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米国財団の発展とTax Reform Act -米国財団小史-


カテゴリー区分 その他
一般/基金区分 笹川平和財団
発行 2004.08

i「アイ・オープニング」であった米国での経験

10年間の米国生活を終え日本に帰国してから、早9ヶ月になろうとしている。米国では、ペンシルバニア大学での行政学修士号取得を皮切りに、コミュニティ財団であるフィラデルフィア財団で調査活動に従事した後、1996年1月より7年半の間フォード財団に在籍する機会を得た。同財団では、世界各地の新興財団に対する助成事業に携わった後、スーザンべレスフォード新理事長の下で、一連の機構改革に伴う助成事業遂行のための制度づくり、プログラムオフィサーの資質向上のための教材づくり等、難しくも大変やり甲斐のある仕事に恵まれることとなった。

米国に滞在する以前も、国際交流基金や、笹川平和財団で助成事業に携わった経験があったものの、米国財団での経験、特にフォード財団で学んだことは、まさに、英語流にいえば、「アイ・オープニング」であることが多かった。それは、たとえば、それぞれの分野のエクスパートであるプログラムオフィサーが、切磋琢磨しつつ助成活動に従事する生き生きとした雰囲気であり、それらエクスパートの数をはるかに上回るサポートスタッフが存在し、事業の円滑な遂行に大きな力を発揮しているおおらかな環境であり、また、プログラムオフィサーが、助成先の機関と対等な形でのパートナーシップを築くべく心を砕く、真摯な姿勢等であった。


統計から見た米国

このような米国の財団活動の充実ぶりは、統計上の数字からも窺い知ることができる。Foundation Centerによる資料では、2001年に米国の財団は総数61,810、その資産の総額は4,770 億ドル、助成金として支出された額の合計は305億ドルを超えるという。これを日本の助成財団センターの資料と比べると、日本では、2002年10月現在、財団の総数は1,052、また資産合計額は1兆4,905億円(2002年10月)である。助成財団センターが調べた、米国の資産規模上位20位までの財団の資産額の合計と日本のそれとの比較では、米国と日本とは「約26倍の開きがある」とのことであり、同様に年間助成額上位20位までの助成金合計額の開きは28倍、とのことである。また、日本では1990年をピークに財団の設立数が年々減っているが、米国の財団数は10年前に比べ約1.8倍に増加し、資産規模2.9倍、助成金支出総額3.3倍と、躍進を続けている。これは1990年代の米国経済の好況を背景に、特にシリコンバレー等の新しいビジネス成功者が財団を作ったことが大きな理由の1つであるといわれている。「自らの築いた富を社会に還元する」という伝統的な考えが、米国社会に今も根強く生きているのである。

しかし、そのような米国においてさえ、財団というものの存在が常にもろ手をあげて社会に迎えられていたわけではない。過去には、米国議会による調査委員会が設置され財団社会悪論が展開されたり、マッカーシズムの隆盛期には、財団の思想的傾向を調べる委員会が設置されたこともあった。また、1969年のTax Reform Actが成立した際には、このような厳しい法制下で財団は生き残れない、との悲観論が広まったこともあった。政府の財源には到底かなわないものの、あるまとまった資金が存在し、公共の利益に影響力を及ぼしうる際に、政府はあるときはそれを黙認し、またあるときは利用し、あるいはけん制しようとする。米国財団の歴史は、財団がその存在の正当性を確立していくと同時に、より効果的な社会貢献のあり方を模索してく道のりでもある。本稿では、米国財団の発展の歴史を簡単に振り返りつつ、特に1969年のTax Reform Act と、米国財団の対応ぶりを明らかにするとともに、現在の米国財団を取り巻く状況について述べることとする。


財団の創成期とワルシュ委員会

米国財団の起源をたどると、古くはベンジャミン・フランクリンにまでさかのぼることができるが、財団の設立が顕著になったのは今から120年ほど前の、1880年代の後半のことである。その当時財団設立の担い手となったのは、南北戦争後急速に発展した工業化の波に乗って巨額の富を蓄えた、いわゆる rubber barons と呼ばれる起業家たちであった。

すでに1882年以降、南北戦争後の南部の荒廃を救うべく、ジョン・ピーボディのPeabody Education Fund、あるいは John F. Slater Fund for Education for Freedom 等が活動を始めていたが、この時期に財団セクターの思想的なリーダーとなったのは、アンドリュー・カーネギーであった。カーネギーは1889年に "The Gospel of Wealth"を著し、富者は自らの財産を信託基金として提供し、社会のためにもっとも効果的であると思われる目的のために使うべきである、と説いたのである。

1907年にはラッセル・セージの未亡人が、夫の残した財産の一部をもとにRussell Sage Foundationを設立、引き続き1911年には、すでに実業界を引退したカーネギーが、Carnegie Instituteを設立した。また、もう一方の rubber barons の代表的な存在であったロックフェラーは、1913年John D. Rockefeller Foundation をニューヨーク州にて登記した。

当時の米国は、産業構造の急速な変化に社会的・法的な整備が追いつかない状況の中で、膨大な数の賃金労働者が輩出され、貧富の差が拡大し、労働争議の激化に加え、政治の腐敗、特に自らの資金力を使って政治的な影響力を行使しようとする実業家への不信感の増大が顕著であった。なかでもロックフェラーは、実業界から引退したカーネギーや、すでに故人であったセージとは異なり、現役の企業経営者であったことから、ロックフェラー財団の活動は、出資者であるロックフェラーのビジネス活動を世間の目からそらせるようとする手段であり、さらに、むしろ積極的に資本側の利益を代弁する論理を構築しようとするためのものではないか、という疑惑が投げかけられることとなった。おりしも、ロックフェラーの経営するコロラド炭鉱で一年にも及ぶ居座りストライキが起こったことが全米中の注目を浴び、同炭鉱のストライキが流血騒ぎをもって収拾されると、ロックフェラー個人のみならずロックフェラー財団に対しての風当たりも強まることとなった。

このような動きを受けて米国議会が設けたワルシュ委員会では、炭鉱労働者やストライキの目撃者から、カーネギー、ロックフェラー、フォードをはじめとした実業家、有識者等、全米にわたる幅広い人々へのインタビューが行われた。一部には財団を社会悪と決め付け、すぐにでもなくなったほうがよい、という声もある中で、同委員会は、財団の活動を規制するための法律を制定することを政府に勧告する結論を出した。ロックフェラー、カーネギーといった財団では社会科学研究についての助成事業を一時差し控えることとなるが、これは同レポートで主張された、財団が資本主義のイデオロギーを擁護しようとしている、という批判にいち早く対応したものであった。しかし、議会の関心が、ワルシュ報告書の提出に相前後して勃発した第一次大戦への対応に移ったこともあり、財団に関する法律を制定する動きは起こらず、ロックフェラー財団やカーネギーインスティテュートでも、1920年ごろには社会科学研究に対する助成を再開することとなった。


1950年代の2つの委員会

ワルシュ委員会 での否定的な勧告にも関わらず、しばらくの間財団は政府からの干渉を受けることがなかった。これは1930年代になっても米国の財団はわずか200以下であり、さしたる社会的影響を及ぼすこともない、とみなされたためでもあった。その後米国経済の好況により、1940年代には財団の数は1,800に増加し、1950年代になってからは4,000もの財団が存在することとなった。この時代、マッカーシズムの影響を受けて、1952 年にコックス委員会、1953-54年にはリース委員会が結成されたが、これら2つの委員会では、財団セクターが共産主義や、社会主義思想者の後押しをしているのではないか、という、1915年のワルシュ委員会とは全く逆の疑念が財団に投げかけられることとなった。しかし、いずれの委員会も確固とした証拠を示すことができず、財団セクターはおおむね汚名を晴らした結果となり、特に法的な規制の動きはみられることがなかった。


パットマン委員会と1969 Tax Reform Act

その後、財団セクターは、第二次大戦中の戦争特需とその後の米国経済の更なる発展により、急速にその数をふやしていく。1960年に入ると、財団の数が一年に1,200のペースで増加し、1960年の財団ディレクトリーでは資産規模が$50,000 以上、あるいは年間の助成金支出総額が$10,000 を超える財団が5,202も存在する結果となった。すでに1950年にトルーマン大統領が、「財団は税金控除の特典を、疑わしい企業活動の隠れみのに悪用している」と発言していたが、財団を設立することによって不正に得た資金を正当化しようとする動きが相次ぎ、また、税金逃れの方策として財団設立を勧める特集がビジネス誌に頻繁に掲載されるなど、財団は金持ちの財産保有のツール、というイメージが世間に広まることとなった。特に中小規模の財団の多くは、家族や近親者等、いわば内輪の者たちで理事会が占められ、知り合いの参加している団体等へ資金を提供するような活動を行っていた。このような財団の活動内容や意思決定のプロセス等について多くの財団が秘密主義を貫き、公表することがなかったことも、財団のうさん臭さをいっそう強めることとなった。

他方フォード財団は、ロックフェラー財団と並び、すでに米国の代表的な財団としての地位を獲得していたが、当時フォード財団の理事長がケネディ、ジョンソン両政権の政策顧問であったマクジョージ・バンディであったことに象徴されるように、いくつかの有力財団が政治的に影響力を及ぼす可能性についても再び問題視されることとなった。このような背景から、民主党の下院議員であったパットマンを中心とする調査委員会が1961年に結成される。この委員会は1972年までの11年間継続したが、調査の目的が明確であった過去の委員会とはやや異なり、中小財団における税金逃れや、資金の使途の恣意性、有力財団の政治的影響力、さらには税金で優遇されているノンプロフィット団体と企業との不公正な競争等、非営利セクター全般に関する問題を取り混ぜて調査しようとするものであった。同委員会は、いくつかの財団にセルフディーリングがあったことを明らかにした後、IRSの不十分なスクリーニング活動を問題視し、財団活動を厳しく取り締まるための法律改正を主張する報告書を提出した。パットマン委員会に刺激される形で、1965年には米国歳入庁も特別委員会を設置したが、同委員会はいくつかの財団が選挙活動に影響力を行使ししようとした事実等を明らかにし、法改正や行政指導の必要性を結論付けた。

パットマン委員会の報告は、全体的には不正確で誇張が多かったと批判する声もあったようであるが、一般市民が財団に対する不信感、ひいては敵意を抱くには十分なものであった。政治家が支持者の受けをねらって、スピーチの際に財団攻撃をおこなうことを始め、財団は特定の期間内にその活動を終結し、解散すべきである、と主張する議員も現れるにいたった。このような中で成立した1969年のTax Reform Act が財団に対して厳しい措置をとることとなったのは、いわば必然のなりゆきであった。まず同法は非営利機関をPrivate Foundations と Public Charity に識別し、後者は税制面で前者より多くの優遇措置を受けることとなる。さらに財団に対しては、セルフディーリングの禁止、資産運用収入に対する4%課税、個人に対する助成金の制限、資産運用収入と少なくとも同額の金額を助成金として支出すること、ロビイング活動の禁止等の非常に厳しい制限がなされた。

カーネギーインスティテュート理事長であったアラン・パイファーは、当時を振り返って「われわれ財団セクターの者は、不当な言いがかりを受け、踏んだり、けったり、こづき回されたりした、という感じから逃れることができない」と話しているが、この時代の苦い経験は財団関係者の間に長くトラウマとして残ることになった。しかしそれにもまして深刻であったのは、法改正の内容が非常に厳しいことであった。「もはや財団は生き残れない」、という恐怖と悲観論がセクターを覆うことになるのである。

このような状況の中での財団セクターの反応は様々であったが、以下の2つが特筆に価するものと思われる。その1つは、1970年にCouncil on Foundations, The Foundation Center, National Council on Philanthropyの3つの組織が合同して結成した、財団セクターに関する委員会である。同委員会は今後の改善策として、(1)財団活動に対する理解を深めるためのレポートや情報の提供、(2)財団に関する研究・出版に対する援助の促進、(3)グッドプラクティスの基準の作成、(4)財団同士の情報提供や協力関係を深めるためのクリアリングハウスやフォーラムの形成、(5)よりよいパブリックリレーションズに向けての努力等を提唱したのであった。なかでもCouncil on Foundations は、オフィスをワシントンD.C.に移し、政府とのよい関係作りに積極的に取り組むほか、全米にカウンシルの職員を派遣し、財団経営者とのワークショップを開催し、厳しい法規制の下での財団のマネージメントの仕方をアドバイスして回るなどして、財団関係者の自信回復を促したのであった。

他方、ロックフェラー3世は、世論や議会からの財団非難に対抗して1972年に私設の委員会(The Commission on Private Philanthropy and Public Needs)を立ち上げる。保険会社の重役であったジョン・ファィラーを委員長とするこのファィラー委員会は、財団の助成活動が米国社会に果たす役割、ボランタリーセクターと財団活動との関係性等について、米国で初めての大がかりな調査・分析を行ったのであった。1975年には基調報告書 が、また1977年には91のケース・スタディ集が発表されたが、特にその報告書では、非営利組織は米国社会において非常に重要な役割を果たすことができる、と主張し1969年のTax Reform Actは財団セクターの力を弱め、ひいてはボランタリーセクターを弱小化させ、非営利セクター全体の存在を危ういものにする恐れがあるとして、同法の改正を呼びかけた。

1977年に再び税法が改正され、財団の資産運用収入にかかる税金の割合が4%から2%(場合によっては1%)に引き下げられ、ペイアウトレートは、資産相当額の5%とすることが定められたが、この法改正にファィラーレポートは大きな役割を果たしたといわれている。また、ファィラーレポートが、財団セクターがノンプロフィットセクターに果たす役割を明らかにし、両セクターが米国社会に及ぼす影響を強調したこともあり、両セクターの間には、以前は見られなかった、1つのセクターとしての共通認識が生まれることとなった。1980年に両セクターを代表する機関として Independent Sectorが設立されたが、これは、この間の事情を如実に反映したものである。

その後米国財団は、一般大衆とのコミュニケーションを改善し、透明性のある財団活動を心がけるようになる。また、資金が効果的に使用されることにより、財団の社会への貢献度を増すための方策として、多くの財団はこぞってプロフェッショナルをグラントメーキングに登用することとなる。財団のミッションを生かすべく具体的なプログラムを組み立て、そのプログラム分野における専門性の高い人物を大学、研究所等の教育・研究機関や、ノンプロフィットセクター等から物色し、雇用することが盛んになってきたのである。プログラムスタッフの専門化は、他方財団の意思決定機関である理事会の役割をも必然的に変えることとなった。つまり、従来のように、理事の近しい人の関わっている団体の事業にお金をつけることで成り立っていた理事会ではなく、むしろ個別の助成事業の検討は専門スタッフに任せ、財団全体の方針の設定等に理事会活動の重きが移っていったのであった。

ファィラー委員会以降、財団セクターに関する大がかりな委員会は設置されていない。1980年代になって、非営利セクターの台頭が注目され、市民社会の質の向上に果たす役割が盛んに議論されるようになる中で、財団はシビルソサエティの重要な推進者としての地位を確立するようになった。特に1990年代には、財団は軒並み資産規模を増大させ、活発な助成活動を展開していった。1990年代は、財団躍進の時代であったといえる。


9.11の影響

明けて2001年9月11日に起こった同時多発テロが米国社会に与えた影響は計り知れないものがあるが、財団セクターも否応なくその余波を受けることとなった。テロリストやその組織への送金を禁じ、またテロ組織を支援した個人・機関の財産を政府が凍結することを可能とした大統領令が発令され、テロリズムに対する連邦政府の機能強化を目的としたパトリオット・アクト等が制定されたことに関連して、米国財務省は "Voluntary Best Practices for US-Based Charities"と称するガイドラインを発表した。このガイドラインは法的な強制力を持つものではないが、意図の有無にかかわらず結果としてテロ行為を援助することになった場合も有責とみなす、といった政府の見解に立ち、財団やNGOにとっての望ましいガバナンスや海外助成のあり方等を提案したものである。海外での助成先機関やパートナー機関の詳細のみならず、事業遂行に関連する全ての関係団体や金融機関の調査までが必要とされ、海外に助成を行う財団やNGOの事務手続きに関する負担が増すこととなった。さらにブッシュ政権は、連邦政府の支出が大幅に増大する中で、福祉・社会事業への財団のより積極的な参加を期待するようになった。2003年に議会に提出され、結局は成立が見送られたブラント・フォード法案は、財団の5%ペイアウトの中から助成活動に伴うアドミコストを除外することを求め、財団セクターの猛反発を招いた。政府としては、財団からより多くの財源が助成金として支出されることをねらっているわけであるが、そもそも1969年の税法改正こそが財団のアドミコスト増加の要因の1つであったのである。つまり財団は事業スタッフの専門家を進めることによって、財団事業の効果を上げ、社会貢献を増大し、社会に認められることが必要であると考えたのであった。そのために専門性の高い職員の人件費のみならず、よりよい助成活動を行うための、調査・研究費用等をも積極的に負担するようになったのである。

財団セクターは、アドミコストが5%に含められない場合、財団はコスト削減によりスタッフを切り詰めざるを得ず、ひいては助成事業の質を落としかねないと同法案の成立に反対したのであった。もっとも政府側がコスト削減の理由としてもっぱら上げているのは、財団が理事や理事会の開催に費やす費用の削減である。エンロンスキャンダル後のコーポレートガバナンスの見直しが非営利セクターにまで及びつつある感があるが、そのためか最近米国では、財団やノンプロフィット団体の役職員が高給を楽しみ、贅沢三昧の出張旅行をしている等の記事が散見され、あたかも反非営利セクターキャンペーンであるかの様相を呈している。

1960年代に多くの財団関係者がいみじくもいった、「ほんのひと握りの財団の不祥事が、あたかもセクター全体のことであるかのように取り上げられ」不当な法律の改正が起こりかねない事態なのである。

このような動きの中で、米国財団セクターは、新たな難局を迎えつつあるのではないか、との懸念をぬぐい去ることができない。翻って日本でも、100年ぶりの民法改正に向け、公益論議の盛んなご時勢である。米国財団が身をもって体験した、財団活動についての国民の理解と世論の後押しの必要性、財団活動の質の向上の重要性を、われわれも十分に理解し、財団として、またセクター全体として何ができるかを、真剣に考える時期ではないかと愚考する次第である。

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