習近平政権の対北朝鮮外交の特徴と安全保障への影響

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倉持一,笹川平和財団 海洋政策研究所 海洋安保チーム長 主任研究員

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1.はじめに

 2017年4月8日、米太平洋軍のデーブ・ベンハム報道官は、西太平洋の即応態勢とプレゼンスを維持するため、原子力空母カール・ビンソンを中心とする第1空母打撃群を北に向かわせていると明かした。また、ロイター通信は、米高官の話として、弾道ミサイル発射など挑発行為を繰り返す北朝鮮に対し、「存在感(プレゼンス)を高めていく必要がある」と述べたと伝えた。実際、カール・ビンソンは、4月15日にはスンダ海峡を通航しインド洋に出た後に進路を北に変え、沖縄の東のフィリピン海を北上しながら海上自衛隊との共同訓練を実施し、4月29日には対馬海峡を抜け日本海に入った。

【米空母カール・ビンソンの行動[1]170515-1.png

 これに対し北朝鮮は、4月25日、北朝鮮が朝鮮人民軍の創建85年を同日迎えたことにあわせ、過去最大規模とされる軍事訓練を実施した。また、北朝鮮は、カール・ビンソンが対馬海峡を通航した4月29日にも、結果的には失敗に終わったものの弾道ミサイルの発射に踏み切っており、米国の軍事的プレゼンスや圧力に屈しないという姿勢を示している。

 米朝両国間の軍事的緊張が高まる中、両国にとって重要なステークホルダーである中国は、5月3日、外交部の定例記者会見において、2016年11月に採択された国連安保理の対北朝鮮制裁決議に「新たに核実験や弾道ミサイル発射を実施するなら、さらに重大な措置を取ると明確に記されている」と指摘し、北朝鮮が挑発行為を繰り返せば中国も制裁の強化を支持する考えを示唆した。また、5月4日には、中国共産党機関紙・人民日報系の環球時報が、社説において、1961年に中朝両国間で締結され朝鮮半島有事の際に中国が自動的に軍事介入することを規定した「中朝友好協力相互援助条約」の見直しを示唆する提案を行った。

 これに対し北朝鮮の朝鮮中央通信は、5月3日、個人名義の論評を通じ、中国の北朝鮮制裁を「朝中関係の柱を折る妄動」、「朝中関係のレッドラインを中国が乱暴に踏みにじり、ためらいなく越えようとしている」などと非難した。北朝鮮が中国を名指しで批判することは極めて異例であり、中朝両国関係に冷たい風が吹いていることがうかがえる。

 しかし、中朝両国間の隙間風は今に始まったことではない。習近平政権は、それまでの江沢民・胡錦濤政権とは異なり、北朝鮮に対しては外交的に距離を置いてきている。その主な要因は、2011年に指導者となった金正恩の存在であろう。後に述べるが、習近平は国家副主席就任後の初外遊先として北朝鮮を訪問し金正日総書記と会談した一方で、国家主席就任後の初外遊先にはロシアを選んだ。そして、金正日が総書記就任後の初外遊先として中国を訪問したものの、金正恩は未だ中国を訪れていない。このように、習近平-金正恩ラインは、事実上の軍事同盟を結び「血の同盟」「血の絆」と呼ばれてきた従来の中朝両国関係とは異なる状態にある。この状態が、米朝関係に及ぼす影響も大きいだろう。ひいては、日本を含めた東アジア全体の安全保障に大きな影響を与える可能性がある。

 トランプ米大統領は、北朝鮮問題における習近平政権の影響力に大きな期待を寄せている。したがって、今後の東アジア海洋安全保障を分析する上でも、習近平政権の対北朝鮮外交の特徴を把握し、今後の分析に資する必要がある。本稿は、習近平政権の対北朝鮮外交を主に人事面から考察することとしたい。それというのも、習近平政権下では外交部を中心とする国家外交と中国共産党中央聯絡部(中聯部)が受け持つ党外交との一元化の動きなどが人事面で顕著となっており、党外交を基本としてきた中国の対北朝鮮外交にも変化の兆しが見えるからである。

2.中朝関係略史

 まずは、中国の対北朝鮮外交の歴史を回顧的に振り返っておきたい。中朝両国間の外交は、1953年7月の朝鮮戦争の休戦合意によって新たなスタートを切った。約3年間にもおよび数十万人もの死傷者を出した朝鮮戦争は、中朝両国に相当程度の経済的疲弊をもたらしたものと考えられるが、広大な国土と人口を誇る中国の方がそのダメージは比較すれば少なく、戦後間もなくから中国は北朝鮮に対する支援を開始している。それは1961年に中朝両国間で結ばれた「中朝友好協力相互援助条約」によって定式化され、それ以後、現在に至るまで、事実上、中国が北朝鮮に一方的に経済的・軍事的な支援を行う形になっている。しかし、2000年代に入ると、中国国内でも対北朝鮮支援に対して懐疑的な意見も出始めており、今後も中国が北朝鮮を支援し続けるかは、以前に比べ不透明感が出てきている。

 それでは、こうした流れを適宜年代ごとに区切って振り返ってみよう。

2.1 1950年代初期

 中国による対北朝鮮支援の開始時期については、具体的に何年からと定義できるほど統一された記述は確認できない。しかし、いくつかの文献には「中国は、朝鮮戦争の停戦後、朝鮮の戦後経済の復興・建設を積極的に助けた[2]」、「中国の対外援助は、中華人民共和国成立直後、朝鮮戦争における北朝鮮への軍事援助・復興援助に始まる[3]」などの記述が見られるほか、中国社会科学院教授の金煕徳は、明確な根拠は不明であるが、「中国の経済援助は1956年に始まる[4]」と指摘しており、いずれにせよ、中国は少なくとも1950年代初期には、北朝鮮への経済支援をスタートさせていたと考えられる。これは、1953年の朝鮮戦争休戦からわずか数年後のことであり、つまりは、北朝鮮は建国以来の50年以上にわたって中国から何らかの支援を受け続けることで経済そして国家の維持を図ってきたことを意味している。

 中国側の狙いとしては、中国国体の維持、帝国主義国家との対峙、経済回復などがあったと考えられ、そこに国家イデオロギーの安全保障や地理的条件などが加味されたため、軍事分野を含めた支援相手国には北朝鮮とベトナムが選ばれたのであろう。

 その後、1955年にバンドン会議が開催され、周恩来首相が出席すると、非同盟運動と植民地支配からの独立気運が盛り上がる中、中国は、その支援先を近隣の社会主義国家のみならずアフリカ地域などにも広げることを目指していくことになった。

2.2 1960年代前半にかけ支援に関する重要文書に調印

 中国は、朝鮮戦争停戦直後の1953年11月に金日成首相が政府代表団を率いて中国を訪問した際に、「経済文化協力協定」に調印した。同協定は、中朝間における初めての公式文書であり、「中朝双方の経済・文化分野における長期的協力の基礎となるもの[5]」と位置づけられている。その後、両国間においては、1956年8月の「放送協力協定」、1957年12月の「科学技術協力協定」、1960年5月の「国境河川運航協力に関する協定」、1964年5月の「国境河川の共同利用及び管理に関する相互援助協力協定」、1965年11月の「衛生協力協定」、そして1966年6月の「獣医防疫検疫相互援助協力協定」など、数多くの文書が取り交わされた。

その中でも注目されるのが1961年7月に調印された「中朝友好協力相互援助条約」である。なぜなら、同条約の第2条では、軍事的相互援助協力という国防に関する極めて重要な事項が定められているほか、第7条においては、「相互に一切の可能な経済・技術援助を与え、両国の経済、文化、科学技術協力を強化、発展させる」と規定されており、同条約によって実質的には、「中国から北朝鮮に向けたほぼ一方通行」となる経済支援の一層の強化が図られたからである。

 なお、中国は、同条約について「中朝友好協力関係を全面的に発展させるために重要な役割を果たしている[6]」と評価する態度をみせており、同条約の存在が永続的な中国による北朝鮮への関与を担保しているといってもよい。換言すれば、同条約の締結によって中国は、朝鮮戦争への参戦という実力的介入により開始された朝鮮半島情勢への積極的関与の姿勢を改めて制度化し、それを国内外に高らかに宣言したということである。

 その後、中国は、周恩来首相が1964年にアフリカ諸国を歴訪した際に、「①援助は平等互恵の原則に基づいて実施。②相手国の主権を尊重し、いかなる特権も要求せず。③借款は無利子又は低利で供与。④目的は、相手国の中国依存ではなく、自立更生による独立した経済発展を助けること。⑤プロジェクトは、少額投資かつ即効性のあるものに限定。⑥中国で生産できる最上の品質の設備・資材を提供し、価格は国際価格に基づく。⑦技術援助は、相手国関係者に当該技術を完全に習得させる。⑧中国が派遣する専門家は、相手国専門家と同等の待遇を受ける。」という、中国の「対外経済技術援助に関する8項目原則」を発表し、北朝鮮を含めた他国支援に際しての理念などを明らかにした。

 しかしその一方で、1960年代後半になると中国国内に文化大革命の嵐が吹き荒れ、その流れの一つとして姿をあらわした、極めて原理主義的な毛沢東思想を信奉する若者たちによって結成された「近衛兵」が、長年の盟友であったはずの北朝鮮の金日成主席を修正主義者として批判し始めたこともあって、中朝関係は一時的に冷却化した。これにより、中国による対北朝鮮経済支援も停滞したとみられ、同時期における中国の北朝鮮に対する支援などの実施状況を示すような記録は確認できない。ただ、1969年になると、「69年7月に北朝鮮メディアが『中朝友好協力相互援助条約』調印8周年を記念する論文を掲載した[7]」といった動向が報じられるようになり、文化大革命の混乱が沈静化し始めたことに伴って、中朝関係が再び良好な状態へと向かう薄日が感じられるようになった。

2.3 1970年代には北朝鮮への石油輸出が活発化

 1971年の第26回国連総会で中国の地位が回復され、中国の国際的立場が向上した。この影響もあってか、中国による対外援助額は、以後数年間、増加していくことになった。そういった状況の中、1970年代初めには、中国と北朝鮮は「1971年から1976年における重要貨物の相互供給協議」を開催し、そこで、中国から毎年50万トンの石油を北朝鮮に提供することで合意したとされる。また、1976年1月には、中朝間に石油パイプラインが開通したこともあり、同年から1979年にかけて、中国は毎年100~150万トンの石油を特恵価格で提供し続け、この量は当時の北朝鮮国内の全石油需要量の30%を占めていたといわれている。

 このほかにも中国は、1970年代には、1950年代から1960年代における北朝鮮に対する借款の未償還分を免除したともいわれ、これは、当時の東西冷戦という世界情勢への配慮や巨大な国境隣接国家・ソ連との関係悪化を背景とする中国の北朝鮮重視姿勢をうかがわせる動きである。

 そして、1978年には、経済体制の改革実施や対外開放政策計画が決定されたことにより、その後の中国は、今まで以上に、自国経済発展と改革開放に貢献する対外支援策を模索していくようになっていく。

 なお、中国は近年でも年間50万トン前後の石油を北朝鮮に輸出しているとされ、実際に「北朝鮮は石油の90%を中国に依存している[8]」といった指摘もみられるなど、石油という北朝鮮にとって(石油の問題は北朝鮮だけにとどまらず、日本を含めた諸国でも外交的に敏感なテーマではあるが)、極めて重要なエネルギー資源の中国への依存度が、約40年間で3倍にまで膨らんでいることが推測される。この現状が、自前のエネルギー資源確保を狙った、北朝鮮の核兵器を含めた核関連開発計画の継続という棄てきれぬ野望の一要因となっていることも、我々は認識しておくべきである。

2.4 1980年代には発電所や工場の建設を支援

 1980年代には、北朝鮮国内各地において、太平湾水力発電所・新義州精油工場・平壌歯車工場・海洲製紙工場・新義州繊維工場・咸興万年筆工場の建設支援など、北朝鮮経済の工業化や近代化に必須となる発電所や各種工場といった産業関連施設建設への支援の動きが多数伝えられるようになってきた。これは、建国からしばらくは北朝鮮が優位に立っていたはずの韓国との経済的立場が逆転し、さらにはその経済格差が拡大していったことなどを背景に、単に物資を提供するだけという従来型の経済支援に加え、北朝鮮経済の基盤強化を目的とする支援に重点を移していこうと苦心したことを示しており、北朝鮮の計画経済下における労働力の合理的配分や効率化のために、中国が配慮・検討している様子がうかがえる。

 また、1980年代における経済支援内容の主軸移行は、1985年3月にソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフによるペレストロイカ(ソ連型社会主義の範囲での自由化・民主化)の推進の影響によって、ソ連から北朝鮮に対する支援の行方が不透明になってきたことも一因であると考えられる。

2.5 1990年代半ばから食糧支援の動きが顕著に

 中国は、冷戦崩壊後の1992年8月に韓国と国交を樹立したが、これは韓国を同民族の隣国にして最大のライバルとみなす北朝鮮に対し非常に大きな衝撃を与えることとなった。一方、1990年代半ばになると、北朝鮮で食糧難が伝えられるようになり、中国はこれに対応するため、1996年には12万トン、1997年には20.7万トン、1998年には10万トン、1999年には15万トンという食料支援を実施し続けた。

 なお、北朝鮮の食糧難の問題の顕在化には大きな要素が二つあることを指摘しておきたい。一つは、「不作」や「異常気象」などといった環境的な不測の事態の発生への対応準備不足である。北朝鮮特有の政治システムと経済システムは、国内の教育制度の脆弱性もあって、自国の技術開発が見込まれないにも関わらず、中国をはじめとする極めて限られた友好国からのみしか技術者の受け入れをしてこなかった。脱農業化も脱工業化も行われていない旧態依然とした前近代的経済である北朝鮮にとって、気象状況の急激な変化は、事前に準備するだけの経済的及び技術的余力がないため、我々の想像以上に深刻な問題である。

 もう一つは、1990年代の終わりになって、中国や北朝鮮といった一種の「言論統制国」においても、諸外国との人的往来や情報化の流動性が高まったという事情がある。物や人間の流通は、それらに付随して移動する様々な情報(口コミや製品効果)の流通をも意味する。このような事情は、中国や北朝鮮でも例外ではなく、1950年代と1990年代を比較してみれば、例え同じ食糧不足状況などが北朝鮮国内で起こったとしても、国外に伝わる情報の内容や精度、そして報道量は、近年の方が飛躍的に増大しているのは間違いない。つまり、ようやく1990年代になって、北朝鮮国内の食糧難というある意味では建国時から続く慢性的な経済疲弊に関する情報が、国外に流通し、そして顕在化したといえる。

2.6 2000年代以降に広がる対北朝鮮支援の見直し論

今まで述べてきたように、中国は、半世紀以上にもわたって、北朝鮮への経済支援を継続してきた。しかしながら、このような国家判断・行為に対して、2000年代に入ると、中国国内からも批判の声が聞かれるようになった。例えば、天津社会科学院対外経済研究所研究員である王忠文が、「北朝鮮は我が国の経済援助に対し、いささかも感謝する思いがなく、カギとなる時には、我々に十分な理解・全面的支持を寄せない。こうした性質の国に対し、我が国が全面的に支援する道義的責任はない[9]」と批判的見解を示した。また、中国社会科学院世界政治経済研究所研究員である沈驥如は、「中国政府は北朝鮮政府に対し、『中朝友好協力相互援助条約』を改正することを正式に提起すべきである。特に、その中の軍事同盟に関する内容を削除すべきである[10]」と指摘している。

このように、中国国内では2000年代より経済支援のみなら両国友好関係の象徴でもある条約の是非についても改めて問うべきだとの意見が出始めている。こうした懐疑的な意見が、最近の北朝鮮による中国の忠告・警告を無視した核実験や弾道ミサイルの発射の実施によって中国国内で勢いを増してきている兆しがあり、習近平政権の対北朝鮮外交にも徐々に影響を及ぼしていく可能性がある。

3.習近平政権の対北朝鮮外交人事

 2012年11月に中国共産党総書記に、翌2013年3月に国家主席に選出された習近平が、これまで腐敗撲滅や軍改革などに力を入れていることは周知の通りである。関連する論考なども多く発表されている。その一方で、習近平政権の北朝鮮外交、特に党間外交から国家間外交へという大きな変化の潮流について指摘する声はまだ少ない。ここでは、習近平の対北朝鮮外交の変化を人事面から考察してみたい。まずは、背景事情を確認する意味でも、習近平と北朝鮮との関係を振り返ってみよう。

習近平は、国家副主席に就任後の初の外遊先として2008年6月に北朝鮮を訪問したが、それ以降、最高指導者となってからも北朝鮮を訪れていない。この2008年の訪問は、2006年10月に北朝鮮が初めて実施した核実験を受け、二度目の核実験が懸念される中で、「朝鮮半島の非核化」を含む共通の関心事項について協議することを目的[11]として行われたものであり、金正日総書記との会談などが設定された重要なものであった。北朝鮮は習近平の訪朝以降、約1年間は核実験も弾道ミサイルの発射実験も行っていない。この訪問の成果とは言い切れないが、金正日総書記が一定の配慮を見せた可能性は否定できない。その後、2010年5月に金正日総書記が訪中した際にも、習近平は金正日総書記と会談しており、習近平-金正日の中朝間外交ラインは一定程度の水準にあったと考えられる。

 一方、北朝鮮では、2011年11月、当時の金正日総書記が死去したことにより金正恩体制がスタートした。1997年に総書記に推戴された金正日は、就任後初の外遊先に中国を選び、2000年5月に北京で当時の最高指導者である江沢民と会談したが、金正恩は2017年5月1日時点でまだ訪中していない。また、習近平も2012年の総書記就任以降、北朝鮮を訪問していない。国家副主席就任後初の外遊先に北朝鮮を選んだ習近平が、総書記就任後初の外遊先に選んだのはロシアである。つまり、金正恩体制がスタートした2011年11月以降、中朝間で首脳の相手国訪問や首脳会談は実施されていない。習近平がいかに金正恩体制下の北朝鮮に対し、これまでと異なる姿勢で対応しているかが見て取れる。しかし、習近平の対北朝鮮外交の変化は首脳交流の断絶だけではない。

 中国はこれまで、いわゆる多元外交戦略を採用してきている。すなわち、外交部を中心とする国家間外交、中国共産党中央聯絡部を中心とする党間外交、駐在武官や中国国際友好聯絡会を含む人民解放軍による軍外交、そして各種学術団体や友好団体を活用した民間外交である。これら複数のチャネルを使い分け、相手国に複数のカウンターパートを用意することで、中国は外交力を発揮してきた。

 中国共産党と朝鮮労働党との友党関係を契機としたという歴史的背景から、これまで中国において北朝鮮外交の主軸となっていたのが党間外交、すなわち中聯部である。2012年8月に、金正恩が初の外国要人との会談を中聯部部長の王家瑞と行ったことは、伝統的な中朝外交の象徴とも言えるだろう。

 2011年の金正恩体制のスタート、そして2013年の習近平体制のスタートによって新局面に入った中朝関係を実務面から支えたのが、2010年3月から2015年2月までの約5年間という長期間、駐北朝鮮大使として活動した劉洪才である。彼は、北京第二外国語学院で日本語を学んだ後に中聯部に入り、以後、中聯部の日本担当部署の責任者や日本大使館勤務を経験するなど、中聯部を代表する日本通である。なお、北朝鮮の核開発問題などを主に協議する六者協議の中国側代表を2010年2月から務める朝鮮半島問題特別代表の武大偉も、日本語が堪能であり、外交部内で一貫して日本担当部署で勤務した後に駐日大使を務めた日本通である。

 劉洪才は、駐北朝鮮大使に就任後、金正恩との間に極めて良好な関係を築いた。劉洪才が一国の大使という立場を超えた待遇を金正恩から受けていたことは、公表されている資料からもうかがい知ることができる。劉洪才の厚遇の要因については、本人の資質以外にも、彼が中朝両国の国交樹立後初めて、外交部ではなく伝統的に北朝鮮との交流を掌ってきた中聯部出身(前任は中聯部常務副部長)として駐北朝鮮大使に就任したこと、また、中聯部随一と言われるほど知日家である彼を通じて日本の情報を収集し拉致問題を含め膠着状態にある対日外交の打開の糸口を探ること、などが考えられる。

【金正恩夫妻と歓談する劉洪才夫妻[12]170515-2.png

 それまで対日外交を専門的に担当してきた劉洪才や武大偉の対北朝鮮外交への投入、そして、中聯部と外交部との間での幹部交流人事をスタートさせたのが、胡錦濤政権下で外交担当の国務委員(副首相級)を務めた戴秉国である。

 戴秉国は、大学でロシア語を学んだ後に外交部に入り、以後、ソ連大使館勤務や駐ハンガリー大使を経験し、外交部副部長に就任した。その後、彼は1995年に中聯部副部長に異動すると1999年7月から2003年4月まで中聯部部長を務めた。部長職を後任の王家瑞に譲ると外交部へ副部長として戻り、最終的には2008年3月の全人代で外交担当の国務委員に選出され、2013年3月の引退までの間、中国外交の実務上の責任者として活躍した。

戴秉国は、外交部時代と中聯部時代を合わせ、確認できるだけでも2003年7月、2009年9月、2010年12月と3回訪朝し、それぞれ金正日総書記と会談している。その他、金正日総書記の訪中時にも、戴秉国は金正日総書記を含む北朝鮮側と接触しており、同時期の中朝関係のキーマンであった。中国の対北朝鮮外交において重要な役割を果たした戴秉国は、外交部出身でありながら中聯部の部長を務めるなど、幅広いキャリアを有している。その戴秉国が、2008年の国務委員就任後に進めたのが、外交部と中聯部との幹部人事交流である。まず、2009年にそれまで中聯部で長らく米国を担当してきた張志軍・中聯部副部長を外交部副部長に転任させ、その後、外交部常務副部長に昇格させた。その一方で、外交部で長年米国を担当してきた劉結一を2009年5月に中聯部へ副部長として転出させた。現在も外交部と中聯部との幹部交流人事は行われているが、張志軍と劉結一のケースのような相互交換形式ではなく、外交部や他省庁の幹部が中聯部の要職に就くというやや一方的な形になっている。

2017年5月1日現在の中聯部の幹部人事を確認すると、宋涛・部長(元外交部副部長、元駐フィリピン大使)、鄭暁松・常務副部長(元財政部国際局長、元福建省副省長)、王亜軍・部長助理(元外交部政策計画局長、元駐EU公使)と、中聯部では8名の幹部の内3名が他省庁からの異動者である。特に、宋涛と鄭暁松という中聯部のナンバー1とナンバー2の二人が他省庁からの異動者であることは、習近平政権の外交政策における中聯部の位置づけの変化を示すだけでなく、対北朝鮮外交の優先度の変化をも示しているのではないだろうか。人事面から判断すれば、習近平政権は、胡錦濤政権から外交部と中聯部との幹部交流人事の基本的枠組みを引き継いだものの、対北朝鮮外交に果たしてきた中聯部の役割をあまり重要視していないように見受けられる。理由の如何にせよ、上述したような習近平政権下での中聯部に関する変化は、北朝鮮もプラスには捉えていないのではないか。

 また、駐北朝鮮大使人事でも習近平政権の対北朝鮮政策の一端がうかがい知ることができる。上述したように、中聯部出身の劉洪才は、駐北朝鮮大使に就任後、北朝鮮の若き指導者となった年下の金正恩とも良好な関係を築き、積極的に中朝両国関係の進展を図った。しかし習近平は、2015年3月に、駐北朝鮮大使をそれまで中聯部常務副部長であった李進軍へと交替させている。北朝鮮と外交上のパイプの太い中聯部、しかも同部ナンバー2の常務副部長から引き続き大使を任命したことは、習近平政権の対北朝鮮外交の一貫性を示していると言える。しかし、日本担当が長いだけでなく北朝鮮を含む東アジアを所管する中聯部アジア局の副局長と局長を経験した劉洪才と異なり、現大使の李進軍は元々ドイツ語専攻で中聯部では主にヨーロッパを担当してきた人物であり、経験した局長ポストも西欧局長である。劉洪才に比べれば、李進軍は北朝鮮情勢やアジア情勢に馴染みが薄いと判断せざるを得ない。公式報道などを確認する限り、金正恩と良好な関係を構築し親しげな場面も多く見られた劉洪才と異なり、李進軍は北朝鮮に赴任後、金正恩と直接的に会えていない可能性が高い。駐北朝鮮中国大使館のウェブサイトに、李進軍と金正恩が同一の場面に収まった画像が掲載されていないことも、大きな変化だと言える。以上のような事情から判断すると、結果として見れば、今回の駐北朝鮮大使の交替が適材適所ではなく、「中聯部常務副部長というポストからの起用」という前例踏襲型の人事であることが強く推察され、それが中朝両国関係にマイナスの影響を及ぼしている可能性が高い。中聯部幹部人事だけでなく駐北朝鮮大使人事からも、習近平政権の対北朝鮮外交に関する意気込みや関係構築に向けた下地作りは見受けられない。

4.まとめ

 ここまで見てきたように、朝鮮戦争の休戦後、中国は半世紀以上にわたり北朝鮮に対して主に経済的な支援を熱心に行ってきた。それを制度的に裏付けているのが、1961年に締結された中朝友好協力相互援助条約であり、同条約は北朝鮮にとって外交上の大きな後ろ盾になっている。しかし、2000年代に入り、中国国内では中国の意向に沿わない北朝鮮の振る舞いに業を煮やし、一方的な支援について見直すべきだとの意見が出始めた。それは、中朝友好協力相互援助条約の見直し論にも結びついてきており、中国の対北朝鮮外交に対しては相当程度のフラストレーションが溜まっているものと考えられる。

 また、習近平は国家副主席に就任した際には初外遊に北朝鮮を選び金正日総書記と会談したのにも関わらず、金正恩体制のスタート後に自らが国家主席に就任した際には北朝鮮を訪問せず、かつ、現在に至るまで中朝両国間で首脳会談は実施されていない。習近平-金正恩ラインは、これまでの中朝両国関係に無いほどの距離感があると言える。

 さらに、習近平は、外交の集約化を意図したであろう胡錦濤・戴秉国がスタートさせた外交部と中聯部との幹部交流人事の枠組みを引き継ぎ、中聯部の主要幹部を他省庁から登用した。これにより、長年、中朝両国間の外交を主に担ってきた中聯部の中国国内での政治的・行政的地位の低下が生じた可能性がある。加えて、駐北朝鮮大使の交代により、北朝鮮国内に常駐して現地での外交関係構築の任に当たる大使館外交でも、相当程度の劣化が見受けられる。これを回復させるためには、まだ相当程度の期間が必要だろう。

 以上の点を総合的に勘案すると、習近平政権の対北朝鮮外交は、それ以前の政権に比べて冷ややかなもので、「血の同盟」「血の絆」と呼ばれる状態とは程遠い。今後、北朝鮮が中国の意向を無視して核実験や弾道ミサイルの発射を繰り返すようなことになれば、世論の後押しを武器に、習近平政権が本気で中朝友好協力相互援助条約の見直しや破棄を提案してくることは否定できない。そうなれば、中国という最大の後ろ盾を失う金正恩が頼るのは、自国の軍事力、特に、核による抑止力ということになり、これは更なる悪循環をもたらすことにつながる。こうした構図は、日本の領土・EEZを含めた東アジア海域全体の安全保障上の不安定化と同海域の安全な通航などに対する現実的な危険性を示すものであり、海洋安全保障の側面からも看過できない問題である。

トランプ米大統領は、2017年4月13日に自身のツイッターで「私は中国が北朝鮮問題に適切に対処してくれるという強い確信を持っている(I have great confidence that China will properly deal with North Korea.)」と述べている。しかし、習近平政権の対北朝鮮外交の特徴から判断すれば、中朝両国間にはこれまでにないほどの距離感と隙間風が存在しており、北朝鮮問題に対する中国の介入(圧力)に過剰な期待を持つことは危険であろう。米国も我々日本も、中朝両国の外交的関係が、これまで経験したことのない状態にあり、かつ、早急に改善される見込みが薄いことを理解しておくべきである。

5.おわりに

 中朝両国関係は、共に朝鮮戦争を戦ったというイメージもあって、永遠に切っても切れぬ関係にあると錯覚しがちである。また、中国研究においても、党外交という中国の外交政策の一翼を担う中聯部の動向を人事面から捉える機会は少ない。本稿はこうした見過ごされがちな側面に光を当て、習近平政権の対北朝鮮外交の特徴を明確化させることを意図したものである。

 米空母カール・ビンソンの動向もあり、2017年の春は北朝鮮問題に世界中の衆目が集まる季節となった。米国・中国・北朝鮮は、いずれも日本と地理的にも安全保障的にも密接な関係を有する国である。我々は、現在の緊張感と関心の高さを今後も維持していくことが必要であるし、本稿がその一助となれば幸いである。



[1] 米空母 姿潜め航行 北朝鮮に心的圧力 航跡再現」毎日新聞ウェブサイト201757
[2] 『中国外交辞典』20001月、世界知識出版社
[3] 田町典子「中国の対外援助の歴史的考察(上)」『世界週報』200538日付、28頁。
[4] 金煕徳「戦後中国の対外援助政策」『東亜』200312月付、6169頁。
[5] 『中国外交辞典』20001月、世界知識出版社
[6] 『中国外交辞典』20001月、世界知識出版社
[7] アジア調査会編『中国総覧』1971年版、毎日新聞社
[8] 『東亜日報』2010224日付
[9] 『戦略と管理』20044月号
[10] 『世界経済と政治』20039月号
[11] 『中国外交部報道官記者会見』200865
[12] 刘大使夫妇出席平壤绫罗游乐园竣工仪式」『駐北朝鮮中国大使館ウェブサイト』2012726日付