岡野 英之(近畿大学総合社会学部准教授)
2023.12.01
  • 岡野 英之
  • ミャンマー

【エッセイ】ミャンマーの民主闘争と国内避難民 (1)
―街角にいる「隠れた国内避難民」たち―

※本記事における見解は筆者個人のものであり、Asia Peacebuilding Initiatives:APBIの公式見解ではありません。
本記事は全3部作です。第2回目『【エッセイ】ミャンマーの民主闘争と国内避難民 (2)―仏教僧院という隠れた「避難民キャンプ」―はこちら

はじめに

ミャンマーではここ数年、国内避難民の数が急増している。
 
国内避難民とは戦乱や迫害から逃れて居地を離れざるを得なくなった者の中でも、出身国に留まっている者を指す。ミャンマーでは2021年に発生したクーデター以降の政治的混乱に伴い多くの国内避難民が発生した。国際連合(以降、「国連」と表記)は、国内避難民の統計を取っているものの、そうした数字として計上されるのは避難民キャンプに匿われた人々に過ぎない。その他にも「隠れた国内避難民」がいる。こうした人々は、国際社会の支援からこぼれ落ちているものの、逃げた先で様々な人に助けられながら(そして、自分の力で危機を切り抜けながら)、生きている。
 
私は、ミャンマーを専門とする研究者でありライターである。
 
職業上、ミャンマー国内の様子は気になっていたのだが、現地調査をするにはリスクが大きすぎた。そこでこの夏(2023年8月)はビルマ語の勉強に集中することにし、ミャンマー第二の都市マンダレーで数週間滞在した。その後、隣国のタイにわたり数週間ほど国境地帯で調査を行った。本ウェブサイトではその時の経験を3回にわたる連載としてレポートしたい。
 
第1回である本稿では私がマンダレーで垣間見た、ザガイン管区(Sagaing Region)からの「隠れた国内避難民」たちの生活についてとりあげたい。

早朝のレストランにて

ミャンマーの朝は早い。レストランは朝7時だというのに人々で溢れかえっていた。知り合い夫婦に連れられてひとつのレストランに入り、席に着いた。その途端、夫のアウンさん(仮名)が口を開いた。
 
「この店、従業員多いだろ。オーナーがザガイン管区から逃げてきた人を雇ってるんだ。」
 
アウンさんはビルマ語しか喋れないが、妻のミョーさん(仮名)がすかさず英語に訳してくれる。
 
アウンさんの話によると、この店のオーナーは戦乱を避けて逃げてきた人の面倒を見ているという。オーナーはアウンさんの知り合いであり、ザガイン管区の出身とのことだ(管区とはミャンマーの行政区分のことである[1])。ザガイン管区ではここ数年、激しい戦闘が続いており、国軍によって村が焼かれたり、村人が殺害されたりする事件が相次いでいる(Ye Myo Hein 2022: 35-39)。このレストランのオーナーは、こうした戦乱で家を失った親戚や知人を雇っているというのだ。店を手伝うことのできる若い子しか雇えないが、それでもできる限りの手助けをしているのだという。
 
この時までにミャンマー情勢は膠着状態になっていた。

 

膠着するミャンマーの民主闘争と国内避難民

その約2年半前、2021年2月1日にミャンマーではクーデターが発生し、国民民主党連盟(National League of Democracy: NLD)政権が転覆させられた。NLDは2015年の選挙で与党に選ばれた政権であり、アウンサンスーチー国家顧問をリーダーとして政権運営を行っていた。クーデター後、即座に軍事政権「国家統治評議会(State Administration Council: SAC)」が設立され、国軍が国政を担うことになる。いわゆる軍事政権が成立したのだ(中西2022: 1-8, 170-175)
 
それに対して人々は街頭デモなどを含む非暴力の反対運動を展開したものの、それは数ヵ月もたたないうちに武装闘争へとエスカレートした(岡野2021)。そのきっかけは軍事政権SACによる、非暴力の反対運動への暴力的な弾圧にある。公務員や医師、教員、銀行員、会社員、工場労働者などあまりにも多くの人が反対運動に参加したため、国は「開店休業状態」になった。行政や経済がまわらなくなったのである(深沢2022: 292-305)。
 
その結果、2月下旬には人権侵害も辞さないほどの弾圧が始まった。少数民族との内戦に投入されたような実戦部隊が展開し、実弾も使用された。(中西2022, 182-191)。デモ参加者を逮捕しては、尋問で人脈を辿り、その他のデモ参加者を逮捕するということが繰り返された。その結果、街頭デモは減少したが、その一方で武装闘争を通して民主主義の復権を実現させようとする勢力が各地で台頭した。とりわけクーデターから半年くらいの間は「雨後の筍」のように次々と作られた(岡野2021)。しかしながら、軍事政権SACによる鎮圧により、現在(2023年後半時点)までに活動を継続している勢力は限られる。今残っている勢力の多くが「国民統一政府」(National Unity Government: NUG)(=クーデター後に作られた亡命政府)の方針に従っている「人民防衛隊」(People’s Defense Force: PDF)と総称される勢力である。全土で250ほど、計65000名の兵が活動しているという推定もある(2022年11月時点)。その他にも民主主義の復権を目指さないまでも、軍事政権SACの統治を拒否し、自地域を守るために作られた自警団もある(Ye Myo Hein 2022: 28-34)。以降、各地で武装闘争を続けるこうした勢力を「民主派勢力」と総称することにしたい。
 
これら民主派勢力が活動する地域は、ミャンマーでもいくつかの地域に限られる。その中でも、ザガイン管区は、多くの民主派勢力が活動する地域であり、これまでの戦闘によって最も多くの国内避難民が生み出されている地域でもある。

国内避難民とは

「この店だけじゃない。マンダレーにはたくさんの国内避難民がいる。」
 
とアウンさんは続けた。国内避難民は、商店の売り子、路上生活者、僧侶などとして社会に溶け込んでいるため一見しただけではわからない。このレストランは氷山の一角に過ぎないとのことだった。
 
「外国人には見えにくいかもしれないな」
 
とアウンさんは付け加えた。
 
国内避難民とはInternally Displaced Personsの訳で、戦乱や迫害から逃れたものの外国へ避難するわけではなく、国内に留まって暮らす人々を指す。もともとは「難民」(refugee)と区別するための用語であった。難民とは戦乱や迫害によって国外へと逃げた人々を指す。国から出た以上、難民は国際社会が保護すべき対象となる。それに対して、国内に留まる国内避難民に関しては、当該国政府が一義的な責任を持つ。なぜなら、人権侵害国といえども主権(=統治する権利)をもっており、国連といえども、それを無下に侵害するわけにはいかないからだ。とはいえ、難民と同様、国内避難民も支援を必要としている存在には変わりない。国連は人道上の立場から、国内避難民も保護対象とみなし、当該国政府にも保護を呼び掛けてきた。こうしたことから1990年代以降、国連の傘下にある様々な機関により、国内避難民を支援する取り組みが行われるようになった(墓田2003)。
 
ミャンマーも例外ではなく、国際社会による支援が届く範囲で実施されている。さらには国連難民高等弁務官事務所(United Nations High Commissioner for Refugees: UNHCR)が国内避難民や難民の統計を発表している。2023年9月時点の統計によると、クーデター以降に発生した国内避難民は全土で160万人を越える(その一方、国境を越えて難民となったものは約6万人いる)。同統計によると、その半分、すなわち、約80万人がザガイン管区に集中している(UNHCR 2023)。この数字からもザガイン管区が最も戦闘の激しい地域であることがわかるはずだ。

 

「マジで…」

実は、この日、朝早くレストランに入ったのは、この夫婦に日帰り旅行に連れていってもらうためであった。私はミャンマー滞在に先立って妻ミョーさんに連絡をしていた。彼女とは古くからの知り合いであり、英語が堪能であるため調査を手伝ってもらったこともあった。そんなミョーさんにミャンマーに行くことを伝えたら「マンダレー周辺を案内してあげるよ」と申し出てくれた。そこで、お言葉に甘えることにし、彼女の夫アウンさんの運転で遠出をすることになった。とはいえ、私にはマンダレーの土地勘がなかったため、どこに行くかはミョーさんにまかせた。運ばれてきた食事をとりながら私はミョーさんに尋ねた。
 
「で、今日はどこに連れてってくれるの。」
 
その答えは意外だった。
 
「いまからザガイン管区に行くよ」
 
「マジで…」と思わず日本語が口に出た。

 

ザガイン管区で続く戦闘

ミャンマー情勢を日本から追っていると民主派勢力の活動についての記事が次々と流れてくる。その中にはザガイン管区の記事も多い。例えば、独立メディア、イラワディ誌(Irrawaddy)の2023年7月の記事には「ミャンマー軍事政権がザガインで虐殺、14名が死亡」というタイトルが付されていた。私がミャンマーに渡航する2週間前の記事である。以下はその一部の抜粋である (Hein Htoo Zaan 2023)。
 
  〔ザガイン管区にある町、インドー[Indaw]の〕住民によると、軍はひとつの家を襲撃し、銃を乱射した。そし
  て、家族3人を拘留した。住人はこう語る。「彼ら〔=軍〕は抵抗勢力の支援者を探していたそうです。しかし、
  彼らは証拠もなく無罪の人を逮捕しました」。また、〔この地域で活動する民主派勢力である〕インドー人民防
  衛隊(Indaw People’s Defense Force)のメンバーは次のように話した。 「2月以降、国軍部隊が次々と住民を
  逮捕しています、しかし、ほとんどが抵抗組織とは関係がありません。その中には死刑になった者もいます。」

                                 
この記事では国軍の兵士が根拠なく人びとを拘束し、人権侵害を加えていることがわかる。ひどいことが起こっている。しかしながら、国軍兵士たちがこうした行為に及ぶ理由はわからなくはない。戦闘地域では、誰が敵か判別しきれないからだ。民主派勢力はゲリラ戦で国軍に対して抵抗している。真正面から戦うわけではなく、少人数で奇襲や待ち伏せ攻撃をかけ、すぐに撤退する。よくあるのが国軍の車列を襲撃してはすぐに逃げるという手法である(Irrawaddy 2023)。追いかけても民主派勢力の戦闘員は村や町の人々に紛れてしまうため、誰が敵なのかわからない。ゆえに国軍兵士は一般の人々に対しても「敵かもしれない」という不安にかられる。周りから狙われているかもしれないという恐怖と、自分たちを襲撃した民主派勢力への怒り。それが一般の人々に対する暴力へとつながる。
 
そうした不安から逃れるために国軍兵士たちが取るのが、村人を一掃するという作戦である。すなわち、家々を焼き払い、村を住めなくし、村人を追い払うのだ。民主派勢力が「民」にまぎれているのであれば、それを追い払ってしまえばよい、と考えるのだ。こうした状況があるからこそ、ザガイン管区では多くの国内避難民が生じている。

マンダレーに隣接するザガイン管区

「いやいや、危険なんて全然ないよ。観光客もいっぱいいるよ」
 
私の驚いた顔を見て、ミョーさんは付け加えた。よくよく聞くと、ミョーさん夫妻はマンダレーの対岸に連れて行ってくれるということだった。実はザガイン管区は、私が滞在していたマンダレーと隣接している。マンダレーのすぐそばを流れる大河、イラワディー河を渡れば、その対岸はザガイン管区である。たしかに、そうした立地を考えれば、マンダレーにザガイン管区からの国内避難民が多いのもうなずける。
 
マンダレーはビルマ人王朝、コンバウン朝(1752~1885年)の王都だったことがある。そのことからイラワディー河の対岸、すなわち、ザガイン管区にも、当時の王たちによって寺院が作られた。[2]こうした寺院はいまでは史跡となって残っている。そんな史跡を回ってあげようというのがミョーさん夫妻の趣旨であった。ザガイン管区でも、その辺りは安全であり、ミャンマー人観光客も多数いるという。
 
この後、私たちはイラワディー河にかかる大橋を渡り、ザガイン管区に入った。川沿いにある史跡には楽しそうな観光客がたくさんいた。私も無邪気に観光を楽しんだ。ミョーさんやアウンさんも同様だ。彼らは観光をしながらも、周りの人と積極的に話していた。日本とは違い、知らない人同士でも積極的に会話を交わすお国柄なのである。ある史跡で、アウンさんはその辺にいたおばさんに写真の撮影を頼み、スマートフォンを手渡した。そのおばさんはSNS映えする写真を何枚も撮ってくれ、その後もしばらくアウンさんたちは彼女と世間話に興じていた。
 
それからもいくつかの観光地を巡り、暗くなり始めた頃、マンダレーへと戻った。その車中でミョーさんは私にこういった。
 
「今日、私たちに写真を撮ってくれたおばさんいるでしょ。彼女も戦乱を逃れて一時的にあの辺に住んでるらしいよ。」

 



私は語学学習をするために軍政下のミャンマーで数週間の滞在をし、その際に知り合いに連れられて日帰り観光旅行をした。そうした場所でさえ国内避難民の姿が垣間見れた。そして、彼らが国際社会からの支援を直接的に受けている様子はなかった。

それは私が普段、調査をしているタイ=ミャンマー国境に逃げてきた人々とは対照的であった。タイ側にはいくつもの「避難民キャンプ」が設立されており、ミャンマー側にも国内避難民キャンプが数多くある(タイ側にあるキャンプを「難民キャンプ」といわないのはタイが難民を保護するための難民条約に加盟しておらず、彼らを「難民」と定義していないからである)。これらのキャンプにはタイ側から支援を実施する国際機関やNGOが関与し、何らかの支援が入っていることが少なくない。その一方、こうした街角にいる避難民たちには、国際社会からの支援はあてにしていないようだ。彼らは、日常生活の中でさまざまな人たちに助けられて生きている。

その後も私は、別の形で街角の国内避難民たちに出会った。彼らは町中にある仏教僧院に暮らしていた(僧院とは、ミャンマーにある仏教寺院の一種である)。国民の9割が仏教徒というミャンマーでは、僧院は人々のセイフティネットとして機能する。次回はミャンマーにおける仏教のあり方を踏まえたうえで、僧院に暮らす国内避難民についてみていきたい。



[1] ミャンマーは15の行政区分に分かれている。7つの管区(英語:region/ビルマ語:タインデータージー、口語ではタインと略されることも多い)と7つの州(英語: state/ビルマ語:ピーネー)、そして、首都ネピドーおよびその周辺地域にあたる連邦領(英語:Union Territory/ピーダウンスーネーミェー)である。
[2]マンダレーが王都だったのは1857年から1885年の28年間である。この時までにコンバウン朝はイギリスとの二回の戦争(第一次、第二次英緬戦争)により大幅に版図を失っていた(根本2014: 60-64)。

 

参考文献

岡野英之 (2021)「なぜ市民による抵抗運動はエスカレートしたのか――クーデター後のミャンマーを分析する」シノドス、11月11日 
https://synodos.jp/opinion/international/27483/
中西嘉宏 (2022)『ミャンマー現代史』岩波書店。
墓田桂 (2003)「国内避難民(IDP)と国連―国際的な関心の高まりの中で―」『外務省調査月報』2003年度第1号、33‐55頁。
深沢淳一 (2022)『「不完全国家」ミャンマーの真実―民主化10年からクーデター後までの全記録―』文眞堂。
根本敬 (2014)『物語ビルマの歴史』中央公論新社。
Hein Htoo Zaan (2023) “Myanmar Junta Kills 14 in Sagaing Massacre,” Irrawaddy, July 22, https://www.irrawaddy.com/news/burma/myanmar-junta-kills-14-in-sagaing-massacre.html
Irrawaddy (2023) “Over a Dozen Myanmar Forces Killed in Four Days of Resistance Attacks,” Irrawaddy, October 13, https://www.irrawaddy.com/news/war-against-the-junta/over-a-dozen-myanmar-junta-forces-killed-in-four-days-of-resistance-attacks-2.html
Ye Myo Hein (2022) “One Year On: The Momentum of Myanmar’s Armed Rebellion,” Asia Program, Wilson Center, available at: https://www.wilsoncenter.org/publication/one-year-momentum-myanmars-armed-rebellion
United Nations High Commissioner for Refugees (UNHCR) (2023) “Myanmar UNHCR Displacement Overview, 25 Sep 2023,” UNHCR,
    https://data.unhcr.org/en/documents/details/103734
 

HIDEYUKI OKANO 岡野 英之

近畿大学総合社会学部准教授

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