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アフガニスタン 国家再建の幻想と現実


カテゴリー区分 その他
一般/基金区分 笹川平和財団
発行 2002.05

  • カーネギー国際平和財団 上級研究員
    マリナ・オッタウェイ/アナトール・リーヴェン
要旨
アフガニスタンの戦火が収まらないうちに、欧米主導の非現実的なアフガン復興計画が提案されている。国際社会はアフガニスタンに政教分離の民主国家を建設することを求める一方、そのような国家を作り上げるために必要な大規模な軍隊を提供することには及び腰だ。アフガニスタンは極度に分裂し、武装化が進んだ社会であり、民主的手法に則った国家再建計画が実現する可能性はほぼゼロといってよい。したがって、国家の再建を目的とせずに、平和な環境作りと基本的な経済機能の回復に的を絞った、実現可能な中規模の復興計画を練り上げねばならない。しかも、軍閥将軍の中央政府の掌握を目的とする紛争を最小限に抑え、和平を遵守させるために、国際援助資金のほとんどを、アフガン中央政府を通さずに、各地域に直接に手渡さねばならない。

タリバン後のアフガニスタンはいともたやすく泥沼化する状況にあり、国際戦略を誤れば、アフガニスタンと国際社会の問題を一段と悪化させかねない。特に国際社会が遠大で非現実的なアフガニスタン国家再建計画をスタートさせれば、旨くゆかない場合の落胆は激しく、結局はアフガニスタンから手を引く事態となりかねない。そうなればアフガニスタンは内戦と狂信的信仰の悪循環に逆戻りするおそれがある。
確かに、2001年12月5日のボン会議で、アフガンの部族指導者たちは、戦争で痛めつけられ、経済が疲弊し、深く分裂しているアフガニスタンを、現代的な民主主義国家に変貌させる計画を提案し、合意に盛り込んだ。この再建計画をスタートラインに乗せるためだけにも長期的で全責任を担う軍隊の長期的な駐留が不可欠である。だが、そうした軍隊の派遣を提案している国はひとつもない。英国やソ連など、アフガニスタンにかつて関わった国が惨憺たる経験を味わったのが一因であろう。国際社会は、比較的軽武装の軍隊を、カブールなどの主要地域に駐留させることを提案したに過ぎない。
したがって、近代的で効率のよい民主主義国家の土台をアフガニスタンに築くことに成功する可能性は、ほとんどゼロといってよい。たとえば欧米はボスニアに膨大な軍隊を駐留させて民主化を図っているが、この小国においてでさえ深刻な問題が噴出して立ち往生している。アフガニスタンは人口2,600万人、ボスニアの12倍の面積を持つ国である。国土は険しく、民族、部族、宗教によって深く亀裂した社会を抱え、掌中の権力を手放す理由をまるで持たず、戦いで鍛え抜かれた軍閥将軍たちがそれぞれに地方を牛耳っている国なのである。
だが国際社会は、アフガニスタンが再びテロリストの温床になり、世界の脅威となることを防がねばならず、望む結果が得られない苛立ちから背を向けるといった過ちを繰り返すことは許されない。これらを勘案すると、アフガニスタンに必要なのは、大規模な軍隊を必要としない、現実に即した中規模の復興計画である。


アフガニスタン国家建設の100年

アフガニスタンは列強の植民地政策を背景に比較的新しく生まれた国で、国家が国民に完全な忠誠心を抱かせたことは一度もない。今日でも、多くの(おそらくほとんどの)アフガニスタン人が帰属感を持つのは、国ではなく、地域指導者、民族、部族であろう。 アフガニスタンは19世紀末に誕生した。すべての国境は、地域の歴史や民族分布による必然性にはおかまいなく、大英帝国の戦略的都合に基づいて線引きされた。北部国境は、英国がこれ以上は帝政ロシアの南下を許せないとみなした限界であったし、南部と東部では、英領インド帝国が領土拡大の野心と安全の確保を秤にかけたあげく、国境線を取り決めた。英国の地政学的利権とアイアン・アミール(鉄の宰相)と呼ばれたアブドゥル・ラフマーン国王の抑圧的政府(1880-1901)の思惑が一致した結果、アフガニスタンは国境と近代国家の装いを与えられて誕生した。アブドゥル国王は英国から与えられた膨大な資金と武器と圧政によって、アフガニスタンに中央集権国家の土台(完全ではないが)を構築するに力を発揮した。
アフガニスタン建国の歴史は、アブドゥル国王の治政から始まった。欧州では、国家の建設は中世初期に始まり、残虐行為、反抗、荒廃を伴った致命的な後戻りを繰り返したあげく、数世紀をかけて完成された。したがって、アブドゥル国王のアフガニスタン国家を極めて短い間に建設しようとした企てが、好戦的で、独立心に富み、伝統的に支配を嫌うアフガニスタン人(国内の多数派であるパシュトゥン人を含め)の激しい抵抗に出会い、一部は成功したものの、最終的には崩壊に至ったのはいわば当然といえよう。
国家建設が失敗に終わった一因は、アブドゥル国王が中央集権的な近代的国家の基礎を築くにとどまらず、アフガニスタンを宗教、民族、部族の支配から自由な国家に変貌させようとしたことにある。行政を、宗教、民族、部族から切り離そうとしたことが、60年代と70年代初めに立憲君主国家が崩壊し、アフガニスタンがその後数十年の無秩序と混乱の時代に突入する要因となったのである。
仮にこの時のアフガニスタン国家が、国を発展させることに成功し、民衆に目に見える利益を与えることができていたならば、中央集権国家に対する国民の反発は次第に薄れていったかもしれない。しかし、多くの国家建設と同じ轍を踏んで、アフガニスタン国家はそうした道を選ばなかったうえ、皮肉にも、ある程度、旨くいった改革がその命運を定めてしまった。利益を受ける対象が少数に限られていたとはいえ(むろん女性はほとんど受益対象外だった)、近代的な教育制度が設立され、高学歴の若者と若い官吏や将校が誕生した。ところがこうした若者たちは、未成熟の民間部門にも行政機関にも、まともな給料を得られる職を見つけることができなかった。これらの若者たちは苦い失望を抱えて78年の共産主義革命へ向かって突き進んだ。この革命は、アブドゥル国王の圧政を踏襲しながら、極めて極端な体制ではあったものの、国家をいま一度、近代化させようとするもくろみにほかならなかった。
共産主義体制は、アブドゥル・ラフマーンの治政と同じように、その存続を支援国(この時はソ連)からの多量の支援金と武器に依存していた。その結果、アイアン・アミールの時代が再現され、ソ連の援助が、宗教、民族、部族勢力の激しい反発を招いた。反政府運動は、まず山岳地帯を、やがてほぼ国内全土を、ついにはカブールと主要都市を制圧し、78年には共産主義体制を、92年にはアフガン国家そのものを崩壊させた。だが反抗勢力は、国に代って統治を担当する統一的機構を作り出す能力をまったく持たず、紛争と混乱の一時期を経て、タリバンの狂気じみた支配という暫定的な形によってようやくアフガニスタンの統一が維持できたのは、悲劇ではあったが驚くには当たらない。
アフガニスタンにおいて、強制的手段に頼ることなく国家を成立させることが難しい一因は、民族構成が極めて複雑なことにある (地図参照) 。最初の国家建設において主役を務めたパシュトゥン人は全人口の半分以下にすぎず、残りは多種多様の民族で構成されている。タジク人、ウズベク人、ハザラ人(モンゴール系のシアス人)が多数いることはよく知られているが、その他にも少数派の民族、部族がそれぞれの地域を支配している。
もうひとつ重要なのは、パシュトゥン人が近代アフガニスタン国家の建設にどれほどの貢献をしたか、不明瞭なことである、確かに、アフガニスタンは、パシュトゥン人の王朝を媒体にパシュトゥン人が作り上げた国であるし、パシュトゥン人は今日に至るまでアフガニスタンの中核を形成している。しかし、パシュトゥン人は氏族間の反目の激しい部族で、民族として統一国家の形成過程で中核的役割を果たせるとは考えられない。パシュトゥン人と他の部族は各地の宗教指導者に率いられて国家近代化政策にたえず反抗し、アフガニスタンの代々の統治者はこれに悩まされてきた。パシュトゥン人は、共産主義支配に対する抵抗運動においても主役を演じたし、西欧的近代性とそれに伴う近代国家制度に対してもおおむね反発してきたのである。


今日の選択肢

国際社会はこれまで、混乱に陥った国に対処するに三つの戦略を使っている。第一は、軍事力で秩序を回復できる独裁者を支援する、第二は、諦めて手を引き、その国の問題をその国自身が最良の形で解決するにまかせる。国際社会は新しい戦略として、混乱の渦中にある国を、政教分離の、近代的な、多民族からなる民主主義国家として再出発させる遠大な計画をスタートさせようとしている。この三つの戦略のいずれかをそのままアフガニスタンに適用することはできないが、それぞれの戦略から少しずつ学ぶことはできよう。
西側は折衷的戦略を策定するにあたって、西側の抱く近代国家のイメージをアフガニスタンに押し付けることをやめ、アフガニスタンの歴史と現在の状況を冷静に把握しなければならない。反タリバンという結束理由が失われた以上、アフガニスタン北部で北部同盟の団結が永続する保証はなく、パシュトゥン人支配地域では混迷した状況が継続するという現実を、国際社会は直視しなければならない。つまり、アフガニスタンにおいて、全国を統一する政治構造を構築することはほとんど不可能なのである。
重武装した部族は、強大な国家の軍事力あるいは外国の圧倒的な軍事力によって強制されないかぎり、武器と地域支配をあきらめないだろう。国際社会は、ボスニアとコソボに配備したと同規模の平和維持軍(アフガニスタンにおいては絶対値は数倍になる)をアフガニスタンに配備する意志がないのだから、アフガニスタンにおいて民主的な復興計画を実現させるのは不可能である。現実には、たとえ強力な軍隊が配備されたとしても、国家の再建計画は失敗に終わるだろう。したがって、折衷的な国際戦略は、軍事侵攻の必要性が少ないものでなければならない。
強大な権力者を利用する方法は現在は好まれていないが、混乱を極める国を安定させる手段として過去にはしばしば採用された。米国は冷戦時代に、フランスは新植民地政策の一環として、この手法を躊躇なく採用した。褒められた戦略ではないが、コストがかからず、短期的には効果があり、秩序回復の権限をその地域の権力者に付与すればすむので、関係国にとって負担が少ない。アフガニスタンをみると、全土を掌握できる強力な指導者も組織も生まれそうにない。しかし各地域には強力な支配者がいる。彼らはアフガン政治の表舞台にとどまり続けると予想され、したがって国際社会はかつてしたように、これらの強力な地域支配者と協力しあう以外に選択肢はない。
現在、正統とされる国家再建の手法は格段に民主的ではあるが、軍事侵攻の色彩が濃く、コストは高くつくのに効果はさほどでない。国際社会はこの10年間に、危機的状況にある国を援助するにあたって、市場経済を備えた民主国家に変貌させることを目標として掲げるようになった。このような国家のみが、長期的にはその国の国民の利益となり、国際社会の安定に寄与するという理由からである。介入が必要とされた地域における経緯が示すように、こうした欧米流の社会政治的アプローチはますます複雑化し、負担はますます重くなっている。
民主主義的な国家再建計画は、次のような順序を踏む。まず、紛争当事者が新たな永続的な政治制度に合意する。できる限り速やかに選挙を実施する。新しく誕生する国家は、多民族国家で、政教分離で、民主的でなければならない――地域的伝統や住民の意志は、この際関係ない。紛争当事者による合意が実施されるまでの間、多国籍軍と大勢の国連役員が和平の維持と秩序の回復を保証する。国際金融機関が財政再建を担当する。NGOは人道的援助や選挙の実施など、それぞれの専門分野で援助活動ができるように必要な資金を配分される。
アフガニスタンで達成すべき目標が討議される過程で、民主的国家再建計画の幾つかが浮上した。たとえば、アフガニスタンの各部族によるボン合意は、すべての民族と女性を含めた広範囲の国民を基盤とする6カ月間の暫定政権に続いて、2年後には選挙を実施することを取り決めている。ほぼすべての国際機関とNGOが女性の権利を促進する断固たる行動を採ることを求めている。世界銀行の「アフガニスタン・アプローチ・ペーパー」は、アフガニスタンに強い権限を持つ中央銀行と財務省の設立ならびに経済機関で働く人材開発を謳っている。市民社会の育成を目標に定めた機関もある。そしてこれらすべてがスタートとして求められたのである。
現在のアフガニスタンにおいては、以上のほぼすべての目標が実現不可能であるばかりか、これらの目標の多くは、都会のごく少数の西欧化されたアフガニスタン人の望みを満たすに過ぎない。このグループの多くは、過去10年を欧米で過ごし、自分たちの国や社会とほとんど接触がなかった人々である。意識しているか否かに拘らず、彼らは欧米型の再建計画によって雇用と地位が最大限に保証され、既得権を得るグループなのである。アフガン再建計画は、計画の実現に消極的な部族指導者、軍閥将軍、宗教権威者をはじめ、ごく一般のアフガン人も対象に含んでいる。すると、この再建計画を実現させるためには、大規模な多国籍軍と多数の民間団体がアフガニスタンに駐留することが必要になるが、これは世界に向けて、イスラム国家が外国軍の占領下にあるというイメージを発信するに等しい。ソマリアのように、これが国連軍と強力な地域勢力との紛争に発展することは、ほぼ間違いないであろう。
こうして起る紛争によって、遅かれ早かれ、国際社会に放棄と撤退という当初の目標とは正反対の方向への揺り戻しが起こるであろう。実際、国際社会は10年前にソマリアとアフガニスタンを見捨てた。理由は同じで、国際社会は、ソマリアとアフガニスタンを、秩序回復のコストを正当化するほどに重要な国とはみなさなかったのである。見捨てた代償は、大きかった。アフガニスタンはアル・カイダの絶好の隠れ場となったし、ソマリアは部族を基盤とした穏やかなイスラム・グループだけでなく、アル・カイダと近いアイティハード・アル・イスラミアをも育成した。88年のケニアとタンザニアにおける米国大使館テロの実行犯たちはここで養成された。
しかし、ソマリアでは国際社会の放棄はプラスの効果も生んだ。国際社会はソマリアにおける教訓をアフガニスタン復興計画においても生かさねばならない。国際社会が去ったため、ソマリアでは占拠するに値する重要な場所も、争いあう援助資金も存在しなくなった。その結果、紛争が大幅に減った一方、国家不在の不備を補おうとするメカニズムが自然発生的に芽生えた。それは村落や部族内のみで成り立つ原始的生活へ戻ることを必ずしも意味しなかった。たとえば、複雑な取り引きや貿易の受け払い、市場の開発といった役目を担い、国際貿易に関与する新しい階級が生まれたのである。
西欧史を紐解くと、ソマリアと同じ状況にあった国々に出会う。中世のフランス、ドイツ、イタリアは、「秩序ある無秩序」とも呼べる状態にあり、武装集団が各地で合従連衡しつつ覇権を競いあっていた。だが、この状況のゆえに、安定した大規模な交易ルートの長期的な発達と商業・金融ネットワークの育成、その後の大幅な経済成長と華麗な文化の開花が妨げられることはなかった。やがてこれらを基盤に近代の法秩序が整備され、それが経済革命と近代国家の成立に不可欠な土台となったのである。国際社会はアフガニスタンにおいても当初はある種の「秩序ある無秩序」を黙認し、放置することが許されない欠陥に的を絞ってその是正に専念すべきであろう。


正しい選択

したがって、国際社会は、アフガニスタンの近未来については、専門集団による効率的な民主的政府の運営という実現不可能な幻想を抱くことをやめ、国全体を緩やかに束ねる仲介委員会の設立と、この委員会を6カ月に限定せずに無期限に機能させることに目標を定めるべきであろう。仲介委員会は近代国家の権能のすべてをアフガニスタンに整える必要はなく、中世文化に不可欠であった三つの最低限の条件――大規模な武力紛争の防止、主要な交易ルートの安全確保、首都の安全と中立の確保――に集中すればよい。この役目を担うのは、アフガニスタン国軍(これも実態を無視した幻想にすぎない)ではなく、米空軍の制裁力によって保護される国連多国籍軍でなければならない。ボン合意で実現が決められたロヤ・ジルガ(国民大集会)において、こうした最低限必要な条件を作り上げる道筋について合意できれば、実施不可能な欧米型民主憲法の起草を承認するよりもはるかに大きな成果であろう。
たとえ、広範囲な国民を基盤とする国家が形として存続していても、西側はほとんどの援助をアフガニスタン政府ではなく、各地域に直接に手渡さなければならない。これは、武装勢力とその指導者が援助資金を和平を保つことによって得られる報償とみなし、与える側が援助資金を和平を守るための武器として明確な意図と厳格な方針に基づいて使うことができるようにするためである。これはいわば買収に近く、各地の武装勢力の力を温存し、延命させるかに見えるかもしれない。しかし、ソマリアを初めとするアフリカの国々のケースを見れば分かるように、国際援助資金の受け手を中央政府に限定すれば、それが深刻な紛争を生む可能性は格段に高くなるのである。受け手が中央政府に限られれば、各地の武装集団は中央政府と首都カブールの支配権を争奪する価値のあるパイとみなすようになり、援助そのものが将来の紛争の火種になってしまうのである。
各地域の村や組織が直接に援助を受け取れるようにしなければならないが、国際社会は、そうすることによって、軍閥将軍や武装勢力を完全に排除できると考えてはならない。国際的な援助機関は、多くの国で、武装集団や権力者が支配地域における援助資金の使途について常に絶大な影響力を持つことをよく知っているのである。
これまで述べたことから、アフガニスタンにおける国際戦略は、以下のような原則に基づいて策定されるべきであろう。

  • アフガニスタンを近代的な民主国家に変貌させるためにはどのような援助が必要かとの視点から援助の方法や規模を策定することをやめ、アフガニスタン国民がある程度の普通の生活を送ることができるようになり、交易をはじめとする基本的な経済活動を可能にするために、アフガン中央政府は最低限何をすればよいかという観点から、援助を厳しく策定する。
  • 事務官は、内外のNGOと協力する。この任務には、NGOの自由な活動を支援するだけでなく、NGOが危険なまでに地域の政争に巻き込まれないようにすることも含まれる。
  • 影響力の安定している地域指導者と直接に協力しあう。これら指導者と国際機関を取り次ぐ事務官を任命する。事務官は地域指導者の言動(特に少数民族の扱い、他の地域や民族との関係)をチェックし、テロリストを匿っていないか厳重に監視する。
  • 事務官として働く人材、もしくはアフガニスタン援助に専従する国際公務員を育成する。彼らはかなりの長期にわたって困難で危険な仕事に従事しなければならず、各地の言語、歴史、慣習を学ぶための資金も必要なことから、十分な報酬を与えられる。事務官の地位と権限を確立するためにできることはすべてすべきであろう。大英帝国のインド統治庁がよい手本を残している。この組織は、賢明にも直接に統治することなく、アフガン王家と関係を築き、パシュトゥン人が支配する地域を管理した。
  • 援助資金と引き換えに地域指導者に要求する規範を十分に吟味しなければならない。非現実的な規範を押し付けたい誘惑に負けてはならない。一時に解決すべき問題を絞る必要があろう。たとえば女性の家庭における地位を規定している、政治的、社会的慣習、女性の政治参加などについて、最初から抜本的な改革を求めず、まず少女の教育に限定して援助資金を与えるなどが考えられる。緩やかな変化の方が持続しやすいものである。
  • たとえ援助の受け取りに条件を設け、チェックをしても、腐敗を完全に排除するのは不可能なことを肝に銘じておかなければならない。援助資金が軍閥将軍の権力とその勢力範囲の強化につながる場合もありえよう。大規模な資金援助は、たとえそれが正式な政府機関を通して与えられる場合でも腐敗を伴いやすいことは、これまでの経験から明らかである。援助資金は、平和を維持するための政治的武器であることを常に意識しながら使われねばならない。
  • 真の国家行政機関の設立は遠い将来のアフガニスタンに委ねるものの、ごく基礎的な中央政府機関をカブールに設置する。暫定中央政府は仲介の役目を担う委員会とするのがよいだろう。カブールと中央政府を奪い取る価値があるパイにしてはならない。
  • 大規模な国連多国籍軍を組織して、カブールの安全と中立を守らせる。これは、各地の指導者がカブールに集まって会議を開き、交渉できるようにするためであり、いずれはここに国家行政機関の土台を築くためである。多国籍軍は少なくとも数年間はを駐留する必要があろう。
  • 選挙の実施など、民主主義手法の導入を求めてはならない。求めれば、各地の軍閥将軍や民族、宗教勢力の争いを激化させてしまうだろう。現在の状況では、たとえ選挙を実施しても、安定した民主主義制度が根づく可能性は皆無である。

結論

米国と国際社会がその利益を守るためには、アフガニスタンを近代的な民主国家に変貌させる必要もなければ、アフガニスタンが統一された国家である必要さえない。求められるのは、深刻な武力闘争の停止であり、この国が再びテロリストの温床となり、近隣国の安寧を脅かすことがないように、国内全土への十分なアクセスを確保することである。これ以上の復興策については、国際社会は、利害も、実現させる力も持たない。
もし国際社会が軍事力によって、アフガニスタンをスカンジナビア諸国のような、効率よく運営され、国民にサービスを提供できる福祉国家に変貌させることができるならば、アフガニスタン国民は計りしれない恩恵を受けるだろう。しかし、このような完成した国をアフガニスタンに与えることはできない。これまで国際社会が与えることができたのは、近代国家の体裁は備えていても、腐敗と非効率が蔓延し、管理能力を超えて新たな紛争が生み出される国に過ぎなかった。
アフガニスタンの人々が緊急に求めていて、国際社会がアフガニスタン国民に与えることができるのは、武力闘争の停止と残虐で抑圧的な体制の排除であり、民族に対する圧迫や武力紛争の恐れなしに基本的な経済活動を追及できる環境である。アフガニスタン国民にとって必要なのは、土地を耕し、市場に行って生産物を売り、子供たちを学校に通わせ、基本的医療の恩恵を受け、自由に国内を行き来できることである。長期的にはもっと多くが望まれるが、最初のステップは、アフガニスタン国民がある程度の普通の生活ができるようにすることである。たとえそれが近代国家における普通の生活からはほど遠くとも、その程度のことを達成するためにさえ、国際的機関の献身的な職員達がアフガニスタンで数年にわたって注意深く集中的に働くことが必要なのである。アフガニスタンに近代的な国家を建設する遠大な計画は、次の世代に、そしてアフガニスタン国民に任すべきである。


本レポートは、カーネーギー国際平和財団(Carnegie Endowment for International Peace)の許可を得て、同財団の国際平和戦略ペーパー2002年1月12日号 (Policy Brief, Vol. 12, January 2002)に掲載された"Rebuilding Afghanistan: Fantasy versus Reality"(Marina Ottaway, Anatol Lieven 著)を翻訳したものである。詳細は、カーネギー国際平和財団のウェブサイト(www.ceip.org)を参照のこと。
英語原文

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