米中フェーズ1合意と当面の米中関係

森 聡
2019年2月の本シリーズの論考「ワシントンにおける対中強硬路線の形成」を出した当時、前年のペンス演説の余韻が残っており、ワシントンが対中強硬路線でまとまっているとの見方が大勢を占めていた1。筆者は、官僚機構や連邦議会で対中強硬路線が形成されているものの、トランプ氏が、大統領選でアピールできるような「輸入拡大プラスアルファ」の見返りを手に入れれば、大統領選をにらんだ政治本位の判断に立って、追加関税の部分的な解除に応じる可能性を指摘したが、概ねそのような流れになってきた。
2020年1月15日に、トランプはホワイトハウスのイーストルームで、中国とのいわゆるフェーズ1合意2に署名した。96頁あまりにわたる合意文書の詳細をここでまとめることはできないが、中国が今回応じたのは、知的財産の保護(第1章・18頁)、強制的技術移転の禁止(第2章・3頁)、食糧・農産物貿易(第3章・23頁)、金融サービス部門における外資規制の緩和(第4章・4頁)、マクロ経済政策および為替レート問題(第5章・3頁)、貿易の拡大(第6章・28頁)、二国間審査・紛争解決(第7章・6頁)の諸分野である。
中国が米国から2年間でモノとサービスの輸入を総額で2,000億ドル増やし、農産品についても2年間で320億ドルの輸入拡大を図ることとされ、注目を集めている。また、中国の金融セクター開放も、中国への進出拡大をもくろむ米金融業者にとって大きな果実となっている点も見落とすべきではない。合意の署名式で、トランプ氏はイーストルームに集まったかなりの人数の招待客を個人名で順番に紹介しながら恩を売ったが、その中にはウォール街の大手金融会社のトップもいた。
他方、中国の政府補助金の問題については、対外直接投資に係るものは今回の合意に含められたものの、産業補助金は含まれなかった。中国にとってみれば、ひとまず「本丸」に攻め込まれずに済んだということになる。(ちなみに、1月14日に日米欧はワシントンDCで会合を開き、WTOで禁止される産業補助金の種類を追加し、有害な強制的技術移転を禁止する方策などについて検討を進める旨の共同声明を出している。)
一方の米国は、2019年9月に発動した関税第4弾(1,200億ドル相当)の関税率を15%から7.5%に引き下げる。ただし、すでに25%の関税が課されている2,500億ドル相当については、現状のまま維持されるので、追加関税の部分的な解除は、全体としてみると小幅に留まった。ムニューシン財務長官によれば、残余の追加関税の解除はフェーズ2合意の対象となる(今のところフェーズ3は想定されていない)。また、2019年12月15日に発動予定だった1,600億ドル相当の日用品に対する追加関税は、無期限に凍結された(中国による米国製自動車への25%の関税も凍結)。
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関税圧力をかけて中国に譲歩を迫るトランプ政権のアプローチを修正するきっかけとは、何だったのだろうか。
当初言われていた包括合意から部分合意を目指す方向へと潮目が変わったのは、2019年8月だと伝えられている。中国側の事情は本稿の射程外だが、関税合戦から打撃を受けていたのみならず、香港情勢が改善する見通しもなかったので、追加関税の全面解除などの要求を取り下げ、交渉をいったん妥結させる方向へと傾斜したとみられる。昨年5月に交渉が決裂した時点で中国側は、追加関税の一括全面解除や現実の需要を反映した輸入、双方にとって均衡のとれた合意といった条件を求めていたが、それらが満たされないままフェーズ1合意に応じたということは、事態悪化を避けたいという中国指導部の思惑が強かったことを示唆している。
他方、フェーズ1合意に向かった米側の要因については、諸説あるようだ。無論、大統領選挙が迫ってくる中で、中国と手打ちする時機が到来したというトランプの政治的な打算が、フェーズ1合意でいったん交渉を妥結すべし、とする判断の重要な要素になったのは想像に難くない。こうしたトランプの判断を後押しした要因として、次のようなものが指摘されている。
第一に、米ビジネス・リーダーらによるトランプへの働きかけが効いたという見方がある。8月23日に、業を煮やしたトランプは、2,500億ドル相当に対する追加関税を50%に引き上げると威嚇するとともに、米国企業に対して、米国市場への回帰も含めて、中国に代わる進出先を探すように「指示する」とツイッターでつぶやいた。一方、中国指導部は、訪中した米国のビジネス・リーダーらに対して米中関係を安定化させる必要性を積極的に説いたともいわれる。こうした状況を受けて、有力なビジネス・リーダーらが次々とホワイトハウスを訪れ、トランプに対してさらなる関税は米国経済を傷つけ、再選に悪影響をもたらす、いまが潮時だ、と働きかけたとされる。トランプがはたしてそのような働きかけに耳を傾けたのかという疑問が頭をよぎるが、政治献金などの面でトランプにとって重要なビジネス・リーダーらから、立て続けに部分合意で手打ちすべきだと言われて、これを有力支持者からの陳情と受け止めた可能性も考えられる。この種の働きかけは、プロフェッショナル・アドバイスではなく、パーソナル・アドバイスという性質を持っているかもしれない。
第二に、対中経済交渉に係わる側近がトランプに手打ちを促した、という見方もある。関税圧力を強めて譲歩を引き出す路線を引っ張ってきたライトハイザーが態度を軟化させ、クドロー国家経済会議委員長やムニューシン財務長官らとともに、当面合意が可能な交渉成果を回収する部分合意論を支持する立場にまわり、トランプに部分合意で手打ちするように促したともいわれている。ライトハイザーが態度を軟化させた原因は不明だが、産業補助金などの「本丸」をとることに最後までこだわり続けたナヴァロのようなイデオローグとは異なり、ライトハイザーはプラグマティストだということが明らかになった。また、2019年夏に米製造業の景況感指数が「不況」の域に入ったことを受け、クドローはさらなる追加関税の応酬は景気に悪影響をもたらす、とトランプに説いたとも報じられている。署名式においてトランプは、ライトハイザー、クシュナー、クドローという順番で労いと称賛の言葉を送ったが、少なくとも現時点では大きな信頼を寄せていることが分かる。彼らの進言は元来、プロフェッショナル・アドバイスのはずだが、トランプの公約を忠実に追求することによって信頼を勝ち取っているとすれば、彼らの助言もトランプにとって、パーソナル・アドバイスの域に達しているということなのかもしれない。
いずれにせよ、追加関税の応酬がもたらす経済的な悪影響が拡大し、それをさらなる追加関税で悪化させようとしたことが、トランプの実業界での支持者や側近に危機感を抱かせ、トランプの信頼を得ている彼らの働きかけが、政治的見地からの個人的な助言として一定の意味を持った可能性があったかもしれない。
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今回の部分合意は、当面の米中関係にいかなる影響を与えるのだろうか。
第一に、フェーズ1合意によって、さらなる関税合戦の可能性は一時的に遠のいたが、フェーズ2に関する協議で貿易関係が正常化する見通しはまったく立っていない。米国内のステークホルダーのうち、金融業界はそれなりの果実を得たものの、製造業界などは今回の合意に満足しておらず、フェーズ2交渉の早期開始と、追加関税の全面解除を帰結する包括的な合意を望んでいる。米国のビジネス経営層としては、追加関税が全面的に解除されるような、長期的に持続可能な米中合意が達成されなければ、予見可能で安定したビジネス環境を確保できないと考えているようだ。しかしながら、産業補助金などが協議対象となるフェーズ2交渉に中国側が乗り気でないのは、言うまでもない。トランプもこうした現実を理解しているようであり、ただちにフェーズ2合意に向けた交渉を開始するとしつつも、合意の実現は大統領選後になるかもしれないと発言した。ライトハイザーも、フェーズ2交渉をいつ開始するのかという質問に対して、まずは今般の合意を実施するのが先だと応じ、明確な回答を避けている。トランプは大統領選挙期間中、米中フェーズ1合意とUSMCAを、貿易分野に関する公約を果たした実績として宣伝していくであろう3。
肝心のフェーズ2については、トランプが再選されなければどうにもならないであろうし、もしトランプが再選された場合でも、そもそもフェーズ2合意に向けた交渉に本腰を入れるのかどうか分からない。また、仮にフェーズ2交渉が開始されたとしても、これまで「最大限の圧力」をかけて中国から引き出せなかった譲歩を、幾分弱まった関税圧力で引き出すのは困難であろうから、一筋縄ではないかない。こうした事情もあり、米国内では、今回残された追加関税はそのまま残っていくのではないか、とする見方も広がりつつあるようだ。フェーズ2での譲歩を引き出すために新規の追加関税をテコとして使おうとすれば、米国内から反対が出るであろうから、今後は中国企業の個別制裁を圧力手段として活用していくかもしれない4。
第二に、米中経済関係への影響については、トランプ政権の管理貿易の手法によって、中国が輸入を人為的に拡大することになったが、向こう2年間で目標とされている輸入額が、合意に示されたような形でセクター別に達成できるのか、仮に中国の対米輸入が増大したとして、2年後に対中輸出に依存している米国の業界はいかなる事態に直面するか、という問題がある。
一般に、中国政府が協定に含まれているモノとサービスを購入できるかということについては、政府の決断次第であるので、中国政府が決めれば問題なく達成できるはずだと言われる。そうした面もあるのは事実だろうが、今般の貿易の拡大は、過去の実績を超える輸入額で、しかも人為的に作り出されているので、はたしてそのような一般論が現実化するかどうかは、実際の展開をみてみなければ分からない。事実、劉鶴副首相は、合意の貿易部分は中国市場の需要に基づくことになると発言している。今般の合意では、二国間の紛争解決手続が定められたが、貿易枠組みグループ(Trade Framework Group)が合意の履行監視にあたり、二国間審査・紛争解決室(Bilateral Evaluation and Dispute Resolution Offices)が異議申し立て処理などにあたるようである。もし中国による輸入拡大が首尾よく実現しない場合、今回の合意で定められた処理手続に付託されるのであろうが、最終的に米国通商代表と中国の担当副首相との協議で決着がつかないと、合意の義務履行を停止したり、是正を図るための措置を講じたりすることができるとされているので、対立再燃の可能性もありうる。
他方、もし中国が農産品も含めた米国からのモノとサービスの輸入を増大させるとすれば、米国の農業・産業の対中輸出への依存度は高まる。2年後に中国の輸入拡大義務が終了し、中国が米国産品の輸入を縮小するとすれば、米側の関連業種は輸出の減少に直面することになり、米国の関連業種は極めて厳しい状況に立たされる。そのときに管理貿易の悪影響が顕現することになろう。
第三に、米国の対中アプローチ全般への影響については、トランプは米中貿易・金融関係を拡大しようとしているが、その一方で人権やテクノロジーの分野では対立が深まりつつあり、一種のねじれ構造が広がっている。米国の世論調査をみると、中国を競争相手とみなしながらも、対中経済関係の重要性を認識しており、米国の論壇でも過剰な対中脅威論を戒めるべき、との議論がある。
しかしその一方で、新疆ウイグル自治区における中国の弾圧策への反発は強まっており、中国共産党を指弾して非正統化する勢いが増している。ワシントンでも、これまで米中対立をイデオロギー上の対立として位置づけるのは必ずしも適切ではないとの見方が一般的だった。しかし、香港や新彊ウイグルへの注目が高まったことで、米中対立にはイデオロギー的側面があるとする見方が以前と比べて広がりつつあり、筆者も最近ワシントンで参加した会議でそれを目の当たりにした。また、ムニューシンは、華為技術の問題は、交渉における圧力手段ではなく、国家安全保障上の見地に立って必要な措置が講じられる、と述べている。米国が先端技術全般の開発や国際開発金融公社(DFC)による5Gと光ファイバー網への投融資を本格化させていくため、テクノロジー分野での競争は熾烈化するとみられる。
現下の米国の対中政策には、①大統領が交渉を通じて米中経済関係の不均衡是正を目指し、②連邦議会が人権や技術の分野で中国を非難して非正統化し、③官僚機構が技術覇権競争と地政学的競争を追求するという、概ね3つの路線から構成されている。今回の交渉路線におけるフェーズ1合意は、これまでのところ非正統化路線と競争路線を鎮静化させるには至っていないようだ。
こうした3つの路線の間の相互作用が今後いかに推移するかは、無数の要因に影響されるため、現時点で見通すことはできない。もし仮にトランプが再選されたとしても、フェーズ2交渉が、中国による産業補助金廃止などのハードルの高い中核的な争点で成果を出せないとすれば、追加関税は全面解除されず、緊張を緩和させようとする勢力は弱いままとなる。一方、仮に民主党政権や民主党議会が登場するとすれば、気候変動問題での対中協調や人権問題での厳しい対中批判などが争点として入り込んでくるので、現行の対中アプローチが修正される可能性もある(これについては別稿で改めて論じたい)。やはり1年以上先の米中関係を展望するのは困難であることに変わりない。
(了)
- 森聡「ワシントンにおける対中強硬路線の形成と米中関係」笹川平和財団アメリカ現状モニター、2019年2月15日 <https://www.spf.org/jpus-insights/spf-america-monitor/spf-america-monitor-document-detail_19.html> (2020年1月23日参照)。
- 正式名称「アメリカ合衆国と中華人民共和国との経済および貿易に関する合意」“Economic and trade agreement between the United States of America and the People’s Republic of China”, Jan 15, 2020, <https://assets.bwbx.io/documents/users/iqjWHBFdfxIU/rVaHxDBUtdew/v0 >, accessed on Jan 23, 2020.
- 今回の合意で設置されることになった定例協議を、あたかもフェーズ2交渉もしくは予備協議かのように見せるということも考えられよう。
- 今回の合意で華為技術はエンティティ・リストから外されなかったし、商務省では同社への輸出規制を強化する対応を検討中とも伝えられている。