笹川平和財団が開催した国際シンポジウムや講演会の書き起こし記事を掲載しています。

日中有識者対話・北朝鮮の核危機と北東アジア情勢の行方①

「中朝同盟関係の基礎及びその解釈の試論」

沈志華氏 (華東師範大学歴史学部教授、冷戦国際史研究センター主任、周辺国家研究院院長)

2017.11.07


  • 印刷

 本日、私は一つの問題についてお話したいと思います。それは、中朝関係とは同盟関係なのか、かつては同盟関係であったとしたら、いつから、どうして変わってしまったのかということです。私は今年3月に大連外国語大学での講演で次のようにお話しました。北朝鮮は中国の潜在的な敵であり、韓国は中国の友人になり得るのではないかと。これはネット上でも議論を呼んで、ある人は私のことを売国奴だとも罵りました。なぜ北朝鮮を批判すると売国奴で、韓国を批判すればそうではないのか。なぜならば、多くの中国人は中朝関係とは何かについてよく理解していないからです。

毛沢東・金日成という特殊な関係

 1950年代から80年代まで中朝関係は確かに同盟関係でありました。ですが、鄧小平氏が主導したこの20年間の「改革・開放」の期間に中朝関係は天と地がひっくり返るほどの変化を起こしました。なぜ、このような変化が起こったのか。
 毛沢東の時代、中朝関係は構造的に特殊な関係にありました。いわゆる、「天朝」の関係です。一つのエピソードをご紹介します。2000年に金正日氏が訪中し、江沢民氏と会談した時のことです。その時、金正日氏は江沢民氏に向かって「中国東北地方の視察を準備しているので手配してほしい」と依頼しました。江沢民氏はそれを聞いて少し違和感を覚えたのです。「視察」とは上部機関が下部機関に対するものであって、この場合は「訪問」であると。ところが、金正日氏は「いや、視察だ。なぜなら東北地方は我々のものだと、父親が話していたからだ」と言い返すのです。江沢民氏は耳を疑いました。すると、金正日氏は「これは実は父親が語ったものではなく、毛主席の言葉だ」と言うのです。驚いた江沢民氏は、党対外連絡部に事実かどうか確認させたところ、翌日報告が上がってきました。「確かに毛主席はそのようなことをおっしゃっています。しかも、一度だけではありません!」。私が調べたところでは、少なくとも五度でした。
 毛沢東氏はその時、二つのことについて言及しました。一つは、「朝鮮人の祖先は国境が遼河にあり、我々の祖先は国境が鴨緑江にあるという。だから、中国人は朝鮮人を鴨緑江の向こう側に追いやった。だが、これは我々のせいではない。封建主義が朝鮮人を圧迫したからだ。すでに大昔のことだ。我々はすでに天池を譲ったではないか」と。つまり、中国人はかつて朝鮮人をいじめたから、謝罪の意味で長白山と天池を譲ったのだということです。
 もう一つは中国東北地方(遼寧省、吉林省、黒竜江省)の問題です。毛沢東氏は金日成氏にこのように話しました。「朝鮮は我々の前方にある、東北はあなたたちの後方にある。ならば、前方と後方を共に管理しよう。東北はあなたたちに譲ろう」と。実際に金日成氏は1963年に東北三省を視察し、鄧小平氏が接待しました。金日成氏も北朝鮮に戻って、幹部養成学校を設立し、東北地方の幹部らを二回にわけて連れてきました。このような特殊な関係は、毛沢東氏が「天朝」の概念を持っていたからです。しかし、このような概念は毛沢東氏ただ一人だけであって、他の指導者はそうではなかったのです。

毛沢東死去後の中朝関係の変化

  ですから、毛沢東氏が逝去してからは、中国の指導者の考え方は変わりました。1978年に華国鋒主席が訪朝します。訪朝前の会議で二つの「決め事」を提案しました。一つは東北地方の問題については言及しない。もし、北朝鮮が言及した場合は答えなくともよしと。もう一つは、金正日氏の後継問題について中国側は関与しない。77年に鄧小平氏は事実上の権力を握っていたので、この時期の「決め事」が新たな指導者の基本的な考えとなったのです。その後、1989年まで北朝鮮の指導者は東北地方の問題については直接的には言及しませんでした。しかし、朝鮮労働党国際部はいつもこの問題を提起してきましたが、中国側は一切相手にしませんでした。結局、中朝の特殊な関係は、世代が交替するにつれ変化したわけです。
 イデオロギーのあり方も変わりました。改革・開放政策による中国の市場経済は、伝統的なマルクス理論から言えば、すでに社会主義ではありません。ですから、北朝鮮は1990年に一つの決心をします。鴨緑江で中国の資本主義の風を食い止めるということです。中朝関係において、イデオロギーのあり方は、すでに過去とは違うものになっていました。
 経済援助についてもそうです。毛沢東の時代は北朝鮮に無償で援助していましたが、鄧小平の時代になると状況は一変します。鄧小平氏は次のように語りました。「以前、我々が助けていた友人が3人いた。すでに2人(ベトナム、アルバニア)とは絶交した。もう1人もそのうち裏切るだろう」と。残りの1人とは北朝鮮でした。鄧小平氏は、今後北朝鮮がほしいものを求めてきてもあげてはならないと考えたわけです。それにまつわるエピソードがあります。1985年のことです。金日成氏は北朝鮮のミグ戦闘機を中国の瀋陽に飛ばして無償で修理してくれと頼んできました。ミグ戦闘機は毛沢東氏が無償で援助したものなので、その修理も無償でやってくれというわけです。ところが、報告を受けた鄧小平氏はにべもなく突き返しました。「こちらも商売でやっているんだ!」と。
 対外政策でもそうです。これに関しては毛沢東時代から変化が起きていました。中国が米国との関係正常化を模索していた頃、中朝関係の関係には亀裂が入っていました。中国はソ連に対抗するために米国の抱き込みを図っていたのに対し、北朝鮮はソ連を笠にして米国に対抗していたからでした。ですが、様々な理由から、中朝両国は意図的にそれにフタをし、顕在化させることはありませんでした。その時、毛沢東氏は朝鮮半島に対する二つの原則を持つようになりました。これは以前とは違ったものでした。一つは、在韓米軍の撤退に関してはそれほどこだわらない。なぜならば、当時は米軍が撤退したら日本の軍国主義が進出してくる恐れがあったからです。これはキッシンジャー氏が周恩来氏に語ったことです。二つ目は、朝鮮半島の問題は必ず平和的に解決すべきで、絶対に武力を行使してはならない。毛沢東氏は武力統一だろうが何だろうが、金日成氏がやることには条件なしに支持してきましたが、晩年に至り、金日成氏の武力統一に対して異を唱えたのです。
 鄧小平時代に至り、さらに大きな変化を見せました。一つは、朝鮮半島問題においては米中の戦略的な意志は一致しており、朝鮮半島及び北東アジアの安定を求めるということです。二つ目は、南北朝鮮の国連同時加盟を容認したことです。中国は、二つの中国はあり得ないのと同様に二つの朝鮮もあり得ないと考えていました。しかし、1991年にその考えを突如変えたのです。これは中朝関係を根本から揺るがしました。

北朝鮮の核は果たして誰に向けたものか?

  これは、中国が韓国と国交を樹立する基礎にもなり、金日成氏はそのことをたいへん懸念していました。1990年にゴルバチョフ氏のソ連が韓国と国交を結んだ際、金日成氏は瀋陽で江沢民氏と会い、中国が韓国と国交を結ぶことに強く反対しました。それは裏切り行為だと。その時、中国は、韓国とはビジネスだけをするのであって問題なしと言いつくろっていました。その後、中国が韓国と国交を結ぶと平壌に通達した時、金日成氏は「私は社会主義を続ける。あんたたちは勝手にしろ!」と吐き捨てたのです。つまり、中韓国交樹立は、中朝関係の基本的な関係を崩壊させたといえます。北朝鮮から見れば、中国は裏切り者なのです。そして、もっと重要なことは、中韓が国交樹立した翌93年に北朝鮮は核不拡散条約の脱退を宣言し、核保有国を目指すようになりました。こうして見ると、北朝鮮の核問題というのは、中国と無関係なのでしょうか。北朝鮮は誰に対抗するために核を持ったのでしょうか。これまでの歴史的経緯を整理すれば、その答えを見つけるのはそれほど難しくないと思います。

講演者プロフィール
沈志華氏(華東師範大学歴史学部教授、冷戦国際史研究センター主任、周辺国家研究院院長)
中国社会科学院アジア太平洋研究所研究員、中国史学会理事、香港中文大学現代中国文化研究センター名誉研究員。中国人民大学、北京大学、香港中文大学、米国ウィルソンセンターなどで客員教授、研究員を歴任した後、華東師範大学歴史学部終身教授、同大学冷戦国際史研究センター主任に就任。2016年6月、新設の同大学周辺国家研究院の院長就任。研究分野は、中ロ関係、冷戦史、北朝鮮問題など。著書に『中ソ同盟と朝鮮戦争研究』(広西師範大学出版社1999年)、『中国に来たソ連の専門家』(社会科学文献出版社)など

  • 印刷

ページトップ