<特別寄稿>カート・キャンベルの対ロシア戦略観【前編】
畔蒜 泰助
はじめに
2023年11月1日、ジョセフ・バイデン大統領はカート・キャンベル国家安全保障会議(NSC)インド太平洋調整官 兼 大統領副補佐官(国家安全保障担当)を次期国務副長官(同省No.2)に指名した1。2024年2月6日、米上院はこの指名人事を承認した2。
この指名人事の発表にいち早く祝福の声明を発表したのが米ハーバード大学ケネディースクール・ベルファーセンターだった。この声明の中にこれまで日本では余り知られていない非常に興味深い彼の経歴が紹介されている。人事指名の発表同日、ベルファーセンターのウェブサイトに掲載された声明3によると、キャンベルとの関係は、1980年代に彼がポスドク研究員となったのが始まりで、その後、彼は同センター副部長に就任している。そして1991年には、旧ソ連邦諸国の核兵器など大量破壊兵器(WMD)の解体・破棄を財政支援する事業として知られる「ナン・ルーガー協同脅威削減プログラム(Nunn-Lugar Cooperative Threat Reduction Program)」へと繋がる同センターによる有名な「ソ連核分裂モノグラフ」4 の共同執筆者となったという。
キャンベルはオバマ政権時の2009~2013年、ヒラリー・クリントン国務長官の下で国務次官補(東アジア・太平洋担当)を務めた。中国の著しい台頭を念頭に、ブッシュ政権時代に深入りし過ぎた中東地域からアジア太平洋地域へと米外交政策の軸足を移す所謂「ピボット政策」5 の策定に中心的な役割を果たした。我々が良く知るのは、そんなアジア太平洋/インド太平洋情勢に精通した外交官としての顔であろう。
だが、前述の通り、キャンベルは冷戦末期に米ハーバード大学でソ連専門家として国際政治分野のキャリアをスタートさせている。その後は、国防総省、国務省を中心にアジア太平洋地域に軸足を置いてキャリアを築いたが、ロシアとのトラック2対話にも積極的に関与するなど、ロシアへの目配せも忘れていなかった。少なくとも今回のウクライナ戦争勃発前までは「中国の台頭著しいアジア太平洋/インド太平洋地域の勢力均衡を維持するという文脈で、ロシアをどう位置づけるか?」という米外交安保サークルの中では希少な問題意識の持ち主だった。
本稿では、そんなキャンベルの対ロシア戦略観を明らかにしつつ、このタイミングでの国務副長官就任が、今後のバイデン政権の対ロシア政策にどのような影響を与え得るか、またそれが我が国の対ロシア政策に持ち得る含意について考察する。
キャンベルが描くアジア太平洋/インド太平洋における対中勢力均衡
(2016-2021)
2016年、キャンベルはオバマ政権時代に自らその策定に中心的役割を担ったピボット政策に関する著作The Pivot: The Future of American Statecraft in Asiaを発表した6。 この中でキャンベルは、中国の台頭を米国の受け入れ可能なものに方向づけるべく、アジア太平洋地域に米外交の重心を移し、日本、韓国、豪州、シンガポール、フィリピン、タイといった同盟国やインド、台湾、ニュージーランド、ベトナム、マレーシアなどの東南アジア諸国、パプアニューギニア、パラオなど16の国と地域からなる太平洋島しょ国といったパートナー諸国と関係強化し、欧州諸国のアジア太平洋地域への関与を促進することなどを提言している。
2016年といえば、国務省時代の彼の上司であったヒラリー・クリントンが民主党候補として米大統領選挙を戦った年である。ヒラリー・クリントンが勝利していればキャンベルも新政権においてNSC大統領顧問(安全保障問題担当)などの主要なポストに就くことが有力視されていた。とすると、この著作は次期政権への参画を明確に意識した上で発表されたと見てよいであろう。だが、共和党候補のドナルド・トランプが勝利した為、彼にその機会は訪れなかった。
ところが、2020年11月の米大統領選挙でジョセフ・バイデン民主党候補が現職のトランプ大統領を破り、民主党が政権に返り咲いたことで、キャンベルにもう一度チャンスが訪れる。キャンベルがバイデン政権のNSCインド太平洋調整官に就任するとマスメディアで発表されたのは2021年1月13日だった7。その前日1月12日、彼は米ブルッキングス研究所の中国専門家ラッシュ・ドーシ(バイデン政権のNSC中国担当ディレクター)との共著で“How America Can Shore Up Asian Order: A Strategy for Restoring Balance and Legitimacy”と題する論考を米外交問題専門誌Foreign Affairs誌ウェブサイトに発表している。 彼のインド太平洋戦略のエッセンスはこの論考に込められている8。
この論考の主要命題は「ナポレオン戦争後の欧州秩序回復には勢力均衡(Balance of Power)と正統性(Legitimacy)の確保が重要な役割を果たした」というヘンリー・キッシンジャーの博士論文のテーゼが、今日、中国の経済的・軍事的台頭で揺らぐインド太平洋の地域秩序を立て直す上でも参考になるというものである。特に中国に対する勢力均衡を維持する為には、米国の軍事力の在り方の変更と共に同盟国やパートナー諸国との強い連携が求められるとし、具体的には米日豪印からなるクワッドや韓国、英国などの欧州諸国との協力を挙げている。
なお、キャンベルは前述のThe Pivotの中でも自らの首席研究助手で同書の初稿の執筆者としてラッシュ・ドーシの名前に言及していることから、本論考はThe Pivotの発展編と理解して間違いないだろう9。
但し、この2つの著作にはピボット政策や対中勢力均衡の文脈でロシアへの前向きな言及は見当たらない。
キャンベルの対ロシア戦略を読み解く2つの鍵:CNASとイーライ・ラトナー
2016-2021年は、2014年に勃発したロシアによるクリミア併合を始めとする最初のウクライナ危機が米露関係を劇的に悪化させていたのだから、ロシアに対する前向きな考えなどなかったのだろうか? しかし事はそう単純ではない。この2つの著作が発表されたのと同時期にキャンベルは「中国の台頭著しいアジア太平洋/インド太平洋地域の勢力均衡を維持するという文脈で、ロシアをどう位置づけるか?」という難題への回答を別ルートで発信しているのだ。
キャンベルの対ロシア戦略観を読み解く2つの鍵は、米シンクタンク「新米国安全保障センター(CNAS)」と、バイデン政権で国防次官補(インド太平洋担当)を務める「イーライ・ラトナー」である。
キャンベルが、オバマ政権で2009年から2012年まで国防次官(政策担当)を務めたミシェル・フロノイと共にCNASを共同で創設したのは2007年のことである。キャンベル自身も2009年にオバマ政権入りしたが、2013年に同政権を去ると、共同創設者 兼 共同議長としてCNASに復帰した。
二つ目の鍵、イーライ・ラトナーとキャンベルの繋がりを象徴するのは、トランプ政権時の2018年3・4月号の米外交問題専門誌Foreign Affairs誌に発表した共著論考だ。中国専門家で当時、CNASの上級バイスプレジデント兼研究ディレクターを務めていたラトナーと共に“The China Reckoning: How Beijing Defied American Expectations”を発表し10、その中で、中国が将来的に米国主導の世界秩序において責任ある利害関係者として振る舞うとの期待を前提とした米国の従来の対中国政策を見直す必要があると論じて、大きな注目を集めた。
バイデン政権では、2021年1月にキャンベルがNSCインド太平洋調整官に任命されたのに対して、ラトナーはまず、同政権の国防長官特別アドバイザーとして国防省内の「中国タスクフォース」の責任者となった。そして2021年7月、国防次官補(インド太平洋安全保障問題担当)に就任し、国防総省内でのキャンベルのカウンターパートとなった11。 このようにキャンベルとCNAS並びにラトナーは表裏一体の関係にあると見てよい。
さて、オバマ政権を出てバイデン政権に入るまでの間に、キャンベルが明確にピボット政策の文脈でロシアに言及した文書が、筆者が知る限り一つだけある。それは2014年4月18日付け米Foreign Affairs誌ウェブサイトに掲載された “Far Eastern Promises: Why Washington Should Focus on Asia”と題された論考だ12。共著者は前述のラトナーである。
キャンベルがオバマ政権の国務省を去ったのは、上司のヒラリー・クリントンと同じ2013年2月のことだった。だが、在任中の2011年10月に打ち上げた中東地域からアジア太平洋地域へのピボット政策は、オバマ政権がその後もシリア内戦やイラン核開発問題など中東地域での喫緊の課題への対処に忙殺されたため、道半ばの状況にあった。それだけに、何故、アジア太平洋地域へのピボットが重要なのか、改めて論じるというのがこの共著論考の主目的だった。その最後部に次のような記述がある。
もし、二国間関係の方向性が許すのであれば、ワシントンは東アジアでインドやロシアとも協力を拡大する機会を探るべきである。
ここで注目すべきは、この共著論考が発表された2014年4月18日というタイミングである。ロシアのプーチン政権がクリミア併合を宣言したのは同年3月18日のこと。同年4月にはウクライナ東部へと危機が拡大し始めていた。このような微妙なタイミングでキャンベルがラトナーとの共著論考の中でピボット政策の文脈でロシアとの協力拡大の可能性に言及していたのである。
しかもそれだけではない。ラトナーが同年8月18日付けのForeign Affairs誌に掲載されたCNASシニアフェロー兼エネルギー・経済・安全保障プログラム・ディレクター(当時)のエリザベス・ローゼンバーグとの共著論考“Pointless Punishment: How the Sanctions on Russia Will Hurt Asia”の中で、次のように論じているのだ13。
アジアでロシアが米国のパートナー諸国から孤立することは同地域における米国の主要な安全保障上の利益に反する。オバマ政権はウクライナ危機がロシアと中国の関係深化に繋がる措置を取ることを回避すべきである。その最良の方法はロシアがインド、日本、そしてベトナムといった中国を潜在的な脅威と捉えている他のアジア諸国とより良好な関係を有することを請け合うことである。特に米国に直接影響を与えるアジアでの重大な安全保障問題においてモスクワと北京がより大規模に結託することを防ぐ主要ファクターは、ロシアがアジアにおいて多角化したパートナーシップを有することである。ロシアとアジアにおけるパートナー諸国の関係を断つような行動を取る事は米国に不利益となる形でアジアの勢力均衡の変化を招いてしまう。
2014年のウクライナ危機の勃発を受けて、欧米諸国がロシアに対して本格的な経済制裁を発動したのと相前後して、ロシアは中国への急接近を開始していた。一方、2012年末に発足した安倍政権は長年の懸案である平和条約問題の解決、そして中国の台頭を念頭にロシアとの関係改善・強化を通じて日本に有利な対中国勢力均衡の形成を目指して、積極的な対ロシア外交を開始していた矢先の出来事だった。
- The White House, “President Biden Announces Kurt Campbell as Nominee for Deputy Secretary of State, Department of State,” November 1, 2023, <https://www.whitehouse.gov/briefing-room/statements-releases/2023/11/01/president-biden-announces-kurt-campbell-as-nominee-for-deputy-secretary-of-state-department-of-state/> accessed on February 13, 2024.(本文に戻る)
- Patricia Zengerle, “US Senate confirms Asia hand Kurt Campbell as country’s No.2 diplomat,” Reuters, February 7, 2024, <https://www.reuters.com/world/us/us-senate-confirms-asia-hand-kurt-campbell-countrys-no-2-diplomat-2024-02-06/> accessed on February 13, 2024.(本文に戻る)
- “President Biden Nominates Kurt Campbell for Deputy Secretary of State,” Belfer Center for Science and International Affairs, Harvard Kennedy School, November 1, 2023, <https://www.belfercenter.org/publication/president-biden-nominates-kurt-campbell-deputy-secretary-state> accessed on February 13, 2024.(本文に戻る)
- Steven E. Miller, “Soviet Collapse and Nuclear Dangers: Harvard and the Nunn-Lugar Program,” Stimson, October 20, 2023, <https://www.stimson.org/2023/soviet-collapse-and-nuclear-dangers-harvard-and-the-nunn-lugar-program/> accessed on February 13, 2024.(本文に戻る)
- 2011年10月、ヒラリー・クリントン国務長官が米Foreign Policy誌に発表した論考がオバマ政権のピボット政策が公式に打ち出された最初のものである。Hillary Clinton, “America’s Pacific Century – The future of politics will be decided in Asia, not Afghanistan or Iraq, and the United States will be right at the center of the action.,” Foreign Policy, October 11, 2011,<https://foreignpolicy.com/2011/10/11/americas-pacific-century/> accessed on February 13, 2024.(本文に戻る)
- Kurt M. Campbell, The Pivot: The Future of American Statecraft in Asia, (New York: Twelve, 2016).(本文に戻る)
- Josh Rogin, “Biden’s pick for top Asia official should reassure nervous allies,” The Washington Post, January 13, 2021, <https://www.washingtonpost.com/opinions/2021/01/13/kurt-campbell-biden-china-asia-nsc/> accessed on February 13, 2024.(本文に戻る)
- Kurt Campbell and Rush Doshi, “How America Can Shore Up Asian Order; A Strategy for Restoring Balance and Legitimacy,” Foreign Affairs, January 12, 2021,(本文に戻る)
- <https://www.foreignaffairs.com/articles/united-states/2021-01-12/how-america-can-shore-asian-order> accessed February 13, 2024.(本文に戻る)
- Kurt Campbell and Ely Ratner, “The China Reckoning; How Beijing Defied American Expectations,” Foreign Affairs (March/April 2018), <https://www.foreignaffairs.com/articles/china/2018-02-13/china-reckoning> accessed on February 13, 2024.(本文に戻る)
- U.S. Department of Defense, DR. ELY S. RATNER, <https://www.defense.gov/about/biographies/biography/article/2757029/dr-ely-s-ratner/> accessed on February 13, 2024.(本文に戻る)
- Kurt Campbell and Ely Ratner, “Far Eastern Promises: Why Washington Should Focus on Asia,” Foreign Affairs, April 18, 2014, <https://www.foreignaffairs.com/articles/east-asia/2014-04-18/far-eastern-promises> accessed on February 13, 2024.(本文に戻る)
- Ely Ratner and Elizabeth Rosenberg, “Pointless Punishment: How the Sanctions on Russia Will Hurt Asia,” Foreign Affairs, August 18, 2014, <https://www.foreignaffairs.com/articles/east-asia/2014-08-18/pointless-punishment> accessed on February 13, 2024.(本文に戻る)