ジョセフ・ナイ追悼:国際関係理論と米国の国際的リーダーシップへの貢献

福田 潤一
2025年5月6日、ハーバード大学特別功労教授のジョセフ・ナイ(Joseph S. Nye, Jr.)が死去した。ナイは言うまでもなく冷戦後の日米同盟の再定義を導いた1995年の「ナイ・イニシアチブ」、そして2000年から6回に渡って公表された日米同盟の姿に関する提言である「アーミテージ・ナイ報告」で有名である。その共著者だったアーミテージも同年4月13日に死去しており、両者が立て続けに死去したことは、第一期のトランプ政権以降の米国の本質的変化と相まって、時代の転換点を感じさせる出来事であった。
ナイは上記の通り、日米同盟のあり方について大きな提言や貢献をしてきた人物であるとの印象が日本では強い。ただし、同時に彼は米国における国際関係理論の発展や、米国のあるべき国際的リーダーシップ像についても多くの学問的そして政策的貢献を行ってきた人物でもあった。本稿ではともすれば日米同盟関連に集中しがちな日本における評論とあえて差別化し、日本との関わりに限られない幅広い視点から、国際関係理論及び米国の国際的リーダーシップへの彼の貢献について振り返ってみたい。
1.リベラリズムの論客としての出発点とリアリズムとの対話
あまり知られていないが、ナイの研究活動の出発点はアフリカにおける地域統合の研究であった。1965年にハーバード大学での博士論文を書籍化した『汎アフリカ主義と東アフリカ統合(Pan Africanism and East African Integration)』を出版している1。この背景には彼がそもそも当時有力だった国際関係理論における「リアリズム(realism)」2の代替的な研究路線を模索していたことがあると思われる。要するに国家主体と物理的なパワーを中心として対立と均衡のロジックで世界を描く「リアリズム」ではなく、国家主体のみならず非国家主体まで含めた軍事力以外の要素で結びつく協調的な国際関係の姿に関心があったと思われる。
それがのちに彼を国際関係理論における「リベラリズム(liberalism)」の論者として広く世に知らしめることになった「複合的相互依存(complex interdependence)」の研究に繋がった。彼とロバート・コヘイン(Robert O. Keohane)の共著として1977年に最初に出版された『パワーと相互依存(Power and Interdependence)』は今でも国際政治の学徒を志す者にとって必読の古典的名著である。筆者が東大駒場キャンパスで過ごした大学院生(修士課程)時代にも、国際関係論の必読文献を精読させる「スーパーバイズド・リーディングス」の中の一冊として同書を熟読したのは良い思い出である。
複合的相互依存論とは、複合的な相互依存関係が成立している主体間では軍事力の効用が低下し、国際的な協力関係がより成立しやすくなるという理論である。ただし、その中でも「敏感性(sensitivity)」や「脆弱性(vulnerability)」に基づく権力関係は存在しており3、リアリスト的な軍事力行使ではない形で強制力が発揮される局面もあるというのが特徴的な議論であった。いわばリアリズムとは異なるリベラルな国際関係の姿を描きつつも、リアリズムの要素も一部取り入れたのが複合的相互依存論であり、これをもってリベラリズムとリアリズムの対話や論争の土台を確保したとみることもできる訳だ。
実際、共著者のコヘインはその後、覇権安定論や「レジーム(regime)」の議論などを通じて1980年代には所謂「ネオ・ネオ論争4」(ネオリアリズムとネオリベラリズムの論争)を展開していくことになる。この論争は米国における国際関係理論の発展に大きな影響を与え、「国際レジーム」や「繰り返し囚人のジレンマ・ゲーム」の分析などを通じてその後の「制度論」の発展や「コンストラクティビズム(constructivism)」の登場に寄与することになる。コヘインもこの流れの中でもう一つの古典的必読書である『覇権後の国際政治経済学(After hegemony)』(1983年)5を執筆することになるのだが、ナイ本人はこうした学術的な理論の論争には直接的に深入りすることはなかった。
というのは、ナイは1977年から79年までカーター政権の国務次官補を務めたことをきっかけに政策分野に関わるようになり、特に核兵器の問題に関心を持つようになったからである。時代的にも当時はソ連のアフガニスタン侵攻やレーガン政権の誕生で新冷戦の要素が強まったタイミングであった。このため、1980年代には『核兵器と共に生きる:ハーバード核研究グループ報告書(Living with Nuclear Weapons: A Report by the Harvard Nuclear Study Group)』(1983年)、『鷹、鳩、フクロウ:核戦争回避のためのアジェンダ(Hawks, Doves and Owls: An Agenda for Avoiding Nuclear War)』(1985年)、『核戦略と倫理(Nuclear Ethics)』(1986年)などの一連の著作(単著・共著含む)を発表している。
ただ、これらも基本的には彼の根本的な問題関心と軌を一にするものではあっただろう。つまり、核抑止というリアリズムの中核のような分野においても、国家間には核戦争回避という共通利益や守るべき倫理などが存在しており、そのために協力が成立し得る余地があるというリベラリズムの問題意識が横たわっているからだ。ナイはあくまでリベラリズムの論客ではあったが、理論的な立場と共に実務的な視座も持ち、厳しい国際関係の現実から目を背ける人物ではなかった。こうした彼のスタンスがリアリズムの論者との対話を可能にし、国際関係の洞察を深めることに貢献したと思われる。
2.米国の相対的衰退を巡る論争と日米同盟再定義
1990年代に入ると冷戦の終結に伴う緊張緩和で核に関する関心は後退するが、同時に登場したのが米国の相対的衰退を巡る論争である。冷戦終結から35年以上を経た今日でこそ、ポスト冷戦期は米国が単極的な優位の下に強力な国際的リーダーシップを発揮した時代であったとの記憶が残るが、実は1980年代からの流れを踏まえると、90年代がそのような時代になるとは当時必ずしも予見はできなかった。
というのは、米国は1960年代以降の世界の「多極化」の中で長く相対的な衰退期にあると思われていたからである。1971年のニクソン・ショックで米国は金本位制を放棄し、変動相場制に移行していた。日独のような同盟国の経済的台頭で米国は劣勢になり、財政赤字と貿易赤字の「双子の赤字」を抱える中で貿易摩擦が深刻化しつつあった。軍事的にもベトナム戦争のトラウマが残り、「ワインバーガー・ドクトリン」や「パウエル・ドクトリン」6に象徴されるように、対外軍事関与に消極的な時代であった。冷戦にこそ「勝利」したものの、それはゴルバチョフの登場に伴うソ連の自壊という性格も否定し得なかった。
そうした中で冷戦後の世界では米国の相対的衰退が更に進み、世界の「多極化」が不可避的に進行し、日独の軍事大国化などを通じて世界がかつてのような大国間の権力政治の姿に戻るという予測が無視できない重みを伴って主張されていた。実際に1987年に刊行された歴史家ポール・ケネディ(Paul M. Kennedy)の著作『大国の興亡:1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争(The Rise and Fall of the Great Powers: Economic Change and Military Conflict from 1500 to 2000)7』はそうした未来を予感させる内容であったし、加えてジョン・ミアシャイマー(John J. Mearsheimer)やケネス・ウォルツ(Kenneth N. Waltz)などの当時のリアリストはまさにこうした主張を展開していた8。しかしそれらのリアリストの主張に対して、リベラルの立場で強く反駁したのがナイなのであった。
ナイは1990年に発表した『不滅の大国アメリカ(Bound to Lead: The Changing Nature of American Power)』において、米国の相対的衰退という主張は旧来の力の分析に基づいていると批判している。目に見える軍事力や経済力といった力の要素では確かに米国以外にも強力な国家が出現しつつあるが、複合的相互依存下の世界で力の要素はますます変化しており、目に見えない要素、例えば国の結合力であったり、文化の普遍性であったり、国際機構や制度の活用などの要素において、米国は引き続き強さを保っていると分析している。
そして、相互依存の時代に見合う力の源泉を、伝統的なハード面でも新しいソフト面でも共に備えているがゆえに、米国は引き続き国際的なリーダーシップを発揮する国であり続けるだろうと主張したのである。このナイの主張はポスト冷戦期における米国の国際的地位を見事に予見したものであると共に、後の「ソフト・パワー」及び「スマート・パワー」論への重要な布石となっていった。ここでも彼は伝統的な「ハード・パワー」の要素を否定することなく、しかし新たに力のソフト面への考慮を深めることにより、米国の相対的衰退を主張する議論に反駁して見せたのであった。そして時代は概ね、リアリストらの予測に反し、ナイが予測する通りの米国優位の流れとなっていった。
1990年代のナイにはもう一つ、「ナイ・イニシアチブ」に基づく日米同盟再定義の立役者としての活躍があった。このことは日本人にはよく知られた話なので簡潔に言及するが、当時の日米同盟は冷戦終結に伴う国際緊張の緩和と、日米構造協議に伴う貿易摩擦の深刻化によって、方向性を見失い「漂流」していた9。そうした中で1993~4年には北朝鮮の核疑惑に伴う朝鮮半島危機が本格化するが、明らかになったのは、日米同盟がこうした周辺地域の有事において有効な対応を採れる状況にないという真実であった。
ナイは1994年から95年にかけてクリントン政権における国際安全保障問題担当の国防次官補という役職にあったが、こうした状況に危機感を抱いた。彼は何よりも冷戦後も米国が国際的なリーダーシップを発揮し続けるためには、海外における米軍の駐留継続が不可欠であり、また日本のような自由や民主主義といった価値観を共有する諸国との協力関係が重要であると考えた。そこで1995年2月、国防総省は彼が中心となって作成した「東アジア戦略報告(EASR)10」を公表することになった。この報告書は東アジアにおける米軍10万人態勢を維持しつつ、日本を含む同盟国との協力関係強化を志向するもので、これによりその後の日米同盟再定義が促進されたため、「ナイ・イニシアチブ」とも呼ばれた。この報告書で「安全保障とは酸素のようなものであり、失われるまでその存在に気付かないもの」「米国の安全保障プレゼンスは東アジアの発展にこの『酸素』を供給するのに貢献」と表現されたことは、安全保障の本質を示すものとして多くの人々の記憶に残っている。そして、この取り組みが1996年4月の日米安全保障共同宣言を経て、沖縄・普天間基地の移設と返還を定めた同年12月の沖縄に関する特別行動委員会(SACO)最終報告、「周辺事態」への対応を定めた翌年9月の「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」改定などに繋がっていったのである。
「ナイ・イニシアチブ」及びそれに続く同盟再定義は、日米関係が冷戦終結と貿易摩擦を契機に「漂流」したまま関係破綻に至るのを防ぐ意味において、まさに冷戦後の両国間関係を根底から規定する重要な意味を持った。ナイはこの文脈で自身が理想と考える米国の国際的リーダーシップの構築に自ら関わったとも言える。ナイはその後も日米同盟への関心を持ち続け、2000年以降、アーミテージと共に6回に渡る「アーミテージ・ナイ報告」の公表(2000年、2007年、2012年、2018年、2020年、2024年)11に携わったのは周知の通りである。そして、これらは、例えば2015年の「平和安全法制」における日本側の限定的な集団的自衛権行使の容認の決定などに大きな影響を与えたのであった。
3.「ソフト・パワー」論と米国の国際的なリーダーシップ
2001年9月の米同時多発テロの発生は、世界そして米国の外交・安保政策に重大な影響を与えたが、米国がグローバルな対テロ戦争を遂行する中で問題視されるようになったのが、米国のパワー行使における正統性(legitimacy)確保の問題であった。当時、G・W・ブッシュ政権はいわゆる「先制攻撃ドクトリン12」を唱えて2003年のイラク攻撃に突き進んだが、この過程が国際法を無視するものであると見られたり、結果的にイラクで大量破壊兵器が見つからなかったりしたことから、米国のパワー行使が正統性を伴っていないという批判に直面していた。そうした背景で米国の国際的リーダーシップに陰りが感じられる状況にあったが、ナイはこれを契機に「ソフト・パワー」論を中心とした米国の国際的リーダーシップ立て直しのための一連の著作を発表している。
まずは2002年に発表した『アメリカへの警告:21世紀国際政治のパワー・ゲーム(The Paradox of American Power: Why the World’s Only Superpower Can’t Go it Alone)』において、当時既に単極(unipolar)として認識されていた米国の軍事力を中心とする圧倒的な力の優位を認めつつも、ナイはこうした物質的な力の優位を背景した単独主義(unilateralism)の追求が、むしろ米国の国際的リーダーシップを損なうパラドックスについて警告している。ナイに言わせれば、米国の国際的リーダーシップにはこうした物質的な力の優位に加えて、「自国が望むものを他国も望むようにする力」と定義される「ソフト・パワー」の要素が不可欠である。ナイは、如何に単極的優位に立つ米国であれども、単独主義的傲慢さを伴う外交政策の追求は他国の否定的な反応を導き、米国の国際的なリーダーシップ発揮の制約となることを危惧したのである。
ここで提起した「ソフト・パワー」の概念を、ナイは続く2004年の著作『ソフト・パワー:21世紀国際政治を制する見えざる力(Soft Power: The Means to Success in World Politics)』で更に深堀することになる。この著作でナイは「ソフト・パワー」を「自国が望む結果を他国も望むようにする力であり、他国を無理やり従わせるのではなく、味方につける力」と定義した上で、「人々の好みを形作る能力に基づいている」と指摘している。そして国の「ソフト・パワー」の源泉として「文化」「政治的な価値観」「外交政策」の三つを重視し、これらの総体として、強制や誘導を軸とする「ハード・パワー」と相互作用する形で国の力として発揮されると見たのである。
この「ソフト・パワー」の概念は、二つの点でナイのそれまでの活動の集大成であったと見ることができる。一つは、複合的相互依存下で主体間の関係性を制御する力の新たな要素としての「ソフト・パワー」である。グローバル化でますます進む相互依存状況において軍事力の効用は低下するというのがナイの持論であったが、これに伴い力の要素が拡散・変化する中で、伝統的な「ハード・パワー」と並んで「ソフト・パワー」が無視できない重大要素になるというのが彼の議論の中核であった。
そしてもう一つは、米国の国際的リーダーシップのあり方に関わる問題である。冷戦後の米国は「ハード・パワー」の文脈で他に並び立つものがない単極となったが、そんな米国も価値観を蔑ろにし、外交政策で誤りを犯せば「ソフト・パワー」を棄損して国際的リーダーシップを発揮できなくなる。同時多発テロ以降の対テロ戦争とイラク攻撃に至る流れで米国はこの過ちを犯し、国際的な孤立に直面することとなったが、ナイは「ソフト・パワー」の重視で米国の国際的リーダーシップを再構築すべきことを提唱したのである。
ナイのこの「ソフト・パワー」論は、米国の国際的リーダーシップのあり方に焦点を当てた議論ではあったが、その枠組みを越えて現代における力の源泉とは何か、「ハード・パワー」をさして持たない国でも国際的影響力を行使するためにどのような要素に注目すればよいか、などの様々な議論を生むこととなった。その中でともすれば「ソフト・パワー」の要素を過剰に重視し、「ハード・パワー」の要素を軽視する見方も出てきたのではあるが、ナイはこれに対してはあくまで両者が重要であると戒める立場を採っている。
それが2007年に発表した戦略国際問題研究所(CSIS)のスマート・パワー委員会の報告書、そして2011年に発表した著作『スマート・パワー(The Future of Power)』の主張であった。「スマート・パワー」とは「ハード・パワー」と「ソフト・パワー」を組み合わせて、様々な状況に合わせて効果的な戦略を構築する能力と定義されるが、ナイは「ソフト・パワー」を重視しつつも、あくまで「ハード・パワー」との効果的な組み合わせこそが重要だと述べたのであって、リアリズムの見地を否定したわけではなかった。リアリズムと距離を取りつつも、リアリズムを否定するわけではない。そこに彼の一貫した立場があったと改めて指摘できる。
4.初学者のための入門書としての『国際紛争:理論と歴史』
こうして1990年代以降、国際関係における力の要素を巡る研究と米国の国際的リーダーシップのあり方を巡る議論に関心を寄せていたナイであるが、他方で1995年から2004年までの彼はハーバード大学ケネディ・スクール学長という立場にもあり、教育者としての姿も持っていた。諸外国の政府関係者の中には、ケネディ・スクールへの留学を通じてナイの知己となった人物も数多いものと思う。
その中で、彼が教育者として残した特筆すべき業績の一つに、国際関係論を学ぶ初学者のための入門書として『国際紛争:理論と歴史(Understanding International Conflicts: An Introduction to Theory and History)』を、版を重ねて長く出版し続けたことがあった。この書籍は初版が1993年に発表されたが、その後、第8版から書名をUnderstanding Global Conflicts and Cooperation: An Introduction to Theory and Historyに変え(日本語版は変更なし)、また共著者に教え子のD・ウェルチ(David A. Welch)を加える形で、2017年の累計第10版まで改訂され出版され続けた。
この書籍は四半世紀に渡って改訂を繰り返しながら出版され続けてきたため、その内容には時期によって変化があるが、例えば2017年の第10版の目次は次のようになっている。
- 第1章 世界政治における紛争と協調には一貫した論理があるか?
- 第2章 紛争と協調を説明する― 知の技法
- 第3章 ウェストファリアから第一次世界大戦まで
- 第4章 集団安全保障の挫折と第二次世界大戦
- 第5章 冷戦
- 第6章 冷戦後の紛争と協調
- 第7章 現在の引火点
- 第8章 グローバリゼーションと相互依存
- 第9章 情報革命と脱国家主体
- 第10章 未来に何を期待できるか?
この章立てと「理論と歴史」という書籍の副題からわかる通り、本書においてナイが重視したのは、まず国際関係の理論を学ぶことの重要性であり、そしてそれを歴史と今日の世界政治に照らして解釈することの意義であった。
序盤で指摘される通り、国際政治には時代を越えて変わっていない性格があり、例えば古代ギリシャの歴史家ツキュディデスの描くペロポネソス戦争の姿は、今日の国際政治とも顕著な類似性を見せる(特に権力政治の本質を鋭く描いたとされる「メロス島対話13」のエピソード)。他方で、経済的相互依存の増大や脱国家的な地球社会の進展などの、変化を無視できない側面があることも事実であり、こうした継続性と変化の見方は、リアリズムとリベラリズム(及びコンストラクティビズム)の視点の差として捉えることが可能である。ナイは理論的な視座を得ることで、複眼的に国際政治を捉えることを重視するのであった。
同時に、本書でナイは歴史を学ぶことの重要性も強調している。理論を知るだけで国際政治を理解することはできない。現実の世界政治が辿ってきた推移、すなわち歴史を知ることも不可欠である。とりわけ本書のテーマとの関連で言えば、世界政治において対立と協調がどのように起こってきたのかを知ることが重要となる。本書は第一次世界大戦、第二次世界大戦、冷戦(における大国間戦争の不在)、そして今日における紛争について解説を行っており、加えてグローバリゼーション及び相互依存、情報革命と脱国家主体といったリアリズムでは捉えきれない今日の世界政治の課題についても取り扱っている。
理論と歴史をコンパクトにまとめた本書は国際関係論の初学者にとって極めて有用な入門書であり、この分野を学んだ人々の多くが初期に手に取ったことがあると思う。筆者自身、学生時代に本書から学んだことは多かったし、また後に筆者自身が担当した大学及び大学院での講義でテキストとしても使用した。本書はリベラリズムの立場からのリアリズムとの対話というナイの問題意識の延長線上に書かれたものではあるが、同時に世界中の国際関係論を学ぶ人々にとって必携に等しいほどの重要性を持った入門書でもあったのである。
5.国際政治/米国政治の変質と米国の国際的リーダーシップの減退
既に触れてきたように、ナイの生涯を貫くテーマは「(リアリズムの尊重を伴いつつも)リベラリズムの見地からのリアリズムへの反駁」と「ソフト・パワー重視の見地からの米国の衰退論への反駁」であった。そしてこれらは相互依存の進展や力の要素の変化によって軍事力や「ハード・パワー」のみでは実現できないものがある、という点において、相互に連関した議論でもあった。
ナイの主張には、こうした立場が時代を越えて再帰的に表れている。複合的相互依存を論じる過程で重視された第一の論点は、その後の80年代に核兵器の問題を取り上げた際に繰り返されているし、1990年代初頭の米国の相対的衰退論を反駁した際の『不滅の大国アメリカ』の議論は、その後の単極時代に米国の国際的リーダーシップ喪失を回避するための『ソフト・パワー』論として繰り返されている。特に後者のナイの立場は少なくとも1990年代初頭から一貫しており、米国が「ハード・パワー」のみならず「ソフト・パワー」においても優位に立つ以上は米国の国際的リーダーシップは揺るがない、というのがナイの確固たる信念でもあった。
しかしそうしたナイの立場に本質的な挑戦を突き付ける形となったのが2010年代以降の国際政治の展開であった。米国はイラクとアフガニスタンの二つの占領統治を巡る混乱で疲弊し、また2008年の世界金融危機で累積債務を拡大させて、国内の格差が広がり、政治的分極化も顕著になった。結果として米国では既存政治への反発が起き、対外関与よりも国内の再建を訴える声が強まった。「国内における国家建設(nation building at home)」のために米国の対外関与を引き下げる内向きな「オフショア・バランシング(offshore balancing)」論や「リトレンチ(retrench)」論14が流行っていくのはこの時期以降であった。そのため2009年に誕生したオバマ政権は国防予算の拡大に歯止めをかける一方で、ロシアとは関係の「リセット」、中国とは「新型大国間関係」の構築を模索し、同盟国には負担分担の強化を要請した。2013年9月には「世界の警察官」としての米国の役割自体も否定した。
しかし世界金融危機に米国が有効に対処できず、主要先進国たるG-7の限界も露呈して、新興国中心のG-20が世界政治の表舞台に躍り出る形となったことは、現状に不満を抱く中ロのような国家を現状変革に駆り立てたのであった。すなわち彼らは世界政治の「多極化」が米国の相対的な衰退をもたらしていると論じ、既存のルールを彼らの意思が反映されていない米国や欧州主導で作られた「不公平」なものであると断じ、こうした現状(status quo)への挑戦を躊躇わなくなったのである。それがロシアの場合は2014年のウクライナ侵攻であったし、中国の場合は2013年以降の東シナ海における防空識別区(ADIZ)設定や南シナ海における国連海洋法条約(UNCLOS)に違反した「九段線」の主張や環礁の一方的な埋め立てなどであった。そして、オバマ政権がこうした中ロの現状変革行為に有効な対処ができなかったため、米国の国際的リーダーシップの危機を指摘する声が再び強まってきたのである。
こうした中、ナイは2015年に書籍『アメリカの世紀は終わらない(Is the American Century Over?)』を発表して、再び米国の国際的リーダーシップの衰退論に対して反駁している。この本におけるナイの主張は、本質的にはそれまでの議論の繰り返しである。すなわち、米国には「ハード・パワー」に加えて「ソフト・パワー」の優位があり、これが米国の国際的リーダーシップを確固たるものにしている。中ロなど米国に追随しようとする国家には、総合的に見て米国に太刀打ちできるほどの強みはない。特に、中国の台頭には看過すべからざるものがあるが、その経済成長には多くの問題があるし、権威主義国家である以上、「ソフト・パワー」面の課題は極めて大きい。中国には米国に匹敵する国際的リーダーシップを発揮できる可能性はなく、米国の優位は引き続き保たれている…というものであった。 このナイの議論は、2015年に行われたことがポイントであった。この時点でこうしたナイの主張には未だ説得力があった。ところがその翌年に起こったことが米国のイメージを一気に変えてしまった。すなわち、2016年11月のドナルド・トランプの大統領選挙における勝利である。トランプは従来の米国の国際的リーダーシップについて「ディープステート」に操られたものだと断じ、同盟国を含めた他国による米国の搾取をもたらしていると強烈に非難した。そして「米国第一(America First)」の路線を打ち出し、関税引き上げを中心とする保護主義的政策や、ロシアや北朝鮮のような権威主義国への接近、そして同盟国への負担分担要求の圧力増を躊躇わない姿勢を示したのである。更に、彼は国内のリベラルな価値に対する挑戦も躊躇わなかった。白人至上主義の価値観に親近感を示し、「黒人の命も大切だ(Black Lives Matter)」運動への嫌悪感を隠さず、「国境の壁」建設をはじめ移民の受け入れや送還に関しては極めて厳格な立場を採った。そして民主主義や法の支配の価値観そのものに対しても、2020年の米大統領選における敗北を認めず、2021年1月6日の米議会襲撃を扇動するような姿勢すら示したのであった。
こうした第一次トランプ政権(2017-21年)の衝撃は、控えめに言ってもナイが重視する米国の「ソフト・パワー」への重大な打撃とならざるを得なかった。自由貿易を否定し、敵対的な権威主義国に接近し、同盟国に攻撃的な姿勢を示すことは、米国の国際的リーダーシップを深刻に棄損するものであった。トランプとその支持者たちによる米国内のリベラルな価値に対する攻撃がそれに更なる拍車をかけた。米国は他国から見て、世界の模範になるような「例外的(exceptional)」かつ「丘の上の町(town on the hill)」のような存在ではなくなり、むしろ他の権威主義国と結託して既存の国際秩序を破壊する「ならず者」的な現状変革国家のように見なされることになった。
2021年からのバイデン政権はこのトランプ路線を否定して再び米国の国際的リーダーシップの回復に努めたものの、本質的なところで米国が従来の国際的なリーダーシップの発揮に消極的であることは変わらなかった。すなわち、バイデン政権も環太平洋パートナーシップ協定(TPP)への復帰をはじめとする自由貿易推進の路線には戻らず、トランプ政権期からの保護主義的な路線を引き継いだほか、対外軍事関与に消極的なままで、2021年12月には当時迫りつつあったロシアによるウクライナ侵攻の危機に際してあえて米軍派遣を否定するなど、2022年2月からの本格侵攻の生起を助長するような姿勢さえ示したのであった。そして、本格侵攻が始まって以降も、ロシアとの「第三次世界大戦」を回避するという名目のもと、ウクライナに対する軍事支援に歯止めをかけ続け、同年9月以降のウクライナ側の反攻を困難なものとした。日本にとっては、バイデン政権が(戦略競争相手へのサプライ・チェーン上の依存を避けるための)「フレンド・ショアリング」を唱えつつ、2025年1月の退任直前に日本製鉄によるUSスチール買収を「国家安全保障」の見地から拒否するとした保護主義的決定を行ったことが記憶に新しく15、こうしたことは従来の米国のリーダーシップを考えればあり得ない展開であった。
そして2024年11月の大統領選挙では、トランプが再び米国大統領に返り咲くことが決定した。トランプは2021年1月の米議会襲撃で弾劾訴追されていたにも関わらず責任を免れ、その他の多くの訴訟にも制約されず、「米国を再び偉大に(Make America Great Again)」をスローガンとして、激戦州全てを制覇する形で勝利を実現した。一期目の当選はロシアの選挙介入などあり、まだ「偶然の(accidental)」勝利と評する余地があったものの、二期目の当選は明らかに有権者にとって十分に判断する材料がある中での明らかな勝利であった。世界から見れば既存の米国の国際的リーダーシップを否定するトランプ路線が米国の有権者に支持されていることが明確になった訳である。こうしてナイが重視してきた米国の「ソフト・パワー」の根幹が否定されていくこともまた明白になったのである。
2025年1月に始まった第二次トランプ政権は、米国の「ソフト・パワー」の源泉を根底から破壊していく姿勢を明確にしている。本稿の執筆を開始した6月前半時点で既に、同政権は「相互関税」の発動を中心に全世界と貿易戦争を戦う姿勢を鮮明にし、またイーロン・マスク率いる政府効率化省(DOGE)の主導により米国国際開発庁(USAID)をはじめとする政府機関の解体を図り、更にはパナマやカナダ、グリーンランド等に対する領土的野心すらも明らかにして、米国の国際的なイメージ悪化に拍車をかけている。更に侵略者であるロシアに擦り寄る形でウクライナに不利な「停戦」を強要しようともしている。更には国際法上違法とみられるイスラエルのイランに対する「先制攻撃」に便乗する形で、イランの核施設を空爆する行動も起こしている。加えて、国内政策でも移民に対する攻撃を加速するほか、リベラルな価値観の牙城であると見なした米大学群を予算の剥奪などの手段を通じて威圧している。とりわけナイが長年関わったハーバード大学はその標的となり、「反ユダヤ主義」の取り締まり不足を名目に、政府との全契約の解除や留学生の受け入れ資格の剥奪にまで攻撃が及んでいる。
こうした傾向が続けば、これまで米国の「ソフト・パワー」の源泉であった自由や民主主義、法の支配、開かれた社会などの要素は深刻な打撃を受け、「相互関税」やグリーンランド併合要求のような他国に対する独善的な振る舞いと相まって、米国の国際的なリーダーシップを致命的に弱体化させることは火を見るよりも明らかである。何よりも交渉上の優位追求のために「予測不可能性(unpredictability)」を強調することは、米国が「信用ならない存在」であるとの他国の確信を強めるだけであろう。
加えて、トランプ政権の振る舞いは「ハード・パワー」を含めた米国の国力そのものを深刻に損なっているとも指摘できる。関税引き上げのような保護主義の取り組みは米国の産業をますます非効率にすると共に国内のインフレを加速させて米国民を疲弊させるだろうし、移民の阻止や外国人留学生の受け入れ停止は労働力不足やイノベーションの停滞を招いてやはり米国を衰退させるだろう。同盟国を蔑ろにしたり、敵対的な権威主義国に擦り寄る姿勢は、やがて米国最大の資産である同盟国及び友好国との連携のネットワークを大きく棄損する可能性もある。そうなれば米国はもはや国際的なリーダーシップ行使の「意図」が問題視されるばかりではなく、そもそもそのための「能力」自体が疑問視される立場にも転落してしまうであろう。
6.時代の転換点:新たなパワーとリーダーシップを巡る議論へ
米国の国際的リーダーシップを巡るナイの主張は、米国の衰退は他国の台頭により相対的に引き起こされることは考えにくい、というものであった。実際、今米国の国際的リーダーシップが相対的に問題を抱えても、これに代わる他国のリーダーシップ(や優位)が米国と同じレベルで現れて来ている訳ではない。これは、イアン・ブレマー(Ian Bremmer)が「Gゼロ」という言葉で表す通りの世界であり16、米国の衰退の結果、リーダーシップを発揮する主体が不在となって世界が混沌としている状況を指している。このことは、これまで米国が優位を示してきた「ソフト・パワー」の要素を、たとえ「ハード・パワー」面での台頭があったとしても、他国が容易に模倣できないためであると考えられる。この点でナイの主張はあくまでも正しかったと評価することができる。
ただし、ナイは同時に、米国自身が国内問題を深刻化させた結果として「ソフト・パワー」発揮の基盤を失い、リーダーシップの減退が起こる絶対的な衰退(absolute decline)については起こり得る、と考えていた。米国が国内で文化戦争を起こしたり、移民の受け入れを巡る分断を深めたり、経済的停滞や政府の債務拡大が進んだり、教育の質が低下したり、格差の拡大が進んだり、政府機関に対する信頼度が低下したりすることは、いずれも米国の「ソフト・パワー」発揮の基盤を損ない、米国の国際的リーダーシップに負の影響があることをナイは『アメリカの世紀は終わらない』で論じている。特に政府機関の信頼性と格差の拡大、将来の労働力への教育が大きな問題であることを認めている。しかし、そうした懸念があるにしても、これらの問題は管理可能であり、米国は国内問題による絶対的衰退の局面にはない、というのが2015年時点でのナイの結論だったのである。
後知恵かもしれないが、思うにナイをはじめとする米国のリベラルが見落としていたのは、トランプのような反リベラルのカリスマが如何に米国内で政治的な求心力を強め得るか、の可能性であった。それほどまでに米国民が国際的リーダーシップを担うことに疲弊し、既存のエリート(批判者が「ディープステート」と糾弾する)が政治や行政を主導することを嫌悪し、自由貿易の推進や拡大抑止の提供で「他国に搾取される」ことに辟易し、リベラルの唱える「多様性・公平性・包括性(DEI)」のような「目覚めた」価値観に拘束されることに拒絶感を示していたことをリベラルは十分に深刻に受け止めていなかった。こうしたものはいずれもナイが米国の「ソフト・パワー」の源泉と見なす要素であったが、リベラルが気付かぬ間に米国ではそれらへの反発が強まり、反リベラルの運動に勢いが出始めていた。後にリベラルの論客であるロバート・ケーガン(Robert Kagan)が指摘したように17、米国にはリベラルの伝統がある一方で、南北戦争以前にも遡る奴隷制由来の確固たる反リベラルの伝統があり、今日に続く後者の力強さを見誤ったところに、ナイをはじめとするリベラルの失敗があったように思われる。
いずれにしても、2025年8月の米国の姿は、かつてナイが理想とした「ハード・パワー」と「ソフト・パワー」を兼ね備えた国際的リーダーシップを発揮する米国の姿とはかけ離れている。反リベラルの象徴としてのトランプを二度目の大統領に据えた米国は、自由貿易と同盟重視の路線に背を向け、友好国の利益を犠牲にする形で権威主義国との「取引」を推し進めている。国内では自由主義や民主主義を担保してきた政府機関を解体・弱体化させ、米国の力強さの原動力となってきた移民を排斥しつつ、大学への抑圧も強めている。そしてパナマやカナダ、グリーンランドなど隣国への領土的野心を明らかにする国に転落してしまった。既に米国自身が「リベラル」な国家ではなくなっており、「民主主義」国であり続けられるかどうかも瀬戸際に立っている。当然ながらナイの主張の根幹であった「ソフト・パワー」や「スマート・パワー」を論じられる状況にない。
そして変化したのは米国のみではない。国際関係もこれに連動する形で変化した。2010年代初頭に米国が「世界の警察官」の役割を放棄したことで、中ロの現状変革姿勢が強まり、大国間の戦略競争(strategic competition)の時代が始まった。これに伴う形で既存の軍備管理の枠組みが崩壊したほか、一部では実際に抑止破綻と戦争が生じた。国際政治は陣営や勢力の枠組みに応じて分断され、英国のEU離脱や米国の保護主義化に代表されるように、グローバル化や複合的相互依存の流れも逆転した。ナイが自身の主張を形作る上で眺めてきた1970年代以降の世界の流れとは全く異なる現象が近年起こっている。
世界全体としてみればグローバル化の流れが完全に止まることはないにしても、所謂「Gゼロ」の下で、再び世界が安全保障と経済の両面で「ブロック化」「陣営化」の傾向を強めていくのだとすれば、複合的相互依存下において軍事力行使の効用が低下するというナイの主張も次第に意味を失っていくであろう。同様に、「ソフト・パワー」の役割も「ハード・パワー」の威圧の前に霞んでいくことが予想される。世界はますますナイが反駁を試みた、かつてのリアリズムの描く状況に近づいていくことだろう。
こうした展開を考えるとき、ナイが2025年5月に死去したことは時代の転換点として誠に示唆的であるように感じられる。ナイは研究者として成熟して以降、半世紀以上に渡ってリベラルの論客として活動してきたが、その背景にはリアリズムの要素を率直に認めつつも、しかし世界はそれだけで動いているわけではない、との確固たる信念と、それを支える世界の現実があった。すなわち世界は冷戦下ではあっても複合的相互依存の様相を強め、やがては米国が単極的存在として国際的リーダーシップを発揮する中でグローバル化を促進する時代が訪れた。こうした時代は2010年代に転換期を迎えるまで続いたが、それでも2015年の時点でナイが自信を持って米国の(絶対的)衰退は起こらない、と主張するところまでは続いたのである。ところがそれ以降、米国ではトランプの出現と共に国際的リーダーシップの負担を疑問視する動きが強まり、ついには米国がリベラルな価値を放棄しかねない段階まで来た。だからこそ、2025年にナイが死去したことは時代の転換を感じさせずにはいられないのである。
ナイ死去後の2025年6月に雑誌『フォーリン・アフェアーズ』にナイとコヘインのトランプ政権の外交政策に関する評論が載っている。ナイが死の前に寄稿したものであろう。それは「長い米国の世紀の終わり:トランプと米国の力の源泉(The End of the Long American Century: Trump and the Sources of U.S. power)」と題するもので18、トランプ政権が現在の外交政策を継続すれば、米国は弱体化し、国際秩序の崩壊を加速させるであろうことを強く憂慮している。世界は混沌の時代に入りつつあり、それは一過性のものではないかもしれない、との予測もしている。そして「米国の世紀」はあっけなく終わってしまうかもしれない、という悲観的な見通しを示している。米国衰退論への一貫した反駁を繰り返してきたナイの立場でも、トランプ政権以降の米国の国際的リーダーシップの行く末には、悲観的にならざるを得なかったのである。
そうは言っても、1970年代以降の国際関係理論と米国の国際的リーダーシップに関するナイの貢献は偉大である。彼の議論は時代の本質を明らかにしたもので、米国のあるべき国際的リーダーシップの姿を正しく描くものであったと筆者は考える。しかし今や時代は変わった。米国の変質と「大国間競争」の深刻化、それに複合的相互依存やグローバル化の逆流は、新たな現実を踏まえた全く新規の国際関係論の必要性を示唆している。新たな時代のパワーとリーダーシップの本質を問う議論が必要である。ナイの業績とその評価はこれからも不滅であろうが、今の時代の我々には新たな検討が求められているのである。
(了)
【参考1】本文中で扱ったジョセフ・ナイの業績一覧
- *Pan Africanism and East African Integration, (Cambridge: Harvard University Press).
- *Power and Interdependence; World Politics in Transition, co-authored with Robert O. Keohane (Boston: Little Brown and Company, 1977; 3rd edition with additional material, New York: Longman, 2000); ロバート・O・コヘイン及びジョセフ・S・ナイ・ジュニア著、滝田賢治訳『パワーと相互依存』(ミネルヴァ書房、2012年)。
- *Living with Nuclear Weapons: A Report by the Harvard Nuclear Study Group, (Cambridge: Harvard University Press, 1983).
- *Hawks, Doves and Owls: An Agenda for Avoiding Nuclear War, co-authored with Graham Allison and Albert Carnesale (New York: Norton, 1985).
- *Nuclear Ethics, (New York: The Free Press, 1986); ジョセフ・S・ナイ・ジュニア著、土山實男訳『核戦略と倫理』(同文舘出版、1988年)。
- *Bound to Lead: The Changing Nature of American Power, (New York: Basic Books, 1990); ジョセフ・S・ナイ・ジュニア著、久保伸太郎訳『不滅の大国アメリカ』(読売新聞社、1990年)。
- *The Paradox of American Power: Why the World’s Only Superpower Can’t Go it Alone, (New York: Oxford University Press, 2002); ジョセフ・S・ナイ・ジュニア著、山岡洋一訳『アメリカへの警告:21世紀国際政治のパワー・ゲーム』(日本経済新聞社、2002年)。
- *Soft Power: The Means to Success in World Politics, (New York: Public Affairs, 2004); ジョセフ・S・ナイ・ジュニア著、山田洋一訳『ソフト・パワー』(日本経済新聞社、2004年)。
- *”CSIS Commission on Smart Power,” co-chaired with Richard L. Armitage, Center for Strategic & International Studies, 2007.
- *The Future of Power, (New York: Public Affairs, 2011); ジョセフ・S・ナイ・ジュニア著、山田洋一・藤島京子訳『スマート・パワー:21世紀を支配する新しい力』(日本経済新聞社、2011年)。
- *Is the American Century Over? (Malden, MA: Polity Press, 2015); ジョセフ・S・ナイ・ジュニア著、村井浩紀訳『アメリカの世紀は終わらない』(日本経済新聞社、2015年)。
- *Understanding International Conflicts: An Introduction to Theory and History, 10th ed., with David A. Welch, (Pearson, 2017); ジョセフ・S・ナイ・ジュニア及びディビッド・A・ウェルチ著、田中明彦・村田晃嗣訳『国際紛争:理論と歴史 [原書第10版]』(有斐閣、2017年)。
【参考2】いわゆるアーミテージ・ナイ報告の一覧
- *(第1次)“The United States and Japan: Advancing Toward a Mature partnership,” INSS Special Report, October 11, 2000.
- *(第2次)“The U.S.-Japan Alliance: Getting Asia Right through 2020,” CSIS Report, February 2007.
- *(第3次)“The U.S.-Japan Alliance: Anchoring Stability in Asia,” CSIS Report, August 2012.
- *(第4次)”More Important than Ever: Renewing the U.S.-Japan Alliance for the 21st Century,” CSIS Report, October 2018.
- *(第5次)”The U.S.-Japan Alliance in 2020: An Equal Alliance with a Global Agenda,” CSIS Report, December 2020.
- *(第6次)”The U.S.-Japan Alliance in 2024; Toward an Integrated Alliance,” CSIS Report, April 2024.
- 以降のナイの著作に関しては注ではなく本稿末尾の【参考1】に書誌情報をまとめた。(本文に戻る)
- 第二次大戦後の米国では冷戦の深刻化に伴い、パワーの要素を軸に対決的な国際関係を描く「リアリズム」による国際関係の捉え方が中心であった。当時の主要な論者としては例えばJ・ケナン(George F. Kennan)、H・モーゲンソー(Hans J. Morgenthau)、R・ニ―バー(Reinhold Niebuhr)、そしてH・キッシンジャー(Henry A. Kissinger)らがいた。後に構造的リアリズム(structural / neo realism)が登場すると、K・ウォルツ(Kenneth N. Waltz)及びJ・ミアシャイマー(John J. Mearsheimer)らが主要な論者となった。(本文に戻る)
- 「敏感性」が「政策枠組みにおける反応性の程度」と定義されるのに対し、「脆弱性」は「政策変更後も外的出来事によりコストを課される行為者の負債」と定義されている。(本文に戻る)
- 「ネオ・ネオ論争」において主要な論争点となったのは、「無政府状態下における協調(cooperation under anarchy)」の可能性である。無政府状態を基本的な秩序原理とする国際関係においても主体(国家)間で協調が成立し得るのかが争点となった。構造的リアリズムとも称されるネオリアリズムはこの点、国際関係がゼロサム的であるほか、主体間の不確実性や相対利得の思考が協調を阻み対立を導くと論じたが、国家主体に注目しつつ、レジームや制度を通じた協調の可能性を重視したネオリベラリズムは、国際関係は必ずしもゼロサム的でなく、対立的な状況であっても協調が生み出される余地があると見て、「繰り返し囚人のジレンマ・ゲーム」の知見などを援用しつつ、無政府状態下にあっても主体間の協調が実現する可能性について論じた。この論争を巡る代表的な著作の一つとして、Kenneth A. Oye, ed., Cooperation under Anarchy, (Princeton: Princeton University Press, 1986) を参照のこと。(本文に戻る)
- Robert O. Keohane, After hegemony: Cooperation And Discord In The World Political Economy, Princeton: (Princeton University Press, 1983); ロバート・コヘイン著、石黒馨訳『覇権後の国際政治経済学』(晃洋書房、1998年)。 (本文に戻る)
- 「ワインバーガー・ドクトリン」は1984年にレーガン政権の国防長官であったC・ワインバーガー(Casper Weinberger)が唱えた米国の対外軍事介入に関するドクトリンであり、その骨子は米軍の紛争への投入は重大な国益の関与や明確な目的、世論と議会の支持なくして行われるべきではない、というものであった。後にブッシュ政権の統合参謀本部議長であったC・パウエル(Colin Powell)が唱えた「パウエル・ドクトリン」もこれを踏まえた類似の内容であった。これらの「ドクトリン」はベトナム戦争における過剰な対外軍事関与を教訓として唱えられたものであった。(本文に戻る)
- Paul M. Kennedy, The Rise and Fall of the Great Powers: Economic Change and Military Conflict from 1500 to 2000, (Random House: 1987); ポール・ケネディ著、鈴木主税訳、『大国の興亡:1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争 上・下』(草思社、1988年)。(本文に戻る)
- John J. Mearsheimer, “Back to the Future: Instability in Europe after the Cold War,” International Security, Vol.15, No.1, (Summer 1990), pp.5-56; Kenneth N. Waltz, “The Emerging Structure of International Politics,” International Security, Vol.18, No.2., (Fall 1993), pp.44-79. (本文に戻る)
- 当時の状況を描いたものとして、船橋洋一『同盟漂流』岩波書店、1997年が有名である。(本文に戻る)
- 政策研究大学院大学(GRIPS)と東京大学東洋文化研究所(IASA)が共同運用する「「世界と日本」データベース(プロジェクトリーダー:田中明彦)」にて原文を閲覧できる。<https://worldjpn.net/documents/texts/JPUS/19950227.O1E.html>(本文に戻る)
- 本稿末尾の【参考2】に都合6回の書誌情報をまとめた。(本文に戻る)
- 2002年9月公表の米国の「国家安全保障戦略(National Security Strategy)」には、当時、大量破壊兵器(WMD)を秘密裏に開発していると見られていたイラクに対する攻撃を念頭に、「米国は敵対国による敵対的な行動阻止のために、もし必要であれば先制的に行動する」という文章が含まれていた。確かに、相手国の攻撃が差し迫る状況で先制的に(preemptive)行動することは、とりわけ慣習法を重視する米国の見地からは国際法上合法と見なせる余地があるが、実際には米国のイラク攻撃は攻撃のタイミングを自由に選択する、国際法上違法な予防(preventive)攻撃ではないかと問題視された。(本文に戻る)
- メロス島対話とは、ツキュディデスが記した『戦史』に描かれるエピソードの一つであり、強者としてのアテネが弱者の側たるメロス島に侵攻した際、アテネとメロス島の代表同士で行われた対話を指している。そこでアテネの代表は「強者と弱者の間では、強きがいかに大をなし得、弱きがいかに小なる譲歩をもって脱し得るか、その可能性しか問題なり得ないのだ」と豪語してメロス島側の反駁を一蹴し、これを征服したが、このことは強者が理非や正邪を問わず弱者を意のままにする権力政治の本質を表すエピソードとされている。しかしツキュディデスはこうした奢りを示したアテネがその後、無謀なシチリア遠征に失敗し、ペロポネソス戦争自体に敗北するまでを余さず描いている。トゥーキュディデース著、久保正彰訳『戦史 中』(岩波書店、1966年)、353頁。(本文に戻る)
- 例えば、Paul K. MacDonald and Joseph M. Parent, “The Wisdom of Retrenchment: American Must Cut Back to Move Forward,” Foreign Affairs, Vol.90., Issue 6, (November/December 2011); Paul K. MacDonald and Joseph M. Parent, “Graceful Decline? The Surprising Success of Great Power Retrenchment,” International Security, Vol.35., No.4, (Spring 2011), pp.7-44; Charistopher Layne, “The (Almost) Triumph of Offshore balancing,” The National Interest, (January 27, 2012); Barry R. Posen, Restraint: A New Foundation for U.S. Grand Strategy, (Ithaca: Cornell University Press, 2014); John J. Mearsheimer and Stephen M. Walt, “The Case for Offshore Balancing: A Superior U.S. Grand Strategy,” Foreign Affairs, Vol.95., Issue 4, (July 2016) などを参照。(本文に戻る)
- その後、第二次トランプ政権下において日本製鉄は米政府との国家安全保障協定の締結及び米政府に対する黄金株の発行を通じてUSスチール買収に対する米政府の懸念払拭に努め、2025年6月18日にこれを実現させているが、いずれにせよ本来であれば米国の雇用に貢献し得る同盟国の対米投資がここまで政治問題化されたことは、日本にとってショッキングなことであった。(本文に戻る)
- Ian Bremmer, Every Nation for Itself: Winners and Losers in a G-Zero World, (Portfolio, 2012); イアン・ブレマー著、北沢格訳『「Gゼロ」後の世界: 主導国なき時代の勝者はだれか』日本経済新聞社、2012年。 (本文に戻る)
- Robert Kagan, Rebellion: How Antiliberalism Is Tearing America Apart - Again, (Knopf, 2024). (本文に戻る)
- Robert O. Keohane and Joseph S. Nye, Jr., “The End of the Long American Century: Trump and the Sources of U.S. power,” Foreign Affairs, (July/August 2025). <https://www.foreignaffairs.com/united-states/end-long-american-century-trump-keohane-nye>(本文に戻る)