って、彼は前章で論じたスターリンと同様ということになるが、果たしてゴルシコーフは、前述の国家指導者のような空母軽視論者であったのだろうか。筆者としては、そうではないと考える。何故ならばゴルシコーフは、1975年以降、「キエフ」、「ミンスク」等、「プロジェクト1143」航空巡洋艦、つまりは当時の西側諸国が空母の出現として喧伝した4隻を就役させ、さらに、1990年に就役することとなる「プロジェクト1143.5」重航空巡洋艦、つまりは事実上の本格空母「アドミラール・クズネツォーフ」の設計及び建造を指揮しているからである[37]。やはり、彼は、海軍軍人としての見識を有していたということなのであろう。このように、大海軍建設を支持していたと考えられるゴルシコーフであるが、その観点から先に述べた海洋力の概念を再考してみたい。繰り返すが、前述の概念は、海軍、輸送船隊、漁業船隊、科学調査船隊等は国家の海洋力の構成部分であるというものであった。一見、基本的には四つの勢力の存在は、同じ並びのようにも見える。だが、その提唱者が前述の建設、つまりは海軍の強力な増強を支持したのであれば、概念の中に列記された諸勢力の中で特に重要視されるべきは海軍ということになるはずであり、この推測は、注35の資料では、現代海軍の諸問題について述べられた最終章にある次の一文によって、その正しさが証明されることとなる。

 「しかし国家海洋力〔原文ママ〕の最も重要な構成要素は、海洋における国家の利益を護り、海洋方面からの予想される打撃から国家を防衛することを使命とする海軍であると見なさざるを得ない。」[38]

 また、海洋ドクトリンに立ち返ってみたならば、前述の「海軍活動の実行」の中に、次の二つの条文があるのが分かる。

 「41. 海軍は、ロシア連邦の海洋潜在力の主要な構成要素及び基礎であると共に国家の対外政策の手段の一つである。

 42. 海軍は、世界の海洋におけるロシア連邦及びその同盟者達の国益の武力手段による保護、全世界的な及び地域的水準における軍事的・政治的安定性の維持、海の方面からの侵略の撃退を使命とするものである。」

 注38の文、さらには海洋ドクトリンのこの二つの条文、双方に共通性を見出すのは容易である。従って、本考察の立ち上がりで述べたとおり、前述のドクトリンは、ロシアの国家海洋政策を決定する基本的な文書であり、今日のロシアの海洋政策にとって必要な海上輸送、資源開発、海洋漁業、海洋の科学的調査等を網羅した総合的なものであるものの、その本質は海軍主導型であり、安全保障を重視したものであると結論付けることが可能と考える。そして、これが、海洋ドクトリンの有する性格と言えるのであろう。ついでながら、今回のこの考察により、海洋ドクトリンにおける海洋潜在力に関する規定の内容に、ゴルシコーフの思想への関連性があるとの自説の正しさが証明されたとも考えるが、ここで、海洋ドクトリンでは動員(мобилизация)の規定が、第2章から第4章にかけて、海上輸送船隊、漁業船隊、科学調査船隊、特殊船隊及び造船に対して再三にわたって定められている点に注意したい。つまり、その徹底した規定により海洋ドクトリンにはやはり海軍主導型、安全保障重視の姿勢が現れていると言えるのであり、ならば、ゴルシコーフの提唱した「海洋力」と同ドクトリンにおける「海洋潜在力」、この二つの概念は同じ意味なのだと断言して構わないものとも判断する。さらには繰り返すが、海軍主導型、安全保障重視の姿勢が海洋ドクトリンの有する性格であるならば、それら二つは、今日のロシアの海洋政策が有する本質ともなるのである。

 それでは、本考察の最後に、ゴルシコーフにより連想される「海の地政学」、同学問の祖としてあまりにも有名なアルフレッド・マハン、この米国海軍軍人に関連した考察を述べる。本稿では、スターリンの時代のソ連が推進した大海軍建設に関して調査及び考察を進めてきた訳であるが、彼が独裁者であったことが、特に考察における重要な要素の一つであった。独裁者、この字句が、一個人が政治上の全権力を掌握して国家を支配するという点において専制君主という字句に置き換えられるとした場合、この専制君主に関してマハンは、自らの著作「海上権力の歴史に及ぼした影響」において大変興味深い理論を展開していた。

 「これに反して、専制君主が思慮分別と一貫性をもって権力をふるう場合、自由な国民の遅鈍な政治過程によるよりも直接かつ迅速に、大貿易と見事な海軍を勃興させることができた先例がいくつかある。ただ、独裁専制のときに問題となるのは、特定の君主の死後その政策を持続することが困難になる、ということである。」[39]

 1914年、つまり帝政ロシアの時代に死去したマハンにとって、海に関連した専制君主として同国の君主が念頭にあったとした場合、それがピョートル大帝であったことは想像に難くない。また、ソ連の独裁者であったスターリンの治世は、マハンの死去後のことであり、同軍人にとっては認識されていなかったこととなるが、ならば、ピョートル大帝とスターリンが、前述の理論によってどのように解釈されるのかを考えてみたい。ピョートル大帝は、マハンが論じたとおり、「直接かつ迅速に見事な海軍を勃興させることができた」人物である。マハン自身、同大帝を「勃興させることができた先例」の一つとして考えていたに違いない。また、ピョートルの死後、政策は維持され得たかに関しては、同大帝は、自ら船舶工学を当時の先進的海洋国家であったオランダのアムステルダム市で学び、正規のロシア陸海軍の創設者であったのみならず、同国における水路測量及び海図編集の祖でもあった[40]。その点からしても、少なくとも、海洋国家としてのロシアの礎を作り上げた人物である。スターリンに関しては、これまで本稿において述べてきたことを考慮した上で、マハンの言を借りるのであれば同国家指導者は、「思慮分別をもって権力をふるった」とは到底言えない。従って、やはりマハンの言う「見事な海軍」を大海軍建設によって実現できた訳でもなかった。だが、「その政策を持続させること」ができなかったのかと問うならば、筆者が先程まで展開してきた本考察により、結果的にはゴルシコーフが持続させたことが分かる。しかし、それはあくまでゴルシコーフ個人が先導してこれを持続させたのであって、前章で述べられた大海軍建設の概要を思い出すのであれば、スターリンの死去により、ソ連という国家にとって同建設は終了したと見るのが妥当である。何故ならば、前章の末尾でも述べたが、注3の資料によるならば、戦後における核兵器とミサイル、さらには原子力潜水艦の登場が、前述の国家指導者の個人的な考えに基づく海軍建設の継続を放棄する理由を国家に与えたからである。

 ところで、前述のピョートル大帝といえば、筆者は、かつての拙稿においてプーチン大統領が、同大帝を念頭に置いた上で、「海洋国家としてのロシアの発展」を意識した可能性は極めて高く、同国の海洋政策にて最も影響力を持つアクターはプーチン大統領であると述べた[41]。また、海洋ドクトリン第102条によるならば、海洋活動の分野におけるロシア連邦国家安全状況に対する総合評価に関する報告が、毎年、大統領に対して為される旨のことが定められており、自国の海洋政策に直接的に、積極的に関与しようとするプーチンの姿勢が窺える。従って、本稿の結論として、これまで述べてきたこと全てに基づき、前述の大統領が主導するロシアの海洋政策の今後を推測してみたい。大凡二つの将来が考えられる。その一つ目は、プーチン大統領がまさしくピョートル大帝の再来として正しい海事知識を有し、ロシアの海洋政策を適切に指揮することができたならばというものである。この場合、ロシアの海洋政策は発展を見る可能性がある。そして、二つ目は、前述の大統領が正しい海事知識を有しないまま、自国の海洋政策を大国としての意識の高揚の手段としてしか見なかったならばというものである。この場合、ロシアの海洋政策の然るべき発展は望めない。だが、今述べた二つの将来のうち、どちらの道をロシアは進むこととなるのか、何とも言えない。何故ならば、プーチン大統領は、サンクトペテルブルク副市長時代に「自己のオフィスにピョートル大帝の肖像を掲げて、その下で執務していた」とする情報がある反面[42]、スターリンのモニュメントに献花する同大統領の写真も存在するからである[43]。従って、現時点でプーチン大統領がピョートル大帝路線を選択するのか、スターリン路線を選択するのか見通すことは困難であるが、海洋政策に関するロシアの今後を見守ってゆきたい。

(2) 補足としての考察

 本節では補足ながら、北方領土問題に関連して述べる。現在日ロ間に、前述の問題が存在することは周知の事実であり、領土領有に関してロシアが適用を主張する法的根拠とは、1945年2月11日付けのヤルタ協定、1945年7月26日付けのポツダム宣言、1951年9月8日付けのサンフランシスコ平和条約、国連憲章第107条の条文、これら四つであるとされている[44]。そして、その中でも、ロシアにとって最も重要な根拠とはヤルタ協定であろうというのが筆者の見解であるが、同協定は、1945年2月4日から11日にかけて、黒海に面したクリミア半島にある保養地のヤルタで行われたルーズベルト、チャーチル、スターリンの会談、所謂ヤルタ会談において締結されたものであった。そして、その中では、「三大国、すなわちソヴィエト連邦、アメリカ合衆国及びグレート・ブリテンの指導者は、ソヴィエト連邦が、ドイツが降伏し、かつ、欧州における戦争が終了した後2か月又は3か月で、次のことを条件として、連合国に味方して日本国に対する戦争に参加すべきことを協定した」として、その条件の一つとして「千島列島がソヴィエト連邦に引渡されること」が挙げられている[45]。前述の協定は、その内容のとおり、ソ連の対日参戦を促すものであり、これによりスターリンの領土拡大に対する欲求は大いに満たされたとするのがこれまでの通説のようであるが、今回、本稿を書き終えた今、スターリンが求めたものはそれだけであったのだろうかという疑問を筆者は感じている。大海軍建設を目指した国家指導者であったからには、外洋へのソ連海軍の進出をも考えたに相違なく、特に極東において太平洋へと進出するためには、千島列島が自国にとっては重要な存在となる、そのことにスターリンは気付いたに違いない、そのように考える。そして、もしこの推測が的を射たものであったとした場合、ルーズベルトとチャーチルは、領土拡大に関してスターリンに譲歩したばかりでなく、特にルーズベルトに関しては、海洋政策の観点からするならば、太平洋における自国に対する脅威の発生を容認したという点において、やはり先行きを見誤ったということになる。

おわりに

 本稿を終えるにあたり、第1章と第2章で言及した空母に関して述べたい。特に取り上げたいのは、第1章で言及したクズネツォーフ、そして、第2章で言及したゴルシコーフ、この2人の海軍軍人であるが、既に述べたとおり、海軍総司令官という役職においてこの双方は、前任と後任の関係にあった。しかも、やはり既に述べたところではあるが、ゴルシコーフが設計及び建造を指揮し完成をみた本格空母の艦名は、まさしくこの艦種の保有をスターリンに対して身を張って求め続けたクズネツォーフであった。この事実を筆者は、この2人の海軍軍人が望んだものは一つとなって達成されたのだと見る。そして、その観点に立つならば、空母「アドミラール・クズネツォーフ」の就役日(1990年)は、スターリンに対するソ連海軍の、遅ればせながら訪れた勝利の日であったはずなのである。しかし、そのソ連が、それからわずか1年後に崩壊してしまうのは、運命の皮肉としか言いようがない。



[1] Балакин С.,Линкоры-гиганты.参照:http://flot.com/history/branches/nk/giants.htm (アクセス日,2017年7月19日).

[2] Грибовский Ю.В.,Морская политика СССР и развитие флота в предвоенные годы. 1925-1941 гг.,ООО Военная Книга,2006.

[3] Егоров Ю.,Самый большой флот в мире.参照:http://flot.com/history/interesting/largest.htm?print=Y (アクセス日,2017年7月28日).

[4] 前掲注2,33頁.

[5] 前掲注2,27頁.

[6] Алексеев М.,Петр I : последний царь и первый император 295 лет назад Россия официально стала имперей.参照:http://svpressa.ru/post/article/159968/ (アクセス日,2017年7月26日).

[7] 前掲注2,36頁.

[8] 前掲注2,40-45頁.

[9] 前掲注2,39頁.

[10] 前掲注2,49頁.

[11] 前掲注2,52頁.

[12] 前掲注2,64頁.

[13] 前掲注2,36頁.

[14] 前掲注2,64頁.

[15] 前掲注2,28頁.

[16] 前掲注2,13頁.

[17] 前掲注2,34,36, 65頁.

[18] 前掲注2,28頁.

[19] 前掲注2,52頁.

[20] 前掲注2,52頁.

[21] 前掲注2,49頁.

[22] 前掲注2,34, 45頁.

[23] 前掲注2,45頁.

[24] 前掲注2,48-49頁.

[25] 前掲注2,28頁.

[26] 前掲注2,38頁.

[27] 前掲注2,40頁.

[28] Костев Г.,ТАК ЧТО ЖЕ СДЕЛАЛ АДМИРАЛ КУЗНЕЦОВ:совершил подвиг или просто выполнил приказ Сталина?.参照:http://2000.novayagazeta.ru/nomer/2000/38n/n38n-s25.shtml (アクセス日,2017年7月21日).

[29] 前掲注2,45,52, 61頁.

[30] 前掲注2,35頁.

[31] 参照:http://static.kremlin.ru/media/events/files/ru/uAFi5nvux2twaqjftS5yrIZUVTJan77L.pdf (アクセス日,2015年8月1日).なお、邦訳については拙訳「ロシア連邦の海洋ドクトリン」(2015年度 総合的海洋政策の策定と推進に関する調査研究 各国および国際社会の海洋政策の動向報告書(参考資料編),公益財団法人笹川平和財団 海洋政策研究所,2016,93-121頁)を参照されたい。

[32] 拙稿「ロシアの新たなる海洋ドクトリンに対するコメント」,海洋情報季報 第10号,公益財団法人笹川平和財団 海洋政策研究所,2015,138頁.参照:https://www.spf.org/oceans/wp/wp-content/uploads/2016/01/1510.pdf(アクセス日,2017年8月11日).

[33] 拙稿「ロシアの海洋ドクトリンについて(北極海に着目して)」,北極海季報 第10号,海洋政策研究財団,2011,39-40頁.

[34] Синецкий В.П.Теория и практика морской деятельности : поиск закономерностейТЕОРИЯ И ПРАКТИКА МОРСКОЙ ДЕЯТЕЛЬНОСТИСОВЕТ ПО ИЗУЧЕНИЮ ПРОИЗВОДИТЕЛЬНЫХ СИЛ,7(2005),67-68頁.参照:http://www.morskayakollegiya.ru/publikacii/nauchnye_trudy/ (アクセス日,2009年8月21日).

[35] С・Г・ゴルシコフ著 宮内邦子訳,ゴルシコフ ロシア・ソ連海軍戦略,原書房,2010,140-142頁.

[36] Кузин В.П.,Атомные ракетные крейсеры проекта 1144.参照:http://scilib-military.narod.ru/Pr1144/1144.htm (アクセス日,2013年5月26日).

[37] Заборский В.,Длинная рука военного флота.参照:http://vpk-news.ru/articles/103 (アクセス日,2017年8月26日).

[38] 前掲注35,244頁.

[39] 麻田貞雄 編・訳,マハン海上権力論集,講談社,2010,84頁.

[40] РУССКАЯ ГИДРОГРАФИЯ ДО 1917 ГОДА.参照:http://www.imha.ru/1144531015-russkaya-gidrografiya-do-1917-goda.html (アクセス日,2014年2月2日).

[41] 拙稿「ロシアとノルウェーの間の海洋境界画定について(補足)」,北極海季報 第12号,海洋政策研究財団,2011,38-39頁.

[42] 木村汎,「現代ロシア国家論 プーチン型外交とは何か」,中央公論新社,2009,87頁.

[43] Путин возложил цветы Сталину.参照:http://burckina-faso.livejournal.com/1468526.html (アクセス日,2017年8月22日).

[44] Брифинг официального представителя МИД России А.К.Лукашевича,8 сентября 2011 года,МИД РОССИИ.参照:http://www.mid.ru/web/guest/foreign_policy/news/-/asset_publisher/cKNonkJE02Bw/content/id/796964 (アクセス日,2016年12月11日).

[45] ソ連では、我が国とは異なり、北方領土は千島列島に含まれると解釈されていた。同解釈は、旧体制崩壊後、ロシアの時代となっても継承されている。