岡野 英之(近畿大学総合社会学部准教授)
2024.01.15
  • 岡野 英之
  • ミャンマー

【エッセイ】ミャンマーの民主闘争と国内避難民 (2)
―仏教僧院という隠れた「避難民キャンプ」―

※本記事における見解は筆者個人のものであり、Asia Peacebuilding Initiatives:APBIの公式見解ではありません。
本記事は全3部作です。第1回目『【エッセイ】ミャンマーの民主闘争と国内避難民 (1)―街角にいる「隠れた国内避難民」たち―』はこちら




日が沈み、すっかり暗くなった頃、アウンさん・ミョーさん夫妻は私をホテルに届けてくれた。
 
2023年8月のその日、私はこの夫婦に連れられ、ミャンマー第二の都市マンダレーから日帰り旅行をした。連載第1回目では、その日帰り旅行で垣間見た「隠れた国内避難民」の様子をレポートした。彼らはマンダレーの横を流れるイラワディ河の対岸、ザガイン管区からやってきている。ザガイン管区には2021年クーデター以降、民主主義の復権を訴える民主派勢力が多数台頭し、国軍と戦闘を繰り返している。その戦闘に巻き込まれる形で家を追われた人々が、国内避難民となっているのだ。その中には、比較的安全なマンダレー周辺に逃げ、そこで暮らす者もいる。
 
連載第二回目には、仏教寺院(=僧院)に身を寄せる「隠れた国内避難民」を紹介したい。ミャンマーの僧院は人々にとって「駆け込み寺」として機能している。国内避難民たちの中には、そんな僧院を頼って暮らしている者もいる。

僧院に滞在するアウンさんとミョーさん

この日帰り旅行の数日後、私はマンダレー市内にあるひとつの僧院を訪ねることとなった。そのきっかけを作ってくれたのも、アウンさん・ミョーさん夫妻であった。
 
彼らが住んでいるのはマンダレーから車で数時間の距離にある町であり、今回は私に会うのに、わざわざ車で来てくれた。この日帰り旅行の後、さすがに数時間のドライブは大変だろうと思っていたら、この後、何日かマンダレーに滞在するらしい。この夫婦はふたりともマンダレー出身だと聞いていたので「どっちの実家に滞在しているの?」と聞いたら、こんな答えが返ってきた。
 
「実は私たちは再婚したばかりなんだけど、親が猛反対でね。ほとぼりが冷めるまで実家には帰らないつもりなんだ。」
 
という。じゃあ、どこに泊まっているのか聞くと、意外な答えが返ってきた。なんと「僧院」なのだという。
 
ミャンマー語には、日本語にあたる「寺院」に該当する単語がない。仏教が根付いているミャンマーにとっては「寺院」というくくりは大雑把すぎるのか、さらに細かく分かれている。アウンさん・ミョーさん夫妻が滞在している「僧院」とはミャンマー語で「ポンジーチャウン」といい(英語では「monastery」と訳される)、通常、何人かの僧侶が暮らしている仏教寺院を指す。ミャンマーでは都市部にも村々にも、どこにでもあり、ごく一般的な仏教施設といってよい(注1)。妻のミョーさんが、マンダレーにある僧院に関わっており、その中のひとりの僧侶と親しいのだそうだ。
 
この日、ミョーさんは別れ際に私にこういった。
 
「よかったら僧院を見においでよ。お坊様に訪問していいのか聞いておくよ。」
 
興味があったので「行きたい!」と即答した。数日後、その僧院を訪問させていただくことになった。その日、アウンさん・ミョーさん夫妻はホテルまで迎えに来てくれた。

ミャンマーの仏教と僧院

ここでミャンマーにおける仏教について説明しておきたい。ミャンマーには仏教徒が多く、国民の9割が仏教徒だといわれる(小島2013)。ただし、その仏教は日本の仏教と同じではない。日本の仏教は、釈迦の教えを大衆に広めることを目指した「大乗(だいじょう)仏教」と呼ばれる系譜であるが、それに対してミャンマーの仏教は「上座部(じょうざぶ)仏教」と呼ばれ、出家をすることで悟りを開き、苦悩に満ちた生から解放されることを目的とする。
 
そう聞くと僧侶は世間から離れて修行をしていると思うかもしれないが、必ずしもそういうわけではない。寺院の運営にも資金がいるし、在家者(=出家していない人びと)も僧侶の修行を支援することで「徳を積む」ことができると考えられている(藏本2014)。在家者は、徳を積むために、寺院や僧侶へと寄進をする(注2)
 
ミャンマーの僧院には檀家制度がないために、僧院は運営資金を集めるために様々な工夫をする(藏本2014)。例えば、托鉢に出たり、説法会を開いたりする。そうしたイベントを通して、僧侶と信者の関係が深まったり、信者間での関係性が深まったりする。つまり、寄進をするのは、金銭を渡すという瞬間的な行為ではなく、金銭を渡した後も続く持続的な行為だといえよう。これまで知らなかった人たちをつなげ、新しい社交が生まれる。要するに寄付は楽しい。
 
だからこそミャンマーは「寄付大国」となっている。ミャンマーは「世界一の寄付大国」と表現されるくらい寄付が頻繁である(室橋2021)。イギリスのチャリティ団体が作成した報告書『世界寄付指数―寄付の世界的な傾向―』(World Giving Index)によると、2021年に寄付をしたことのある人は大人の7割以上を占めるといい、世界二位であった(Charity Aid Foundation 2022)。ただし、寄付先は慈善団体や福祉団体というよりは、僧院の方が多い(注3)。寄進は「徳を積むために」行うものだし、寄進に伴うイベントも楽しいからである。
 
ミョーさんも例外ではない。ミョーさんは熱心な仏教徒でよく僧院に寄進をするそうだ。今回、この二人が泊っている僧院には寄進を通じて親しくなった僧侶がいるのだという。そんな縁もあり、この夫婦は、この僧院に滞在しているのだという。

 

セイフティネットとしての僧院

私は僧院へと向かう車の中で「在家者(僧侶ではない出家していない人)が僧院に泊れるの?」と聞くと、なんと「ただで泊まれるよ」という答えが返ってきた。それどころか「タダでご飯食べられる」という。なんと宿泊も食事もタダでできるのだ。実は、私が訪問した時も、ちょうどお昼時でランチをたらふくいただいてしまった。
 
タダで泊れて、タダでご飯も食べれる。
 
それにはちゃんと理由がある。それはミャンマーの僧院が人々にとってのセイフティネットとしての機能しているからである。すなわち、僧院とは困ったことがあれば助けてくれる存在なのだ。いわば、すべての僧院はミャンマーの人々にとって「駆け込み寺」だといえよう。
 
例えば、ミャンマーでは農村部にも必ずといってよいほど僧院があり、僧侶が住んでいる。文化人類学者、藏本龍介さんによると農村部の僧侶は、「よろづ屋」的に村人の面倒を見るそうだ。村人の悩み事や相談を聞いたり、伝統的な薬を処方したりする。時には村人に町でテレビを買ってきてほしいと頼まれることもある。なぜなら、村人の中には町に出たことがない者もいて、テレビの買い方がわからないからだ(藏本2014: 89)。このように僧侶は、人びとを助ける役割を担っている。
 
こうした事情は都市の僧院も変わりはない。農村からやってきた人々は顔見知りの僧侶を頼ってやってくる。都市に用事がある際に泊まらせてもらったり、困り事を相談しに来たりする。藏本さんがミャンマーの最大都市ヤンゴンで調査をした時、ある僧院では農村から出てきた病人が、病院へと通院するために滞在していたそうだ(藏本2014: 121)。
 
私もヤンゴンで少数民族シャン人が集まる僧院を訪ねたことがある。その時、同様のことを聞いた。その僧院ではシャン人の僧侶や見習い僧(=僧侶になる前段階の立場でおおよそ20歳以下の出家者)が修行をするほか、十数人のシャン人在家者が身を寄せていた。そのうちの一人に話を聞くと、英語学校に通うためにシャン州から出てきたのだという。その時にも食事や宿泊はタダだと聞いた。ただし、お金に余裕のある者は寄進をするのだという。
 
このように僧院は、頼ってくる人々を受け入れるという「駆け込み寺」的な機能を有している。そうしたこともあり、国内避難民も僧院へと引き寄せられることになる。

僧院に暮らす国内避難民たち

偶然なのだが、ミョーさん夫妻が泊っている僧院の住職はザガイン管区の出身であった。2021年クーデター後、最も戦闘が激しくなっている地域である(詳細は連載第1回目を参照のこと)。
 
この僧院を訪ねたとき、私は住職にあいさつをし、自分のことを「ミャンマー情勢について伝えるライターをしています。今回は語学を学びにミャンマーに来ました」と説明した。そうすると、
 
「ウチにはザガイン管区から逃げてきた人が何人かいます。もしよければお話をしてもいいという方がいるかもしれません」
 
と申し出ていただいた。ザガイン管区の村を追われてマンダレーに流れ着いた人たちがこの僧院にお世話になっているらしい。住職のおかげで、何人かにインタビューをすることができた。以下に、そのいくつかを紹介したい。
 
1人目は、2021年クーデター前に与党であった「国民民主連盟」(National League for Democracy: NLD)の熱烈な支持者であった5 0代の女性である。ディベインの町で携帯電話屋を営みつつ、積極的に政治運動に参加していた(注4)

 

私は、クーデター前から熱心なNLD支持者でした。私は党員ではありませんが、NLDのサポートTシャツやハチマキを自分のお金で作って配っていました。Facebookの自分のページにもNLDを支援する書き込みをしていました。クーデターの後も、積極的に街頭デモに参加しました。ディベインでもたくさんの街頭デモがありました。

それを動画に収めてFacebookにアップロードしたこともあります。動画には「軍政は受け入れない。NLDと民主主義を守れ」というキャプションを付けたこともあります。クーデターからだいたい2カ月後、国軍が車4台でやってきたとの噂が回ってきました。それを聞いて私はすぐに逃げることにしたんです。本当に国軍がやってきたかどうかはわかりません。確かめるのは危険だと考えたんです。

街頭デモではリーダー的な役割をしていたため、やってくるならまず私のところだろうと思ったんです。噂の真偽を確かめず、妹に娘を託してバイクで別の村へと逃げました。その村の僧院で数ヵ月お世話になりましたが、その僧院には別の村からも弾圧を逃れた人々がやってきたんです。その直後、軍がやってきたとの噂を聞き、また逃げました。そうしたことを何度も繰り返して転々としました。そうしてマンダレーにたどり着き、この僧院にやってきたんです。

彼女は、過去にミャンマーの独立系通信社(=ミャンマー国外からインターネットを通じて情報発信をしているメディア)にインタビューを受けた経験もあり、流暢に過去の経験を語ってくれた。「もう私の店も、妹の店もないでしょうね」とつぶやいたのが印象的であった。
 
もう一人、インタビューに応じてくれたのはキンウー郡区(Khin-U Township)のある村で暮らす、60代の女性であった。生涯独身で、弟と姉との三人暮らしだという。

 

私は独身の姉、そして、弟と一緒に暮らしていました。弟がバイクの修理工場を営んでおり、弟に養ってもらっていました。ある日、軍人がやってきて横暴をふるいました。彼らは服さえも破いていったのです。

その時、弟が銃底で殴られ、頭にケガを負いました。その治療のため近くの町までバイクで行きました。そして、その町の僧院でそのまま暮らすことにしました。7か月くらいたった時、知人がマンダレーに行くといいました。その人は、この僧院に寄進をしたことがあり、そこにお世話になろうと考えているといったのです。

そこで、その知人とともにその町を離れました。そして、この僧院までたどり着きました。それ以来、この僧院で暮らしています。もう1年3カ月目です。

 

このインタビューの際、村に軍が来た理由を聞いたが、詳しくは語らなかった。この話はしたくないんだなと話題を変えると、そばで話を聞いていた住職が補足をしてくれた。

 

その村周辺では、若者が森に潜んではゲリラ戦略で国軍の攻撃をしている。彼らを掃討するために村へと軍が入ってきたのだろう。その辺りでは銃撃戦がたびたびあると聞いている。村を焼かれた結果、仕方なく民主派勢力に入った者も少なくない。

そうした補足について彼女は「何も知らない」と答えた。答えたくないんだろうと思い、早々にインタビューを切り上げた。
 
先述した二人は、家を追われた後、ザガイン管区内の僧院を転々とし、マンダレーにたどり着いている。その一方、自分の村は無傷だという人もいた。そう語るのは、この僧院に5日間滞在しているという30代の女性である。この女性の夫がシンガポールに出稼ぎに行くためにマンダレーでパスポートを申請していた。パスポートを受け取るとそのまま渡航してしまうため、マンダレーに会いに来たそうだ。彼女はこういった。

 

近くの村が焼かれたという話はよく聞きます。国軍が近くに来たというので怖くなってみんなで森に逃げたこんだこともありました。その時は4日間森にいました。しかし、これまで国軍が村に入ってきたことはなく、村は無傷のままです。

 

おそらく彼女の村が無傷のままなのは理由がある。戦場となった地域では、民主派勢力側の村と、国軍側の村とに二分されているともいわれる(Ye Myo Hein 2022)。

国軍に襲撃された村では民主派勢力の活動があり、もしかすると聞き取り調査に応じてくれた人たちも民主派勢力と関わっているかもしれない。また、国軍からの襲撃を免れた村は、村長をはじめとする村の長老が国軍と深い関係を持っているという。おそらくこの僧院に滞在する人も、こうした二分された村々からやってきているはずだ。

 



今回のインタビューでは深くまでつっこんだ話は聞かなかった。中には「お坊様のいうことだから」と、いやいやインタビューを受けていただいた方もいた(その方はインタビューを早々に切り上げた)。さらには通訳をつけて話を聞いた以上、政治的な話に立ち入るわけにはいかなかった。住職やそのほかの人々もそばにおり、立ち入った話を聞くことははばかられた。あくまでもインタビュー内容は、表面的な経験を聞くにとどめた。
 
私がこの時、ミャンマーに滞在したのは、あくまでも語学学習のためであり、調査じみたことをしたのも、アウンさん・ミョーさん夫妻に連れられた時のみである。その他は、ミャンマー語の勉強に地道に取り組む毎日であった。次回(最終回)は、私がマンダレーを離れた後に訪問したタイでの経験を記したい。タイはミャンマーの隣国であり、ミャンマーとの国境沿いのある町は、国内避難民や民主派勢力を支援するための中継地として利用されていた。




(注1)
日本語で「寺院」にあたる宗教施設を「僧院」の他にもいくつかある。第一に、僧侶(出家者)がおらず、在家者によって管理されている「パヤー」(=「仏塔」「パゴダ」という意味)という施設がある。第二に、数多くの「見習い僧」(そのほとんどが十代以下の子どもである)が集まり、教育施設の役割を持つ「サーティンダイ」というタイプもある(「教学僧院」と訳されることが慣例である)。こうした区分は読者にとってはややこしいと思うので、本稿では「僧院」だけ覚えてもらえればよい。
 
(注2)
上座部仏教の教えによると、在家者が徳を積むのは本来、来世でよい世界に行くためらしい。仏教の教えでは、生きとし生けるものは生前の行いによって6種の世界に生まれ変わりを繰り返す(六道輪廻)。徳を積むのは、その中でも、よりより世界に生まれ変わるためだという。しかし、ミャンマーを見てみると、そんな教えに基づいて寄進をしているわけではなさそうだ。「将来、お金持ちになれますように」だとか、「来世でいいことがありますように」というような俗的な願いをもって寄進をしている人もけっこう多い。
 
(注3)
本稿では「寄進」と「寄付」を使い分けたものの、ミャンマー語では区別することなく「ルーデー」という動詞が使われる。すなわち、僧院や僧侶に「寄進」するのも、NGOに「寄付」するのも同じ動詞が使われる。宗教的な「寄進」と社会的な「寄付」の区別は、日本語ほど明確ではない。
 
(注4)
ディベインは2003年に発生した「ディベイン虐殺事件」(The Depayin Massacre)で有名な町である。2021年2月のクーデターで転覆されるまで与党であったNLDは、当時は民主化運動をリードする存在であり、事実上の国家指導者であったアウンサンスーチー(Aung San Suu Kyii)も当時は民主化運動のシンボル的存在として各地を遊説していた。ディベイン事件とは、アウンサンスーチーをはじめとしたNLD支持者を乗せた車列が、当時の軍事政権の息のかかった群衆にディベイン郊外で襲撃され、七十名以上の死者を出した事件である(Farrelly 2016)。

 

参考文献

藏本龍介 (2014)『世俗を生きる出家者たち―上座仏教徒社会ミャンマーにおける出家生活の民族誌-』法藏館。
小島敬裕 (2013)「僧伽と僧院」田村克己・松田正彦『ミャンマーを知るための60章』明石書店、188-192頁。
室橋裕和 (2021)「「自分たちができることを」…ミャンマー人女子が日本でフットサル大会を開いた理由―ミャンマーは「世界2位の寄付大国」―」文春オンライン、6月30日、https://bunshun.jp/articles/-/46264
Charity Aid Foundation (2022) World Giving Index 2022: A Global View of Giving Trends, Chrity Aid Foundation.
Farrelly, Nicolas (2016) “Remembering Depayin and Other Tragedies,” New Mandala, June 1, https://www.newmandala.org/remembering-depayin-and-other-tragedies/
Ye Myo Hein (2022) “One Year On: The Momentum of Myanmar’s Armed Rebellion,” Asia Program, Wilson Center, available at: https://www.wilsoncenter.org/publication/one-year-momentum-myanmars-armed-rebellion
 

 
 
 
HIDEYUKI OKANO 岡野 英之

近畿大学総合社会学部准教授

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