公立学校における「マスク戦争」で見えた教育問題
山岸 敬和
バイデン大統領による一般教書演説が現地時間3月1日に行われたが、大統領をはじめ参加者がマスクをしていなかったことに多くの日本人は驚いたであろう。実は直前まで米国議会では、マスクの中でもKN95やN95のような感染防止力が高いとされるものを着用することが義務付けられており、それに反すると退出を求められるか罰金を課されるとされていた。しかし2月27日になって、参加者のマスク着用は個人の選択に委ねるとされた。
これは米国疾病予防管理センター(CDC)が2月25日に、感染者数や入院者数が高くない地域において室内でのマスク着用は必要ないとする指針を示したことを受けた形になった。しかしCBC Newsは、これをマスク着用への反対姿勢を強める共和党議員とのこう着状態を和らげるためであったとしている1。
アメリカのマスクをめぐる政治的争いは、「マスク戦争」と呼ばれるほど激しいものであった。民主党はマスクの感染拡大効果は科学的に証明されているとして、着用の義務付けを行なうべきだとしてきた。他方、共和党の多くの議員は民主党側が言うマスクの感染防止効果は科学的な根拠が十分でなく、民主党は国家が人々の生活に関与するための「恒久的なパンデミック国家」を単に作りたいだけであると反論してきた2。
この「マスク戦争」は子供に対するマスク着用義務付けをめぐる議論でさらにヒートアップした。このコラムでは、教育現場におけるマスク義務化をめぐる争いと、同時に起こった公立学校への信頼低下について論じたい。
「マスク戦争」のこれまで
2020年春に新型コロナウイルス感染症が拡大し、3月に緊急事態宣言が出され、米国の多くの学校では3月中に対面授業を中止した。夏休みを経て始まった秋学期の授業は原則オンライン化された。そして多くの地域で、2021年春学期(1月〜5月)もオンライン授業が継続された。
2020年の秋学期は第三波の真っ只中であったこともあり、オンライン授業は合理的な判断だと受け取られた。しかし翌年の春学期には多くの場所である程度感染状況は比較的落ち着いていた。その状態でオンライン授業が続いたことについて保護者から教員に対する不信・不満が強まった。
そのような中で2021年秋学期に対面授業が始まった。そこで問題となったのが子供へのマスク着用義務である。
CDCはそのガイダンスで、ワクチンの接種の有無に関係なく、2歳以上の子供、教員、事務職員、訪問者はマスクを着用することを推奨した。他方、世界保健機関(WHO)は5歳以下の子供にはマスクの着用をさせないことを勧めている。6〜11歳の子供に対しても、「学習や心理的発達の障害になるため」としてマスク着用を強く勧めていない。イギリス、ノルウェー、スウェーデン等の国はWHOの方針に従った3。
しかし、アメリカは違った。バイデン政権は、2021年1月に就任すると「100 day mask challenge」と称してマスク着用キャンペーンに乗り出した。その中で子供にもマスクの着用が勧められた。それに呼応して、300万人の会員を要する全米最大の教員組織である全米教育協会(NEA)は、マスクの義務づけを支持した4。
しかし、子供に対するマスクの着用義務化に対しては、主に民主党支持者からは賛成の声が上がる一方で、強い反対の意思も示された。2021年8月の調査によると、義務化を支持する割合は民主党支持者では92%であった一方で、共和党支持者の中では44%に止まった5。
賛成派と反対派はこの問題をめぐり激しく対立し、暴力沙汰にまで発展するケースが見られるほどであった6。
反対派にとって重要なことは、アメリカの伝統的な個人の自由、政府権力への反対はもちろん、子供がマスクを着用することが感染防止に一般的に信じられているほど大きな効果を持たない、という科学的な証拠も反対の理由に示されていた点だ7。
広がる公立学校離れ
公立学校の教員はリベラルな立場をとる者が多いことは知られており、NEAのような教員団体は党派性が強い(民主党員が多い)ことは事実である。公立学校の教育現場をめぐる争いは、これまでも進化論や人種問題をどのように扱うかを争点に存在した。しかし、社会学者のマーティン・リプセットが著書『アメリカ例外論(American Exceptionalism)』の中で指摘するように、アメリカは社会保障については他国に比べて政府が直接関与することを嫌うが、他の国と比べて公的教育に対する政府の関与は歓迎する傾向がある。アメリカの建国の理念でもある「equal opportunity(機会の平等)」を担保するためには、誰でも平等に教育を受けることができる場を政府が提供することが必要である、というロジックである8。いわば公立学校がアメリカンデモクラシーを根幹で支えていたといえる。
しかしコロナ禍は、その公立学校の存在意義を改めて問い直させる役割を果たした。
ピュー・リサーチセンターによる2021年7月に行われた世論調査では、公立学校(小中高校)の校長への信頼が低下していることが示されている。公立学校の校長を信頼していると答えた人は64%、信頼していない(「それほど信頼してない」「全く信頼してない」を含む)と答えた人は35%で、信頼していない人の割合が、前回の調査よりも10ポイントも増加している9。
公立学校の校長への信頼が低下した理由は生徒へのマスク着用義務化が理由の一つだとも考えられる。そして公立学校に不信感を抱いた保護者が選択した方法の一つが「ホームスクーリング」である。
アメリカではもともと、宗教その他の理由で、子供を学校に通わせずに自宅等で教育を行うことを選択する保護者が多い。2016年大統領選挙の候補者の一人であったリック・サントラムが子供をホームスクーリングさせていたことは有名である。
もちろんホームスクーリングには厳格なルールがあり、決められたカリキュラムに基づいて教育をしなければならない。複数の保護者が集まり、小さな学校のような形態をとることが多い。
コロナ禍でこのホームスクーリングを選択する親が増加した。2020年4〜5月の調査ではホームスクーリングを選択した世帯の割合は5.4%であった。その数字は2021年の秋学期が開始する時期には11.1%にまで増加した10。
その他、公立学校から私立学校への転校をした生徒の数も増加した。年間の授業料が約27,000ドル(約300万円)と高額ではあるが、より高度なICT教育手法を駆使したオンライン教育を運用し、少人数クラスであるが故に対面クラスへの切り替えも柔軟に行うことができるということから、人気が高まった。
コロナ禍が終息した時にどの程度の子供たちが公立学校に戻ってくるかが注目されるところであるが、コロナ禍で公立学校が失った信頼を取り戻すには長い時間と相当な投資、努力が必要であろう。
教育現場と政治の分極化
公立学校における「マスク戦争」は、現代のアメリカにおける政治の分極化が教育現場に持ち込まれた事例ともいえる。リプセットが言うように、アメリカにおける教育はデモクラシーの根底を支えてきたものである。しかしその一方で、第二次世界大戦後に拡大した公民権運動によって、公立学校における人種差別が社会における人種差別を生み出す根源になっていたことも暴かれた。1960年代に人種統合された教育現場は、多文化主義を基にした教育を進めることでその汚名を返上しようとした。
しかし、その後米国の公立の教育現場は、保守派からはその行き過ぎを批判され、リベラル派からはさらなる改革を求められた。「マスク戦争」はその教育現場における政治的対立をさらに悪化させたといえる。さらには、未知の新型コロナウイルスに対処する中で、科学を党派的に利用する動きも高まり、それは教育全体の地盤沈下を招いたともいえる。
コロナ禍が収束すれば、子供たちは学校でマスクを外して再び素顔を見せられるようになるが、アメリカの教育政策の問題点も露わになるだろう。そして、その問題の解決なくしては、アメリカのデモクラシーの進化も期待できない。今後の選挙で両党がどのような改革案を示すのかが注目される。
(了)
- Rebecca Kaplan and Scott MacFarlane, “Congress drops mask mandate in time for State of the Union,” CBS News, February 28, 2022, <https://www.cbsnews.com/news/congress-mask-mandate-state-of-the-union/>, accessed on March 2, 2022.(本文に戻る)
- Stephen Collinson and Shelby Rose, “America’s fiery mask wars,” CNN, July 29, 2021, <https://edition.cnn.com/2021/07/28/world/meanwhile-in-america-july-29-intl/index.html>, accessed on March 2, 2022.(本文に戻る)
- Margery Smelkinson, Leslie Bienen, and Jeanne Noble, “The Case Against Masks at School,” The Atlantic, January 26, 2022, <https://www.theatlantic.com/ideas/archive/2022/01/kids-masks-schools-weak-science/621133/>, accessed on March 2, 2022. (本文に戻る)
- Molly Jong-Fast, “Joe Biden Begins His Presidency With a Simple Message for All of Us: Wear a Damn Mask,” Vogue, January 23, 2021, <https://www.vogue.com/article/joe-biden-mask-wearing-100-days-executive-order>, accessed on March 2, 2022; Staci Maiers, “NEA applauds Education Department’s investigations into states that prohibited universal mask mandates in schools,” National Education Association, August 30, 2021, <https://www.nea.org/about-nea/media-center/press-releases/nea-applauds-education-departments-investigations-states>, accessed on March 2, 2022. (本文に戻る)
- Margaret Talev, “Axios-Ipsos poll: Most Americans favor mandates,” AXIOS, August 17, 2021, <https://www.axios.com/axios-ipsos-poll-mandates-masks-vaccinations-f0f105a7-3c2e-4953-aac9-f25516128b11.html>, accessed on March 10, 2022.(本文に戻る)
- Deepa Shivaram, “The Topic Of Masks In Schools Is Polarizing Some Parents To The Point Of Violence,” NPR, August 20, 2021, <https://www.npr.org/sections/back-to-school-live-updates/2021/08/20/1028841279/mask-mandates-school-protests-teachers>, accessed on March 10, 2020.(本文に戻る)
- 以下の記事も参照。David Zweig, “The CDC’s Flawed Case for Wearing Masks in School,” The Atlantic, December 17, 2021, <https://www.theatlantic.com/science/archive/2021/12/mask-guidelines-cdc-walensky/621035/>, accessed on March 10, 2022.(本文に戻る)
- シーモア・M・リプセット『アメリカ例外論』(上坂昇・金重紘訳、明石書店、1999年)。(本文に戻る)
- Brian Kennedy, Alec Tyson, and Cary Funk, “Americans’ Trust in Scientists, Other Groups Declines,” Pew Research Center, February 15, 2022, <https://www.pewresearch.org/science/2022/02/15/americans-trust-in-scientists-other-groups-declines/>, accessed on March 2, 2022.(本文に戻る)
- Casey Eggleston and Jason Fields, “Census Bureau’s Household Pulse Survey Shows Significant Increase in Homeschooling Rates in Fall 2020,” United States Census Bureau, March 22, 2021, <https://www.census.gov/library/stories/2021/03/homeschooling-on-the-rise-during-covid-19-pandemic.html> accessed on March 1, 2022.(本文に戻る)